ウイスキー



「どうか今後とも財団へのご支援をお願いします。寄付をしてくださる皆様へ幸いのあらんことを。」
クエイド財団のトップである朝倉雄吾氏のスピーチが締めくくられると、前方の席でかぶりつきで見ることになった譲介の隣の席からは、一際大きな拍手の音が聞こえて来た。
ブラックのフォーマルスーツに蝶ネクタイといういでたちの朝倉先生は、いつもと変わらない穏やかな顔をしている。仕立ての良いスーツとシャツを鎧に例える人間もいるけれど、彼を見ていると確かにそうだと思う。
ほんの一時間前、このパーティのさなかに彼がどんな言葉を浴びせられたか、その後で冷静な彼が何と言い返したのかを知っているのは、譲介と、その場にいた数人だけだ。片手にしたマティーニグラスを床にぶちまけ、彼に食ってかかった男は、クエイドのパーティーには相応しくない振舞をしたということでホテルの従業員に退席させられてしまったので、今この場にはいない。腰に銃を帯びたセキュリティふたりに取り押さえられて連れて行かれた。
ざわめく周囲に笑顔を向け、いつもの話術で事態の収拾を図った朝倉先生は、スピーチの前で席に着くと、今のハプニングで我がクエイドは今期の百万ドルを失ったな、と冗談交じりの口調で譲介に笑いかけた。
相手が、一時の怒りに流されて寄付という名分を忘れてしまう人間だともし事前に知っていたなら、あの時、もっと適切な言葉を選ぶことが出来たのだろうか。胸の中で自省していると、彼は、パーティーがつつがなく終えられるよう段取りを考えるのは、私たちの仕事の部分だから、君は、迷わなくていい、と言った。
私たちはクエイドだ、また新しい寄付者が現れるさ、と鷹揚に言って、彼はミネラルウォーターを飲んだ。
彼の人生には、見知らぬ他人の評価を気にしてパーティーのタダ酒に酔い潰れてしまうよりずっと大事なことがあるのだ。
朝倉省吾という人は、そういうところだけは、譲介を育てた人たちと似ていた。
胃を患っているというのに、四六時中コーヒー漬けだったあの人と、普段から殆ど酒を口にせず、村の酒豪たちからは、何を楽しみに生きているのだろうと言われていた先生と。
そして今は、晴れがましい顔というよりは、芝居がかったような熱狂的な拍手で、父親のスピーチを讃えている。ランチミーティングの時でも、財団の病院経営などの話になると、白熱した場を納めるため、先生はこうした形で、医師、朝倉省吾とは違うペルソナを見せることがある。僕は医者としての朝倉先生の方が好きだな、と思いながら、譲介は尊敬する師を真似て、壇上でライトを浴びる彼の父親に拍手を送った。



スピーチを終えて直ぐに退場した雄吾氏の代わりに、朝倉先生は会場に留まり、幾人かの主要な来場者に挨拶をしていた。
「……待たせたね。」と彼が言った時、片付けが始まっているフロアの隅でメールをチェックしていた譲介は、先生もお疲れ様です、と言って頭を下げた。
譲介が彼とクエイドへ戻るのは、明日早い便のフライトだ。ホテルから出て譲介が宿泊することが出来るランクのホテルまで移動して、次の朝はまたホテルから空港への移動と考えると、寝られるのはほとんど仮眠と言えるくらいの時間しかない。
結局、譲介は、パーティーの後は少し付き合ってくれないか、次の手術の術式の相談もある、と言う師匠の口八丁に乗ってしまい、先生の部屋に間借りするのはこれが初めてのことでもないか、と彼の好意に甘えることになった。
「それにしても、私はこれまで、ああいう『自分の話を聞かせたい』タイプの人間がこうしたパーティーで気持ちよく過ごせるように腐心してきたんだけど、今夜は君のせいで台無しだ。まあ、かなりスカッとしたけどね。」
「申し訳ありません。」と譲介が謝ると、彼は、この話は終わりとでもいう様に手を振って「君が腹を立ててくれたこと、私は嬉しかったよ。」と言って笑った。
「それにしても、譲介君、こういうパーティーは本当に初めてなのか? 予想したよりはずっと堂に入った態度だったから驚いたよ。」
