DON'T TRUST OVER THIRTY
「タコ……は、最初からぶつ切りにしたものを入れるべきだったのでは?」
まるで出会った頃のようなその口調を聞いたジェイは、ハン・ジュウォンに向かって女神のように微笑み「お客様、本日はそういう趣向なんです。どうぞ召し上がってください。」と言った。
「サムギョプサルを後で切るようなもんじゃないですか? それに、こうして丸ごと入れた方が豪華に見えるでしょう。とにかく、固くなりすぎる前に食べましょう。」
少々むっつりした顔の鍋奉行を、さあさあ、と言って促すと、ジファのための追加のマッコリを取りに奥に引っ込んで行く途中のジェイが、無言でこちらにサムズアップしているのが見えた。
「豚肉であれば、生の時に切るよりは焼いた後の方が切りやすいとは言いますけど、タコはどうなんでしょう。」とハンジュウォンは小学生のように質問を追加してきた。
腹が減ってるせいかな。
鍋の中からはみ出てるタコの足じゃなくて、あなたの形のいい耳を引っ張りたくなって来た。
さて、この辺りで、これまでの経過を話すべきだろうか。
焼肉屋を看板に掲げる店で、世に言うナッコプセというものを食べてみたいのですが、とハンジュウォンが言い出したのは、先週の水曜のことだ。
参加者がいつも以上に少ないせいか、あるいはどこかで頭を打ったのか、じゅうじゅうと肉が焼ける暑苦しい空気の中で、ジュウォンは、韓牛を前に、なぜかセロリの美味しさについて熱弁していた。
ナムルにしてよし、水キムチにしてもよし。
いわく、ふだん食べつけているサラダより美味しかったらしい。
別に、無理に雑談をするような面子でもないのにな、とは思うが、まあジュウォンにとっては、エポックメイキングな出来事だったのかもしれなかった。
「……セロリ、食べられなかったんだね。」とジファが独り言のように言った。
「そうみたいだ。」と俺が笑いながら大きな肉を手前に引き寄せると、ジファは「案外可愛いとこあるな、とか言わないでよ。」と言った。
「言わないよ。」
思ってるけど言わないだけで。
中年組は、焼酎を啜り、かつ肉を食らいながら、いつになく熱弁を振るう、素面のジュウォンを眺めていた。
若いねえ、という顔である。
しっかり食べて、しっかり寝て、しっかり出せよ、というこちらの言いつけを守っていると自分から主張しているのだから、褒めてやらないとな、と思うが、うまく言葉が口から出て来ない。
肉を咀嚼していたジファが、大きく眉を上げた。
その顔は、育ててた肉が存外胃に堪えることが分かったからか?
それとも、俺が久しぶりの相棒との再会にヤニ下がってるとでも言いたいのか?
まあ、どっちでもいいか。用がないと外飲みもしなくなった。ジェイの店に来るのも久しぶりだ。肉がじゅうじゅうと焼ける音を存分に聞きながら、カルビを味わっていると「ドンシクさん、お願いします。」とジュウォンがジェイから渡された鋏を差し出してきた。
あなた、言い出しっぺが自分でやんなさいよ、と言おうと思うが、正直こういうことには果敢に挑戦したがる子どもみたいなところのあるジュウォンのこと、花を持たせるつもりでこちらに主導権を渡した可能性もある。
任された、と手に取ってちょきちょきと鋏を入れていくと、ジュウォンがにこにこと微笑みながら、こちらを見ているのが分かった。
目の覚めるような青色のジャケットが、もうもうと立ち込める煙でいぶされてゆく。
俺の服は……去年と同じジャケットとカットソー。俺もソウルに居た頃はそれなりの着道楽だったが、今はあの頃の服を着回ししているだけだ。
一口大に肉を切り分けながら、この加速度的にくたびれたおっさんになりつつある元相棒を、この人はどう思っているのかな。
そんなことを考えていると、ジファが(あっちがこれだけ自分のことを話してるんだから、付き合ってやんなさいよ。あんたは他に話したい事ないの。)とこちらに耳打ちしてきた。
(えっ、俺?)
