日曜の朝だった。
兄さんは学習塾の自習室、母さんは朝から何かの集いに出かけてしまった。
灯油ストーブがいつものように勤勉にしゅんしゅんと湯を沸かしている中、テレビはいつもの音楽番組を流している。
土曜のうちに宿題を済ませてしまった徹郎は、今日は何をして遊ぼうかと考えながら、バイオリン奏者とオーケストラを映すテレビ画面をぼんやりと眺めていた。
外は雪が積もっている。学校の裏山でスキーが出来るだろうか。でも、ひとりで遊んでもつまらない。徹郎の家の周りには同じくらいの年の子どもがいる家は少なく、皆、兄より年が上か、そうでなければ一年生から下の子どもたちなのだった。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を流すテレビを見ながら、正月の残りのみかんを剥いて食べる。母さんの淹れてくれた焙じ茶は暖かく、パジャマを着たままでいると、外に出るのが億劫になる。
どうしようかと思っていると、食卓で新聞を読んでいた父さんが、不意に顔を上げた。
「徹郎、後で父さんと髪切りに行くか?」
「あ、うん。」
いきなり話しかけられたのに驚いて、反射で頷いてしまった。
言われてみれば、前髪が伸びてはいるけど、そんな風に言われたのは久しぶりだ。
「父さんも、髪切るの?」
「ああ、うん。今日は顔も剃りに行こうかと思ってな。来週は第三日曜だから、床屋は休みだろう。」と頬を撫でる。
「そうなんだ。」と言うと、父さんは「これはお前にはまだ関係のない話だったな。」と言って笑った。
父さんも、徹郎の知らないうちに髪を切ってることもあるけれど、学会だなんだのと言うタイミングでいつの間にか短くなっていて、また伸びるの繰り返しだ。いつも髪は伸びたら伸びっぱなしにする方だった。
徹郎もそうだ。前髪が伸びて目に掛かるまでは、気にならない。
兄さんが、三週間に一度、かっちりと切っていくのと正反対だ。
テレビはCMに入るところだったので、席を立つのに丁度いい。
「車の暖気をしておかないとなあ。」と父さんは言うけど、行こう、と言ったところで、どうせ新聞を読み終わってからだろう。
日曜はいつも、新聞の読書欄を読んでいるからこんな風に長っ尻で、母さんが「化粧を済ませてから出るわよ。」と言うのと同じで、すぐには動かないのは分かっていた。
徹郎は、その間に着替えておこう、と思って、茶碗に残っていた焙じ茶を飲み干す。喉を通る焙じ茶は、冷たいのと温いのの間くらいの温度になっている。
薬缶のお湯を足しておけば良かった。
冬の飲み物はすぐに冷めてしまう。
「徹郎、着替えに行くなら、ついでに車の窓に雪が積もってるか見て来てくれないか。」
「うん。」と返事をした。スリッパを履いても、冬の廊下は寒い。
部屋は寒いから、ストーブの付いた風呂の脱衣所に着替えを持って行こう、と徹郎は思う。


外はすっかり雪が積もっていた。
車庫に降りていく階段の一部が、すっかりつるつるになっていて、マフラーをぐるぐるに巻いた徹郎は、雪が数センチ積もる場所に足を置くようにして、えっちらおっちらと階段を降りる。
父さんは、暖気した車の中で徹郎を待っていた。いつものように後部座席のドアを開けた徹郎は、後ろの窓を拭いたら、前に来なさい、と言われて助手席に座らされた。
徹郎はダッシュボードにあるタオルを取って、去年と同じように結露で曇ったままの窓を、腕を伸ばしてゴシゴシと拭いた。窓を拭くのは子どもの仕事だ。
「雪が溶けて水になっても、なかなか春にはならないな。もう少し氷が溶けるまで待てば良かった。」
金曜日に降った雪が、行き交う車の重みで押されてカチコチになって、その上に積もった雪がちょっと溶けると朝の放射冷却で凍ってしまう、と父さんが言う。
理科の話だ。
徹郎はどちらかと言えば国語と算数の方が好きだった、説明されても話の半分しか分からない。
エンジンとエアコンとを付けっ放しにしておいた車の中は少し暖かくなっているけれど、膝から下が寒かった。
「なんで今日は車なの?」
徹郎が兄さんと一緒に通っているいつもの床屋は、このまま小学校の方に向かって道なりに歩いて行けばいい。近所の家と家の隙間にある道を選べば、ここから十五分も掛からない場所にあった。
「徹郎が使ういつもの道が雪で埋まってるかもしれないだろう。」
「長靴で行けるよ。」
「もしかしたら、今日みたいな日は、雪を捨ててしまうのにいつもの道のどぶ板が外されているかもしれないぞ。父さんは転びたくないな。」
「大丈夫なのに。」
徹郎は、帰り道に随分同じ道を通っている。歩道は、それほど圧雪されてないところの方が多いので、誰かが長靴を入れた跡をそのまま歩けばなんとかなる。
「今日は、徹郎の長靴より高く積もってるところもあるだろう。靴の中に雪が入ると、帰りが大変だぞ。」
父さんにそう言われて、徹郎は考え直した。靴の中に雪が入るのは確かに嫌だった。後でストーブの前で乾かしておく必要があるからだ。
「それに……いや、まあいい。父さんがこういう日に運転を練習しておきたいんだ。これから二月になれば、こういう道の日が増えるだろう。休みの間に慣らし運転をしておかないと。徹郎、付き合ってくれ。」
助手席に乗せるなら、武志よりお前の方が気が楽だ、と父さんは言った。
「うーん、じゃあ分かった。」
大人も練習が必要なのか。
大人になれば、何もかも分かっているのかと思っていたけれど、そうではないらしい。


