【8】「カラカラとかいう男」(エボン、ウィル)

雨粒が窓をたたく微かな音にエボンは顔を上げた。ロールスクリーンを下ろした窓からは外は窺えない。壁の時計をみると、約束の時間を十分ほどすぎていた。ウィルから連絡はない。帰り際にゲタにでも捕まったのだろう。
エボンの注意が自分から逸れたことが不満だったらしい。胡坐をかいた足の上でまどろんでいたフロドが「ニャー」としゃがれた声を上げた。
「ああ、すまないね」微笑みかけてフロドを抱き上げると背中や耳の付け根を存分に撫でてやる。白黒の毛並みが美しい元野良猫は、満更でもない顔で喉をごろごろ鳴らした。
雷鳴が遠くでとどろき、窓をたたく雨が一気に大粒になったころ、重いエンジンの音が聴こえてきた。音は瞬く間に爆音にかわり、近所の家々の窓ガラスをビリビリと震わせた。金属が軋んで甲高い悲鳴が上がる。耳障りなその音は、ウィルが数ブロック手前の路地をスピードを落とさずきわどい傾斜でコーナリングしたことをエボンに知らせた。
「あのバカの運転は何度いっても直らんな」
フロドに向けてため息交じりにしゃべりながらソファから立ち上がる。リビングのモニターで外に異常がないことを確認してガレージのシャッターを開けてやった。
ライダーの素行はともかく、深紅のドゥカティに罪はない。雷雨のなか路上に置き去りにするのは美しいイタリア産二輪に対して失礼というものだ。やがて自宅前で大排気量のエンジン音が止み、しばらくして玄関ベルが鳴った。
フロドはエボンの腕から飛び降りていそいそと玄関へ駆けていく。一体なにがいいのやら、フロドはウィルを気に入っているのだ。扉を開けると、予想どおりずぶ濡れのウィルがタオルでライダースーツの水滴を払いながら「すみません遅れちゃって」と頭を下げた。
「シャワー浴びてこい」
エボンは手にしたバスタオルと着替えをウィルに押し付けると、リビングへと踵を返す。十分ちょっとで戻ってくるだろうウィルに合わせて、キッチンでやかんを火にかけた。

「お風呂ありがとうございました。濡れたものは脱衣かごに入れといてよかったですか」
「ああ、構わん。カフェオレ飲むだろ」
「ありがとうございます。頂きます」
二人分のカフェオレと焼き菓子を、暖炉のまえのローテーブルにならべた。ソファに腰を下ろしたウィルは手に封書をもっていた。今夜この家を訪ねた目的はそこにある。ひとしきり暖炉にあたり身体を温めたあと、ウィルは封書をエボンに差し出した。
「身元調査、終わりました」
ウィルの表情は硬い。エボンは無言で受け取ると中身を開封した。レポートと十数枚の写真。盗撮写真と動画のスクリーンショットが混じっていた。エボンが素早く目をとおす間、抱えたフロドを撫でながらウィルがカフェオレをすする音だけが部屋に落ちていた。
「――なるほど、ね」
「若頭の新しい連れ。素性的にはやはり堅気でした」
「堅気といっても芸能畑の関係者だ。キナ臭いには変わらんな」
「勘当されてますが、関係者との付き合いは完全には切れていないようです」
「ただのポンコツか、疫病神か」
エボンはレポートから顔をあげてふうっと大きく息をついた。
レポート一枚目には若い男の顔写真。通り名をカラカラという。本名も調査済みだが、男の周辺に本名で付き合う者はいなかった――。

通称カラカラは、生まれてすぐに飛行場に捨てられた孤児だった。一歳手前まで孤児院で過ごした後、養子縁組する孤児を探していたセレブ家庭の目にとまり、彼らの慈善事業の一環として引き取られて育てられた。セレブ家庭にはカラカラ以前にも三人の孤児を養子縁組した実績があり、成人して独立した一人を除き、カラカラは残った養子二人とセレブ夫婦の実子一人と共に裕福な生活をはじめた。
経済状態こそ非の打ちどころのない裕福さが約束されていたが、内情は酷いものだったらしい。容姿に恵まれたカラカラは、早いうちから養父による性的虐待を受けていた。ほかの養子たちも同様の虐待や体罰が常態化していたことが非公式ながら記録に残っていた。
本来の気質か育った環境か。カラカラ本人の暮らしぶりは自由奔放。とくに下半身に『節操』の二文字はなく、男女ともに交友関係は派手で揉めごとも多かった。
セレブ両親の取り巻き連中たちにくっついてカジノへの出入りを重ねて、二十歳になるころには立派なギャンブル中毒が出来上がっていた。虐待した養父への腹いせもあったのか、養父のカネをくすねてはあらゆる種類の博打で溶かしていたらしい。多額の使途不明金の流出が養父の知れるところとなり、カラカラは養子縁組を解消して勘当された。その後は友人知人の家を転々としてヒモ生活を送っている。
生来歌がうまく、セレブ両親と一緒にリアリティショーに出演していた際にたまたま披露した歌がSNSでヒット。それ以来たまに声が掛かればクラブなどで歌って日銭を稼いでいる。音楽で売れることに興味はないが、声をかけてくる自称音楽プロデューサーのような正体の疑わしい輩ともフランクに身体を重ねがちという記録もあった。

