頸と心第2部(9)不実

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「……強欲な狩人だな」
 返した声の震えを、利吉の耳は聞き逃さなかったらしい。土井の顎の下からわずかに身を屈めて、獲物を検分するような目でこちらを覗き込んできた。
「では」
 そうして狩りの熱を残したままの声で、彼は求めるものを口にする。
「先生から口吸いを一つ、いただけますか」
 それを聞いて身構えていた土井の腹の底が、すっと拍子抜けする。あれだけの狩人の目で射すくめておきながら、せがむのは口づけ一つか。土井は思わず眉を上げ、それから肩の力を抜いて短く笑った。
「……なんだ。そんなことか」
「そんなこと、とは心外ですね」
「あんな目で見られれば、何を要求されるかと思うだろう」
 言いながら土井は利吉の襟元に指をかけ、自分の方へと引き寄せた。奪われる側ではない、与える側の余裕。軽く触れてすぐ離せばいい。褒美にはそれで充分だろうと、土井は高をくくっていた。
 唇を寄せ、そっと触れる。川風の湿りと初夏の草いきれと、二人ぶんの狩りの汗が触れ合った場所で混ざる。土井は軽く食んだだけで離れようとした。けれども利吉はその引き際を許さず、離れかけた土井の下唇を追ってぐいと捕らえた。褒美にしては軽すぎるとでも言わんばかり、そのまま深く絡めてくる。
(相変わらず、生意気だな)
 とはいえ土井も引けなくなった。利吉に応じて口づけを深め、舌先を絡めて若い口腔を辿る。それはもうどちらが先に音を上げるかの意地の張り合いだ。互いに引かず、息を奪い合う。狩りの直後の昂りがまだ二人の身体に残っていて、それが火種になって軽い戯れのはずだったものが見る間に熱を孕んでいく。それは思いも寄らないほどに。
 あの宿の夜には逃げ続けた肌が、今は逃げない。意地で繋いだ口づけにもかかわらず土井の呼吸は乱れ、利吉の襟を掴む指に力がこもった。先に崩れそうな自分を自覚して、まずい──と理性が囁いたその時、土井は混濁しかけた頭の隅でふと別のものを捉えた。
 葦の向こう。湿地の対岸。
 一羽の鴨が、水面に降りようとしていた。
 利吉の口づけに溺れかけていた身体が、糸を断ち切る刃のように動く。土井は利吉の唇から逃れざま忍装束の袖口へ手を滑らせ、隠していた棒手裏剣を抜き放った。
「──え」
 突然の動きに、間近で口づけを貪っていた利吉が虚を突かれて怯む。その鼻先を掠めるようにして土井は身を捻り、湿地へ向けて暗器を投げた。刃が初夏の光を裂いて飛び、水面に降りかけた最後の一羽を過たず貫いて湿地へと落とす。
 しんと、水音だけが残った。
 唇に利吉の熱を残したまま、土井は乱れた息を整えつつ呆けた顔の利吉を横目に涼しく言ってのける。
「十羽ばかり、と言っていたな。君の五羽と私の四羽では、足りないだろう」
「先生……」
「これで、引き分けだ」
 利吉は毒気を抜かれたように口を半ば開けたまま、湿地の獲物と土井の顔とを見比べる。狩人の目に残っていた熱が今度は別の色──やられた、という悔しさと、それを上回る何かに塗り替えられていく。土井は袖を整えながらその表情を見て、今日はじめて心から可笑しそうに笑った。
「狩人が、獲物に気を取られすぎだな」
「……千載一遇だったもので」
 利吉は溜め息を一つ落とし、湿地へ降りていった。
 水草を踏み分け、棒手裏剣に縫いとめられた鴨を引き抜いて刃を拭い戻ってくる。彼はそれから無言で二人ぶんの獲物を一所に集め始めた。羽を揃え、首を揃え、藁縄で括っていく手つきは慣れていてよどみない。土井はその作業を岸辺に腰を下ろしたまま黙って眺めていた。先ほどまでの口づけの熱も棒手裏剣の一投も、利吉の俯いた背の中にもう跡形もなく仕舞い込まれてしまっている。そうして鴨を括りながら、利吉は手を止めないまま呟くように言った。
