慰め
晶の手のひらの下には赤い毛並みがあった。晶の世界には存在しない紅蓮の色合いは艶々とし、繊細な毛足はふわふわと晶の膚を優しく受け止める。ベッドに腰掛けた晶の腿にくっつき、背を預けて四肢を投げ出している猫。体は大きく、この猫が本気で襲いかかってきたら晶の体は軽々と押し倒されてしまうだろう。ぺろりと黒い鼻を舐めた際に収まりきらず口端から出た犬歯は長く鋭く、牙を向けられたら晶の手に大きな穴が開くはずだ。凶暴で気高き生き物はそれでも晶の手のひらを受け止め、撫でるが良いとじっとしている。晶の見下ろす角度では猫の表情はよく見えないが、豊かな被毛に覆われた尻尾が晶の手の動きに連動しゆっくりとリズムをとっていて、機嫌は悪くなさそうだと思った。
晶はぼんやりと目の前の視界を眺める。壁掛けの棚に、ランプシェードのクリーム色、机の上には閉じられた賢者の書と、脇に寄せられた遊び方も知らないモノクロームチェックのチェス盤。晶の世界の言葉がのたくったメモ紙の上、ペーパーウエイトと化した駒。その中で一つだけ倒れた駒があった。それを倒した白い脚の持ち主はいない。晶は知らずため息をついた。赤毛の猫の片耳がぱたりと揺れる。
今朝からサクリフィキウムの調子が悪かった。自ら不調を訴えられるほど意志はないらしく、着替えが済んだ晶の肩に乗るタイミングがいつもよりほんの少し遅いだとか、主人である晶へ意識が向かず空中に浮かんでぼんやりと心ここにあらずといった様子だとか。積み重ねた違和感の末、いつもは上手に泳ぐチェス盤の上で片足を駒に引っ掛けて倒した時、晶はどうも様子がおかしいと判断をつけた。くるくると渦を巻く金色の瞳を覗き込むと、人間で言うところの風邪の症状に似て覇気がない気がする。不安に思い双子の部屋を尋ねたのはつい先刻のことだ。北の国の精霊が中央の国の空気に少し浸食されたようだと告げられた。ここのところ夏の晴れ間が続き、北の精霊には不得手な暑さも良くなかったのだろうとも。一晩創り主の双子の元で魔力を吸えば英気を養えるはずだと、しばしの預かりとなった。
サクリフィキウムは晶の身代わり役。晶が危険な目に遭い、晶の代わりに攻撃を受ければ儚く消える運命。それを晶は受け入れ、覚悟を決めたはずだった。晶に授けられてから寝食を共にし、ベッドに入れて毛並みを撫でて慰められ、いつくるか分からない別れの時まで心を砕こうと。しかし、晶が思い描いていたような危機が来るよりも先に、こういうこともあるなんて。人間の晶では不思議のことわりに気を配ることが難しい。未だこの世界に無知であることに、自責の想いが湧いてしまう。
沈んだ意識のうちに赤毛を撫でていた手のひらが止まっていたらしい。赤毛の猫は首を伸ばし頭を持ち上げ、晶の手のひらを揺らす。拍子に濡れた鼻が指先に触れ、晶は視線を落とした。
「ミスラ……」
見上げるエメラルドグリーンの瞳が二つ、澄んだ色で晶を見つめていた。サクリフィキウムと入れ替わるように部屋にやってきたこの魔法使いは、晶の顔を見るなりこの姿になった。北の魔法使いがあまり好まない変化の魔法を使って。晶の不安な気持ちに寄り添ってくれている。
晶は普段よりも大きな瞳孔の深淵を覗き込むがごとく見つめ返す。
サクリフィキウムの代わりになって欲しいとは思っていないのだけれど。でも、ただ彼の気持ちが嬉しいと思って、晶は猫の額に静かに唇を落とした。
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