こういう道を、アイスバーンというのだと父さんは言った。
「だから、別段父さんの運転が下手ってわけじゃないぞ。」
融雪装置の付いてない県道に入ると、途端に車がガタつき出した。
父さんの車は横幅があって、徹郎が使ういつもの近道では、車体が入らないのだ。
路面の凹凸に合わせて、ガタガタと車が揺れる。
その上、道路は酷く混んでいて、全然前に進まない。
横の歩道を歩く人に追い越されるほどだ。それでも、父の車は、徹郎からすれば、離れすぎじゃないか、と思うほどの車間距離を保っている。
空は曇っていて雪は降っていないから、歩きなら手ぶらで行けたはずだ。
「歩いて行こうって言ったのに。」と徹郎がぼやくと、「すぐに大丈夫になるから、もう少しの辛抱だ。」と、父さんが言った。
不意に、車がガタガタ言うのがおさまった。
「あ、直った。」と徹郎が言うのに合わせて、運転席から、ふう、というため息が聞こえた。
「……こういう日には、轍の上を行くといいんだ。」
「わだち。」
「道に残った前の人のタイヤの跡。先を行く人が作った道、のことだ。轍の上に乗ると、車はちゃんと進む。今日みたいな日は、道路がスケートリンクみたいに凍っていて、つるつるとタイヤが滑ってしまうから、シフトレバーはこうやって、ドライブに入れない。足元のブレーキも踏まずに、エンジンブレーキを使うんだ。そうすれば、前の車とぶつからない。」
そう言って、父は前を真っ直ぐに見ながら、がちゃがちゃと車のレバーを操作した。
種明かしをされて、なあんだ、と思う。徹郎が雪道を歩くときも、似たようなことをしている。先に道を通った誰かの足跡の上を歩けば、長靴に雪が入ることはあるけれど、少なくとも転ばずに済む。
「ほらな。こうすればガタつかないだろう。」
「うん。」と素直に、まるで五歳の子どもみたいな返事をして、徹郎はしまったと思う。
兄さんのようにニヤニヤされないだろうか、と思って、ぱっと隣を見る。
「もう、大丈夫だ。」
父さんは車の前も見ずに、徹郎を見て笑っていた。
得意げな顔をしている父さんは子どもみたいだ。
「……揺れてる方が、乗ってると面白いよ。」と徹郎は反論する。
「そうかな。前を行く車があまりガタついていると、後の車が困るだろう。もしかしたら、前の車がスリップするかも、と思うと、後の渋滞がひどくなる。」
「……。」
そうかもしれない、と思ったけれど、徹郎は口をつぐんだ。
兄さんの口調を真似て、そうかもな、と父さんに言うのも、また癪だった。
「そのために、轍を走るんだ。」
どの車も、そうする。
小声で言った父さんの言葉は、まるで独りごとのようだった。
雪はずっと止んでいたのに、床屋に着く前に、また斜めに降り始めた。きっと、明日になるまでにたくさん積もるだろうと思わせる雪だ。
午後からはまた寒くなるぞ、と父さんは言った。





冬の日。
小さな骨壺になった父を抱いて、母が背中を丸めて泣いている。
スーツの上に、まるでインバネスのような黒のコートを羽織った兄は、そんな母に声も掛けずに、煙草を吸っていた。
煙草を吸うところを初めて見たわけでもないけれど、手袋を填めたままで器用に火を付けるところを見ると、大学に入って相当吸っているなと徹郎は思う。
外は寒い。
この寒さでは、制服の中に着込んだセーターも、さして役には立たない。コートを着て来れば良かったかと思うが、後の祭りだ。

父の墓をどこに作ろうという話になって、母の血縁の檀家のある寺を頼ることにした。
家族だけで行う納骨で、葬儀も、初七日も、四十九日もない。
集まる親族も、経を上げる人間を寄越してくれる寺もなく、墓を建てる目途が立ったところで、亡くなった日から三月が立っていた。
雪がちらつく中、家族三人で、家からタクシーに乗って移動した。
運転手を待たせているので、早く戻る必要があるが、事前の話がうまく行ってなかったのか、坊主はまだ準備をしているという。
折り畳みの蝙蝠を差す兄のどこまでも伸びた長い襟足を見て、徹郎はふと、父親と散髪に行った幼い日のことを思い出した。
父の車の助手席に、自分がいた遠い日。

――轍の上を行くんだ。前を行く車があまりガタついていると、後の車が困るだろう。

どの車も、轍を行くと、言っていたじゃないか。
後を行く車が困らないように、って。
「嘘つき。」
「………何か言ったか?」と兄が振り向く。自分に言われたとでも思ったのだろうか。
「何も。」
雪が降っている。
頭と肩に雪が積もりゆくままの母を見かねて、兄が、そっと蝙蝠を差し掛ける光景を徹郎は見つめた。
あの日も寒い日だった。
雪が溶けて水になっても、まだ春にはならないと父は言った。
今日の雪もきっと、このまま降り続いて、道を覆う氷になるのだろう。
徹郎は天を見上げた。
吐く息が、煙草の煙のように、白く空に昇っていく。

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