喧嘩と仲直り
線路沿いに建つアパートの部屋は、勉強には向かない。
ガタゴトガタゴト、とほとんど五分、十分ごとに通り過ぎる電車の音を聞いていると、眠気が勝って来る。やっぱり教室でぎりぎりまで終わらせて来た方が良かったかな、と思いながら、算数のドリルの、最後の問題を解いた。
本日の宿題は、これにて終了。
「終わった!」とシャープペンシルを手から離し、苦行から解放された両手を天井に向けて伸ばした。
「宿題、他の教科も全部済ませたか?」
勢い良く「うん!」と頷くと、その人は、お利口さんやな、と言って僕の頭を撫でた。
大きな座布団の上に正座して、落語の稽古をしながら時折勉強を見ていてくれた人は、今日はピンクのシャツにサスペンダーという出で立ちだった。
そんな恰好をしていると、チャップリンみたいだ、と僕は思う。
「今日も楽しいところに連れてったるで。」
「やった!」
教科書の音読はまだ残っているけど、それは明日「お父ちゃん」に署名を貰うだけにするつもりだった。
どうせ声に出すなら、寿限無や円周率をそらんじる方がずっと面白い。
それに、ずっと地方公演が続いていたせいで、朝が早く帰りが遅かったのもあって、今日がほとんど五日ぶりのデートだ。
はよ行こう、とこの春に買ってもらったばかりの新緑の色をしたパーカーを羽織ると、隣の部屋に住む人は「先に机の上ちゃんと片さんとお父ちゃんに怒られるで。」と呆れた声で言った。机の上なんて後でいいやろ、と言いたいのはやまやまだけど、ちゃぶ台を食卓と兼用していることもあって、このままにしておくと一足先に戻って来るかもしれない父が、後で不機嫌になるのは目に見えている。
僕は慌てて筆記用具を筆箱に仕舞いつけ、残りの教科書とかノート、ドリルなどの紙物の学用品をランドセルにどさどさと放り込んだ。
仕舞うのは明日の教科にせんと後で困るでぇ、と呆れた声が聞こえて来るけど、後でやるつもり、と聞こえなかったふりをする。
振り返ると、彼はいつものペラペラの黒い春コートを羽織って支度を済ませていた。
「今日は、僕が草若ちゃんのことエスコートするからな!」
「暫く会わんうちに、こまっしゃくたれたもんや。」と笑いながら、暖かい手が僕の髪をくしゃりとかき回す。
右も左も分からない、新しい環境に放り込まれたばかりで緊張していたはずなのに、この人の隣にいると、僕はいつも、ふわふわした気持ちになった。
それが、期待と名の付けられる気持ちだったのだろうかと思ったのは、ずっと後になって分かったことだ。
四代目、徒然亭草若。
父親としては新米も新米である僕の父と一緒になって子育てをしてくれたのが、父の隣の部屋に住むこの人である。
朝に弱く気分にむらのある父は、顔を合わせたばかりの初日の優しさはどこへやら、僕が朝寝坊をすると、起きろ、と頬を軽く叩き、食事を作れば、食べなさい、と言い、その間、一切表情が動かない。
「こいつ、朝はえらい低血圧なんや。」そんな風に隣でフォローを入れてくれる人がいなければ、僕は早晩、母を探してこの部屋を出て行ってしまっていただろう。
「おい、四草、相手まだ子どもやねんぞ。ちっとは愛想良くせんかい!」
ちゃぶ台の隣に座る父の頭を、まるでかるた大会の選手のように鋭く叩く手は「朝早うに起きて感心やな。いっぱい食べえ。」という言葉と共に、僕の頭をくしゃくしゃと撫でる。
隣の父は不機嫌そうな目で隣の人をじっと見つめて「僕の金ですよ。」と言うので「子どもの前で金の話をすな。今日から草若兄さんが半分入れたるわい。」とまたしても叩かれていた。
目の前で繰り広げられるそのクイズの早押し大会のような光景に、僕が箸も動かさずに目を白黒させていると「さっさと食べんと、学校に遅刻するで。」と、父がようやくまともなことを言ったので、慌ててご飯をかき込むことになったのもしばしばだった。
父の単なる無表情と、ふてくされた顔との違いを直ぐに見抜けるようになったのは、『草若兄さん』のおかげだ。
そうして、僕が、父に引き取られて直ぐに、こんな風に学校の勉強に精を出すようになったのも同じ理由だった。
学校に通ってはいたけれど、ずっと好きになれない場所だった。
僕が居るべき場所とは思えなかったからだ。
頭の中に単語を暗記して紙の上に吐き出すためだけの授業は、ずっとつまらないと思っていたし、国語は、教師の言うことが、ときどきあまりにも理解できなかった。他人の考え、それも他人が頭の中で作った人間の考えなんて、誰が分かるというのだろう。
それから、給食。
パンかご飯と、ちょっとの副菜があるかなきかの粗末な食事は、ときどき、バランしか緑のものがないことがあり、野菜が少なく味は薄くて食べられたものじゃなかった。残したら、居残りをさせられるので飲み物で流し込むしかないけれど、それすらも、食事に付いてくる牛乳しか許されていない。
