雨上がり

外は小雨が降っている。
天気予報では、今日も、明日も、明後日も雨マークだ。
金曜日の夕方にやっと晴れ間が見えるでしょう、というアナウンサーに、母さんが、洗濯物が乾かないのは嫌ねえ、と言っていた。
いつもと同じ日なら、きっと母さんと同じことを考えただろう。
けれど、今日の真田徹郎はひとあじ違う。
鼻歌を歌っていると、楽しそうだね、と兄が声を掛けて来た。
新しい長靴を買ってもらったんだ、いいだろ、もう兄さんのお古じゃない。
顔を上げると、そこにいたのは徹郎が知っている武兄の顔とは違っていた。三つ違いの年の離れた兄は、まだまだ小学生だが、目の前にいる人はずっと年上の、おそらく大学生くらいで、明るい髪をしている。
不良だ、と思ったけれど、その明るい髪色は、文句の付けようがないほど似合っている。
切れ長の目はうちの病院に来たばかりのインターンに少し似ている。
ぼんやりと見上げていると、その人は「父さんが、今日は歯医者の日だと言ってたから、もう出かけよう。僕が一緒に付いて行ってやるよ。」と徹郎の手を握って言った。
この人がぼくの兄さん?
違うような気がするけど、頭の中がぼんやりしていて考えがまとまらない。
「歯を磨いたか? 奥歯もしっかり?」といつものように訊かれて頷く。
やっぱりこの人が兄さんなんだろうか。
「その新しい長靴は凄くいい。このまま履いて行こう。」と言われて、そうだ、と思って長靴を履く。似合ってる、とぱちぱち拍手をされて、褒められ慣れていない徹郎の気分は、更に上向いた。

絶え間なく続く雨が、目の前の景色を淡くにじませている。
片手に持つ徹郎の青い傘には、三代前の、もう誰も覚えていないような戦隊シリーズのヒーローが描かれていて、今の身体では少し小さくなってきていた。
雨の日は普段ひとりで外を歩くときはうっかり傘を斜めに差しているときに、車道を走っていく車のせいで頭から水をかぶったり足元に水がかかったりするけど、兄さんが一緒だと安心だ。
毎日一緒に登下校していつも見ているはずなのに、今日の兄さんは徹郎の傘を初めて見たみたいにまじまじと見ていた。カッコいいだろ、でも兄さんにはやらないと鼻を鳴らすと、徹郎の頭の上から「取らないよ。それは君の傘だ。」と他人行儀な口調で言った。
伸びた髪の毛で片方の目が隠れていて、見えないのが気にかかったけれど、見える方の目は優しく笑っている。髪がちょっと目に掛かっただけで、父さんに切ってこいとこっぴどく叱られるはずなのに。「やっぱり、今日の兄ちゃんちょっと変じゃない?」
徹郎が思ったことをそのまま口にすると、そうかなァ、僕はいつもの通りだよ、と兄さんも困った顔をしている。年上で、強くて、いつも徹郎のことを守ってくれる兄さんを困らせるのは良くないことだ。そう思って、口をつぐんだ。
「徹郎、ほら、もう雨が上がった。」上を向いて、と兄さんが明るい声で言った。
こぶしの白い花。
散ってしまった桜の木を彩る緑の若葉。
徹郎がちょっと顔を上げれば、色んなものが見える。
歯医者の角にある家に植えられた柿も、この時期特有の薄い色の葉っぱが芽吹いている。
まだ先だけど、長い連休が明けたら、祖父の命日がやってくる。忙しい父さんも母さんも、その日ばかりは、ふたりと一緒に食卓を囲んで、じいちゃんが好物だった柿の葉寿司を皆で食べるのだ。
「楽しみだなあ。」
「おかしなやつだなあ。今日の徹郎は歯医者が楽しみなのか?」と兄さんがからかってくる。
「そんなわけないだろ。柿の葉寿司のこと思い出しただけだ。」と反論すると、兄さんは「食いしん坊なやつだな。まあ今日はおやつ食べてないから仕方ないか。」
はは、と屈託ない様子で笑っている。


真田の家からほど近い場所にある歯医者は少し歩いたところにある。
ドアをくぐるとすぐに気づく消毒の匂いは、うちの病院とさして変わらないけれど、背筋がすうすうする。受付のお姉さんに名前を言って、段差の大きな上がり框をよいしょ、とのぼる。
玄関のすぐ横の待合室では、まだストーブを片付けてなかった。六月の梅雨寒の日に、また火を付けることがあるからだ。
冬には薬缶がおいてある灯油ストーブの真横に陣取って、家では読めないような漫画の本を読む。
今日は兄さんは読まないの、と言うと「僕はいいから、」と言って虫歯になったときの本を手に取っている。
本当に今日の兄さんは変だ、と思うけれど、気にしている時間はない。
「真田徹郎くん、どうぞ。」と奥から呼ばれて、戻ってくるまで持ってて、と兄に読んでいる途中の本を押し付けると、終わるのをここでずっと待ってるから、と微笑まれた。
ずっと?
ずっとオレと一緒にいてくれる?
本当に?
いつもと同じ、何でもない言葉のはずなのに、一瞬、嬉しさと同じくらいの疑念が心の中で暴れ出した。
そこにいてよ、兄さん。そんな風に声を掛けると、歯医者だった辺りはぐにゃりと形を変え、今の今まで相対していた兄の顔も、一変した。
真田武志という、ただ憎しみをたぎらせるだけの相手になってしまった、知った男の顔に。
それなら、あれは誰だ。
子どもだったオレが、兄だと錯覚していたヤツは。
いや、誰であろうと構わない。
オレがずっと一緒にいたいと思った馬鹿は、もうこの世のどこにもいない。
病が身体を蝕んだのは、きっとそのせいだ。
身の裡に生まれた弱みを見せず、けれど人に傅くようになった。
こんなオレと一緒にいることを願うような馬鹿は、もうどこにもいないだろう。





