夕なぎ、ひかりて

 虹ヶ丘家に戻ると、プリンセスはソラさん、ましろさんと一緒にリビングですやすやお昼寝していて、ヨヨさんはキッチンにいた。
「ツバサさん、おかえりなさい。暑かったでしょう。アイスティーが冷えてますよ」
「はい、ありがとうございます……」
「なんだか浮かない顔ね。図書館、広かったから疲れてしまったかしら」
 そう、僕はさっきまでソラシド市で一番大きな図書館に行っていた。こちらの世界に来て、図書館に行くのは初めてのことだった。
 これまではずっとオンライン貸出を利用していた。僕が予約した本をあげはさんやましろさんが学校の帰りなんかに受け取りに行ってくれるという方法だ。僕がこの家にお世話になっているとましろさんたちが気づいていなかった時期、ましろさんはヨヨさんがこれまでと比べて借りる本の冊数を急に増やしたことに驚いていたようだ。その後は僕が読みたい本だったことも打ち明けて、本を借りて返却するのはこのスタイルですっかり定着した。
 でも今は夏休み。ソラさんもましろさんも学校には行かないし、あげはさんもバイトが忙しくなっているみたいで、プリティホリックは図書館とは真逆の場所にあるし、頼むのが申し訳なくなってきた。それに、プリンセスのお世話だってソラさん、ましろさんも手伝ってくれるし、それなら予約した本の受け取りくらい自分で行こうと思ったのだ。
 ヨヨさんからもらったお金でバスに乗って、図書館までは難なく辿りつけた。
「図書館は本当にすっごく広くて、本が数えきれないくらいあって……ほんっっとうに最高の場所でした!!」
 今までオンラインで本を探していた時とは比べ物にならないほどの情報量に圧倒された。図書館という場所にいるだけで、自分が最初から興味を持っていた本だけでなく、色んなジャンルや分野の本が目に入り、手に取ってページを捲れば、思いもしなかった興味深い世界に誘ってくれる。なんて楽しいところなんだって心から思えた。けれど。
「それならどうしてそんな顔をしているのかしら」
「それは……」
 僕の手には借りてきた本の入った手提げ袋が握られている。僕が読みたい本だけでなく、ヨヨさんが読みたいという農業の本や詩集も一緒に入っていた。図書館では一度に借りられる冊数の上限が決められている。本当はもっと興味のある本だって見つけたし、追加で貸出手続きをしようとしたけれど、予約した分だけでもう上限に達してしまっていた。
 もし僕が本を借りる時に、ヨヨさんの名前を使わせてもらうのではなくて、僕が僕として本を借りることができたら、その方がきっといい。そう思って、どうしたらそれができるのか、カウンターで聞いてみると申し込みには特にお金は必要なくて、ソラシド市に住む人であれば、申し込み用紙に必要事項を記入すればすぐに貸出カードを発行することができるとのことだった。
「それで僕、貸出カードを作ろうとして、申し込み用紙に書き始めたんですけど、このおうちの住所も覚えてませんでしたし、それに、それに――」
「名前、かしら?」
 ヨヨさんの言葉に僕は頷いた。そう、この世界に暮らす人たちは必ず姓、名字というものを持っている。スカイランドでは種族によって姓があるかどうかはバラバラなので、意識していなかったので、思いもよらないところでつまずいた気分だ。
 再びカウンターに行き、怪しまれないような感じで、名前って、名字も書かないとだめですよね? と聞いてみたら、はいそうです。姓と名いずれも記入してくださいと言われてしまった。
「本を一冊借りるのも、この世界では僕には難しいことなんだなって思ったんです」
「そうだったの」
 ヨヨさんに座ってと促され、リビングのテーブルにつく。差し出されたアイスティーを一口飲むと、さっきまで外気で火照っていた身体がじんわり落ち着いていく感じがした。手提げ袋から本を取り出して、そのうちの二冊をヨヨさんに渡す。
「あの、ヨヨさん、いつも借りるの二冊ですよね? 僕が何冊借りたとしても二冊だけ。もしも僕が借りる冊数を気にしてくれているなら、全然我慢なんてしないでください。僕、本が読めることが嬉しくて、そういうこと何も考えてこなかったけど、ヨヨさんにずっと気を遣わせていたんじゃないかって――……」
「ツバサくん、自分で名字を考えてみたらどうかしら?」
「へ?」
 ヨヨさんが全く思いがけないようなことを言ったので、僕の口からは思わず間抜けな声が出てしまう。名字を、考える……?
「私は本に熱中してしまうと、他のことがおろそかになってしまうたちなの。だから自分で読む量をコントロールしているのよ。一度に二冊がちょうどいいの」
「ええっと、ええっと……」
「でもツバサくんは違うわよね。自分で本を借りて、もっと自分の思うように読みたいんじゃないかしら。実はここ最近それが気になっていたの。貸出カードを作ればいいわ」
「うーん、それはそうですけど、でもそんなのっていいんですか!?」
「申し込みには名字が必要、でもあなたは元々名字がないんだもの。それなら自分の思う名字を自分でつけるほかないでしょう。大丈夫、図書館の貸出カードくらいなら問題ないはずよ」
「そう、なんですか……」
 ヨヨさんはにこにこ笑っている。本当に納得してしまっていいのかまだ迷う気持ちもあるけれど、やけに落ち着いて悠然としているヨヨさんを見ていたら、なんだか大丈夫な気がしてきた。それに今後のことを考えてもやはり貸出カードは作っておいた方が良さそうだ。

