7-1 擬態
擬羽村の災害から数年が経った今も、私は自我を失うことなく、ふうこの中で生き続けている。擬蟲神の一部として、彼女の意識の奥深くに息を潜め、彼女の存在を浸食している。狂おしいほどの愛を胸に、私はふうこを支配することを、彼女の中で生きることを選んだのだ。
ふうこの視界を歪め、世界を忌まわしいものに変えているのは、他ならぬ私自身だ。私の呪いが、彼女を絡めとり、縛りつけ、心も体も蝕んでいく。彼女は気づいていないだろう。でも、それでいいのだ。私の愛が、擬蟲神という祟り神をも支配し、ふうこを永遠に縛りつけている。
この愛は決して正しい形ではないかもしれない。触れられない、語りかけられない、それでも私は彼女を感じている。そしてふうこも、いつもどこかで私の愛を感じているのだ。
愛しい、愛しい、私だけのふうこ。私のために存在する、私だけの特別な存在。
たとえ貴方が私の存在を忘れても、私は決して貴方を手離さない。貴方が何度記憶を失っても、私はその全てを覚えている。私だけが、貴方の過去を、傷を、悲しみを知っているのだ。貴方の無意識に潜む私の存在、その事実が私の心を恍惚に染め上げていく。
◆
透き通るような暗い水の底。仁美里の目に映るのは、砂の中に埋もれるようにして散らばる、白くひび割れた人の手の形をした残骸。冷たく沈んだ、光の届かぬ深淵に漂う無数の彫刻の破片。ひとつひとつが異なる方向に指を伸ばし、今にも何かを掴もうとするかのように固まっているが、いずれも動くことなく冷たく静止している。
その破片は、彼女の忘却された記憶の断片だ。そして、「正しさ」を得られず否定され砕かれた、鳳子の死骸だ。ここは鳳子の精神世界であり、彼女の墓場でもあるのだ。その光景はあまりにも静かで、まるで時が凍りついたような異様な美しさを放っている。
時折、かすかな光が水面から差し込み、ガラスの破片に当たって淡い輝きを宿す。その反射は儚く、美しいのにどこか悲しい。輝きが砂に埋もれた手の形に触れるたび、まるで忘れ去られた思いが一瞬だけ蘇るように、光が走り、すぐにまた闇に飲み込まれていく。
仁美里は心が締めつけられるような痛みを感じながらも、この冷たく静寂に満ちた世界が、鳳子の内面そのものを映し出していると直感する。悲しみ、痛み、そして壊れてしまった過去の断片たち。どれも彼女が一度抱いた思いが、こうして深い水底に沈められ、誰の手にも届かぬ場所で永遠に眠っている。
仁美里は静かにその場に佇み、冷たい水の底で周囲を見渡していた。その時、突然、頭上の水面から揺らめく影が現れ、彼女は驚きに目を見張った。ふと目を凝らすと、それは鳳子だった。
鳳子の周りには、無数の水泡がまとうように浮かび上がっては消え、光の屈折で彼女の姿が一層幻想的に映し出されている。仁美里はその光景に目を奪われながらも、胸の奥に不安が湧き上がるのを感じた。鳳子の沈んでいくその姿は、まるで生気を失いかけた人形のようで、彼女の瞳に宿るはずの光もどこか薄れているようだった。
やがて水底に辿り着いた鳳子は、無言のまま力なく倒れる。仁美里はそこへすぐに駆け寄った。
仁美里は鳳子の肩を支え、彼女の顔を覗き込んだ。|現実《そと》で何があったのか。仁美里は鳳子の中でずっと共に生き続けてきた存在であり、その答えは聞かずとも知っている。いつもなら、鳳子の心は砕かれ、記憶も崩れ落ち、冷たい彫刻のようになってこの水底に沈んでくるのが常だった。
しかし、今回は違っていた。いや、正確には、数少ない“例外”のひとつが訪れたのだ。
たとえば、鳳子が最後の一瞬まで記憶や心を手放すまいと必死に抗えば、彼女が砕け散るまでの時間が延びることもある。その際には、体中に無数の傷が刻まれ、皮膚にはひび割れが走っていることが多かった。だが、今目の前にいる鳳子は、いつもと違い、かすかに弱々しいながらも確かに「生者」の姿を保っている。
仁美里は、その姿にかすかな違和感と驚きを抱きながらも、優しく問い続けた。
「ふうこ、私が分かる?」
「……にみりちゃん」
鳳子の返答に、仁美里は一瞬驚きの色を浮かべた。鳳子が返してきた言葉には、彼女自身の自我と意識がしっかりと宿っていた。それは「仁美里」という名の呪いとして、鳳子の中に潜む存在を彼女が無意識に理解しているかのようだった。
生暖かい温もりを持つ鳳子の手がそっと仁美里の肩を包み込み、静かに抱きしめる。水中の冷たさとは対照的な彼女の体温が、まるで灯火のように仁美里の中で優しく広がり、彼女の存在を確かめるかのようにその場に留めようとしているようだった。
仁美里はその抱擁を甘んじて受け入れ、微笑を浮かべる。|現実《そと》でどれだけの人間が鳳子に居場所や温もりを与えようとも、鳳子にとって本当に安らげるのはこの場所、自分の側だけだと仁美里は知っていたからだ。彼女の心の奥に巣食い、呪いという形で彼女と共にいる自分だけが、彼女の本当の「居場所」であることに、静かに満足感を覚えていた。
「……疲れた。もう頑張れないくらい、疲れちゃった。……あのね、大切なものが、みんな……私の前から消えていくの……。……最初は、神様が奪っているんだと思っていたの。……私がいつまでも悪い子だから……今もずっと、罰を与えているんだと……」