「……どういうおつもりで、会ってくださっているんですか」
 俯いたままの利吉の表情は、土井の位置からは見えなかった。
「閨は、その気になってくださらない。それなのに会うのは吝かでないご様子で、口吸いをすれば──こうして逃げて」
 縄を結ぶ指は止まらない。静かな声だけが、淡々と水面に落ちては弾ける。
「私を玩ぶのは、楽しいですか」
 土井は、すぐには答えられなかった。
(これも、哀車か)
 胸の奥で、苦い覚えが疼く。俯いた背中も声の落とし方もあまりに真に迫っていて、けれどもどこまでが術でどこからが本当の傷なのか、土井にはもう測りかねた。測ろうとすること自体が、相手の間合いなのだと知りながら。
 その逡巡を、利吉は背中で嗅ぎ取ったらしい。
「……腹の裡ばかり、読み合っていますね。私たちは」
 括り終えた十羽の鴨を、そう言って利吉は両腕に抱え上げた。立ち上がって振り返った顔にはもう傷の色はない。いつもの涼しい表情に戻っている。
「必死なのは、本当なんですが」
 ぽつりとそう落として、利吉は獲物を抱え直した。初夏の日が高くなり、湿地に立ち込めていた靄はとうに晴れて葦の葉がきらきらと水面に照り返している。土井はその光に目を細めた。視界の先で、利吉は季節そのもののように笑う。
「帰りましょう。今日は狩りに付き合っていただいて、助かりました」
 その声は、何事もなかったかのように軽かった。哀車の刃も口吸いの熱も、たった今しまい込んだばかりだとは思えぬほどにさらりとして、土井は腰を上げながら結局この子の問いに何ひとつ答えられなかった自分に気づく。
(……いや)
 答えられなかったのではない。答えを──まだ持っていなかったのだ。



***



 その夜教員長屋に戻ってからも、土井は利吉の言葉を幾度も反芻していた。
 私を玩ぶのは楽しいですか、腹の裡ばかり読み合っていますね──湿地に立った利吉の俯いた背中が灯りの小さな炎の揺れに重なって、何度も瞼の裏へ戻ってくる。土井は文机の前に座り直し、奥に押し込んでいた文箱を膝へ引き寄せた。蓋を開け、底に仕舞い込んだものを取り出す。兎の毛を編み込んだ柔らかな一対の籠手。かじかむ土井の手を案じたのであろう利吉が、何も言わずに毛を縒り革を裁ち、夜なべして拵えてくれたのであろう品だ。土井はそれを膝に置き、長く息を吐いた。
 不実なのだろう。自分は。会えば応じ、そのくせ触れれば逃げる。籠手をこうして後生大事に抱えながら、その作り手と同じ顔をした若い男の熱を、撥ねつけもせず受け入れもせずに宙吊りにしている。利吉が玩ばれていると感じたとて無理もない。土井自身、どうすればいいのか分からないのだ。踏み込むことも退くこともどちらへも進めずに、この籠手を抱えたままただ立ち竦んでいる。
 いっそ──と土井はふと思った。
 必死だと言うのなら、無理にでも狩り取ってしまえばいいものを。あの狩人の目で迫って押し倒して奪ってしまえば、自分ももう逃げ場を失くして観念するだろうに。あの利吉なら、きっとそうしただろう。迷う土井の襟を掴んで、考える隙も与えず引きずり込んだだろう。
 そこまで思って、土井は小さく首を振った。
 ──いや。違う。
 遠い冬の日のことが、ふいに胸の底から浮かんだ。閉じた頁の中の利吉を想って、土井が一人鬱いでいた夜があった。氷ノ山の山中の囲炉裏端で、膝を抱えて炎を見つめていた土井の隣に、生意気盛りの利吉が何も言わずに来てただ黙って座っていたことがあった。慰めの言葉も問いも寄越さず、子供のくせにこちらの沈んだ気配を察して、そっと寄り添うだけの優しさで。
