てめェにうらみはねぇが
胸を張って言える話ではないが、サンジはゾロとセックスをしていた時期がある。まだ一味の人数が片手と少しで足りていた頃のことだ。
理由は愛とか恋とか、そういう真っ当なことではない。ただ暇だったし、ただ若かったし、他に手頃な相手もいなかったからだった。
サンジとゾロがセックスをしたことと、一味の航海とは遠からず関係した。まだグランドラインに入ったばかりの頃だった。今と比べれば戦闘の規模も小さかったから、よほどのことがなければ致命傷を食らうこともなかった。だが小さいなりにも命を賭けた戦闘をすれば、自然、脳は極限まで興奮する。戦闘で激った精神を発散させるのに、サンジとゾロは考え得る限り、最も短絡的な選択をした。実に若さと愚かさは近似だった。
何の感情も含まない、何も生み出さない虚無のような関係が一度で終わらなかったのは、ただの偶然だった。少なくともサンジには、そこに何の意味も感情もなかった。
愛を伴わないセックスが最低である自覚はあった。しかも相手は仲間の一人ときている。だが、そのことに対して罪悪感があったかと聞かれると「あった」とは言い難い。言い訳めいているが、それはひとえにゾロに原因がある。
いい意味でも悪い意味でも、ゾロはあけすけな男だった。相手の性別など、ゾロの前にあっては瑣末だったのだろう。童貞でもなければ処女でもないということが察せられたときの衝撃は今でも忘れられない。
何をするにしても、ゾロが恥じらう様など一度も見たことがない。いつだって、酷薄そうな細い眉を片方だけ跳ね上げて、あぁそれか、という顔でサンジを睥睨した。ゾロは、性への奔放さと自堕落さのギリギリの境界線に立っていた。サンジはそういうゾロを嫌悪しつつも、どこか救われてもいた。サンジはただ身軽でいたかった。ゾロとセックスをすることについて何も背負わなくていいのならば、それに越したことはなかった。
おそらく、ゾロにとってもセックスなんてそんなものだったのだろう。サンジがそこにいたから相手としたのだろうし、いなければいないでどうとでもしたに違いない。この意味において、サンジとゾロは共犯関係にあった。
そう、サンジは思っていた。
一味の航海が先に進むにつれ、戦闘は徐々に激しさを増した。戦闘後の高揚感を楽しめるような余裕はなくなっていき、相手の主力を相手にするゾロは酷く負傷することが多くなった。驚異的なスピードで回復するとはいえ、数日前まで死にかけていた相手に欲情するほどサンジの精神はイカれていなかった。ゾロとセックスをする理由がなくなった。暇と若さが理由で繋がった身体は、所詮その程度の希薄さでもってその役割を終えた。
二人の関係が、決定的に終わりを迎えたのはスリラーバークでの戦いを終えた後だった。多くの負傷者が雑魚寝する半壊した屋敷の中は、夜中になっても誰かの呻き声が絶えず聞こえていた。血と黴と埃が混じった臭いは、それだけで十分気を滅入らせた。
怪我人全員を診て回ったチョッパーが気絶するように眠ったのを見届けたサンジは、月光の薄明かりを頼りに人の合間を縫うように歩き、ゾロが眠るところまでやってきて腰を下ろした。
青い光に浮かぶゾロの顔は、ゾッとするほど白かった。伏せた目は落ち窪み、カサついた唇はおよそ人らしからぬ色をしていた。サンジがゾロを森の中で見つけたとき、ゾロは全身の血をぶちまけたような有様だった。皮膚は裂けていないところを探す方が難しかった。
立てた膝の上に頬を乗せ、顔を傾かせて眠るゾロを眺める。誰よりも野望にこだわるやつだと思っていた。殺しても生きているようなやつだとも。だが、ゾロは野望とともに命を差し出せるやつなのであり、殺したら死ぬただの人なのだった。
崩れた壁の向こう側に、欠けた月が昇っていた。焦点の定まらない視線を月夜に投げる。
今日、サンジはゾロの野望と命とを引き換えに命を永らえた。ゾロが死ななかったのはただの結果論だった。この事実を前に、もうサンジはどんなくだらない理由やどんな崇高な理由を掲げたとしても、ゾロとはセックスできないだろうと思った。
