その皮膚のした/悪犬(2022.8.25)

 冬弥の左顎、正面からは見えないうちがわ、そこに赤黒い痣があるのを想像する。
 初めて会ったとき、その背筋がぴんと伸びているから、相当礼儀正しく育てられたのだろうと思っていた。それは間違いではなかったが、より正確な言い方があった。
 バイオリンを弾くためには特有の姿勢があり、大人になって猫背が根付いてから始めるのは難しいらしい。子どもの頃から当然としてその弦楽器を鳴らしてきた冬弥は、普段からきっちりとした姿勢を崩すことがなかった。音楽に触れてきた時間の長いことは最初から知っていたが、それがピアノとバイオリンであると聞いて、妙に納得した。中学生とは思えない気品のようなものがなんとなくあって、壁にカラフルなグラフィティアートが施されている通りに、彼はすこし似合わなかった。
 しかし、意志にかかわらないその姿勢の良さは、歌うにあたっても遺憾なく発揮された。息のとおりみちはすっと開いていて、腹に力を入れることも、足を踏み締めることもすぐに覚えた。オレと出会った頃の冬弥は、自身の身体を楽器として扱うことになんてひとつも慣れていなかったけれど、当時から持ち合わせていたセンスのおかげか彰人のアドバイスが必要だった時期はひどく短い。肺の膨らませ方も、声帯の震わせ方も、子音の発し方も、あ、と思ううちに習得していった。そうして冬弥は見る間に成長して、オレはその隣に立ち続けるため、すべての必要な犠牲を払って、すべての必要な努力をした。
「顎当てのところ、どうしても痣ができるんですよね」
 そう言っていたのは、テレビで特集が組まれていた、歳のそう変わらないバイオリン弾き。若き天才バイオリニストの生活に密着する、というコンセプトで組まれた内容で、以前なら興味を惹かれなかっただろうそれ。リビングのテレビから無造作に垂れ流された音声。
 下から仰ぐようなアングルのカメラで写されていた、「努力の証」と称されるものが、頭を離れなかった。
「彰人」
「おう、冬弥」
 教室の、廊下側の席の、窓がある位置。席替えでそこに机を置くことになったオレを、相棒が覗き込んでくるのを見上げていた。
 冬弥の左顎、正面からは見えないうちがわ、そこに赤黒い痣があるのを想像する。今は、降り注ぐ照明の光でできた影が濃く思えるところはない。つるりとした白い肌には傷のひとつもなくて、うっかり入り込んだ雑菌で膿むリスクだってない。視線をずらせば、昼飯行くか、と問いかけたオレに相槌を打つために震えた喉仏がある。ひとの鼓膜を揺らす音を出す、その器官が。オレの好きなうたを歌う、ひとつの楽器が。
 オレが席を立てば、見えなくなるような角度。隣に立っていれば見えないそれが、果たしてオレと出会ったときにはあったのか、考える。姿勢が正しければ痣はできにくいとも聞いた。だから、無かったかもしれない。だが、演奏する時間が長ければ姿勢が正しくともできてしまうんだとも。では、有ったのだろうか。
「今日は天気が良いから、中庭の方で食べないか」
「お、いいな。その前に購買寄っていいか?」
「もちろんだ」
 財布をポケットに突っ込み、同じような速度でドアの方まで移動して、連れ立って歩き出す。取り留めもない話をする。
 もしそこに、長時間の圧迫によってできた内出血があったとして、そっと撫でてやれたら、痛みを分かち合うことができたのだろうか。否。それはただしく冬弥の持ち物なのだから。音楽が好きだという気持ちは、初めからずっと、冬弥の持ち物だったのだから。

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