 あれは、そういう子だ。真っ直ぐ向ける視線の強さで、奪い取るよりも先に相手の傷を量ってしまう子だ。だからこそ閨でも手を引いたのだろう。だからこそ哀車めいた問いを投げながら、最後は獲物を抱えて何でもない顔で帰っていった。無理に狩り取らないのは踏み込めないからではない。踏み込めば土井が大切にしているものが壊れると、あの優しい目が見抜いているからだ。
 土井は籠手を文箱へ戻し、そっと蓋を閉じた。
 不実なのだろう、自分は。
 そう、もう一度胸のうちで呟いて、土井は深く長い溜め息をついた。寝床へ移る気にもなれず文机に肘をついたまま、昼間の湿地の光景を性懲りもなく手繰り寄せる。狩人の目、口づけの熱、俯いた背中──順に辿り、辿った端から胸の裡がざらついていく。
(欲しくないわけでは、ないんだがな)
 くれると言うなら奪いたい欲が、腹の底に確かに燻っている。惚れた男と同じ顔と同じ声であの目で迫られて、平静でいられる訳がない。その証拠にあの口づけの最中──土井は間違いなく、このまま流されてもいいと思っていた。意地の張り合いを装って、線を越える口実を探していたのは自分の方だ。
 それなのにあれは引く。毎度あと一歩のところで手を止めて身を離し、涼しい顔で退いていく。それはあの利吉にはなかった柔さだった。閉じた頁の中の男なら、獲物が傾いだ気配を見逃しはしなかっただろう。傾いだ瞬間に食らいつき、考える隙も与えず引きずり込んでそれきり離さなかっただろう。奪う男だった。奪われる側の安堵というものを、土井はあの男に教わったのだ。
 けれどもこの利吉は、こちらの傷を量って退路を敷いて、獣を馴らすように間合いばかりを詰めてくる。その柔さが齟齬としていやに肌に残って、置いていかれた熱だけが身体に燻り続ける。欲しいのか欲しくないのか誰が欲しいのか──おのれのなかに問いを立てるそばから答えが濁っていくような感覚だった。
「……もう、わからん」
 匙を投げたような溜め息が、独り言になって落ちた。灯りの炎がその息にひとつ揺れ、持て余した熱が腹の底にわだかまったまま、行き場を探して夜気の中を巡っていく。これでは七つも年下の男に袖を引かれ口を吸われ、それで火のついた身体をいい歳をして持て余しているだけではないか。滑稽だと思う。思っても、火は消えない。
(だが──)
 これは恋ではない。それだけははっきりしていた。恋は知っている。あの閉じた頁の中で命ごと教わった。あの焦げつくような、頁が擦り切れるまで読み返さずにはいられないような、あれは恋だった。恋だったと知らしめたのは他でもない利吉だった。今この胸にあるのは熱ではあってもあれとは違う。齟齬と欲と懐かしさと後ろめたさの混ざった、名前のつけようのない何かだった。
 そこまで考えて、ふと土井は、恋でなければいけないのだろうか、と思った。思いがけず立ったその問いは思いのほか深く刺さり、土井は思わず瞬きを止めた。不実なことはじてやりたくないのは確かだが、これが恋と呼べる形になるまで、あの子の手を取ってはならない道理はあるのだろうか。名のつかぬまま応じることは不実だろうか。それとも名前など、後から追いつくものなのだろうか。
 わからん、ともう一度吐いた吐息に、灯りの炎がひとつ大きく揺れ、細く煙を引いて消えた。土井は暫くそのまま動かなかった。闇の中に利吉の残した口づけの熱だけが、まだ薄く燻っていた。


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