元旦


年が明けた。
一月一日の一時過ぎ。
これから二年参りに行くという一也たちと別れて、譲介は日付の変わる前に家に戻って来た。
ただいま、と言いながら、灯りの落ちた玄関で靴を脱ぎ、そろりそろりと移動してリビングの電気を付ける。
二日の早朝から仕事を入れてしまった譲介を置いて、両親が揃ってハワイ旅行に出かけてしまったのだから、当たり前といえば当たり前で、部屋の中はしんと静まり帰っている。
エアコンのリモコンを操作して暖房を入れたところで、テーブルに、ご飯は冷蔵庫にあります、の書置きを見つけた。
スマートフォンを確認すると、パスポートを忘れたかもしれない、とこちらがぎょっとするような父親からの留守番電話が一件入っているきりで、その後の連絡はない。
「心配させるなァ。」
失くしたと思ったのはただの早とちりで、きっとどこかのポケットから出て来たに違いない。
年末年始の旅行は、十八でその役目を免除されるまでは、譲介も参加を強要されていた家族行事だ。
遠い異国での年越しが好きな両親は、年末年始の長期休暇の間、家を空ける。母は早めに家の掃除が出来るからいいと言いながら、父は仕事を調整しながらの家族旅行は、休まず仕事と人生を続けるための彼らの一年の楽しみで、譲介は、ずっとそれに付き合わされているという格好だった。母はウキウキと顔に書いたまま年相応とは言い難いものの、リヴィエラ辺りに行けば同じ年の女性が着ているような水着を選び、父は父で、大輪の花が乱舞する半袖シャツなど、仕事のある日には選ばない服を詰めていく。譲介のために短いフライトで済む場所に旅行先を変えたことはないけれど、毎年運がいいことに、遅延や事故などで年明けの仕事に穴を空けたことはこれまでに一度もない。
今でも、たまの海外はいいもんだぞ、と誘われはするものの、乗り継ぎを含めて十時間以上もある、機内での時間を持て余してしまう長いフライトのどこがいいのかと思う。高校卒業後に、今後は大学の付き合いもあるだろうから好きにしていいと母に言われて免除の申し出をしてからは、一度も参加していない。
遠くに旅行に行くとしても、次は好きな人と行くのがいいだろう、と譲介に言ったのは父だ。
その言葉を頭の隅に置いたまま、数年が過ぎた。

――もし一緒に旅行に行けるとしたら、行き先はあの人の希望を優先すべきだろうか。

静かで暗い家の中を歩いて移動しながら、譲介は、普段なら決して身に着けないようなかっちりした衣装を身に着け、舞台の上で朗々と声を出していた師匠の横顔を思い浮かべて、ふとそんなことを考えた。
かつてTETSUが借りていた部屋を狭くしていた本棚の隅の、棚の間から見える壁に貼ってあった、ロンドンアイやビックベンのくすんだ色味の写真。
もしあの人とふたりで行くなら、という前提であれば一度くらいは訪れてみたいとは思うものの、この時期の北半球は、きっと寒いばかりだ。
小さな頃に一度訪れたスイス――スキーに連れて行って貰った記憶はあっても、新しく買ってもらった真新しく青いスキーウェアが好きだった以外の記憶がほとんどない――もそうだった。
「仕事もあるし、いくらムード満点でも、僕には無理だな。」
家族に聞かれては困るひとりごとを虚空に向かって呟きながら、譲介は、今年買ったばかりのキャラメル色のコートを脱いだ。
ひと月前、TETSUに誘われて行った焼肉の店で付いた匂いは、もう気にはならない。
ドラマのクランクアップで最後に顔を合わせて以来、十二月の半ばにあの人のマチネを見に行ったのが最後だ。
食べ物の差し入れ厳禁という現場を顔パスで押し切って、プレゼントですと言って、いつものハムの詰め合わせを押し付けてきた。
流石にそろそろ両親からという顔をして持って行くにも限界がある気がするけれど、今年はもう、選ぶ時間もなかった。
深夜放送の生出演に、正月以降のバラエティー番組の収録で、あっという間の一か月。
この先の三か月も、ずっと仕事漬けの予定だ。
一月も仕事、二月も仕事、三月も仕事だ。その上、来年は彼と同じ現場が巡ってくることはなさそうな気がしていた。
煩悩を打ち消す鐘を聴いてきたばかりだというのに、今年は、どんな口実を作って会いに行けばいいんだろうか、と思って、譲介は眉を顰めた。
彼の書棚も映像コレクションも、譲介と出会って以来、多少増えてはいるのだけれど、高校時代に熱心な姿勢をアピールしすぎたせいで、大学に入って早々のタイミングで、あの人の部屋にあるほとんどの作品を借りてしまっていた。
(残りは、成人してから見せてやる、と言われていた作品だ。とてもじゃないけど、あの人のことを考えずに見られる気がしない。)
失敗した、とため息を吐きながら浴室に移動して、譲介はおざなりにシャワーを浴びて髪を乾かし、パジャマに着替え、エアコンを入れっぱなしにしておいた自室のベッドにダイブする。
テーブルには、さっき置いたコンビニで買って来たコーヒーと、明日の朝食になるおにぎり。
ほとんどホテル住まいのようなものだ。
大晦日に地元の街に戻って来ると、いつもの店が軒並み仕舞っていて、不便なことこの上ない。
数年前にTETSUさんを大晦日のデートに誘うのに成功した夜は、ふたりで彼の家から一番近い台湾料理の店で飲茶か何かを食べた。
冬休みのアルバイト学生のしくじりで、半分解凍中の小籠包にふたりで目を白黒させたりしていたのも、今では写真を見れば思い出すただの思い出になってしまった。

