その、嵐。






 響いたドアベルの音に、食器を拭く手を止めて見遣ると、見知った顔が入ってきた。背に刺繍の龍の翔るスカジャン、編み上げブーツという定番の出で立ちで、木床を無遠慮にゴツゴツ鳴らしながらサンジの前までやって来ると、「何かを食わせろ」と無愛想に言い捨てるなり、カウンター前の背の高いスツールにどかりと腰を下ろした。耳にはまった三連ピアスが衝撃で揺れている。
 信じがたいことに、ゾロはそのままサンジが何かを出してくるのを待っている。これを信頼と呼ぶか横暴と呼ぶかは悩むところだった。
 サンジはワイングラスを拭く手を再開させた。
「仕事帰りにしては遅くねぇか」
「ジムに行ってひと汗かいてきた」
「仕事帰りに? さすが体力バカ」
「内勤だけだと身体が鈍るだろ」
「ハ。それは何より」
 夜更けのこの時間に警察官であるゾロの体力が有り余っているならば、少なくとも今日この街は平和だったということだ。サンジは指紋一つなくなった美しいグラスを棚に戻してから、ゾロのためにミント水を注いでやった。水道水を出さなかったのは、ここが己の勤める店の中だからであり、一応金を払って帰るゾロは客と言えなくもなかったからだ。しかし優しさの結晶のようなそれを、ゾロは上から目線だけでちらりと眺め「酒じゃねぇのか」と不服そうに呟いた。
 ゾロのよく通る低い声は、どれだけ小さくても耳に入る。サンジはこめかみに青筋が立ったのを自覚しながら、「それで、何を、召し上がられますか、お客様?」と殊更にこやかに聞いた。ゾロは何怒ってんだ、という顔をしてから、間接照明が当たる黒板に書かれた今日のおすすめを三つ注文した。メニュー名なんて見てもいない、上から三つ、という雑な注文だ。そんなに前菜ばかり食べてどうするつもりなのか、とサンジはうんざりした。
 待ってろ、と言い置いて、サンジは厨房へ引っ込んだ。先程ゾロが述べたメニューにはかすりもしないメイン料理を三品拵えてやり、カウンターへと戻った。ゾロは肘をついて窓の外に視線を投げていた。テーブルに置いたスマートフォンは伏せられたままだった。
「おら、飯だ食え」と短く言うと、ゾロはおっ、という顔をした。そして先ほど自分が頼んだものとはかすりもしないメニューを美味そうに食べ始める。
「美味かったら美味いって言ってもいいんだぜ」
「まずかったら食いにきてねぇ」
「知ってるか。褒め言葉くらいケチらずに口にするのが、真っ当な人間の所作だぞ」
 ゾロはお前に人の所作を語られてもな、という顔をしたが口にはしなかった。昔から口数が多いやつではなかったが、歳を重ねて、ますますゾロは最低限の言葉しか舌に乗せなくなった。話すのが面倒になったのが半分、残りの半分は妙に頭の回転の速い男と行動を共にしている弊害。だと、サンジは思っている。前者はただのゾロ本人の怠慢なので好きにしたらいいが、後者に関しては「甘やかされやがって」というのが本音だった。
 ゾロは数年前に、都会からやってきた背が高く陰鬱な雰囲気を漂わせた外科医と出会い、紆余曲折の末にお付き合いするに至った。紆余曲折の詳細をサンジは知らされていないが、色恋に疎いゾロが誰かと恋愛関係にいたり恋人同士に落ち着く、ということの途方もなさは詳細を知らずとも想像できた。どういう奇跡が起こるとそういうことになるのかとサンジは思っているが、聞かない。ゾロも語らない。聞かないし語らないのだから、この話の詳細をサンジは生涯知らずに生きていく。別にそれで構わない。何もかもを知り尽くすことが友人関係の証ではない。
「先生はどうしたよ」
「先生? あぁローのことか。今いねぇんだ。最近シーズンとかいうやつらしくてあちこち飛び回ってやがる」
 ほらな、とサンジは思った。こんな脳筋の口から学会などという謎単語が普通に出てくる。恋による日常の変革は人類平等に訪れる。それはゾロも例外ではなかったらしい。よりにもよって、学会のシーズンだとよ。何のシーズンだ、花粉症みたいなものか。
「学会ね。お前学会が何をするところなのか知ってんのか」
「全く知らん」
「だろうなぁ」
「全く知らんが、今回は発表しないから気楽な気分で殺せる、と言ってたのは耳にしたぞ」
「殺せる? おれのイメージする学会と違うな」
「おれもだ。一撃で沈めてやるとも言ってたぜ」
「ほぉ。誰を?」
「そりゃあ、そこに集まってる奴らじゃねぇか?」
「それ本当に学会へ行ったのか? マフィアの集会と間違ってねぇか?」
「大丈夫じゃねぇか? 行った先が学会だろうがマフィアの集会だろうが、あいつなら証拠は完璧に隠滅してくんだろ」
「おれが心配してんのはそこじゃねぇんだよなぁ」
 そもそもそこに全幅の信頼を置くのは警察官としてどうなんだ、とも思ったがもう言わなかった。サンジは胸ポケットから煙草を取り出して口に咥えた。火をつける。フッと短く煙を吐く。白煙の向こうで、ゾロが蝦夷鹿のローストを豪快に食っている。なぁ、と呼ぶと、ゾロが食事の手を止めずに目だけをちらりとあげてサンジを見た。
 サンジが勤めるヨーロッパ料理専門店は、なんの悪縁か、ゾロの職場の徒歩圏内にある。まだゾロが官舎に住んでいた頃はしょっちゅう食べにきていたが、最近はゾロの方の都合でめっきり数が減った。いつ噂の外科医と連れ立って現れるのかと思っていたが、気配もない。のを、いま思い出した。悪友を相手に遠慮する謂れもない。サンジは水を向けた。
「前から聞きたかったんだけどよ。お前なんで先生と一緒に食べにこねぇの?」
「この店のメニューに米がねぇから」
「なんだそのくだらねぇ理由」
「なぁ」
 なぁ、じゃねぇよと思う。ゾロは見知らぬ外科医と付き合った結果、嘘みたいな本当の話、あるいは本当みたいな嘘の話、どちらなのかわからないことを真面目な顔で言うやつになってしまった。でも多分本当なんだろう。なぜならゾロがサンジに嘘を言う必然性がない。そしてあの外科医は、サンジに嘘を言ってくれとゾロに頼むほどサンジのことを知らない。
 ゾロと外科医は、サンジの預かり知らぬところで出会い、懇意になり、恋に落ち、現在に至っている。サンジは煙草をふかしながら尋ねた。
「パン食う?」
「食う。あと酒。ついでに牡蠣を焼いたのもくれ」
 ガーリックオイル? それともホワイトソース? と親切に確認してやると、言うに事欠いて美味い方と返ってきた。サンジはつくづくと分かってねぇなと思った。どっちを食っても美味いんだ、この店は。腹の立つ!

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