「僕が平気に見えたとしたら、それはきっと高校時代に僕を引き取ってくれていた人のおかげです。」
譲介がそう言うと、朝倉先生はふむ、と眉を上げた。
「次からまたこういう機会に付いて来てくれるか? 今回は散々だったけど、支援者の中には忙しい人たちもいる。毎回同じ人間が来る訳じゃない。回数を重ねれば、もっとマシな人間と引き合わせる機会もあるはずだ。」
「ええ、お願いします。」
「さて、馬鹿の相手も終わったし、今日はふたりで飲み明かすぞ!」と言って、朝倉先生は譲介の肩を組んだ。
「は?」と譲介が三番目の師匠の顔を見ると、悪びれない顔で「今日はバーカウンターのある部屋を取ったから、譲介君も一緒に楽しもう。」とまるでディズニーランドに行く子どものようなテンションになっている。
そういえば、押しなべて堅実で真面目な人間の多いクエイド大学でも二徹以降の人間が峠を越えると、大体こんな感じだったな、と譲介の冷静な部分は分析している。それはそれとして、今夜はもうまともな話が出来ないというなら、朝倉先生がベッドで寝ることを見届けた後は夜のフライトで戻ろうか、と左手首の時計を確認した譲介に「今からのフライトはまず無理だよ。」と最終通告のようにして彼は言った。
最終便が出てしまった時間で、今から足掻いても後の祭りだ。
「さて、君には今日はとことん付き合ってもらうよ。第一、よそ行きの顔をした親父を褒めたたえるだけの、クソみたいなパーティーの後で飲まないでいられるとでも? いくら私が我慢強くても無理だよ。まあ、飲酒は強要しないけど。物は試しと言うだろう。高い酒がどんな味のするものなのか、味見でもしたらいい。」と満面の笑みを浮かべている。
「……確信犯っスか。」
「まあ、半分はそう。」と言って、彼は譲介と肩を組んだまま力を抜いた。
「眠いなら、正直にそう言ってくださればいいのに。」と譲介は言う。さっきまで水を飲んでいたのは、それが理由だったのだろうか。師匠の体調を見抜けないようでは弟子失格だ。
彼の腕を取って背筋を伸ばしながら、あの頃の自分の失態を繰り返すつもりはないぞ、と譲介は前を向く。
「悪いね、譲介君。」
そろそろ僕も寄る年波ってことか、と冗談めかして言う朝倉先生は、楽しそうに笑っている。


「部屋は三つでベッドは四つ。ソファもリビングにふたつある。」
朝倉先生がポケットから出したカードで開けた魔法の扉の中は、テレビとソファを置いた部屋の先に、寝室がふたつある広い空間だった。
スイートルームと言う言葉は続き部屋という意味とは知っていたけれど、基本的には四人、リビングルームにあるソファを足せば六人で使えるはずの広い部屋を、この人は今夜、譲介と二人で使ってしまおうと思っているらしい。
他人から見ればバカバカしいほどの贅沢だけれど、譲介は譲介で、身が危ないと思ったらとりあえずタクシー使えと万札が数枚入った小銭入れを寄越してくる保護者と暮らしていたので、大は小を兼ねるという考え方を拡大解釈してしまう人間がこの世に存在するということだけは分かっている。あの頃だってすぐに馴染めたのだから、朝倉先生とも付き合っていくうちに慣れていくはずだ。多分。
「こんな格好で飲んだところで酔えないだろう君は。」
部屋に運び込まれていたキャリーケースがソファの手前にあったので、とりあえず着替えをしよう、ということになった。部屋は好きな方を選んで、と言われて、譲介はとりあえずソファの奥に見える部屋ではなく、シャワーブースに近い方を選んだ。
蝶ネクタイは外しにくくて面倒、という朝倉先生は本当に面倒がっていてやや面白い。彼をリビングに置き去りにした譲介は、今夜の寝床が置かれた寝室に入る。
ベッドの上にはガウン、あるいはバスローブと呼ばれるような服が置かれていたが、これは確かに寝間着になるようなものではない。パジャマか普段の部屋着を持って来た方が色々便利だよ、と先生が言っていたのはこういうことか、と譲介は思う。