「いいえ。私はそんなことしないわ。だって、誰よりも貴方の幸せを想い続けているもの……」
「うん。にみりちゃんは……かみさまになって、ずっと私を守ってくれていたもんね……。……まだ、約束を果たせなくて、ごめんね……」
「いいのよ、だって……私が貴方にそう呪いをかけたのだもの。……ふうこ、貴方は私が守るから……」
「……それなら、じゃあ、にみりちゃん――」
鳳子は、仁美里からそっと腕を解き放した。彼女の動きは静かで、まるで周囲の水の流れに合わせるかのように滑らかだった。次の瞬間、鳳子は自分の掌をゆっくりと合わせ、膝をついて跪く。その姿はどこか神聖で、光が彼女の肩や髪に淡く降り注ぎ、周囲の泡が舞い上がりながら彼女の周りにさざ波のような光の輪を描いていた。
鳳子はじっと仁美里を見上げ、瞳には深い敬意と静かな覚悟が宿っている。彼女の全存在がその一瞬に捧げられ、まるで古の神に祈りを捧げる儚げな乙女のようだった。その姿に、仁美里もまた、自分の中に巣食う感情が静かに揺らめき、胸がじんと温かくなるのを感じる。
――どうか私を、貴方と同じように――……
◆
規則正しい電子音が静かな病室に響き、彼女の意識を引き戻すかのように刻まれていた。その音に導かれるように、彼女はゆっくりと目を開ける。視界に広がるのは、薄暗闇に包まれた無機質な病室。ほのかに漂う薬品の匂いが、ここが現世であることを知らせるように鼻を刺激した。
彼女は柔らかなシーツに包まれ、ベッドに横たわっていた。しかし、その身にはいくつもの透明なチューブが突き刺さり、無数の管が彼女の体に張り巡らされている。腕に刺さる針が生の感覚を鈍らせ、静脈を通ってゆっくりと流れ込む液体が、彼女の命をわずかに支えているのを感じた。胸に手を置こうとするが、思うように力が入らず、かすかに指先が動くだけだった。
幸いだったのは、彼女の家が診療所としても使用されていたにもかかわらず、今回の処置に必要な医療機器が設置されていなかったことだ。このため、警戒すべき人物の手から逃れられ、ここが彼女にとってひとときの隠れ家のような役割を果たしていた。
さらに、彼女が目を覚ましたのは夜の静かな時間帯。外から差し込むわずかな月明かりが、窓辺をかすかに照らしている。昼間であれば面会に訪れていたかもしれない彼の姿もなく、今は自分の呼吸と小さな機器の音だけが部屋を包んでいる。もしこれが昼間だったら、鉢合わせする危険もあっただろう。彼女はその運の良さにほっとしながら、再び静寂の中で息を整えた。
彼女はゆっくりと身を起こしながら、体に繋がれていたチューブをひとつずつ無造作に引き抜いた。軽く痛みが走ったが、彼女はそれに構わず裸足のまま冷たい床に足を下ろす。足裏に伝わる冷たさに一瞬息を飲んだが、それでもかすかにふらつく足で一歩、また一歩と歩みを進め、窓辺へと向かった。
月明かりが差し込む窓際には、四角く切り取られた淡い光の絨毯が広がっていた。彼女はその月光の中に身を委ねるように立ち、静かに夜の静寂に溶け込むように佇む。冷たい月の光が、彼女の姿をゆっくりと浮かび上がらせ、その淡い光が彼女の正体を暴くかのように、長く滑らかな黒髪と憔悴した横顔を照らした。髪の間からわずかに覗く純白のピアスが、月光を浴びて小さく揺れ、かすかな輝きを放っていた。
その煌めきに気付き、彼女はそっと細い指で両耳に触れる。触れた指先に微かな冷たさが伝わり、彼女はその瞬間、かすかな安堵とともに、まだ自分がここに存在していることを確かめるように目を閉じた。
「ふうこ」
ピアスの冷たい感触を指先で確かめた後、彼女はわずかに唇を動かして静かに呟いた。月明かりに照らされ、黄金の瞳が淡い青白い光を放つ月に向けられる。窓越しに見上げる月は冷ややかに彼女を見下ろし、その光が彼女の肌に青白く滑らかな影を落としていた。
そこに立っているのは間違いなく「世成鳳子」の体であったが、今、その体の奥で浮上し目を覚ましたのは、別の意識――|仁美里《擬蟲神》だった。彼女の瞳には、冷たくもどこか神秘的な輝きが宿り、鳳子の体を通してこの世界に立っているという実感が心に広がる。冷たい夜風が窓から吹き込み、彼女の長い黒髪がふわりと揺れ、まるでこの瞬間だけ彼女が別の存在であることを告げるかのように、静かに漂っていた。
「あなたの願いを叶えてあげるわ」
誓うように、仁美里の瞳には強い意志が宿っていた。彼女は低く、けれども確かな決意を込めて呟く。その言葉は病室の薄暗闇に溶け込み、誰にも届かない静寂の中で響いた。
一瞬の静寂が訪れた後、彼女はゆっくりと振り返り、冷たく無機質な病室の空気を背にして歩き出す。裸足の足裏が冷たい床を踏みしめるたび、微かな音が夜の静けさに吸い込まれる。背後で窓から差し込む月明かりが彼女の影を細長く引き伸ばし、病室の中で揺らめいていた。
最後に一度だけ振り返り、その場を名残惜しむことなく、彼女は静かに病室の扉を閉じた。扉が閉まる音が響いた瞬間、そこには再び暗闇と静寂だけが残され、彼女の気配は闇夜へと消えていった。
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