欲しがりはお互いさま
コーヒーの香りで朝が来たことを知る。すん、すんと嗅げば、コーヒーの奥から香ばしいトーストの香りを感じた。きっとそろそろ趙が起こしに来る。セットしていない髪にサングラスのない顔で呼びにくる姿を見たいが、それ以上に、やさしい声とキスで起こされたい。
寝室のドアが開く音が聞こえ、控えめな足音の後、そっとベッドに腰掛けたのか一人分の重さを受け止めてマットレスが沈んだ。
寝たふりのコツは、いかに力を抜けるか。まぶたをぴくぴくさせるなんて以ての外。上手い寝たふりは顔からつま先までの力を抜き、かつちょっと口を開いておくこと。これで今まで趙にバレたことはない。
「おきて、春日くん」
寝癖だらけの髪に指を通した趙が、とびきりやさしい声で言う。二人でいる時にしか聞かないこの声が大好きだ。今趙がどんな顔をしてるのが見たくて仕方ないが、ここはぐっと我慢だ。
髪を梳いていた手は頬へと流れていき、指輪のないあたたかい指でそっと撫でる。それが気持ちよくて、本当に眠たくなってしまう。春日くん、と呼びかける声は静かで、起こしたいのかそうじゃないんだかわからない。もっと、と趙の手に擦り寄れば、今度は手のひらで包まれる。手のひらにはいくつかマメがあって、それがまた安心感を与えた。
もみあげから顎につながる髭を擽られて、念のためむずかっておけば、ふは、と小さく笑うのが聞こえた。
「朝ごはん出来たよ。一緒に食べよう」
ちゅ、と額に触れるだけのキスを落とされ、唇が離れていくのが惜しくて、目を開けたくなる。
「春日くん、はやく」
このまま目を閉じていれば、もう一回くらいはキスしてもらえる。そしてその予想通り、趙がまたぐっと近付いた。降りた髪が頬を擽る。香水の香りでない趙の匂いに、鼻がすんと勝手に嗅いでしまう。
「目ぇ覚ましてるの、わかってるよ」
耳もとで囁かれ、思わず目を開ける。体を起こした趙が、やわらかく微笑んでいた。
「そ、そうか。……おはよ」
「ん、おはよう。ごはん食べるでしょ。今日のはさ、結構自信作なんだよね。だからはやく来てね」
ちゅ、と今度は頬にキスをして、趙は部屋を出ていった。バレてないと思っていたのに恥ずかし過ぎる。今日だけだろうか、以前からずっとだったのか。どちらにせよかっこ悪い。四十越えのおっさんがすることじゃなかったか、と数分前と過去の自分を消し去りたい気持ちを引き摺ったまま、リビングへと向かった。
「待ちくたびれちゃったよ」
「悪ぃ」
コーヒーに口を付けていた趙が、また早くと急かす。珍しい。それほど自信作なんだろう。
「いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
まずはコーヒーを一口。コーヒーに明るくないせいで趙の豆へのこだわりを理解することは出来ないが、今日のは苦みはあるが鼻から抜ける香りはどこかチョコレートを感じて好みだった。
さく、と食欲をそそる音に目を向けると、趙がトーストにかぶりついていた。目をつむり、うんうんと満足そうに頷いている。
トーストは今まで何度か朝食に登場したことはあったが、今日のは見た目から味の想像が出来ないものだった。薄黄色いジャムの上に、カリカリに焼いたベーコンがのっていた。海外ではパンケーキにベーコンをのせ、メープルシロップをかける料理があると聞いたことがあるが、そういう類のものだろうか。
大きな一口でかぶりつく。甘酸っぱいジャムの爽やかな甘さが口に広がる。その後を追いかけるように、ベーコンの塩味と脂がやってきて、最後にピリリとした刺激が味を締める。体験したことのない組み合わせだが、不思議と上手く調和して、なんとも美味い。
「いい反応してくれるねえ」
「マジで美味え。こんな洒落た料理初めて食べたぜ」
「気に入ってもらえてなによりだよ。たまにはこういうのものいいよね」
「これジャムだよな」
「うん、りんごジャムね。マスタード混ぜてんの。この比率が大事なんだけどさ、やっと納得出来るものになったんだよね」
「ああ、マスタード。だからちょっとピリッてすんのか」
ほうほうと感心しながら食べ進めれば、あっという間になくなってしまう。朝から腹いっぱいに食べるのはあまり好まないが、できればおかわりをしたい。それくらい美味しくて、一枚だけじゃ満足できない。
「どうしたの? 」
空の皿を名残り惜しく眺めていたところに、趙が覗き込んできた。その唇がベーコンの脂でつやりとしていて目が離せず、吸い寄せられるように、気付けば身を乗り出していた。
「春日くん? 」
べろり、自分を呼ぶ唇を舐める。想像通り、求めていた美味いトーストの味がした。もう一度、と再び舌を出すと、趙の腕が首にまわされた。唇に触れる前に、舌を絡め取られる。うっすらと美味しくて、あたたかくて、夢中で啜った。
「朝から元気だねぇ。昨日あんなにしたのに? 」
「いや、そういうわけじゃ――」
「いいよ、でも食べたばっかだからやさしくしてね」
降りている前髪をかき上げて、熱っぽく見上げる趙に湧き上がった唾液を飲み込んだ。
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