 というわけで、僕は早速名字を考えてみることにした。
 机の上に真っ白なノートを開く。ここに名字のアイデアを書いていこうと思う。今はソラさんとましろさんはプリンセスと一緒におさんぽに行っているので、静かなリビングは何か集中して考えるのにちょうどいい。
 名字、名字。ツバサという名前よりも先にくる、僕の名前。
 まず思い当たったのは「虹ヶ丘」という名字だった。ヨヨさんやましろさんと同じだ。僕はこの家に厄介になっているし、住所として記載するのはこの家なのだからその方がいいのかもという思いからだった。でも、ヨヨさんに聞いてみると、同じところに住んでいても名字が違う人が一緒にいるのは別におかしくないとのことだった。それに「虹ヶ丘」は僕の名前と並べてみても、あまりしっくりこない気もする。
 ソラシド市でもスカイランドでも名字がある人たちは、家族の名字と同じものを名乗るのが一般的だ。確かに僕はこの家の住人の一人ではあるし、ヨヨさんやましろさんのことは家族だと思っているけれど、虹ヶ丘ツバサになってしまったら、僕は虹ヶ丘家の子どもと思われてもおかしくないし、ソラさんやあげはさんとは家族ではないという捉え方だってできてしまう。僕らの中に線なんて引きたくない。
 僕たちは、このお家に集まってきた色んな名字を持ったり持っていなかったりする仲間同士で、だけどこうして家族になっている。ヨヨさんとましろさんは元々祖母と孫娘という関係だから同じ名字ではあるけど、そうではない僕が僕自身の名字を決めようという時に、虹ヶ丘を選ぶのはなんだか変な感じがした。
「そうなると、ハレワタールや聖っていうのも違う感じがするなぁ……」
「少年、呼んだ?」
「わ! あげはさん!?」
 後ろから急に声をかけられて飛び上がった。いつの間にかあげはさんがバイトから戻ってきたようだった。手元のノートには、『名字のアイデア』、そして『虹ヶ丘』、『ハレワタール』、『聖』にそれぞれ×印がつけてある。目の前にいる人の名字に×がついているだなんて、見せてはいけない気がして隠そうとしたら、それよりも早くあげはさんはノートをひょいと摘まみ上げてしまった。
「名字のアイデア……?」
「ちょっと! 勝手に見ないでくださいよ!!」
「そういえば少年って名字がないんだったっけ」
「はい。プニバード族には名字がありませんから。でもちょっと必要になってしまって」
 事情を説明すると、あげはさんはうんうん頷いて、ニカッと白い歯を見せた。
「それじゃいい名字を考えないとだね!」
「はい」
「でもこれ、『聖』にはバツ印がついてるゥ~。私の名字じゃだめってこと?」
 唇を尖らせながらからかうように言うので、僕は慌てて訂正する。
「ち、ちがいますよ! あげはさんの名字はすっごく素敵だと思います!」
「ほんとに?」
「ほんとですってば」
「じゃあ聖でもよくない?」
「それはまぁ……嫌ではないですし、いいかもしれないですけど……でも、僕がこの世界で生きていく時に僕自身であれるような、せっかく考えるならそんな名字がいいんじゃないかって……」
 今自分の胸の中にある気持ちを改めて伝えようとしたけれど、なんだか上手く言葉にならない。けれどあげはさんはそんな僕にあたたかい微笑みを向けていた。
「うん、そうだね。それが一番いいと思う。ツバサくん自身が、これが自分だって思えるものじゃないとね」
 僕ははいと言って頷いて、それからあげはさんの方をちらりと盗み見た。そこにはあげはさんが時々見せる表情があった。僕はどうしてだかそれにいつも惹き付けられてしまう。
 なんとなく、さっきのヨヨさんの表情が重なるような気もするような、落ち着いた顔。もちろん二人は年齢も性格も、僕に語り掛けてくれる言葉や口調も全然違う別人だ。けれどなにかこう、安定した、悠然とした雰囲気があって、そこに共通しているものがあるのかもしれなかった。
 誰かを見守りながら、大丈夫だと信じて、ゆったり構えている。それってすごく大人だ。
 僕はプリンセスのお世話を誠心誠意やっているけれど、あげはさんやヨヨさんのように構えてはいない気がする。年齢から言っても当然二人には全然追いついていないし、当然と言われればその通り。
 でもそんな僕が、これが自分だって思えるものにちゃんと辿り着けるのかな。ちょっと心配になってきてしまった。