譲介も、ベッドサイドまでスーツケースをガラガラと転がしながら、首元に指を入れてネクタイを外した。
それにしても、格好が付くと言うのでウィンザーノットというのを試してみたけれど、パーティーでは誰もネクタイの結び目などは気にしていない様子だった。
面倒なので、声が通るようにドアを締めずに着替えをする。濃紺のパーカーと腰紐がベルト代わりになる灰色のスウェットだ。村の診療所に移動してからも、オフの時間はこうしたラフな服で過ごすことが多かった。さっきまでメールで使っていたスマートフォンは充電。持ち歩くには邪魔な大きさの古びた機種を、スーツケースの中を仕切るメッシュ素材のポケットから出してパーカーのポケットに放り込む。
「朝倉先生、」とスーツケースの中を点検しながら、譲介は尋ねる。うっかりスマートフォンをカードごと掏られた時のために入れてある宮坂のお守りの入った小銭入れは、誰にも開けられていないようだ。「バーカウンターがある部屋って、ここしかなかったんですか?」
「うーん。全くないわけじゃないけど、この部屋がいいんだ。一番の理由は、そうだな。親父の名代でクエイドの顔をやってるせいで、断れない友人が来ることもあるから。接待のためと言うのが近い。」
脱いだシャツと背広をハンガーにかけながら「前に言っていた、先生と寝たことをトロフィーにしたがる『友人』の話ですか?」と言うと「覚えてたのか、失言だったかな。」と奥の部屋から先生が笑う声が聞こえて来る。
「あれは極端な例で、ただ酔い潰れるだけで、僕を便利な避難所に使おうと思っている人間の方が圧倒的に多いよ。」と朝倉先生は言った。
譲介は次に、明日に移動する際の服を出した。学生時代はパーカーを着る時もあったけれど、最近は薄いグレーのジャケットと、シャツは……まあ今日のままでいいだろう。ジャケットはもう荷物に仕舞っておくべきかと考えていると、「譲介君は、酒と水、どっちがいい?」という声が掛かった。
「チンザノのドライベルモットがあるから、ボンド・マティーニが作れるけど、どうだい?」
「オリーブ抜きなら。でも、マティーニはあまり好きじゃないです。」嫌いというわけでもないけれど、冷たくて口当たりの良い酒は、飲み過ぎてしまう。
「眠くなって来たのでコーヒーで、と言いたいところですけど、朝倉先生のお勧めがあれば。」
「じゃあ、着替えが終わったらこっちに来ると良い。」と彼が言った。
広いバーカウンターの中には、一晩では飲み切れないような酒がずらりと並んでいて、種類も多かった。譲介は、村で何回か飲んだ経験がある。日本酒には弱く、ビールは苦く、甘い酒は後に残る。ワインは好きかもしれない。村の宴会で出される酒を一通り試しはしたものの、ウイスキーやブランデーと言ったいわゆる洋酒には無縁のままの人生を歩んできた。
ワインもあるけど、たまには飲んだことがなさそうなものがいいだろう、と朝倉先生は言ってこちらに背を向けていくつかのボトルを眺めている。
彼はカッターシャツとブルージーンズを着ていた。一時期、色々あっての睡眠不足で彼の家に厄介になっていた頃も、仕事着でなければ、こういう格好が多かった。寝る前にローブを使うのか、そうでなければ、多分このまま寝てしまうのかもしれなかった。
「これにしよう。テネシーウイスキー。」と彼は言い、ロリンズと書かれた瓶をこちらに向けた。
日本では、テネシーウイスキーはバーボンとは言わないらしいね、とつぶやきながら、彼はふたつのグラスを満たす。それからおもむろにしゃがみこんだ彼は、「しまったな。」と言った。どうやら、保管庫か冷蔵庫が足元にあるらしい。
「ソーダを入れて置くように頼んでおくんだった。水割り…は味気ないか…ロックでもいいかい?」
そう言われても、ロックが何のことだか譲介にはピンと来ない。
水割でもソーダ割でもないのは確かだ。