レポートを膝の上に置いて、エボンは痛みだした眉間を揉んだ。まったく、ろくな男じゃない。なんだってゲタはこんな男を連れ込んだんだ。
「叔父貴は、もうカラカラに会いましたか」
ウィルが低い声で聞く。
「ああ。先日、事務所に来てたろ。どこにでもいる軟弱そうな若者だった」
「そう、若いんですよねアイツ。若頭より五つは年下なのに――」
「ゲタはあの野郎を『兄上』と呼んでるんだろ。知ってる」
エボンがそう続けると、ウィルの表情から陰影が消えていくのがみえた。ウィルは手元のマグカップに視線を落とし、何か言おうとして口を開いては、また思い直して閉じる。それを何度か繰り返したあとで、ようやく言葉を紡ぐ気になったようだった。
「双子の兄だとも言ってました。ゲタのやつ、ろくに調べもせずに自宅に連れ込んだんですよ。あの野郎だってなんの抵抗もせずあっさりついて来た。今ではすっかりゲタの家に住み着いてやがる。ゲタはあんな強面なんです、ふつうの堅気の人間ならもっと警戒するもんでしょ。おかしなことばかりで、オレ……」
「あいつが心配か?」
エボンはつとめて柔らかい口調で問うた。ウィルの心中をエボンは理解しているつもりだったからだ。
「ゲタにかぎってまさかとは思いますが……」
「まあ、な。じつは俺も多少は疑ってる。あの馬鹿、またクスリに手を出したかもしれん」
ウィルが躊躇した一言をエボンが言い切った。ウィルがエボンの顔をじっと見かえす。その目元が悔し気に歪んでいくのをエボンは止めることができなかった。
いまになって、どうしてですか。ほとんど声にならない声で、ウィルはそうたずねた。

二人がゲタと出会ってから、もう十年以上になる。その最初の頃について、三人が思い出話をすることはなかった。ジャンキーだったゲタと出会い、エボンの独断で彼を組に迎え入れると決めた。出会った際の揉め事はともかく、歳が近く人懐っこい性格のウィルはすぐにゲタと打ち解けて、同期のように共に組織のシノギを学んできた。
それなのに、ゲタはやがて薬物に溺れて身動き取れなくなっていった。なんとか正気に戻そうとエボンとウィルの二人がかりでどつき回して、十年以上まえの当時、ようやっと更生させたのだ。
あの時代をたどることは辛くなるだけだった。それがいまのゲタを見ていると、ウィルとエボンにとって、あのころがそっくりよみがえってくるように感じられた。
遠い過去がいつかの姿でよみがえる。それは二人にとってあってはならないことだった。
「――オレが予兆に気付いてやれば」
ウィルは握りしめた手の中に呻くように声を落とした。エボンは首を振る。
「予兆なんてなかった。それにクスリを再開したと決まったわけじゃない。アイツは昔から心のどっかがぶっ壊れてるだろ。また妙なこと思い付いただけかもしれん。まずは見守るしかないだろうさ」
ウィルは答えなかった。エボンの言葉と過去の記憶とを慎重に吟味しているようだ。
「まぁ、アイツの自宅も事務所も徹底捜索して、クスリがないことだけは確認しとけ」
「承知しました。『兄上』経由で入手することもないよう見張ります」
「ああ、お前に任せるから慎重にやってくれ。そういやあの『兄上』、うちの若い舎弟連中をさっそく手懐けたようだな」
エボンの指摘にウィルは何かいいかけて、苦い顔をして口をつぐんだ。
「カラカラとかいう男、事務所に来たと思ったら途端に人の輪ができていた。フロドまで喉鳴らして寄っていく始末だ。ありゃあ無意識にやってやがる。あんな人たらしがゲタにどう影響するんだか」それから短い間をおいてエボンはつけくわえた。「まったく、あのバカいつまでたっても危なっかしいな」
ウィルはなにかを思い浮かべるように微笑した。
「だからオレたちがそばにいるんでしょう?」
「――まぁ、な」
ふたりとも、若頭であるゲタの剣であり盾なのだ。やるべきことはいつだってシンプルだ。

エボンは焼き菓子を一口で平らげると、カフェオレでごくりと流し込んだ。
「この雨だ。今夜は泊まっていけ」
「え、いいんですか」
「これ以上雨に打たれたら『ゲタ号』が風邪ひいちまうぞ」
今度はウィルが声を上げて笑った。
深紅のドゥカティはウィルの三台目の愛機だった。二台目はゲタが勝手に拝借した挙句、それに跨って敵対組織に特攻したせいでオシャカにされた。それで三台目を買う羽目になったとき、激怒したウィルはゲタに全額を支払わせたのだ。だから三台目には『ゲタ号』と名付けてウィルは大層可愛がっている。
「久しぶりの叔父貴の朝ごはん! 楽しみだなあ」
「甘えんな。おまえが用意せい」
「ええ~」
それから二人でうだうだと喋ったのち、鼾をかいているフロドをソファに寝かせてそれぞれの寝室へと腰を上げた。

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