引っ越し


キッチンに腰を落ち着けて、夕飯も作らずに何を熱心に見ているのかと思えば、今日職場で貰って来たというパンフレットは、スマート家電据え付けのマンションの案内らしい。

堅固なセキュリティで、新しい暮らしを守ります。

TETSUにしてみれば、そんなお決まりの文句は、いいカモがここにいるぞ、とコンピュータハッキングを生業にする連中を誘っているとしか思えない。停電とロックで家にある現金や貴重品類を人質に取られたら仕舞だ。
十分な年俸でホワイトハッカーを数十人体制で雇ってこそ完璧なセキュリティは保てるだろうが、そもそもヒューマンエラーが起きない可能性などない。TETSUは二人分のコーヒーを淹れて、最先端のヤサに家移りを検討しているらしいパートナーの向かいに座る。
TETSUは譲介が選んだ今の家は割と気に入っていた。広いキッチンに、シャワーのみではなくちゃんとした風呂もあり、それなりのセキュリティ。この先、車椅子で移動ということになったとしても、家はフラットな造りで広いエレベーターには空調も付いているので、夏も冬も快適だった。駐車場には余分があり、車はその気になれば二台は入れられる。………でかいベッド、はまあいい。
つまり、このタイミングで引っ越しを考える理由がない。
「そのマンション、クエイドから近ぇのか?」
「いいえ。」
「ショッピングモールの近くとか、カレーが美味い店があるとかか?」
「いいえ。」
「じゃあ何だよ、引っ越しの理由は。」
「正直に言ったら、あなた多分怒りますよ。」
「怒らねぇから言ってみろ。」
「最近、明るい場所ではさせてくれないから。」
「はあ?」と聞き返すと、譲介は真顔で、セックスの話です、と言った。
「徹郎さんが本当に嫌なら、電気はちゃんと消しますけど。」
僕はいつだってあなたの全部が見たいんです、と言って、譲介はこちらの手を握って来た。
途中で消しに行ったら、自分で蹴り出したくせに、居心地悪そうな顔してるでしょう、と言われるのは、身に覚えがないでもなかった。
そんな理由で適当にヤサを変えようとするな、と頭を掻くと、五千万の通帳を残して消えた人に何を言われたって今更堪えませんよ、と言って年下の男は笑った。

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