――TETSUさん、今何してるかな。
譲介のスマートフォンには、十二時になるちょっと前から、続々とラインやメールで新着メッセージが入っている。
もうこの時間になってしまえば、ぼちぼち、新しいメッセージは入らなくなってくる頃だった。
そろそろいいか、と譲介は思い、大好きな人に宛てて、あけましておめでとうございます、と短いメッセージを送った。
新しい年が来るたびに最初にメールを送っていることをあの人は知らない。
分からないように、わざと時間をずらしている。
寝てるだろうか、誰かと飲んでいるだろうか。朝起きて一番に目に入るのが僕のメールならいいのに。
そんなことを思いながら、年上の人にメールを送った。
次に一也に送って、それから両親。
その後は一斉送信。
TETSUからの返事が返って来ないことはないけれど、一也からのそれより早かった試しはない。
合鍵を預かるようになって以来、外遊びして風邪引くな、とは流石に言われなくなったけれど、去年は確か、「何か仕事が入ってたか?」という寝起きかと思うようなメールが入って来たことがあった。三が日が明けてからやっと気づいたというタイミングで来ることもある。
今日も、返事は日が昇ってからになるかなと思いながら一也にメールを送るための画像を選んでいると、驚くことにメッセージの着信音が聴こえて来た。
きっと親からだろう、と思った譲介は、いつもの画面を見て目を見開いた。