(どう見たって、あんたの近況が聞きたくて話してるんじゃないの。)
……まあねえ。
田舎町で、変わり映えのない人生を送ってるから、特に話すことはない。
おじさんの家にあった表札を、俺の名前だけに付け替えたはいいけど、自宅のものを全て引き払って引っ越すことを考えたら、段々気が重くなって来た、とか。
ユヨンの部屋にあったものを、ジファに手伝ってもらって少しずつ処分したとか。
そういう話しは、聞いて楽しいもんじゃない。話して楽しいもんでもない。
「セロリの話しもいいけど、他に近況はないの?」と聞かれたジュウォンは、こちらをちらりと眺めた。
まさか、ジファには言えて、俺には憚られるような話しをしたいと?
まさかね。
「……言いたくないなら無理に聴かないけど、そういえばあんたんとこのアレは一体どうなったの。」
「あれ、とは?」
「アレだよ、アレ。知事の作った、金色のバカでっかいイカのオブジェ。」
「なるほど。」ジュウォンは思い出した、と言わんばかりに頷いた。
「どうなったと聞かれても、実物を見たことがない僕には答えられませんが、真偽はどうあれ、同じ時期に図書館を新築する計画がとん挫したという話も聞きますし、あの像を作る金があれば、他にも有意義な使い方があったのではないかとは、僕も思います。」
ドス辺りが話の種にと仕入れてきそうな話だ。
江原道の新しい知事がとち狂って作った(と言われている)黄金のイカ像の話なら、ジュウォンに聞くまでもなく、俺も知っている。海辺の東屋で朝日を浴びてギラギラと光る、江原道の新知事の無駄遣い。まあこのまま行くと、二期目はないだろう。
とにかく、だ。
金メッキのイカなんて、マニャンの闇夜を明るく照らすこの可愛い警部補殿を目の前にして、パッと思い出せるほど重大な話題というわけでもない。それに。
「イカなら普通、銀色辺りで良くないか?」
「派手なのがいいのよ、ああいう輩はね。」と言って、ジファが酒を呷った。
かつての結婚相手のことをちらりと思い出したのかもしれないが、そこをそっとしておくのが幼馴染の役目だ。
「今ならメッキと言っても馬鹿にならない金額でしょう。もっと怒ったり、腹が立ててもいいと思いますけど。」とマッコリの追加を持って来たジェイが言った。
ジュウォンは、そうですね、と頷いた。
この人がマニャンを離れて三年目。いちいち腹を立ててる暇もないのかもしれない。
「プテチゲの次に挑戦してみたいものはないんですか?」
気が付いたら、そんなことを口にしていた。さっきのセロリは抜きで、と言うと、ジュウォンは俺が切り分けた肉を咀嚼し、飲み込んでから、考える様子になった。
パチンパチンと次の肉を切り分け始めると、甘えたがりの坊ちゃんの頬袋が膨らむ。
ゆっくりと咀嚼してから、顔を上げた男は言った。
「ちなみに、僕はナッコプセというものを食べたことがありません。」
「……。」
アイゴー。坊ちゃん……。
向かいのジファが目を剥いた。
「釜山にあるこの店が美味しいらしいですけど、ドンシクさんはどう思いますか?」
俺たちのやり取りと大根キムチを肴にマッコリを吞んでいた幼馴染の女は、舌打ちした。
ジュウォナ、それ以上いけない。
「ハンジュウォン、あんた向こうに聞こえてないと思ってる………?」
一回卵を投げられたくらいだと学習しないのか?という幼馴染の鋭い視線がジュウォンに刺さっている。
ジファよ。
ジェイだって、持ち込み可の店を営んでいる、立派な大人だ。
ホルモンだってナッコプセには入れるはずだ。多少の稼ぎにはなるのにダメですって言うことはないだろ……とは、なんとなく口に出せない。かといって、ジュウォンを咎める言葉も出て来ない。
なぜかって?
