プレイス・ユア・ベット - ヒッP

 運命と名付くものではないとわかっていた。
 それでも、その声に呼ばれるための名前だったとさえ思う。



 装飾か絵か、とにかく豪奢すぎる天井からぶら下がったシャンデリアはいやに光が鋭く、ピッコロは目を眇めて手元のカフスボタンを繰った。糊が効いて固さの残るシャツの袖はうまくかみ合わず、しばし苦心してようやく左の袖の形が定まる。さてもう片方、と傍らのサイドテーブル──これまた真鍮の脚に磨き上げられたオークへ彫刻された硝子がはめ込まれた、むだに豪奢な調度品──に置いたボタンを探って、ピッコロははたと顔を上げた。シャワーの水気を拭いきらずに立つヒットの手に、それはあった。
「床が濡れる」
「掃除するのはお前じゃないだろう」
 湿り気の残った手がピッコロの右手を取り、手首を握りこむようにして白い袖を絞る。柔らかい拘束に、ピッコロはぎくりと肩を強張らせた。動揺を気取られまいと努めて平静を装ったが、ヒットはさして気づいた様子もなく慣れた手つきでボタンを穴に挿しかけている。日頃身につけている重たい装甲のような服を脱ぎ去り、ホテルのロゴであろう金糸の刺繍が入った大判のタオルを腰に巻いただけのヒットはどこか無防備にも見え、ピッコロは視界に入るやわらかな腰巻だとか露わになった腹の筋に流れるしずくだとかにうろうろと視線をさ迷わせた。
「できたぞ」
 解放された手を救い、ピッコロは小さく息を逃した。ヒットの手によって呆気なく留められたそれは控えめな暗い赤の飾り石で、装いにさほど頓着しないピッコロの目にも品のある風情に惹かれるものがある。だがやはり固い袖や詰まる襟には慣れない息苦しさもあり、ピッコロは気づけば喉元に空間を作ろうと首を伸ばし袖を引いていた。それを見たヒットがふ、と息だけで笑うのが耳に触れるので、ピッコロはきまり悪さにまた身動ぎが止められないでいる。
「窒息するなら倒れる前に言え」
「慣れないだけだ、窒息なぞするか」
「冗談のわからんやつだ」
 ヒットは濡れた裸足のまま床一面に敷かれたカーペットの上を足音もなく移動し、サイドテーブルとにた拵えのワードローブをさっと開いた。中から引き出した上下ひと揃えのスーツは、ピッコロへと用意したのと同じ潜入のための衣装なのだろう。慣れた手つきで衣装袋を裂くヒットを眺め、ピッコロは今度は大きくはっきりとため息をついた。
 なぜこんな、知らぬ星で知らない一流(らしい)ホテルに留まり、別の宇宙の暗殺者と慣れぬ装いをすることになったのか。

「裏……カジノ?」
「違法な賭博場だ。俺の真の目的はカジノではなく、その裏で行われている取引のパーティだがな」
「裏の裏……ややこしいな」
 宇宙を超えて訪れた最強の暗殺者、その来訪の目的をピッコロは混乱しながら聞き出し、さらに混乱を深めた。
 第六宇宙のヒットが次元か宇宙か、とにかくいろんなものを越えて第七宇宙へ来着したことを、破壊の神に仕える天使は目ざとく捕らえた。しかし気ままで退屈嫌いな神の気が乗らないとなるや、動けぬ──あるいは動きたくない自分に代わる遣いを速やかに送りだすことにしたらしい。その白羽の矢を受けたのが、ピッコロだった。ピッコロは畏敬すべき破壊神からの突然の用命に混乱のうちに地球の外へと導きだされ、言われるがままに訪れた先で見知った顔を有無を言わせずひっ捕まえると、その目的を聴きだすことにしたのだった。
「悪事というのは人目を避けて入り口が複雑になってるものだ。だから手がつけづらい……ターゲットの控える位置が定まりきってない以上、片づけるには少々手間がかかるだろうな」
 "知り合い"とはいえ相手はプロの仕事人、外野の人間に話せるのには限度があるだろう───そう思っていたピッコロに反し、ヒットは何ということもなく今回の仕事のすべてを話した。ピッコロであれば問題ないと判断したのか、そもそも知られることできたす支障はないという自信からなのか、ピッコロには判別がつかなかった。一方で、暗殺者のいう「片づけ」が何事を指すのか、もはや知らないではなかった。たとえ見知らぬ星の見知らぬ悪人だとしても、懲悪の結末が殺しだとわかっていて見過ごせるほどピッコロの魔族の血は濃くない。
「穏便に済ます方法はないのか」
「考えたことはなかったが、考えてみれば、あるかもな」
 デキャンタから注がれる琥珀色が、つるりとグラスの底面をなぞり球状に削りあげられた氷を浮かび上がらせる。
「俺もつき合おう。手伝ってやるから、荒事は避けてくれ」
「……善処しよう」なみなみと注がれたそれを一息に飲み干し、ヒットは次いで口を開いた。「まずは服だな」
「服?」
「穏便に済ましたいんだろう」
 首を傾げたピッコロに、ヒットが口端だけで笑いかける。その笑みが含むものの色に、ピッコロはそこでようやく「提案を間違えたかもしれない」と首の後ろを寒くさせたのだった。
 実際、ピッコロの目指すところはヒットの【殺し】を別の手段にすり替えることでしかなかった。たとえばターゲットにどう接近するか、ターゲットの潜む位置をどう探るかなどは思考の外にあったことで、「パーティー会場に押し入り、無害なものは退避させ、害あるものは打ち倒す」それで済むことだと思い込んでいたのだ。
 壁の一面をジャケット、また別の壁にはスラックス、シャツが並んだホテルのテーラーでヒットはピッコロの言葉を鼻で笑った。するりとマネキンから紫紺染めに似た風合いのスカーフを手に取る。
「逃げられたら元も子もないだろう」
「それはそうだが、お前の実力ならそう難しいことでもないはずだろう。相手はそんな強者なのか」
 そう広くはない部屋の中央、一人がけのソファに腰かけたピッコロをヒットが視線の端で見る。妙な間を置いて、スカーフは呆気なく落選したらしい──床にひらひらと落とされて、ピッコロがそれを指先でマネキンへと返却してやった。
「……取るに足らん、拳の握り方も知らない金持ちだ」
「なら」
「郷に入っては郷に従えだ。少なくとも殺しが合法の土地でもないなら、それ以外のルールは守っておくに越したことはない。よけいな恨みも買いかねんからな」
「……賭け事などわからんぞ、俺は」
「手伝いを申し出たのは誰だ」
 呆れの溜息がピッコロの胸を容赦なく突き、腰かけたビロード地の背もたれが呻きの代わりに柔らかく軋む音を立てた。