――ハムがなくなった。明日暇なら何か買って来てくれ。


「!?」
思いがけない返信に、譲介はベッドから飛び上がらんばかりの勢いで起き上がった。
短縮ボタンを押すと、一番からの順で、母親と父親、そして彼に繋がる。
呼び出し音が鳴り、いつものように『宇宙一厳しい師匠』という表示が出た。譲介がこのスマートフォンを買って短縮の設定をしている時に、このくらいの誤魔化しは必要じゃないか、と言って、一也が面白がって設定したのだ。
今では譲介にとって一番の親友と言える男で、ギャグのセンスは皆無だけれど、こういう気遣いは有難いと思っている。
「……TETSUさん、あの、僕です。」
「おう、譲介か。」
TETSUさんの声は、思った通り、いつもよりも掠れ声だった。
セクシー、と言えば聞こえはいいけど、譲介自身、風邪気味で喉をやられた日の自分がこういう掠れ方をしていた覚えがあるから、心配の気持ちが先に立つ。
「あけましておめでとうございます。」と言うと、電話の先で「あ」と発した後に機銃掃射くらいの速さの咳が聴こえて来た。
やっぱり……。
「咳の他は、熱ですか、のどの痛みですか。関節痛はあります?」
畳みかけるようにして譲介がそう尋ねると、一拍置いて「………熱以外は全部だな。あと悪寒。」という答えがその掠れ声と共に返って来て譲介は天を仰いだ。
――ハムじゃなくて水とかお粥とか、アイスノンとか他に必要なものがあるんじゃないですか? 
そういうのもちゃんと言ってください!
電話口でそう叫びたいけど、そうしたところで状況が良くなる訳じゃない。冷静でいないと、と思う反面、急いで顔を見に行かなきゃ、と焦る気持ちで譲介はスマートフォンを強く握った。
「TETSUさん、エアコンとストーブと加湿器、ちゃんと付けてます?」
「ん、ああ。」
譲介が言った途端にいつものストーブを点火するような音が聞こえて来た。
小さなため息を吐く……目に見えるようだ。
あの人の方に他意はなくても、一応は合鍵を預かっている身だ。
救援信号を出す先に選んでくれたのは嬉しいけど、それならそれで素直に風邪引いたから顔を見に来いとでも言ってくれたらすぐに飛んでいくのに。
譲介の年上の師匠は、時々凄く頑固で、意地を張る。
部屋の時計を見た。こんな時間じゃ、と思って、駅に貼ってあったポスターを思い出した。
初詣用の特急列車。
今日で良かった。混んでいるかもしれないけれど、とりあえず駅に行くしかない。
「今から行きますから、部屋を暖かくして待っていてください。」
「譲介、」
「はい。」
「水頼む。」
「わかりました。」じゃあ、と言って電話を切る。
水、薬、お粥のパウチ。何も食べられないと言われたときのために、もしかしたら必要かもしれない果物の缶詰を、台所から探して放り込む。小さな頃に母が仕事で不在の時に付けて行ってくれた電気あんかの存在を思い出して、頭の隅にメモをする。
元旦から開いている電器屋があったはずだ。
TETSUさんちの配線を考えたら、延長コードもいるかもしれない。
ありったけのものをリュックに詰めて、脱いだばかりのコートを羽織り、タクシーに乗りたいのを堪えて駅に急ぐ。
あの人の家の近くまで連れて行ってくれる初詣用の臨時列車に譲介は滑り込んだ。
電車の中で走りたいと思ったのは何年ぶりだろう。下車した駅の近くのコンビニでマスクと枕元に置けそうなペットボトルの水と、熱源になりそうな使い捨てのカイロ、寝たまま食べられるパウチに入ったゼリーと、みかんが入った寒天のようなゼリーといったものを目についた順に、風邪が長引いても食いつないで行けるほどに買い足した。それからタクシーを拾って、やっとのことで譲介は彼の家に着いた。
そうして、普段なら音を立てないように気配を殺してそっと歩くいつもの階段を、脚を蹴立てて駆け上った。
扉の前でノックして「あけましておめでとうございます、僕です。」
合鍵を貰っているというのに、なんて間抜けな挨拶だろうと思いながら、譲介は彼の部屋の前で、背筋を伸ばして扉が開くのを待つ。
奥から物音がして、鍵が開いた。
年上の人はパジャマの上にどてらを羽織った姿で、譲介を出迎えた。
普段のVネックを止めて、登山に行くような襟元の隠れるセーターをパジャマの中に着ている。寝苦しくないのだろうか。
演技をしている間は誇らしげにそびえている肩は、今は譲介と視線を合わせるために丸くなっている。病状は思っていたほどひどくはなさそうで、胸を撫でおろしながら、これ、とビニール袋を差し出した。
その詰まった中身を見て、TETSUは悪いな、と一言告げる。
普段の彼ならそうそう口にはしない言葉に、譲介は眉を上げた。
よく見れば、顔色はそれほど悪くないけど、唇はいつもより色が悪い。
「……ハムじゃなくてすいません。」
「見りゃ分かる。」と彼は口元を緩めて少し笑った。
初笑いだ、と思ってしまえば、多少は気勢が削がれる。
「お邪魔します。」といつものように狭い玄関で対峙した横幅のある人との隙間を縫って中に入ると「おい、譲介、帰れ。仕事があんだろうが。」と慌てて彼は譲介のコートの首根っこを掴んだ。
「何言ってるんですか。じゃあって帰ったところで、今の時間じゃ電車もないし、TETSUさんがどうなったか気になって寝られないですよ。どうせ、具合が悪くなってからは何も食べてないんでしょう。」と振り返って問いかけると、彼は口を噤んだ。