 あげはさんはその後も僕の名字について一緒に考えてくれた。
 この世界でよく使われている名字、特にソラシド市ではほとんどすべてに漢字が使われている。ソラさんと同じ世界から来たということで、スカイランド風の名字にするのもありじゃない? とあげはさんは言ってくれたけど、なんだかしっくりこないし、それに僕は漢字のことを気に入っていた。たった一文字であってもそこに意味が込められているなんて、すごく素敵だ。漢字同士の組み合わせによって別の意味に変化したり、まったく逆の意味になるのも面白い。
 そこで、今度は僕の好きなものの字を組み合わせて考えることにした。
 僕の好きなもの。
 『飛行機』、『航空力学』、『気象学』、『自然』、そういったものが詰まっている『本』。それにみんなで食べる『食事』や、僕が大切にお守したい存在であるプリンセス――『姫』なんかも挙がり、ノートはどんどんいっぱいになっていった。
 『蝶』という字も浮かびはしたけれど、それはなんだかいけないような気がして書かなかった。僕が僕であると自信を持って名乗れる名字にしないといけないのだから、そういった今書き残すのにも躊躇うような字は当然候補から外した。
「候補、結構出たね」
「う~ん、どれもいい感じに思えて全然決められません」
「これとか、これは?」
 あげはさんが長いネイルの先で『飛鳥』や『天ケ瀬』を指す。さっき名字の検索サイトで使いたい漢字をもとに一緒に調べたものだ。すごくいい。でもどちらかに決めるとなると本当に難しくて、ため息しか出てこなかった。
「まぁ、でもツバサくんがこの世界でこれから使っていく名前だからね。そんなにすぐには決められないのは当然だよ。赤ちゃんの名前だって、決めるのにすごく時間をかけて色々調べたりするんだよ。画数を気にしたり、姓名判断したりすることもあるくらいだし」
「画数!? そんなのまであるんですか! 一体どうすれば……!」
「まぁまぁ、あんまり思い詰めないで。案外何気ない瞬間にこれだ! ってなるかもよ」
「ほんとですか~?」
 あげはさんはだいじょうぶ、だいじょーぶ! なんて笑ってる。
 そんなあげはさんの頬は今オレンジ色に染まっていた。いつの間にか日は落ちて、空は夕焼けに包まれている。
「もうこんな時間! 洗濯物取り込まないといけないよね。ツバサくんも手伝ってくれる?」
「はい、いいですけど」
 心のモヤモヤが晴れないまま、あげはさんについて庭まで出ていく。干してあったシーツはすっかり乾いていて、お日様の匂いがした。そのほかにもタオルや靴下なんかも、二人でてきぱきと洗濯籠に入れていく。
 物干し竿から洗濯物はすっかりなくなった。
「よぉし、終わりっ!」
 あげはさんは晴れやかに言って、うーんと伸びをしてから上空に視線を移した。そのままじっと空を見つめる。
「今日はいい天気だったし、夕日もめっちゃ綺麗だね~」
 つられて僕も空を仰ぎ見る。オレンジ色が鮮やかに頭上に広がっていた。夕焼けってこんなにきれいだっけ。見とれていると、あげはさんが僕に言った。
「ほら、向こう。海まで全部オレンジ色だよ」
「わぁ、本当ですね」
 あげはさんの指さす方、ここからでは小さくしか見えないけれど、確かに海は、空のオレンジと全く同じ色をしていた。
 海面はしんとして、まるで鏡のように静かに上空を映し出している。
「凪、ですね」
「なぎ……?」
「風がやんで波もなくなって、海面が穏やかになった状態のことです。夕方になると海面の温度と陸地の温度に差がなくなって、風がやむんです」
「確かに。さっきから全然風、吹いてないね」
 あげはさんは少し汗ばんだ首筋を拭う。僕の額にも汗が滲んでいたけれど、僕たちはそのままじっとオレンジ色の海を見つめた。
 充実した一日終わりに似合う、悠然とした穏やかな色。気づけばさっきまでのモヤモヤした気持ちはなくなっていた。
「僕、あれがいいです」
「え?」
「名字、あの海みたいな名前なら、すごく嬉しいです」
 あげはさんはびっくりして、一度目を丸くしてから、すっごくいいねって言ってくれた。

 こちらの世界には『名は体を表す』って言葉があるらしい。
 それなら、僕はこの名前を名乗って、少しでも近づきたいと思った。
 大丈夫だと信じて、いつも悠然と構えていられるような、夕方の凪いだ海みたいな僕に、いつか。

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