 白くなめらかな綿織のシャツに、控えめな飾り釦のベストは宵闇を思わせる暗い濃紺で、同じ色のスラックスはやや細身の作りのせいかこれもまたピッコロをどこか居心地悪くさせている。ハンガーにかけられたままのジャケットだけは、一見ベストに似た暗く深い黒だが、シャンデリアの光に当たったところが紫を湛える紫黒色のベルベットで仕立てられていた。
 分不相応だ。ピッコロはトランプを手に、艶の抑えた白いシルクのネクタイの中央、両袖と同じ輝きを持つ石を見下ろした。
 上等の仕立てのスーツも、一流の空間も、極上の拵えの調度品たちも。何もかもがピッコロのこれまでの世界にはなかったもので、特にこんな実用性や耐久性に欠く、それゆえ一目で価値がわかるようなものたちは触れられる範囲にすらなかった。
 袖に留まった赤が、ピッコロの動きに合わせて面が白く光る。一点、石の中央に色が重なり、どこからも光の射さない暗い底が伺い見える。どこかで見た、昏い赤の底面がピッコロを見つめ返している。
「”ヒット”」
 指先でテーブルをノックする音が響き、ピッコロは顔を上げた。深緋の視線がピッコロを見つめ返した。さぞ怪訝な貌をしていたのだろう、ヒットはテーブルを叩いた指でトランプの山札を指し、「カードの追加だ」と続けた。
「手札が21に遠いのなら、カードを追加することができる」
 言われて、ピッコロは改めて自分の手にある二枚のカードを見た。二つの赤いマークと、九つの黒いマークが紙面に散っている。すでに二度目のベットで、ピッコロはカードを配る前にヒットが説明したルールを頭の中でなぞらえた。そして一度目に自分が引きヒットが明かしたカードと、ディーラー役のデキャンタの前に並んだカードを思い出そうとして、やめた。
「………聞くが、本当に必要か? これは」
「必要か不要かでいえば、必要だな。俺が楽しい」
「なんだと?」
 ピッコロの追及に、ヒットはグラスを傾け応えることはしなかった。かわりに、ピッコロがテーブルをノックすれば、山から崩された一枚のカードが手元へと滑りこんでくる。
「だいたい、カジノというのには制服姿の従業員がいるんだろう。そちらの方が目立たないんじゃないか」
「ずいぶんいまさらだな。まあ、制服というならあるにはある」
「あるのか?」
 ピッコロは声を裏返して言った。ほとんど叫ぶようなそれに、ヒットは常と変わらず顔色のひとつも変えずに頷いている。
「お前用に仕立ててあるし、そこにかかってる」
 チップに見立てたナッツの殻を半分に割り、半分を口へと運ぶ。もったいぶった仕草にピッコロはじわじわと腹の底から湧くいら立ちを感じながらヒットを待った。節立った親指が背を指すように向けられて、ピッコロはすばやく立ち上がりそちらを確認すると先ほどヒットがシャワーを浴びたバスルームの、やけに重たい戸の内側にそれはかかっていた。よく言えばシンプル、今身につけているものと比較していえば簡素な白黒の上下が透明な衣装袋に収まって吊る下がっている。
「わざわざこれに着替える必要はなかったんじゃないか」
 からかわれていたのだろう。憤慨するピッコロの胸中は煮えた恥じらいで熱くなっていた。ベストを脱ぎ捨て、ネクタイをちぎるようにして抜き取った。袖に手を掛けたところで胸元からはじけ飛んだ赤い石がピッコロのつま先を小突き、不意にそれに目を奪われて動きを止める。
「───言っただろう、俺が楽しい」