今度は譲介が彼を部屋の中に引っ張り込む番だ。
隙間風が入れば暖気が逃げて、ただでさえ寒い部屋がもっと冷えてしまう。
さっさと中に入ってください、と手を引っ張ると、年上の人は渋々中に入った。
咳は止まっているようだが、風邪の諸症状があるというのにマスクもしていない。
「トローチとか風邪薬はありますか?」
「KEIに冬場に効くって押し付けられたのど飴があったけど、もう食っちまった。風邪薬は、まあ、ある分にはあるな。」
鼻を鳴らす彼のソファベッドの足元には、いつもの電気ストーブがある。
前の部屋の、焼き芋が作れる灯油ストーブが焚かれていた頃の方がずっと暖かかった、と思って、この人が風邪を引いた理由の何分の一かが自分の肩にずしりと乗って来るのを感じる。
「横になって寝ててください。」と言うと「部屋に引っ込んじまうとここまで来るのが億劫になる。」とTETSUは頭を掻いてソファベッドに寝転がってしまった。薄い一重のブランケットは、前の家からこの人が引っ越した後で、何かにかこつけて一也に半分出させてプレゼントしたものだ。
譲介はTETSUの寝室へ入る。枕元に本が積んであって、狭いベッドを取り囲んでいた。
ベッド横の収納の中に客用布団があったはずで、普段の布団は、彼がソファベッドにいる今のうちに、シーツと一緒にカバーごと替えておいた方が良い。譲介は、客用布団を入れた四角くまちのあるビニール袋を見つけた。シーツとカバーは後だな、と袋から布団を引っ張り出して、リビングに戻った。
TETSUが首元までくるまってしまうと、足先が出てしまうシングルサイズの毛布の上に、彼の部屋から持って来た客用の布団をかぶせた。
「そういやあ、おめぇこの時間にどうやって来たんだよ。」とTETSUが眉を上げた。
「初詣に、専用の列車とかあるのでそれで来ました。」
テーブルの上を見ると、風邪薬の箱と、それを飲むためのコップが置いてあった。
「こっちは停まる駅じゃねえだろ?」
普段は雑なのに、どうしてこういうときは細かいことを気にするんだろう。譲介は笑ってしまった。
「途中からはタクシーを使いました。」
いつも使っている食卓の上で買って来たものを選り分けていた譲介は、手元から顔を上げてTETSUに向かって笑いかける。
「僕も、もう二十歳を過ぎたんですから、TETSUさん、もっと頼ってください。」
譲介がそう言うと、布団を上げて口元を隠したTETSUは、まだひよっこじゃねえか、とは言わなかった。
代わりに「その粥、わざわざ買って来たのか?」と尋ねる。
「梅が入ってるのと、白粥と、卵入りです。」
コンビニで買って来たのと家から持ち出しが半分、というのは伏せて、譲介がいつもの棚からいつもの年季の入った雪平鍋を出していると「……梅の入ったやつくれ。」と声がした。
「梅干し、好きなんですか。」
「実家じゃ、いつも風邪には梅干しの粥だったからな。」
「後で買ってきます。」
「あるもんを食うからいい。」
TETSUの声を聴きながら、譲介は、雪平鍋を水で満たして、ガスレンジで暖める。
「……レンチンでいいだろ。」
「レンジより、なんとなくこっちの方が美味しいような気がして。お腹減ってたら、ゼリーもありますけど。」
譲介がパウチのゼリーと牛乳寒天のようなゼリーとみかんの入ったゼリーを出すと、いいもんあるじゃねえか、と言ってのそのそと起き出して来た。
「……TETSUさん、あの、」
「おめぇは火に掛けた鍋でも見てろ、焦がすなよ。」とそう言いながら、TETSUはのっそりとテーブルに近づいて来て譲介の持って来たゼリーや果物の缶詰を物色して、プリンねぇのかよ、と少し不満げに呟きながら、みかんの入った透明なゼリーを取り上げた。
(ふうん、こういうのよりプリンなのかこの人。)
「すいません、今はこういう果物の入ったゼリーの方が食べやすいかと思ったので。」
「覚えとけ、って言うほどでもねぇけどな。」と独り言のように、所在なさそうに呟いて、彼はスプーンを取ってから器をぺりぺりと捲った。
台所の明かりの下で見る彼の頬は少し赤い。
譲介は、見てはいけないものを見たような気持ちで、湯気の立って来た雪平鍋に視線を移す。
「TETSUさん、後で、必要だと思うものがあったら、メモに書いておいてください。」
「おう。」と返事が返って来て、咀嚼する音が聞こえて来た。
「正月、仕事あるんだろ。」
「あるけど、また来ます。僕にはTETSUさんの方が大事ですから。」
「そうかよ。」と言いながら、またぺりぺりと蓋を剥ぐ音が聞こえて来て、それから「これも食っていいか。」という遅れたお伺い。
譲介は、ふ、と笑ってしまった。
お腹が空いてるならいいか。
「また買って来ますね。」と言いながら、食器棚からいつもの飯椀を取り出す。
梅干しの赤が上になるように、そっと白いばかりの粥を入れる。
「TETSUさんが食べるとこ見てていいですか?」と聞くと、好きにしろ、と彼は言った。
お湯を沸かさないと、と頭の隅で思いながら、譲介は席に着いて、目の前の人がスプーンを動かす様子をただ眺めていた。















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