ここ三年、ずっと仕事に打ち込んで来た男は、気が付けば、異動先の江原道から全く動きたがらないようになっていたのだ。
年に二度ほどの逢瀬(のようなもの)が年に一度になって、今年になってからは顔も出さなかった。理由は色々あるだろう。若い人が新しい暮らしに慣れれば、かつての古巣は顧みないというのは、わざわざ例を挙げる必要もないくらいに明白な事実だ。
例えば、ジフンには、新しい彼女の気配があるようで、今日は寝休日、あるいは体調不良だなどと言う口実で飲み会が欠席になることが多くなって来た。
ハンジュウォンも同じこと。
寂しいからたまには顔を見せに来てくださいよ、とはこちらからは言い辛い。
まるで親戚のおばちゃんのような言い草だ。
そんなジュウォンが、せっかくの公休日を使ってマニャンくんだりまで肉を食べにやって来たのである。その気持ちだけでも、ありがたいような気がしていた。
とにかく、ナッコプセの話までたどり着いた。
ナッコプセは、諸説あるが、ホルモンよりも海老とタコが命じゃないだろうか。
つまり、ジュウォンが煮込み料理を食べたいと言った時、海鮮はどうする、というのが第一の――命題だった。
そう、こちらのやり方を間違えれば、ジェイとの関係が悪化すること間違いない。
(ドンシクヒョン、それが釣ったばかりのタコでもジェイさんは大丈夫だと言ってくれますか? 肉の塊と違って、あいつら、うねうね動いてるんじゃないですか?)
ここにはいないはずのジフンが、耳元でささやく。
タコ……生のタコか。
やっぱり鍋にするには新鮮なタコがいいのか、と心の中で目の前の可愛らしくも憎らしい若造に問いかけると、ジュウォンは、(僕も初めての食べ物です、何も分かりません。)と言わんばかりの視線をこちらに向けて来た。
若く血気盛んな店主のユ・ジェイ氏は、うちは別に鍋料理の店と言うわけじゃないんですけど、と言って、サービスのキムチを置いて言った。
口には出さないがそろそろ帰ってくれませんか、という合図である。
フォローの仕様がない。
「生きたタコを調達した方がいいと思うか?」と疑問を投げたところで、この場の全員が釣りや魚介グルメとは縁のない生活を送っている事実が浮き彫りになっただけだ。
このところの出世が頭打ちになってきたらしいオ・ジファチーム長は笑いながら、「美味いのが食べたいって言うなら、あんたがその辺で釣って来たらいいんじゃない?」と俺に話を投げ返して来た。
「その辺て、どこだよ。」
タコはどこで釣れるもんなんだ、そもそも今釣りに行ったとして、韓国の近海で釣れるものなのか、とこちらが尋ねる前に、デジタル世代の若者はスマートフォンで調べ始め、ものの五分で答えにたどり着いた。
麗水の港では、イカとタコが両方釣れるらしい。
「有給休暇が残っているので、今週末に行きましょう。いいですよね、ドンシクさん。」とジュウォンは高らかに宣言して、土曜の朝五時に出る釣り船を予約していた。
展開が早い。
「これまでは、乗ったとしても父の知り合いのクルーズ船がせいぜいで、こういう庶民的な船に乗ることはなかったので、楽しみです。」
「……。」
酔った人間は本性が出るというが、両班階級出身の坊ちゃんほど罪深い存在はない。
ジェイが、付ける薬がないねという顔をしてマッコリを飲み干した。
一緒に行ってくれ、という幼馴染からの心からの哀願を込めた目配せは、仕事人間の女には届かないようだ。
確かに定職がないので暇です、と言ってはあるが、そもそも俺には地方都市への移動を終えた後、オールでタコ釣りにまで行けるほどの体力はない。たとえ、乗るのがクルーズ船だとしても。
あと、どうでもいい話かもしれないが、俺はタコよりイカが好きだ。
「釣り船がどんなでも構いませんけど、どこかに泊まって仮眠する予定も立ててくださいよ? 睡眠不足で船酔いになったらそこで試合が終了ですからね。」とマニャンの町のどこかで聞いた箴言のようなフレーズを出すと、心優しいジュウォンは慌てて船宿を調べ始めた。
こちらの予算を伝えると、ジュウォンの顔色が急に悪くなり、「……海に近い宿は衛生面で不安があります。」と言った。
「なるほど。あなたは俺と、旅先でひとつ屋根の下に泊まりたい、と。」
熱い夜にしましょう、という俺の放言に対して、スマートフォンに写る宿の写真に極力思考をフォーカスしているらしいハン・ジュウォン警部補は、せわしく画面をスワイプしながら「週末の麗水の最低気温は十七度だそうです。」と答えたので、聞いていたジファが酒を吹いた。
「イ・ドンシク、……あんたもういい年なんだから、人前で言っていい話しかどうか、ちょっとは考えたら?」
俺か?