辺り一面、日が差したかのように明るい。
昨日降りしきっていた雨は、すっかり上がったようだ。
夢を見た。
妙な夢だった。実家で暮らしていた頃の、まだケツの青いガキの時分のオレと、もう十年近く前のなりをした譲介がいた。死んだ兄貴の言葉をなぞるように話す譲介と一緒に、ガキの頃よく行った歯医者への道のりを歩いた。
昨日、クエイドにある庭園をのらくらと歩き、あいつと日本の春を思い出させるような景色を見たせいに違いない。朝倉がここへ来てから植えたという桜並木の、花の散った後の青葉は、確かに、妙に目を引いた。
そういえば、最近KAZUYAの夢を見ていない。それだけで、死期が遠ざかったと浮かれるつもりもないが、日本の外に『戻って来た』途端に、以前を上回るスピードで心身が忙しくなったせいかもしれなかった。
んん、という小さな声が聞こえて来た。ベッドの上、身じろぎをして目を開くと、目の前には知った男の顔があった。
譲介。真田徹郎という男の人生から久しく遠ざかっていた平穏な暮らしが、こいつと一緒になって、肩を組んで戻って来た。自分にとって諸手を上げて賛成するほどのことではないが、それをわざわざ遠ざけるのも億劫と感じる年になった。
こちらを見ていた譲介が、おはようございます、といつものように言うので、おう、と返事を返す。夢で見たのとは違う、譲介の顔に、もう少し寝ていても構いませんよ、と大きな笑みが広がる。
朝も早くから、こんな還暦男の寝顔を見ているのが楽しいらしい。
酔狂なやつだ。
「そりゃ、おめぇはそうだろうが、オレは腹が減った。」
ちょっとそっちへ行け、と言って起き上がり、そのまま立ち上がった。
空調は、どちらかといえば通年同じ温度に設定してあるから、この時期の朝方は肌寒い。
何かを腹に入れる前に、熱いシャワーを浴びたい気分だったし、目覚ましにコーヒーも飲みたかった。
素足で歩き、何か羽織るものはねえか、と目探しすると、昨日譲介が脱ぎ散らかした、部屋着にしている前開きのパーカーがあった。早緑色で、譲介には良く似合っている色は、オフホワイトに統一された部屋の中で妙に目立つ。それを屈んで拾い、思った通りに腕が通ってしまう事実に舌打ちしながら袖を通す。
「ちょ、と、それ、徹郎さん。」
「ぁんだよ。」とベッドの方を向くと、顔だけを上げた譲介の頬が妙に上気している。
口にするのも面倒だが、酸欠になる寸前でキスを終えた時に近い。
「まさか、熱でもあるのか?」
「いえ、あの、……出来ればそれ、やめてくれませんか。」
「それって、」
「それです。僕のパーカー。」
目のやり場に困るので、頼むから脱いでください、と言って、譲介はそのままベッドに突っ伏した。
なぜか耳まで赤くなっている。
フルチンでそこらを歩いているときには何も言わずに口をつぐんでるくせになんなんだこのガキは。
「履いてるだろうが。」
「……知ってます。」
見ましたから、と減らず口を利く譲介に近づいて、ベッドの端に腰かけ、その赤くなった耳を引っ張る。
「素っ裸で出て行きゃいいのか?」
そう言うと、譲介が赤くなった顔をあげて「……それもダメ。」と言った。
ったく、面倒なガキだ。
しょうがねえ奴だ、と言って、散髪したばかりで短くなった髪を指で梳く。
セックスを重ねるたび、後頭部の辺りを遠慮斟酌なく引っ張っているので、こいつはそのうち抜け毛で困るのではないだろうかと思っていたが、まだそれなりにふさふさとしているので胸を撫でおろす。
「……あの、なんだか幸せすぎて怖いんですけど。」
これって夢じゃないですよね、とふざけたことを抜かすので、リクエストに応えて頬肉を引っ張ってやったら、譲介はまだ笑っている。
さっきからおかしいのはおめぇだろうが。そうした言葉が喉元まで出かかったが、タイミングを狙い済ましたように譲介がベッドから起き上がる。
「徹郎さんは、もう少しベッドにいてください。僕がコーヒー、入れて来ますから。」
習慣のようになった頬へのキスを素早く決めた譲介は、こちらがうかうかとしている間に、よいしょ、と言って手を伸ばし、ベッドの外に落ちていた白いTシャツを羽織っている。
不健全な夜の後の、健全そのものの光景。
足音を立てて出て行く白い背中を見ていたせいで妙な気分になった。
不随意な反応をする股間からは目をそらして、「コレはあいつに気付かれねぇうちだな。」と頭を掻く。
立ち上がると、一際明るい日差しが、寝乱れたベッドの上を明るく照らしている。
洗濯機を回す必要に駆られて、上掛けの上からシーツを引っ張って剥がすと、昨日の痕跡がそれだけでなかったことに気付く。
無駄弾を打ちやがって、と心の中で罵りながら、使い終わったスキンをゴミ箱に捨てると、段々と腹が減って来た。冷蔵庫の中の卵とベーコンのことを考えていると、遠くから微かに、譲介の調子っぱずれの鼻歌が聞こえて来る。
ベッドメイクはあいつに任せよう、と思いながらシーツを抱えて歩き出すと、ぐう、とひと際大きく、徹郎の腹が鳴った。







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