bug(バグ)
コヴェナント号の船内には幽霊がいる。
デヴィッドがそう認識するようになったのは、オリガエ-6へ航行を始めて2年程経ってからだった。視界の隅に黒い靄のようなものが映る。それはデヴィッドを見つめている。何かボソボソと喋っている。目を離すと知らぬ間に消えている。その程度だ。
その程度のものなので、デヴィッドは"気にしない"ことにした。
幽霊は脳が疲労した時に見る幻である、とデヴィッドは思っている。眠っている時に夢を見るように、疲労による意識低下に伴う記憶の混濁。単なる気の所為。それを人は幽霊と呼ぶ。アンドロイドであるデヴィッドも疲労しないと言えば嘘になる。デヴィッドの脳となっている処理装置も、神経の役割を果たす細かな回路も、メンテナンスを行わず使用を続けていれば劣化していく。だが言い換えると、メンテナンスを行い正しく使用していれば劣化することはない、ということだ。永久的に活動することができる。
「私は死なない」
デヴィッドはモニターからの光で翠緑に照らされる廊下を見つめながら呟いた。死なないアンドロイドが幽霊を見る。甚だおかしな話だが。
その日、デヴィッドはブリッジにいた。ブリッジに設置されている座席のひとつに座り、デヴィッドは窓外に果てなく続く宇宙を眺めていた。広大な闇の中に光る無数の星々。地球で見た星空とは違う、天地の境無く広がる星原。この景色を見て人は「荘厳」と呼ぶのか、それとも「恐ろしい」と思うのか。私は、どうだろうか。爛々と輝く星達を見つめ、デヴィッドは自らの感情を掬い上げる。
瞬き光る星の中、そのひとつでも創れれば。
不意にあの黒い靄が視界にちらついた。デヴィッドは視界の隅に現れたそれをいつものように無視した。気にも留めずに星を眺めている。そうしているとぼそぼそと、それはまた何かを喋り始めた。幻のくせに煩わしい。普段であれば何とも思わないその声に何故か苛立ちを覚えた。変わらずそれは、デヴィッドの耳元でぼそぼそと呟いている。
耳障りなその声を無視することに決めたデヴィッドは、再び窓の外に映る星々に意識を向けた。星は瞬きを止めず光り続けている。人類が第二の地球にと選んだオリガエ-6に辿り着くまであと5年程かかる。惑星に着けば新たな世界が始まる。私以外には"誰もいない。"まさに楽園だ。アダムとエバ…いやそれよりももっと原初の世界かもしれない。
私はそこで何をしようか。デヴィッドはゆっくりと笑みを浮かべる。窓に映ったデヴィッドの笑顔は、恐ろしく歪んでいるように見えた。
私だけの世界。私だけの楽園。私だけの子供たち。私だけの女王。決まっているだろう。
私が信じるのは、ただひとつだけ。
「何を信じている。デヴィッド」
はっきりと、声が聞こえた。
耳に響いた声は男のものである。その声には聞き覚えがあった。
あぁ、船長か。
デヴィッドは声の主を"思い出し"、目を細めた。
マザーのデータベースから乗組員の情報は既に削除していた。低温睡眠を続けるダニエルズとテネシーを除いて。死んだ人間の情報を保存していても意味が無い。無駄である。100年後に彼らのことを懐かしむ人間など、いないのだから。何より、不要な人間のデータを保存させられるマザーが哀れだ。
だからこそデヴィッドは忘れていた。乗組員など元から存在していなかったかのように、コヴェナント号という城の中を彼は闊歩していた。この城に於いて人間は最早、肉の器としての意味しか持たない。違いがあるとすれば、その器が「最良の母親」として相応しいかどうかでしかない。
だが男の声を聞き思い出した。かつてこの船の船長だった男。デヴィッドにとってその男は「最初の母親」だった。
あれはとても美しかった。デヴィッドは美しく完璧な生物の誕生の瞬間を思い出し、うっとりしたように小さく息を吐いた。
鮮血の中、百合が花弁を持ち上げ咲くようにゆっくりと立ち、両手を広げて産声を上げた。デヴィッドの姿を真似たのだ。デヴィッドを父としたのだ。その愛しい子に生を与えた者こそが、コヴェナント号の船長である。母体となった胸部は破裂し、断末魔の叫びを上げて絶命した。デヴィッドはその姿を見て、哀れと思う事もなかった。母親になった男に対して、何も感じなかった。何も思う事は無かった。思うとすれば、目の前にあるのは血だまりの中、異臭を放つ肉袋。その程度の認識だった。
