胃も心も掴まれてる
カンカンと重い鉄鍋に当たるお玉の音と、食欲をそそる匂いに涎が湧き出る。昼飯を食いっぱぐれて胃が気持ち悪くなるくらいに飢えた十六時、たまたま通りで出会した趙の好意に甘えて祐天飯店にいた。
いつもの女性スタッフは休憩中なのか不在で、ここからは趙の背中しか見えない。つまんでなよ、と出された搾菜はもう空で、もっと寄越せと胃が叫んでいる。
カン、と一際大きく聞こえた音に体が反応する。炒飯が皿に盛られているのが見えた。レンゲが添え、隣で温められていたスープを注いで、趙が振り返った。
「わ、ちょっと春日くんなにそれ」
サングラスの奥の目が丸くなったと思えば、すぐに頬に押されて消えていく。続いて堪えきれないといった笑い声が響いた。
「なに、そんなにお腹空いてたの」
ひとしきり笑った趙が目尻に涙を浮かべてやってくる。なんだ、と自分を振り返ると、いつの間にか立ち上がっていた。掛けていた椅子は倒れ、両の拳をぐっと握っていて、その右拳には割り箸が巻き込まれていた。まるで待ちきれないと飛びつく犬のようで、じわじわと羞恥がこみ上げる。
「いやこれは、まあ、そうなんだけどよ」
「はは、物欲しそうな顔しちゃって。はいどうぞ、お待たせ」
湯気の立つスープと炒飯を置き、向かいに趙が座った。席に置いてあるグラスにキンキンに冷えた水を注いで、肘をついて春日を見る。その目がやさしいかたちをしていて、胸がとくんと跳ねた。見惚れてしまう。香ばしい炒飯の香りに唾液は飲み込んでも次々に湧いて、早くありつきたいと全身で言っているのに、趙を見つめたまま動けなかった。
「どうしたの。冷めるよ、春日くん」
趙に言われ、慌ててレンゲを握る。
「いただきます! 」
「ん、お待ちどうさま」
二人前以上はありそうな炒飯は相変わらず絶品で、レンゲで山盛り掬えばパラパラと米粒が溢れる。口に近付く度に濃くなる香りが鼻を刺激し、たまらないと大口を開けてレンゲ炒飯を迎えた。
米粒一つレンゲに取り残したくなくて、啜るようになってしまうのも無理はない。口いっぱいに頬張れば、刻まれたエビとチャーシュー、ネギ、そしてふわふわの卵を纏った米が口を満たし、噛めば噛むほどに広がる旨味はまさに極上の一言に尽きる。自然と口角は上がり、飲み込むのを待たずに手は次の一口を用意する。夢中で炒飯をかき込み、熱々のスープにほんの少し舌を火傷しながら半分ほど食べ進めると、肘をついていた趙が腕を崩し、机に寝そべって春日を見上げた。自然と上目遣いになる趙に、また胸が高鳴る。向田がこういう趙の仕草を、あざといと言っていたのを思い出す。そしてそのあざとさにまんまとハマっている春日を呆れた顔で見ていたことも。仕方がない、好きな相手の魅力的な仕草に、どうして見惚れずにいられるか。
「ほーんと、美味しそうに食べてくれるよねえ。作り甲斐があるよ」
美味そうじゃなくすげぇ美味いんだと訂正したかったが、炒飯で口いっぱいなせいで出来なかった。
「足りなそうだね、簡単な炒め物ならできるよ」
あっという間に山の半分が減った皿を見て、趙が身を起こした。何か残ってたかとキッチンへ目をやるのを見て、春日は慌てて飲み込み、足りることを伝える。
「遠慮しないでよ。それにトマト使い切りたかったんだよね」
トマトの卵炒めにしようか、と腰を上げた趙の腕を咄嗟に掴む。丸い目が春日を見た。
「あ、後で良い。ここ、居てくれよ」
「なあに、離れないでってこと? 」
ぱちぱち、と瞬きしたあと、茶化すようにニタニタと笑った趙が再び腰を下ろした。
「春日くんが食べるとこ見てたらいいの? 」
「お、おお。見ててくれ」
「いーよ。春日くんの食べっぷりは見てて気持ちいいからね。その代わり、足りなかったら遠慮せずに言ってよ」
再び肘をついた趙が汗をかいたグラスに口をつける。一口、二口飲む度に動く喉や、グラスの縁から離れ、かすかに濡れた上唇から目が離せない。伏せられていたまぶたが上がり、瞳が向けられていたことを、春日が気付けなかったくらいに。
「春日くん大丈夫? 」
「な、なんでもない。大丈夫だ」
「なんか変だよ。もしかして味変だった? 」
「んなわけねえ! 趙の飯はいつも最高だ」
「そう? ならいいけど」
趙の探るような視線に見せつけるように、炒飯をかき込む。外側は程よい温度になっても、内側はまだ熱々で、はふはふと空気を取り込みながら味わっていると、水を差し出される。けれど春日はそれを断った。せっかくの炒飯に水を差されたくなかった。熱さすらもスパイスになるのだから。
「春日くん、そんなに美味しい? 」
薄茶色のサングラスの向こうで、きゅうと目が細まるのが見えた。
つい先日趙が言っていたことを思い出す。酔っ払いらしい会話に登場した「好きなタイプは」という問に各々答えていくなか、春日の耳はただ一人だけに集中していた。
「そうだねぇ、美味しいって言ってくれる子かな」
照れるね、と珍しく酒由来でなく耳を赤くした趙の姿を鮮明に覚えている。向田があざとい! と言い、足立がかわいいとこあんじゃねえかと、セットされた髪がぐしゃぐしゃになるくらい撫で回した。
好いた相手にはストレートに潔く好きだと伝えるべきと思っていた春日に、それはあまりにも遠回すぎるように感じた。が、普段野暮だ野暮だと言われてばかりで、好きだと伝えてものらりくらりと躱されるのだから、ここは趙の好みに合わせてみるのもいいかもしれない。
まさにチャンスと意気込んで、恋心というには欲まみれの想いを込める。見てくれ、今日の春日一番は野暮じゃない。
「ああ! 趙、すっげえ美味いぜ! 」
春日の声量に目をぱちくりさせたあと、首までじんわり赤くした趙がはにかんだ。
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