泣き声


おぎゃあ、おぎゃあ、ぎゃーーーーーーーーー!
(……って断末魔かいな!)
オレも、ここに大人しかいてへんならそないに言うたかもしれへんけど、赤ん坊相手には、なかなかそういう訳にもいかん。
よーしよしよしーこーいこいこい、とあやしていると「ここで鴻池の犬やってどないするんや。」と草原兄さんに言われてしまった。
オレは結構本気やってんけど、まあ端から見ればただのツッコミ待ちに見えるわな……。
それにしたって。
「この子、今日はなんでこないに泣き止まへんねん……。」
こないだと同じにやってるはずやで、と弱っていると、草原兄さんは「首が座ってないんとちゃうか?」と言った。
「襁褓替えろのサインかもしれませんよ?」と四草。
「四草、お前おしめ替えれるんか?」
助け船、とばかりに食いつくと、流しで哺乳瓶を温めていた四草が振り返って「こっちはもう哺乳瓶で手一杯ですから、そのままお任せしたいですけど、若狭に頼まれたのは僕ですから、終わったらやるだけやってみます。」と言った。
「よし、任せたで!」
「すぐには無理です。」
「あかんて、すぐにせえ。こないに泣いとるやないか!」と叫ぶと、四草は生意気にも「草若兄さん、こっちの状況見えてますか? 手が四本あるんやないんですから、何でもかんでも僕に任せんといてください。」と反論して来た。
「しゃあない、オレも手伝うたるわ! 草若、お前も一回は手順見とき。」と草原兄さん。
うわ、こっちにお鉢が回って来てしもうた。
「いや、女の子ですやん。オレはあきまへんて。」
男とは作りが違うから公園にある小便小僧みたいにピューと出て来るもんでもないとは分かってるけど、なかなか自分からやるとは言い辛い。
「そないに尻込みしてたら出来るはずのもんも出来んようになってまうで。それに、まだ離乳食前やから、うんちが出るでもないし、こっちが思うよりは臭くもないもんや。」とにっこり微笑む兄さんの様子はほとんど慈愛の聖母だ。
さすが、子育て経験者。
詳しい上に解説が優しおまんなあ、と考えていたらスパコーンと頭を叩かれた。
「草若、お前は感心してる場合ではないやろ。そないにぼんやりしてて、腕の中の子どもが泣き止むかいな。まず腕を動かせ、腕を。」
おぎゃあ、おぎゃあ、と泣き声が続いているにも関わらず、オレの耳にはほとんど届かなくなってることはお見通しである。
「はっ……すんません、兄さん。」
「オレに謝ったところでしょうがないやろ。泣いてんのはオチコちゃんや。」
そないに言われると、『可愛い名前付けたったのに、草々兄さんが最初に考えた名前のインパクトのせいで誰もあの子のこと本名で言わへんのです、私みたいになったらどないしよう~!』と悩んでた喜代美ちゃんの顔を思い出してしまう。
あの日は朝まで四草のアホが寝かせてくれんかったせいで頭が働いていなかったからか「オチコちゃんいう二つ名も可愛いと思うで。」と口が滑って、ひたすら絶望的な顔をさせてしまった。
あの日の『どないしよう』が今になって報いとして帰って来た、ちゅうわけや。
「草原兄さん、とりあえず、おむつ替える前に下になんか濡れてもいいもの敷いたってください。」と四草がいうので、ほいきた、とばかりに腕まくりした兄さんが、お前も手伝わんかい、とばかりに睨んで来る。
分かりましたけど、もう腕の中の子どもの腕の辺りが妙に温い。
四草、お前子どもを育てたこともなさそうな顔してて、なんでこないに勘が鋭いんや。
そんなオレの心根も知らず、四草は「もうちょい冷ました方がええんかこれ。」と眉を寄せて、哺乳瓶の暖かさを確かめている。
「四草、気い付けるんやで、それ熱すぎてもあかんし、冷たくてもあかんからな。お乳の温度や。」
「若狭に同じこと言われてますけど、そんなこと言われても僕は母乳出したことないですから。」と言う四草に草原兄さんは苦笑している。
「オレかて、ないわそんな経験。若狭のヤツ、何度にせえとか言ってなかったんか、そこに温度計あるやろ。」
「あ。」
四草は流しの箸立てに置いてある温度計を今気づいたかのように口を開けた。
「気付いてへんかったんかい。」と草原兄さんが突っ込むと、四草は「いや、揚げ物するときに使ってんのかと。」と言い訳した。
「まあオレも、今の今まで気づいてへんかったけどな。」
「ミルクについては、若狭から、触って熱すぎることなかったらそれでええですよ、としかアドバイス貰ってないですし。」
四草は頭を掻いている。
「抜けてるおかあちゃんやなあ。まあ、直ぐに慣れるもんでもないか。」と草原兄さんが微笑む。
「こういうのは若狭だけの話やのうて……草々兄さんかて、なんでもかんでも若狭に任せっきりにしてるんと違いますか?」と言いながら、四草は澄ました顔で温度計に手を伸ばしている。まだ終わらんのかい。
「あ、若狭に言われてたの忘れてました。泣き出したらそこのテープレコーダー付けて、私の声の入ったテープ聞かせてやってください、て。」
そう言って四草は唐突に哺乳瓶片手にうろついて、テレビの上に見つけたテープレコーダーの再生ボタンをカチリと押した。
すると、間を置かずに、明るい出囃子が聞こえて来る。
「徒然亭、わーーーかさでございまァす!」と言う緊張で裏返った声。
喜代美ちゃ~ん!
手をメガホンにして「若狭がんばれー!」と応援したいような気持ちで枕を聞いていると、なぜか、創作落語をやる直前の時期に、長いこと掛けていた「まんじゅうこわい」ではなく、なぜか「ちりとてちん」が始まった。

