大嫌い



徹郎さん、と肩を揺すられて起きた。
目が覚めると、皓々としたリビングの明かりを背景に、心配そうな顔をした譲介がこちらを覗き込んでいる。
年下の男は、痛みを堪えているような顔つきでこちらを見ている。
昼飯を買いに外に出た後でチェーンをかけ忘れていたらしい。こいつがここにいるということは、そういうことだろう。すっかり寝入っていたようで、鍵を開ける音も聞こえなかった。
今は何時か分からないが、カーテンを引いてない外は視界の端に入っている。とっぷり日が暮れているところを見ると、七時は過ぎているはずだ。
TETSUがうたた寝をしていたソファは、時々は譲介も使っているソファベッドだ。普通の長さのソファなら、ふくらはぎから先がはみ出るので昼寝には向かないが、六人掛けも出来そうなこのソファに限っては、外に出るのが踵辺りまでで済む。
「いつ帰って来た?」
「ついさっきです。電気を付けたらあなたがこんなところで寝てるから、」とそこまで言って譲介は口を閉じる。
クエイド大学からの学生の受け入れが始まり各科がてんやわんやになっているこの時期、譲介はまたも職場に泊まり込みの日々が続いていた。今朝方、朝寝の隙にこっちに戻って来て新しい着替えも持って行ったことだし、まあ当分帰っては来ねえだろうと踏んでいたが、当ては外れたようだ。
「正直に言ってください、今日、どこで何をしてたんですか?」と譲介は手を伸ばして頬に触れた。今の時点ではもうほとんど痛みはないが、触れられれば多少はひりつく。
「痛むんですね。」譲介は断定口調で言った。
「おめぇなあ、分かってて触るか?」
青あざにはなっていないが赤みはある。外出するときは絆創膏を貼る必要があるとはいえ、さほど目立つモンではないと高を括っていたのが不味かったようだ。
温厚を絵に描いたような医者だと評判の『ジョー先生』が、跳ねっ返りだったガキの頃のように目が据わっているのは尋常ではない。ちょっとやそっとの口車では誤魔化されてはくれないだろう。
譲介が触れているこの小さな傷を負ったのは、もう一昨日の話だ。それなりの時間が経っているにもかかわらず、頬についた赤みが引かねえのは年のせいか。
実際のところ、譲介が心配するようなことは何もなかったが、正直にことの成り行きを話したところで、別の面倒が生じるだろうことは分かっていた。はあ、とため息を吐いて寝転んでいたソファから起き上がった。