俺のせいか?
「冗談だ。未来ある青少年がこんなおっさんの毒牙に掛かるなんて、ありえないだろ。」
「あんたのは冗談に聞こえないんだよ。」とジファがテーブルの下で俺の脛を軽く蹴った。痛い。
「イ・ドンシクさん。あなたにとって、僕は守るべき青少年の範疇ですか?」
違いますよね、とハン=あなたはちょっと黙っててください=ジュウォンは首を傾げた。
そう、あなたと俺は対等な同僚だった。
三年前までは。
今のあなたは、ただの十三歳年下の男だ。マニャンに来てから多少は人生経験が豊富になったとはいえ、中身はあの頃の潔癖青年のままじゃないか。
「あなたのその顔なら、青少年で通ると思いますよ。俺からしたら、まだまだ若い。」
中身が半分に減ったマッコリの入ったコップを振った。
そういえば、今日乾杯してないな。
なんでこれ、半分減ってるんだ?
「ドンシクさん、それ僕のコップです。」
「あ、悪い。」
「別に僕はそのままでも構いませんが。」
「え、そうなの?」
「ジェイさん、出来れば新しいコップを戴けますか?」
「今ちゃんと洗ったの出すからちょっと待っててくれますか?」とジェイはジュウォンに言った。
「おい、ジェイ、」
こっちも『ちゃんと』洗ってあるんだよな……?
「……はあ。」とジファがこちらに聞こえるように横でため息を吐いた。
結局、かつてのように休暇を取得することに成功したジュウォンのおかげで、とんとん拍子に話が進み、長距離移動と宿泊に必要な分のガソリンと、タコ用の疑似餌を用意するためのなけなしの札束が俺の財布から飛んで行った。二日ごとに行くと決めた母のいるナーシングホームへの訪問も延期。ジュウォンは更に、イカ釣りのオプション追加まで試みようとしていたが、釣りなら絶対陸の方が安全です、とか、夜船は何があるか分からない、と、こぼす俺の言葉に根負けした体で、譲歩したような顔まで作るほどだった。もしかしたら、俺と同じ宿に泊まることが心もとないように思えて来たのかもしれなかった。ちなみに、宿のランクについてはジュウォンが譲歩した代わりに、釣り船に乗るための費用は、なぜかジュウォン持ちになった。(貯金が心もとないことは自分でも分かっているが、一般的に、こういうときは年上が格好を付けて奢るものなのである。)
夜釣り決行の前日には、仕事が終わった坊ちゃんがマニャンまで迎えに来て、所長の家にあった前時代の遺物のようなクーラーボックスや釣り道具を積んだ俺の車に交代……はせず、新しいカマロ――高らかに歌うエンジン――と言った高級な風情のある新車で飛ばしに飛ばして、予約した宿に向かうことになった。
昔の木賃宿みたいな船宿しかないという訳ではないが、そうでない真っ当なホテルは正直便が悪いので、ハンジュウォンは、船が停泊している場所から近い場所にある中でも、一番近代的に見える宿をジュウォンは選んだ。ちなみに、部屋は別だ。
ベッドの上にあったのは、いつ干したのかわからないような煎餅布団で、水キムチのように酸っぱい夜になった。
スプリングがアレなベッドの軋む音が隣の部屋から聞こえなかったので、ジュウォンは、もしかしたらベッドで寝ずに窓際の椅子に座って仮眠したかもしれない。
しかも、到着してから数時間もしないうちに、隣の――ジュウォンの泊っている方とは別の方向の部屋の男のスマホのアラームで四時に起こされた。
あまりにも壁が薄い。
「寝られましたか?」「そこそこ。」という色気のない会話を交わし、ジュウォンが用意した酔い止めを飲んでから釣り船に乗った。
勢いのいいエンジン音と共に陸地が離れていく頃には、夜は白々と明け染めて、藍色の空が見えて来た。船尾の泡は、洗剤を含んでいるようにも見える。
ジュウォンは、船で出された、よくある屋台風のおでんの朝飯を無気力な顔つきで口の中に詰め込んでいたので、俺も彼に倣うことにした。
寝ぼけた頭でタコ釣りに集中することは難しいかもしれないが、言い出しっぺの俺も負けていられない。
