姿見


「草若の名跡がオレで途絶えてしもたらどないすんねん、て草々に言われたんやけど、お前どう思う…あいつがそない言うの、今更過ぎんか…?」
オヤジの落語を継ぐ、て話ならあいつの弟子がどないかしてくやろ、と常日頃から言っている兄弟子は、こちらに背中を向けて服を物色している。
ポールに並んだ中から、いくつかを取り上げて矯めつ眇めつと言ったところだった。
「そうですね。どないもこないも、なるようにしかならへんのと違いますか?」
「せやんなあ。」
シャワーを浴びたばかりの首筋はしっとりとして、タオルドライで済ませた髪からは時折雫が落ちる。
「弟子取るにしても、今の暮らしやと難しいでしょう。」
「そうかあ?」
「そうですよ。」
新しい家には吉田と倉沢のふたつの表札が掛かっている。夫婦別姓の家みたいやて友達に言われた、と先般子供に言われた時には、それ以上突っ込まれたら適当に言い抜けるつもりだったが、そのうち会議を開いて説明をする必要があるのかもしれなかった。
草若の襲名や常打ち小屋を建てる話と言ったゴールのある話でもなし、この人から始めた同居だったが、この人と僕が今の形になるまでに通った過程の全てを子どもに話せるはずもない。
振り向いた兄弟子の顔はなんで黙ってるねん、と言わんばかりで、「そういえば、この間『茶漬幽霊』、割と評判ええですよ。」と話題を逸らすことにした。
この間までこの人が稽古を付けてもらっていた茶漬幽霊と言うのは、その名の通りの怪談話で、互いに思い合った夫婦の奥さんの方が亡くなって、化けて出てきてくれと言った男は、新しい女の鼻に齧りついたる、と意気軒昂だったお咲の幽霊を待っていたが、待てど暮らせどやってこない、しびれを切らした三年目に、やっと出てきた理由といえば……、という筋書きだった。
「お咲に向かって、ドアホ、ボケ、スカタン言うとこからがテンポ良かったて。」
「なんや、お前もあれ聞いてたやないか。」
褒めるなら自分の言葉で褒めんかい、と兄弟子は笑った。
「僕かて、金の取れる芸になってきた、て言うたやないですか。」
「ドアホ、そんなん褒め言葉とちゃうわ。……そういえば、時々喜代美ちゃん、時々オレの方見て妙な顔になってへんかったか? あれ、どこがあかんかったんやろ。」
「そらまあ……。」
ウヒョヒョと妙ちくりんな笑い方をしながら誰の膝にでも寝転ぶ男が、メス猫の一匹も膝の上に乗せるかい、という台詞を言うのである。
教えた方の草原兄さんは稽古の度に、真面目にしゃべくる弟弟子を見て妙な顔をするし、草々兄さんとこの稽古場を借りるのでたまに一緒に聞いている若狭はと言えば、お茶の準備をしながらこちらの方を何か言いたそうな顔でチラチラと見ている。
針の筵というほどのことではないが、僕もまあ、それなりに居心地の悪い気持ちになったのは確かだった。
「なんか顔についてたんと違いますか? だいたい若狭のとこで昼飯ご馳走になってから稽古してたでしょう。」
「まあそうかもな。オレあれ、髪が伸びるまで出て来うへんかったお咲の気持ちは分からんな。好きやったらどんな格好でも顔見たいやん。」
そらまあ、酔っ払いになっても寝床の周りでうろうろしてましたもんね、とは口に出来ない。
こちらの顔を見て、鈍い兄弟子も感づくものがあったのかもしれなかった。
「……そもそも、こういう時に仕事の話してどないすんねん、て話か。」と兄弟子は言った。
「兄さんから始めたんやないですか。」
「そらそうですけどお。……あ、お前こっちとこっちどっちがええ。」
手に持ったスケスケのネグリジェ――ベビードールとか言うらしい――を手に取ってこっちを向いた。
胸の部分まで覆ってある黒と、紐のクロスになってるだけで付けたら丸見えになってしまう白。
どっちでもいいです、と言おうとしたが、白い方を指差した。
今更何が恥ずかしいんですか、と言おうとした口を大人しく閉じて。
「着替えるところ、見せてください。」と言って寝転がっていたベッドから起き上がる。
「ええから、お前はそのままあっち向いて待っとればええねん。」という兄弟子の頬はすっかり赤く染まっていて。
明らかに、落語で演じた女の情動そのままの様子に、僕は吹き出しそうになるのを堪えて、はよ着替えてくださいね、と視線を部屋の端の姿見に寄せることにした。

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