「僕はなんでも構いません。」と譲介が言うと「じゃあ正直者には、一番大きくて姿のいい丸い氷を入れてあげよう。」と朝倉先生は楽しそうに言った。製氷皿をテーブルに置いて、彼が小さなトングでつかんだ氷をグラスに入れていく。それは注いだウイスキーの二倍はありそうな氷で、なるほど岩だ、と譲介は思う。
「今夜は、カウンターのスツールを使うのはお互い止めておこう。そっちのソファでも?」と問われて頷く。
カーテンを締めるべきかと思うが、明るい夜景を見ているとそのままにしておきたいような気持になった。財団の明かりを思い出す。あの明かりの中で、どれだけの人がまだこの時間にも働いているのだろう。
「譲介君、立ってないで、先に座っていて構わないよ。すぐに酒とグラスを持って行くから。」
そう言われて、先生に気を遣わせてしまった、と慌てて腰を落ち着ける。ふっかりとしたソファは革張りではなく、身体がゆっくりと沈んでいく。譲介は、これはすぐ寝てしまうな、と思ったので、腹筋で身体を起こすと、朝倉先生がローテーブルの上にグラスを置いた。
高校時代から医師を目指していた譲介にとって、酒を飲むことはずっと、付き合いの一環で、仕事の延長に近いものがあった。けれど、今日はちょっとした冒険のようだと、確かに思う。
「何に乾杯しましょうか。」と譲介が言うと、朝倉先生は「僕たちと支援者の健康に。」と言った。今夜くらいはね、と言って朝倉先生は笑っている。
譲介は、彼の機嫌が悪くないことにホッと胸を撫でおろし、ウイスキーを飲んだ。
朝倉先生の勧めてくれた酒は、確かに飲み口が軽い。ただ少し強い。
あっという間に頭がくらくらしてきた。
「二杯目は水割りですかね。ボトルウォーターを取って来ます。」と譲介は言った。
最後まで飲んだら、ベッドまでたどり着けるだろうか。
「こういうところで正直なのは、君の数多い美徳のひとつだな。」
「数、多い、ですか?」
自分の中に美点と言えるものがあるとしたら、それは、僕が一也にはなれない、K先生を継ぐ人間としては圧倒的に不足しているということを知って、それでもまだ努力出来るということだけだ。そのひとつきり。僕はきっと超えられない。それでも、努力はしてます、と譲介は少しろれつが回らなくなって来た口で言った。
「君の自己評価が低いのは僕も分かってるつもりだったけど。うーん、つまりね、……英語を身に付けて、医学部の授業に食らいついていくことと、実技の際に正しいパフォーマンスが出来ること、今夜のようなパーティーで堂々と振舞い、自分の存在を証明することは、全て別の才能が必要だ。それを君は、僕の前で全部やってのけた。全部ね。」
「上手くは出来ませんでしたけど。」と譲介は酒を煽る。
こんな飲み方をしていい酒ではないのだろうと思うけれど。
「そこは回数を重ねて行けば慣れていくものだ。私は伸びしろと考えているよ。今日はただ、怯まずに一歩を踏み出せるかどうか、そこが見たかった。」
朝倉先生は、そう言ってウイスキーの入ったタンブラーを傾け、長い脚を組み直した。
「君は逞しく育った。だから次は、僕の隣で、もう少し傲慢さを学ぶと良い。あるいは、世間では自惚れと言われるものを。」
傲慢さ。
「……僕は、K先生ご推薦の人が、別の人間でなく、君で良かったと思っていますよ、和久井譲介君。」
「ありがとう、ございます。」
過分の褒め言葉だった。
そして、朝倉先生が口にした言葉を、酔いの回る頭で、考えていた。
先生に似合うのは誠実と高潔。傲岸というのはもっと……その言葉を体現するような男の姿が、譲介の心の中に思い浮かんだ。
その時。
「いや、それにしても悪いね。」と朝倉先生はいつもの軽い口調で言った。
「何がですか?」
「君がこういう夜景を一緒に見たい人は別にいるのが分かっていて、朝起こしてくれる人が必要ってだけで君を借りちゃったからね。」という師匠の言葉に、譲介は背中に冷たい汗が走るのが分かった。
朝に起こしてくれる人が必要?