釣竿から目を離さないために、無料の飲み物が入っているクーラーボックスの中からエナジードリンクを取り出して、カフェインの力を借りようと思ったが、ドンシクさんが寝ててもその間に僕が頑張りますから、せめてコーヒーにしてください、と慌てたジュウォンに止められた。どうやら、カフェインの大量摂取による心臓への悪影響を心配しているらしい。
人のことはすぐおっさん扱いするくせに、自分は青少年扱いされるのが嫌だとは、なんて坊ちゃんだ。
モーターの音がうるさいので、うたた寝しようにも寝られません、と言うと、前時代的なあまりにもダサいライフジャケットを着たジュウォンは、苦笑した。元相棒の欲目かもしれないが、こんな風に朝焼けに照らされていると、ジュウォンのダサいライフジャケット姿もそこそこカッコいいような気がする。
ふたりで、日の光を反射する水面に釣り糸を垂らしながら、並んで水平線を眺めていると、別世界に来たような気がした。
ジュウォンは、あの日はこんなにきれいな朝焼けではなかった、と前置きをして、去年の年の暮れから今年に入ってからの――マニャンから離れていた間のことを、とつとつと話し始めた。
覚えていますか?
あの日の江原道も、冬らしい冬の日でした。
僕はあの日、珍しく内勤をしていました。書類が溜まっていて、それを片付けるように言われたので。でも、他の大勢の人と同じように、まるっきり仕事になりませんでした。
誰かがテレビを付けるように言って、電源を入れた。テレビよりSNSを追った方が早いという声もありましたが、詰めていた人間は全員、結局は、スマートフォンを片手に、テレビを食い入るように眺めていました。
国を揺るがす大事が起こっている、ということは、その場の全員が感じていたことでした――なにより、事の成否は、次の日から僕たちの仕事がどう動くのか決することになりかねない。
昔の僕なら、仕事を続けていただろうと思います。パソコンの前で、暖かなドリップコーヒーを飲みながら。でも今は。
大きな権力を持つ者ほど、過ちを犯すものだと知っている僕もまた、他の人たちと同じようにテレビにくぎ付けになりました。
これを見てください、とスマートフォンの画面で、あの場に行った人、と思われる雰囲気の中で撮影された動画を見せて来る同僚もいました。
小さな画面の中、暗がりに翻るいくつもの旗と、細く光るライト――今日あなたが持って来たタコ用の疑似餌みたいに、本当に多種多様の色のペンライトでした――を眺めていると、僕よりも若い同僚が、今日も明日も仕事でなければ、わたしもあそこに飛んでいたかもしれません、と言っていて、その気負いのなさと勇気に、僕は驚かされました。
画面の向こうにいる誰か――数ではなく、一つの意思を持ってあの場に集った人たち一人一人のことを身近に思い、肩を並べたいと思える同僚が羨ましいような……僕はあの場に行こうとは、思いつきもしなかったので。ただ驚くばかりではなく、頷くくらいはしてもいいのだろうと思いましたが、口を開きかけたときにテレビが目に入って、見えたような気がしたんです。
「見えた?」
「……ミンジョンさんが。」
「ミンジョンが?」
「恐らく、格好だけが似ている別人だと思います。寒いのに、驚くほど薄着をしていて。第一、もしも彼女が生きていたら、と考えたところで、その『もしも』はありえないことを、僕は知っています。」
「そうですね。」
「おこがましいですが、その時、あなたの気持ちが、ちょっと分かったような気がしました。」とジュウォンは言った。
「俺の気持ち?」
「もし生きていれば、彼女はどこかへ勤めに出ているはず。もっと大人らしい服装をしているはず。とっさに、そう思ったんです。……ユヨンさんが生きていれば、あなたと同じ年でいたはずだったように。」
「……。」
十八のまま、時を止めてしまった、ユヨン。
ユヨンは、うちが好きだった。