片親の子と言われて、せっかく作れたと思った友達もすぐに離れて行ってしまう。離婚した家の子は、同じ片親の境遇であるはずなのに、なぜか僕のことを目の敵にしようとした。
小三の頃にやっと出来た友人が親の転勤で引っ越して行ってしまってから、毎日登校して楽しいことは、ほとんどひとつもなかった。
父に引き取られてからというもの、そうした日々が百八十度変わってしまった。
その日に学校で出た宿題を、夕食前にきちんと終わらせることが出来れば、小さな楽しみが僕を待っていた。
そんなら、行くか、と背の高い人に手を引かれて向かう先は、いつも決まっていたけれど。
行き先は、大きな箸が屋根に掛かった、妙な建物だ。
そこは、父が僕と顔合わせした次の日に「いつもはここで仕事してるから、何かあったら裏口から入って来なさい。」としゃちほこばって説明したのと、そっくり同じ場所だった。
「日暮亭や、底抜けに立派な建物やろ?」
初めて顔を合わせたその次の日、建物の小さな入口の前に立って「草若兄さん」はそんな風に言った。
建屋の正面にある大きなお箸に向かって、今日もよろしゅうお願いします、と礼をしているその人の姿に、僕は目を丸くした。
「あれって、もしかして、お箸?」
「そうや。由来は長くなるから、また別の日に教えたるわ。」と得意げに言って、四代目草若の顔でニッと笑った。その頃には、僕はこの人に多大な恩義と好意を感じていたので、特に聞きたくないです、とは言い出せなかった。
「お前のお父ちゃんも、ここで仕事しとるんやで。」
お父ちゃん、という言葉のニュアンスから連想される姿とは百八十度違う、切れ長の鋭い目をした僕の父のことを、父の周りの人たちは「倉沢忍」という本名でなく、徒然亭四草という奇妙な芸名で呼ぶ。
草原師匠、草々師匠、日暮亭の若狭姉さん、一門以外の落語のお師匠さんと、お囃子さんとか、日暮亭の関係者の皆。
皆にとって、父とは、噺家の徒然亭四草であり、当たり前のことながら、彼らにとって、僕の父親である割合は1パーセントもなかった。
隣に住むこの人にとっては、父はどんな人間に見えているのだろうか。
僕から見えてる父と、この人が知る父は、もしかしてまったく別の人間だろうか。
もし僕が、この人のように「お父ちゃん」と呼べば、父は僕にも、あの透明な、ちょっと冷たい壁を取り払ってくれるのだろうか。
僕は、あの日初めて、人と人の関わりについての複雑さ、人が、相手によって見せる顔の違いについてを考え始めたのだった。
「袖から勉強さしてもらうで。」と、四代目草若が関係者通路に入ろうとすると、この間までの人とは違う、もぎりの事務員が顔を上げて「師匠はいいですけど、その子は客席に置いてってください。」と言った。
「こいつは例の四草んとこの子や。今はオレが預かっとる。」
「もう分別のつく年でしょう。」と食い下がる相手に「そんならオレも客席行くわ。」と草若ちゃんは言った。そうして尻ポケットから長財布を出すと「いえいえ、草若師匠からお金を取るなんて滅相もない!」と言って頑固そうな顔つきだった事務員さんは相好を崩し、慌てて財布を押し戻している。
なんとか、次の噺が始まる前に、舞台袖と言われる場所からの眺めを確保できた。
嵌めものを演奏する皆さんもスタンバイ状態の中で、ちりとてちんの音が聞こえて来る。
「草若ちゃん、今日の最後の番組に掛かる話、なんやったか覚えてる?」
「さあなあ。」
「ヒントは仲直り。」
「……うーん、盗人の仲裁か?」
「ブッブー! 胴乱の幸助です。」
「懐かしいな、オヤジも時々掛けてたわ。」
「オヤジって、もしかして草若ちゃんが草若になる前の草若師匠?」
徒然亭には、今でもモノクロの写真が飾ってある。
草若ちゃんがこの人の血を引いているとは信じられないくらいの渋いおじいちゃんだ。
「そうや。」
「草若ちゃんも胴乱の幸助やれる?」
「うーん、やってやれへんことはないと思うけど、今直ぐには無理やな、草原兄さんに暫くお稽古付けてもわんと。」
「そっかぁ。……草若ちゃんも、お父ちゃんと何があったのか知らんけど、早く仲直りしてな。」
「!?」
あれ、喧嘩とちゃうかったんやろうか。
「草若ちゃんのとこにお稽古しに行かんから、てっきり喧嘩でもしたのかと思って。」
ご飯はうちに食べに来るけど、母さんと僕も、喧嘩してても食事だけは一緒にしていた。ここ何日間かは、ふたりもそういう雰囲気だったのだ。
「この間からふたり、あんましゃべらんやん。草若ちゃんの声、いつもより掠れてるし、声出んからしゃべりたくないのかとも思ってたけど、なんや長引いとるし、僕、ちょっと気になってたんやけど。」
当座の懸念を伝えると「……後でちゃんと仲直りしておくから、安心せえ。」という低い声が聞こえると同時に、ドン、ドン、と大きな一番太鼓が聞こえて来た。
僕は慌てて口にチャックをして、スポットライトの当たる高座を見つめた。
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