――今日はわしの誕生日でな、これで一杯飲めるがな。

「これ、最近の録音とちゃうな。……いつの話や?」と草原兄さんも首を傾げている。
この声聞いてると、なんや思い出せるような気もするけど、確かに言われてみたら、最近のとはちゃうな?
悩んでいると、「寝床寄席の時代のテープと違いますか。天狗座とか他の高座では、簡単には録音出来んでしょう。」と四草が答えを言った。
「あーーー、あったな、なんかあのナツコさんか? 寝床に色々機材持ち込んで来てたな。」
「そらまた、えらい昔の話やなぁ。」と草原兄さん。
「草若兄さん、よく覚えてましたね。」と四草が哺乳瓶片手に眉を上げた。
「あの人が根回ししとるとこ、オレも見てたからな。場所貸してる寝床の大将はともかく、師匠かて……あの当時は、ほんまなんでもハイハイて承諾してたからなァ。」
「そらまあ、当時は皆、いずれは徒然亭完全復活、とは考えてたやろうけど、実際そないなるって確信はなかったからなァ。オレ、あの頃何回か、ここの町内会の会報に寝床寄席の話で寄稿したで。まあ、中身は緑に添削してもらってたけどな。」
兄さんそれ、ネタが思いつかんから、緑ねえさんに半分書いてもらってた、って言ってませんでしたっけ。
「寝床寄席の時期の話で言うなら、師匠がこっそり『オレも自分の話ミスってないか気になるから後で聞きたい。』て録音頼んでたことは僕も覚えてます。」
「お前はほんまオヤジのことならなんでも細かいこと……。」と呆れた声でいうと、「まあええやないかたまには思い出話も。」と草原兄さんが笑った。
「そういえば師匠、若狭の分しか録音してへん、てあの人に言われて、『次オレのも頼むわ。』て言ってたなぁ。」としみじみしていた草原兄さんがいきなり、お、と声を上げた。カセットテープレコーダーの前に前のめりになっている。
「草原兄さん、どうかしたんですか?」と四草が尋ねる。
「お前ら聞いとれよ、この先、噛むで噛むで噛むで〜!」
あっ、そうやったかもな……。
喜代美ちゃんも、この頃はほんと下手というか、努力はしてるがそれが実ってない状態だった。オレもまだ、それなりの兄貴面が出来てた頃か。
オヤジが生きてたこの頃に戻られへんのは辛いけど、今はただ懐かしい。
「兄さんたち、なんでそんな嬉しそうなんですか?」
四草が冷たい目を草原兄さんとオレに向けていた。その視線は、「噛んだ!」の声で氷点下に達する。
お前、そういうとこは底抜けに正直やな。

――丁度 豆腐のくさったようなヤツで。
下げが聞こえて来る頃には、いつの間にか、腕の中のオチコちゃんはすうすうと寝入っていた。
「ええ温度になってきたのに……。」と四草が残念そうな顔をしている。
哺乳瓶の中のミルク、結局無駄になってしまったやろうか。
「まあええわ、寝たなら寝たで、今のうちに、おむつ替えてしまうか。」という草原兄さんに、はい、と頷く。
「四草、手伝え。」と言うと、「はい。」とこちらも元気な答えが返って来た。
「可愛い顔して寝てるわ。」と抱きかかえた小さい子の寝顔を覗き込む。
「そうですね。」と普段は算段ばかりの年上の男が首肯して子どもの顔に見入っている。
「……お前らそうしてると夫婦みたいやな。」
「は!?」
「兄さん、それは言いがかりでっせ!」
「僕みたいな男、所帯持つのは不向きです。」
何言うてんねん、このボケ。
ツッコミ待ちの冗談に何真顔で返してんのや、そこは「ほなら旦さん、ダイヤの指輪買うておくれやす~」とか適当に返すとこやろが、と口を開こうとしたところで、草原兄さんに先に突っ込まれてしまった。
「草若、なんや顔赤いで。オチコちゃんずっと抱えてんのしんどくなってきたんと違うか? それとも、腕のとこ濡れたか。」
「……いや、あの。」
「抱っこ、僕が代わりますから、草若兄さんはオチコのおむつ広げててください。」と年下の男が言って、可愛い子どもは四草の腕の中にすっぽり収まった。
……お前はほんま、なんでそんな平静な顔出来てんねん。
ふたりに背中を向けて紙おむつをぺりぺり広げだすと、背中から声が聞こえ出した。
「さすが恐竜みたいな草々兄さんの子どもは重みが違いますね。」
「こらこら、女の子にデリカシーないこと言ったるな、四草。」と草原兄さんとふたりでボケとツッコミやってる。
部屋の隅にある姿見には、確かに顔を真っ赤にしているひょろいのっぽの男が映っている。
この顔の赤いの、いつ取れるんやろ。

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