それでも、ソウル大を受験して出て行く、と決めていた。
同じ女の子でも、ミンジョンは、ユヨンとは違っていた。
生まれも、育ちも。
思春期になってからはずっと、ジンムクのことをあからさまに毛嫌いしていたのは分かっていた。家に居場所がないというあの子の押し殺した叫びを、心のどこかで分かっていたのに、俺を含めた周りの大人は、みんなで寄ってたかって、あの子をあの狭い家に閉じ込めようとした。親と一緒にいるのがいいから、それが「普通」だから、と。
だから、最後には、あんなことになってしまった。
ハン・ジュウォンも、家に居場所のない子どもだった。
ミンジョンと違うのは、自分が住む場所を自分で選べる年まで生き延びられた、ということだ。
「すいません。」とジュウォンが言った。ユヨンの名前を出したことに、だろうか。それとも、ミンジョンの話をしたことに対してだろうか。
「謝らないで。俺は、あなたの話しを聞きたい。」
十三歳年下で、魚が苦手で、俺に手錠を掛けた男。
目の前のジュウォンが、小さな子どもに見えた。
どうして謝るんですか。
水平線を見ながら、あなたは、本当に俺のことが好きですね、といつものようにからかおうとしたら、口を開く前に、微細な釣竿の振動が指先に伝わって来る。
「もしかして、ドンシクさん、そっちは当たりですか?」とジュウォンが聞いて来た。
「分かりません……いや、そうかも。」
クソっ、空気を読まないタコだ。
糸を垂らしてから一時間もしないうちに、生きのいいタコが三杯釣れた。
うねうねとカンバンで踊るタコをクーラーボックスに入れて、これって多いんでしょうか、と不安げな表情を浮かべたジュウォンは言った。
多くはないような気がする。
大小取り混ぜたタコのたった三杯で、釣り船の運賃の元が取れたと思う人間はいないのではないだろうか。まあ、俺のような庶民と違って、ジュウォンは体験に金を払う、という金持ちの仕組みに慣れているので、気にはならないのかもしれないが。
今日のように潮流が早いと、釣れないらしいですよ、と船長に言い含められた通りの言葉を口にすると、ジュウォンはほっとした顔つきになってから、そうした表情を誤魔化すように「魚が釣れ過ぎたら海に戻す、というのを、一度やってみたかったです。」と言った。
言動が一致してませんよ、坊ちゃん。
まあいいか。
海洋資源を守ろう、というのは、いかにもジュウォンらしい。
クーラーボックスに入っていたコーン茶のペットボトルで一息入れてタコ釣りに戻ると、ジュウォンは、今度は先週の話しを始めた。
一票を投じて来た後で、ちょっとしたハプニングがあったらしい。
「大学生のような女の子から、これにスタンプを押したらいいですよ、と猫の顔をしたカードを渡されたんです。」
売春行為の斡旋かと思ってカードを裏返しても、電話番号のような個人情報も書いてなかったという。狐に化かされたような気持ちになったジュウォンが、投票所から出た本人を呼び止めて話しを聞くと……。
「最近は、投票に行ったことをSNSにアップロードするのが流行りなんだそうです。初めて知りました。」とジュウォンは言った。
へーえ。そのくらい知ってますよ、と言いたかったが、俺もそんな話は初めて聞いた。その手の流行りは、昔はミンジョンの管轄だったのだ。
ドンシクが愛するミンジョン。(こちらは確定だ。)
ドンシクを愛するジュウォン。(これはどうだろう。)
「あなたにも、女の子から渡される名刺には、きっと個人的な連絡先が書いてあるはず、っていう知識があったんですね。」
おっさんに対するモテ自慢かと思ったら、とからかうと、ジュウォンは、僕じゃありません、と苦笑した。
「クォン検事が、昔からその手の話題が好きなんです。僕には縁がない話だと思っていましたから。」と話を逸らした。
そうか。坊ちゃん自身は、今はそういうのがあってもいいかな、くらいの気持ちになってるということだろうか。