酔いは醒めた。
「朝倉先生……明日のフライト、何時の便なんですか?」
「六時!」
シックスオ~クロック、と彼は陽気に叫んだ。
「なんでですか!」
譲介がチケットを取って欲しいと彼にお願いしたフライトは八時の便だ。
てっきり依頼した便を取ってくれていると思っていた。
なぜ、そんな時間に。
そもそも、朝倉先生には専属の秘書がいるはずだ。なぜ止めなかったのだろう。ジョー先生が付いていれば、今回の旅は安心ね、と微笑むブルネットの女性の顔を思い出し、譲介は、そんなはずないだろ、と叫びたくなった。
「いやあ、午前中に戻ってランチに間に合わせたくて。」と彼は頭を掻いて、これこれ、と胸元からチケットホルダーを出した。
ああ、せっかくセットした髪が台無しだ。そう思ったけれど、今の問題はそこにはない。
慌てて、フライトの時刻を確認して、譲介は時計を見た。
二時間前に飛行場に向かって立つとしたら、キャブを呼ぶ必要があるのではないだろうか。
「タクシーは?」
「フロントには一応伝えておいたんだけど、以前、電話線を抜いて遅刻しちゃったことがあって。」
「もう寝ましょう!」
四時間しか寝ない頭で空港へ行くのか。万全な体調ですら、危ういのに、荷物を取り違えたり、鍵を忘れてロストバゲージになったらどうしたら、と悪い想像ばかりが譲介の頭を過る。
「酒盛りはどうするんだい?」
「中止です。飲みたいなら飛行機で好きなだけ飲んでください。」
「午後からミーティングなので飲めません。」
あと一杯だけ、と言って彼はボトルから氷の中に注いでいるので、譲介はそれを取り上げていいものかどうか、途方に暮れた。
「朝倉先生。楽しいお酒と綺麗な夜景も、今の僕らには必要なのは分かりますけど、一番大事なのは、明日のフライトのチケットを無駄にしないことです。お酒は今度ゆっくりでもいいでしょう。」と言うと、彼は酒を注いでいた手を止め「そうしようか。この間いい白を買ったんだ。今度一緒に開けよう。」と言った。切り替えが早い。
「分かりました。次の機会に。」と言うと、彼はありがとう、と言って笑ってから、もう一度乾杯だ、と言って譲介とグラスを合わせた。
チリン、と涼しい音がする。
グラスに口を付けた朝倉先生の首の座りが、怪しくなってきたように見えた。
お水を持って来ます、と言って慌ててチェイサーをグラスに注いでいると、彼はちょっとだけ、と言ってソファに横になってしまった。
譲介は慌てて、自分の部屋の使うつもりのなかった方のベッドから上掛けを引きはがしてくると、その間に、朝倉先生はすっかり寝息を立てていた。彼の上に白いカバーを掛けた薄い布団を掛ける。部屋は暖房が利いているから、このくらいで丁度いいだろう。
それにしても、まさかあの朝倉先生が、これほどお酒が弱いとは思わなかった。それとも、これがお酒の力なのだろうか。
譲介のことを正直だと言ったけれど、朝倉先生の方が、余程正直で、誠実だ。
小さくため息を吐いた譲介は、バーカウンターのスツールに腰かけ、朝倉先生のために汲んだ水に口を付けてから、そういえばミネラルウォーターもあるのだった、と思った。水の味はさほど悪くないが、止めておこう、と飲んだ分を吐き出し、冷蔵庫から出したボトルを開ける。
一口飲むと、冷たい水が喉を通り抜けていく。ソファから近くてうるさいかもしれないけれど、今からでもシャワーブースで頭からお湯を被って、酒を抜いておいた方がいいかもしれない。
譲介は、パーカーのポケットから角が割れたスマートフォンを取り出して、アラームを掛けた。
通話も出来ない、今となってはSIMの入れ替えも難しい、十数年前に買って貰ったスマートフォンを、必要な時に充電し、こんな風に使うためにずっと持ち歩いている。
村にいた頃には封印していた、あの人と暮らしていた頃の過去の遺物だった。
荷物を整理していたら中から出て来たので、六年ぶりに充電してみたのだ。診療所に居を移してからは必要のなくなった番号と、アメリカで使うスマートフォンに入れるためにノートに手書きした番号を順に削除していって、今は繋がらない、あの人の電話番号と、先生の執刀に付き合って帰宅が遅れた運命の日にあの人が残した、譲介への叱責の声だけがこの中に残っている。
再生ボタンを押した。
杖を付くようになった頃の、あの人の声が聞こえて来る。
早く帰って来い、という声が。帰る場所があの人の元にあった時代は、遠く過ぎ去ってしまったけれど。
我ながら女々しいと思う。
ただ、間に合わなかった時のことを考えてくよくよするよりは、あの頃の元気な声を覚えていて再会したときに「遅ぇ!」と蹴り飛ばされるくらいの気持ちでいる方が余程建設的だ。
「会いたい。」
そう口にすると、すんなりと自分の気持ちを肯定することが出来た。
僕はあなたに会いたい。
生きているあなたが見たい。
泣き上戸なら話は簡単だったろうに、と思いながら、譲介はウイスキーを飲んだ。
氷の入った酒は冷たく、けれど、喉は焼けるようだ。
まるであの人みたいだ、と思って、譲介は少しだけ笑った。

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