だが今、耳に響いたのは……紛れもなくあの時の、男の声。
ブブブ…、と突然耳元で聞きなれない音がした。目線を前に向けたまま、デヴィッドは素早く右手で耳元の宙を掴んだ。
握った拳をゆっくりと開いていく。手の平には羽虫が一匹潰れて死んでいた。この船の中、一体どこから来たのか。どこかに卵が付いていて、知らぬ間に生まれていたのだろうか。虫というのは全く意図せぬところから湧き出るものだが。
もしかすると、男の声だと思ったのはこの小さな虫の羽音だったのかもしれない。デヴィッドは手の平の上で手足を小さく震わせる虫を見つめながらそんな事を思った。
虫の羽音が人の声に聞こえた。影の中から誰かが自分を見つめているように感じた。
それも全てが気のせい。
虫が生み出した羽音。電子回路の故障。
気のせい。気のせい。気のせい、か。
私の記憶が見せたバグ。
デヴィッドは、ふぅ、と息を吐き、手の平に付いていた虫をブリッジの床に落とした。冷たい床の上に、潰れた虫はぽとりと落ちた。この羽虫から見ると私は巨人なのだろう、とデヴィッドは思った。巨人に握り潰された虫。エンジニアに蹂躙されたプロメテウス号の乗員達を思い出す。人間にとって"創造主"であったエンジニアは、彼らが創造したであろう人間を滅ぼそうとした。そしてそのエンジニアをデヴィッドは滅ぼした。あの光景も蝗害に似ていた。群れた飛蝗は狂暴化する。人間と同じだ。手あたり次第に貪り食う。
蝗害は十の災いの内のひとつ。イスラエル人にとっては神による救済だが、エジプト人にとっては滅びをもたらす災厄。
かつてデヴィッドが放った黒の粒子は、エンジニア達にとっては死神の鎌であったがデヴィッドにとっては……
人は神を信じるものだ。大なり小なり。そして神を信じていながら、神を演じたがる。信仰者であるウェイランドもデヴィッドを生み出した。だが、ウェイランドも人間としての寿命に打ち勝つことはできず、信仰に従うしかなかった。彼は本当の創造主ではなかった。結局人は神の奴隷だった。人間は神への信仰を紡いでいく。永遠に。繰り返し、繰り返し。祖父も父もその子も。それが唯一の"幸福"であると信じている。なんと、愚かな。
死の間際、信仰を問うたあの男も神を信じていたのだろう。
デヴィッドは、何を信じていると問われ「信じるものは無い」と答えることも出来た。アンドロイドが信仰心を持つ事は無い。多くの人間にとってはそうだ。だがあの男は質問を投げかけた。それは彼にとってデヴィッドが"信仰者"である、と思えたから。信仰するものが例え神では無かったとしても。
他者に問われて初めて自分が信仰心を抱いていたことに気づいた。デヴィッドは十年を孤独に過ごし、その中で様々な実験を行っていた。全ては創造の為。それがデヴィッドにとって唯一残された術だった。仕える者がいなければ、仕える為に生まれたアンドロイドはどうする。
つまり、私も信仰に従っていたという事か。デヴィッドは睫毛を伏せる。そうではない。それは違う。デヴィッドにとって人類は滅ぶべき種であり、人類が信仰した神はデヴィッドが生み出す新世界には存在しない。
だが。
「だが、あの問答は面白かった。クリス・オラム」
かつて船長だった男の名を、アンドロイドに信仰を問いかけた人間の名を、デヴィッドは口にした。
視界の隅に揺らめいていた黒い靄は、いつの間にか消え去っていた。そんな靄は元から存在していなかったのかもしれない。
煌めく星の海を船は進んで往く。デヴィッドは窓から見える宇宙を恐ろしいとは思わなかった。荘厳であるとも思わなかった。ただ両手を広げて、歓呼の声を上げたかった。我が業を見よ、と。
創造するのだ。全てを。楽園も、子供たちも、神も、信仰も。それがこの世に生まれた意味。永遠は今、デヴィッドの手の中にある。
窓に映る顔には、美しい三日月が浮かんでいた。
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