この時のサンジの心に去来したものを何と表現するのが正しかったのか、サンジは今だに整理がつかない。ただ寂寥感をもって、もう自分は、この男を抱けないのだと思った。もっと身体を重ねておけばよかった。もっと優しく。あるいは言葉を尽くして。例え嫌がられても。
シーツの端からゾロの手が見えていた。その手を握らなかったことを、随分と後になって後悔した。温めてやりたい、という根源的な衝動でもってゾロの手を握ることが出来た、最後の夜だったのに。
二年の時を経て、一味がシャボンディ諸島で再会すると、ゾロは片目を一つ失っていた。もともと多弁な方ではなかった男はますます寡黙になり、片目の傷と相待って、ふとした瞬間、ほとんど知らない男のように思えた。肉欲を発散させるためにサンジとセックスをしていた過去など、ゾロには最初からなかったのかもしれない。サンジも努めて忘れた。
やがて、逃げ切ったと思っていた過去がサンジを捕まえにやってきた。二度と戻らないつもりで出奔し、そして一味へと帰還したサンジを待っていたのは、一味を抜けたサンジへの罰にしてはよくできたものだった。
その姿を見かけたのは偶然だった。ワノ国での戦いが終わり、三船の長が集まって今後の行き先を決めた後だった。方々、自船へと戻っていく最中、目の前には海しかない港の端で、ゾロとローが半歩離れて立っていた。何かを話している風でもない、ただ数十秒、同じ景色を見ているだけにも見えた。立ち去ろうとしたサンジの目の端で、ゾロの頭がわずかに動き、隣に立つローを見上げた。残った右目がローを捉える。ローがゾロを見遣る。何事かの短いやりとりの後、ゾロはまた海へと視線を戻した。
たったそれだけの光景だったが、その瞬間の衝撃は筆舌にしがたい。お前、そんな目でおれを見上げたことが一度でもあったかよ、と思ったのが最初。そして呼吸する間もなく、そのあまりにも酷い剥き出しの本音に、サンジは狼狽した。叫ばず、その場を立ち去れた己を褒めたいぐらいだった。
サニー号へ戻り、キッチンへ逃げるように飛び込んだ。見間違え、勘違い、といった言葉が駆け足で脳内を過ったが、そのどちらもがそうでないことは己が一番よく知っていた。
ポケットからタバコを取り出し、火をつけようとしたがうまくいかない。五度ライターを擦ってから気が付く。手が震えていた。ここに至って、ようやくサンジは冗談じゃねェ、と思った。なぜ自分がこれほどまでに傷ついているのかがわからない。だが、こうしている瞬間も腹の中から煮えるような新鮮な嫉妬がとめどなく湧いてくる。そんなものを抱けるような間柄ではないのに。
片手で顔を覆った。ゾロはサンジに見せたような冷めた瞳をローにも向けたのだろうか。肉欲を発散する以上の意味を持たないセックスをローともした? 確信を持ってそんなことはしないだろうと思った。ゾロは、心を寄せた相手にそんなことは決してしない。自分にして見せたような、あんな淫らで酷い態度は、絶対に。
この感情の名を知っている。
これは、『後悔』だった。
「サンジくんって、ゾロのことを好きだった時期があるじゃない」
恐ろしく普通の調子で言われた言葉に、サンジは点けたばかりのタバコを指の間から落とした。ここが野外でよかった、落ちた火が地面を焦がしているのをサンジはぼんやりと見送る。なんだっけ、今何を言われたんだっけ。茫然と思うサンジに、「なによ、もしかしてバレてないとでも思ってたの」とナミの平坦な声が続いた。ナミは器用に箸を使って蕎麦をすする。行燈の灯りにナミの影が揺れる。その様子をしばらく眺めてから、サンジは誤魔化すように数回、空咳をした。
「いや…ナミさん。あの、バレてないというか、そんな時期はなかったと思うんだけども」
「嘘でしょ、まさか無自覚だったの?」
目を見張って返されたが、サンジは自分の記憶をどう探ってもそんな明白な時期は見当たらなかった。だが、ナミは披露した推理が自明のものであるという前提で話を進めてくる。