 ああ、この声に色があるなら、たしかにこの石の色だ。認識の間を縫ってピッコロへと詰め寄ったヒットは瞬く間に腕を取り上げ壁へとピッコロを押しやった。天井まである鏡面がミシ、と悲鳴を上げてたわみ、ピッコロは息を飲んだ。
 手首を拘束する手が、今度は肌を掴んでいる。覚えのある温度が触れたところから滲み、意識になじんでくるようだった。記憶の端に溶け込む、硬質で、たしかに脈打つ体温。鼓膜に触れる低音がさらに低く呻くのをピッコロは知っていた。テーブルを叩くより柔く、強かにピッコロを打ちのめした指がピッコロの首筋をひと撫でし、シャツへと手を掛ける。
「っおい! これから仕事だというのはお前だろう。よくそんな気になれる」
「そういう仕事柄だ。それに」
 拘束を解いた手がピッコロの触覚を頭の後ろに撫でつけるようにして額を撫で、さらに詰まった距離で呼吸が交わされる。殴りつけた肩への衝撃をものともせず、ヒットは手元に一瞥もくれることなく前を開いてピッコロの腹に触れた。スラックスから引き出された裾が腰を擦りあげ、ぞく、とわななきに似た震えがピッコロを襲う。むき出しになった背中には温度のない鏡面が張りつき、上がる体温を知らしめるかのように曇りがピッコロの身体を縁取った。
「今夜は殺さなくて済みそうなんでな……よけいにお前を抱きたい」
 呼気が唇に触れて、吐く息はほとんど吸われ、吸う息はほとんどヒットのぬくもりだった。波が揺蕩うように鼻先が鼻筋を往来し、意図を持って背をなぞる指に喉までが震えだしそうで、ピッコロは一度唇を噛んで努めて低く言葉をつづけた。
「理屈が通ってない」
「すまん、通す気がなかった」
 芯を狙った拳はたやすく止められ、再び鏡へと縫い付けられた。琥珀色の香りが鼻先をかすめ、息を飲む。触れた唇を懐かしむよりさきに、ぬるい酒精が舌を蹂躙した。酔いを粘膜から直接注がれていくようなそれに、ぐら、と眩暈がピッコロの理性を蝕んだ。その一瞬に緩んだ緊張が、あ、と甘く揺れる呼吸を漏らす。
「久しぶりだな、ピッコロ」
「…………挨拶にしては遅すぎる」
 怒りもいら立ちも、恥もためらいも、直にあてられた情欲のかがり火に溶けていく。どろりと何かが崩れる音を、ピッコロは頭の隅で聞いた。
「挨拶する間も与えなかったのはお前の方だ」
「宇宙の存亡を危ぶむのは懲り懲りなんだ」
「そんな大事じゃあない、お前は真面目過ぎる」
 荒ぐ息を抑えようとしてか、広く広い二人だけの一室で、どちらもが秘密を打ち明けるように囁き合った。添わされた腰に、脚の間に纏わされた脚に、ピッコロはまるで鏡に杭打たれた聖人のように全身を縫い留められていた。ヒットが何事か打ち明けようと顔を離すと、動かせない腕をそのままに首を伸ばして離れゆく温度に縋った。
「ピッコロ、俺の名を呼んでくれ」
 息継ぎのあいだに、ヒットがそう呟いた。焦点のあわないほどの距離に表情は伺い知れず、しかしどこかに頼りなさを覚える声色で。
 シャワーから垂れる水音、ウィスキーに氷が解ける音、何度となく踏みしめた大理石に踵がぶつかる音。衣擦れに、手指が肌を掻く音、熱を交わす呻き、興奮が息を弾ませて満ちる空間で、ピッコロは聡い耳を澄まし、自分の昂る心臓が喚く外側を聴こうとした。
「……ヒット」
 言って、ピッコロはその耳に、歓喜がヒットの血脈を流れるのを聞いた。
「ヒット」
 腕が押さえつけられていたのは幸運だった。もし動けばきっと、不覚にもその背に絡めていただろうから。




@__graydawn

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