確かに、マニャンを離れた場所でそういう縁が出来たって、何もおかしなことはない。
ジュウォンの隣で、タコの当たりを気にしているような顔をして釣り竿を立てながら、そんなことを考えていた。
ミンジョンだって、もし生きていたら、誰かにカードを渡すことがあったかも。それとも、他人事みたいに、選挙なんか興味ない、と笑っただろうか。
もし生きていても、きっとマニャンに戻っては来なかっただろうけれど。
丁度いいタイミングで、マブリーみたいなごつい腕をした船長が昼飯を配りに来た。
ジュウォンは、飯を食い終わると箸を置いて、「来年も、釣りに来ませんか。」と言った。
「来年も?」
「はい。」と頷いた。
「ドンシクさんとは、メールをするよりも、直接話をしたいです。」
「はい、そうですね、それがいいと思いますよ。」
真っ直ぐに目を見て、そんな風に熱の籠った口調で話しをされると口説かれているような気がするけど、『直接話をしたい=その方が話が早いので』以外、何も考えてないんだろうな、こいつ。
やっと釣れたタコ八匹を積んでマニャンに直帰出来るような体力もなく、生きたタコの半分は、宿で玉葱や人参、豆もやしと一緒にチュクミポックムにされてしまった。(俺は塩辛にしたいと言ったが、ジュウォンが「地元の人が勧める食べ方でいきましょう」と強権を発動した。)
釣ったタコを炊き立ての白米と存分に食って出して、これで滋養強壮、下半身もムキムキですよとジュウォンをからかいながら、帰路も俺が運転して、やっとのことでマニャンに帰りついてみれば、結局は今日も、少人数の回である。
ジファ、ジェイ、俺、坊ちゃん。
そもそも、『ハンジュウォンを囲む会』というコンセプトでは人を集めづらい、という根本的な問題もあるかもしれないが。あるいは、マニャンの派出所の人間は、もうすっかり死に絶えたのかもしれなかった。昨今流行りのゾンビアポカリプスというやつだ。
くつくつと鍋の中で煮えるマニャン精肉店の噛みにくいホルモンをやっとのことで飲み込んだ様子の坊ちゃんは「考えてみれば、僕らは二日連続のタコですね。」と言った。
本人は客観的に物事を見ているような顔をしているが、こっちからすれば、完全にツッコミ待ちである。俺の隣には、「こいつ、シメていい?」と言わんばかりの顔つきでこちらを伺ってる般若もいる。
タイミングよく、肉をもっと食べるならサムギョプサル追加しましょうか、と天使のような店主が、温め直したチュクミポックムと炊き立ての白米を持って来た。
うん。
ほかほかと湯気を立てる炊き立ての白い飯があまりにも美味い。
白米に逃避する俺に対してか、特に何かを気にする様子もなくホルモンを黙々と咀嚼するジュウォンに対してか――あるいは二人ともにか、大きくため息を吐いたジファは、「あんたたち、覚悟しな! 切り刻んでやる!」と啖呵を切って、タコのぶつ切り職人になった。
向かいに座ったハンジュウォンが、釣果の入った鍋から恐る恐るタコの足をつまんでいるのを見かねて、ジファは、白米に鍋の中身をぶっかけた。
「食べな。」
懐かしい。
いつもなら、ジフン相手にやってたな。
「ジファがまさか、外で姉らしさを発揮するとはね。」
「なんか文句ある?」
「ない。」
けどなあ、俺たち、ハンジュウォンを構い過ぎじゃないか?
……まあいいけど。
炊き立ての白米をかきこんでいるハンジュウォンも、食事が美味いことを初めて思い出したような顔をしている。
「ナッコプセは、プテチゲより旨いですか?」と聞くと、ジュウォンは少し考えるような顔つきになった。
「分かりません、でも……僕は好きです。」と言ってジュウォンが俯く。
そうかそうか。
それでこそ、タコと一緒に海に揺られた甲斐があったというものです。
清きハンジュウォンに盛大な拍手を。
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