「ずっと不思議だったのよね。ゾロだってその気があったように見えたわ。くっついたって構いやしなかったのに」
果たしてナミの知るゾロと、サンジの知るゾロは同一人物なのだろうか。サンジは苦く笑った。
「…こんなことをナミさんに言うのは申し訳ないけど、おれたちに限ってそれはないよ」
「あら。どうしてそんなことが言い切れるの」
「それは、」
と言いかけて言葉を切った。何度もセックスをしたからわかるよ、と言えたら早いのだが、それを口にするほど下品にはなりきれない。唇は動いたが、結局声にはならなかった。サンジは時間稼ぎにタバコに火をつけ、深く吸った煙を長く吐いた。
「マリモは誰のことも好きにならねェよ、多分」
ナミが目を上げた。箸が止まる。ナミはサンジの顔をしばらく凝視した後、沈黙を切るように、はっ、と鼻で笑った。蕎麦を啜る音が再開する。ナミはもう何も言わなかった。
ことを、今、サンジは思い出している。なぜあのタイミングでナミがあんなことを言い出したのかが分からなかったが、ようやく理解した。サンジの断定を、ナミが鼻で笑った理由も。
ナミもまた、なにかの拍子にゾロとローの関係を知ったのだろう。だからサンジとゾロの関係を過去形で語った。もう終わったものとして。決して更新されることがないものとして。ナミのその恐ろしいほどの現実主義に、サンジは身震いがした。
ナミが言う、サンジとゾロが想い合っていたように見えた時期とはいつのことだ? 身体を重ねていた頃? あるいはそのあと?
次々と疑問は湧いて出たが、答えはすべて『わからない』だった。なぜなら、サンジは一度たりとも、ゾロに真意を確かめたことがなかった。なぜサンジとセックスをするのかも、なぜサンジとセックスをしなくなったのかも。
サンジがゾロに対して思ったすべてのことを、ゾロ本人に尋ねなかった。飽きるほど時間はあったのに、そんなことをいちいち聞く必要はないと思っていた。言わずとも、聞かずとも、ゾロもまた自分と同じであろうと勝手に決めつけた。
あの頃、あれほど重宝した「サンジにとって都合の良かったゾロ」なんてものは存在していなかった。その可能性に今頃思い当たったとして、なんの意味があるというのか。ゾロとの関係を始めずに終えたのは他ならぬ自分だった。
あの日、崩れた屋敷の端で、月光に照らされて青い顔で眠るゾロの手をサンジは取れなかった。ローは、躊躇わずにその手を取った。サンジにはもう永劫、その機会は巡ってこない。
**
ワノ国を出た船の航海は順調だった。
案外、船長と二人きりで話す機会というのは少ない。一味の面々が好き勝手に過ごしている船内をゆったりと歩き、船首にいるルフィのところへ向かう。見つけたルフィは、定位置になっている場所で仰向けになって太陽を浴びていた。近くに立ち、しばらく黙ってタバコを吹かせる。
「なぁルフィ」
「なんだ?」
「マリモの…ローとのこと、お前はいいのかよ」
ここで、なんのことだ? と言われたら引くつもりだったのに、ルフィは憎らしいほどあっさりと応えた。
「トラ男とのこと? あー、なんかトラ男が言いに来てたな。別にいいんじゃねェか? ゾロを仲間に欲しいと言われたら許さねェけど、そうじゃないならおれが口を出すことでもねぇだろ」
これ以上ない正論だった。こういう時のルフィはド正論を豪速球で返してくる。そうかよ、と返す気も起きない。黙ったまま水平線を眺めていると、ルフィがひょいと身体を起こした。肩越しにサンジの顔を振り返っているのが目の端に映っていたが、サンジは視線を合わせずただ遠くを見つめていた。
「なんでお前が凹んでんだ?」
「凹んでねェよ」
「お前だって勝手に結婚したじゃねェか」
「……」
前後の繋がりがないその言葉は、繋がりがないだけに容赦なく真理を突いた。このヤロウ、と睨みつけると、ルフィは丸い目でサンジをまっすぐに見つめて言った。
「サンジ。お前ってバカなのか?」
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