このところのTETSUは、クエイドの診療外の時間に引き受けている患者がいる。
そのほとんどは、いわゆる裏通りに暮らす女たちだ。田舎から身一つで、家出同然に出て来た孤独な女がほとんどで、暴力を振るうヒモまで付いている。妊娠して働けない上に、養うべきガキを抱えて、狭く汚い家を追い出されそうになっている三重苦の女もいて、そうした女には出産までのヤサを見つけてやる必要がある。三文スパイ小説か、ドラマの証人保護プログラムかという話だが、その新しいヤサ――シェルターが準備出来ると、事前に渡したプリペイドの携帯に連絡をする。実際には、顔見知りになった時点で、あのクエイドの司書のような真っ当な女が関わっている組織に引き渡すべきなのだろうが、財団の外で関わっている訳アリの女は、生憎、そうした日の当たる場所を歩いて来た女たちとはすこぶる相性が悪い。皆、騙されるのを承知で、TETSUのような得体のしれない男に身を預けることが習慣となっているのだ。
普段なら、家移りを前にした女の家にわざわざ足を運ぶことはしないが、三度掛けて電話が繋がらないので念のためかと顔を見に行ったタイミングで、ろくでなしのヒモのひとりと鉢合わせしてしまった。待ち伏せていたヒスパニック系の男の膝を砕いてから女を逃がした、そこまでは良かったが、そのヒモが二人組だったのに気づかなかったのが災いした。返り討ちにはしてやったので、下手を打ったというほどではないが、まさか攻撃の筋があれほど分かりやすい若造に、こんな目立つ場所に怪我を負わされるとは。
よくよくナマちまったもんだ、とは思うが、それをすっかり主治医に話しちまうほど耄碌しちゃあいねえ。
「……おめぇは心配しすぎなんだよ。」
なるべく突き放して聞こえるように口にした瞬間、譲介は理解できない、という顔つきでこちらの顔を凝視した。
頭を掻きながら「おい、救急箱から絆創膏取って来い。」と言った。
手当を任せている時間くらいは話をしてやるかと思っていると、譲介は真横に腰を下ろして、こちらを伺っている。
「おい、聞こえなかったか?」
「徹郎さん、先に僕の質問に答えてください。」
真っ直ぐ切り込むような視線を向けられたが、譲介のそれには致命的に殺気がない。
政治家やヤクザものと渡り合ってきたオレが、このぐらいの圧で折れるとでも思ってンのか?
「おめぇは知らなくてもいい話だ。」
腕を組み、隣り合った男の顔を睨みつけると、譲介はこちらの言葉に息を呑んだ。
言い過ぎたか、と思ったが、半分は本音だった。
三十代半ばで医者としての船出を果たした譲介は、医師として、クエイドの次の支柱として、周囲に抜きんでての働きが期待されている。
こいつには、オレと違ってまだこの先がある。そう思うと、こうした金にもならねえ仕事の道連れにしようという気はなくなってしまうのだ。
あとはまあ、半分は売り言葉に買い言葉だ。
昨日の夜は、頬に付けた絆創膏を剥がしながら、この年でまだ新しい面倒に首を突っ込みたがる自分の気質を――しかも、バックアップもない中、ほいほいと単身でだ――いくらなんでも馬鹿のやりようだと思った。こっちが肚の中で何を考えているかは分かってないだろうが、譲介が同じように考えたとしても、無理はない。
「おい、譲介。」
きゅっと唇を引き結んだ譲介は、頑是ない子どものような顔でこちらを見ている。
言い過ぎた、聞きたいってんなら、後で話してやる。
それくらいは言ってやるか、と思って口を開きかけると、譲介は、何かに怒りを叩きつけたい衝動を堪えるときのように拳を握った。
お、一丁前にやろうってのか、と思って身構えると、譲介は握った拳をそのままに「あなたと一緒に暮らしてるのに、僕がそのことを知らないでどうするんですか!」と怒鳴った。
声がデケぇ。
患者として相対する時の理路整然とした普段の様子からはかけ離れたその言葉に、TETSUは目を剥いた。そもそも、一緒に暮らしていようがそうでなかろうが、言いたくないようなことまで口にする義理はねぇ。そう思ったのが伝わったのか、譲介は大きく深呼吸してから一度目を瞑った。そうして「話を聞きたいのは、あなたに自分のことを話して欲しいからです。全部じゃなくていい。でも身体や体調のことは、隠して欲しくない。」と言った。その声は、かつての譲介が、遠慮がちに何かを頼んで来るときの声にそっくりだった。
目の端には、涙がにじんでいる。
「おい、譲介。」
慰めの言葉を撥ねつけるようなタイミングで、譲介は徹郎さん、と名を呼んだ。
「心配させてください、……僕は、あなたの心配がしたいんだ。」
十五の年の僕には分からなかったし、分かったとしても言えなかったけど、今は言える。
譲介にそう言われて、TETSUは絶句した。
「昔から、あなたはずっとそうだった。大事なことを隠して、自分ひとりで何でも決めて。僕はあなたのそういうところが、……大っ嫌いだ。」
嫌いだ、ともう一度子どものように繰り返した譲介は、しゃくりあげるように泣き出した。
「そうかい。」
「僕は勝手に寂しくなって、イライラして、格好が付かないところはあなたには見せたくないから、必要もない相手に当たり散らしてた。」
必要もない相手、と譲介が言う相手が誰のことかは、聞かなくても分かる。
譲介は、小さなけもののような鳴き声を上げながら、TETSUの胸に拳を当てて、それでも飽き足らずに身体にしがみついてきた。涙が流れるたびに、胸の辺りに染みが出来る。
TETSUの頭の中には、泣き方を忘れた、石のような固い顔をした女たちの顔が思い浮かぶ。
おめぇは、泣けるようになったか。
譲介の背に腕を回して、軽く背中を叩いてやると、子ども扱いしないでください、と言いながら、ぎゅうぎゅうと抱きしめて来る。
二十年も前に、十五のガキを拾って、新しい人生のレールに乗せた。
あの頃は、エンジンを積んで燃料を持たせてやりゃあ、ガキは勝手に自分の道を走って行き、この目の前から消えると思っていた。

――僕があなたを心配しちゃいけませんか?
――心配ってぇのはなあ、大人がガキにするもんだ。

あの頃、ちゃんとこんな風にやりあっていたら、こいつも、ずっと簡単にオレの手を離すことが出来たんじゃねえだろうか。
益体もないことを考えていると、譲介は、こちらの胸に顔を埋めたまま、息を吸い込んで言った。
「僕は、あなたのことが好きです。」
「……ンなこたあ、とっくに知ってるよ。」




やっと落ち着いたのか、涙が止まったらしい譲介は、鼻を啜りながら顔を上げた。
「あなたは僕にとって大事な人です。あなた自身にだって、雑に扱って欲しくない。この先、無茶はしないと約束してください。」
「そいつは……難しいな。」
「難しくても、努力してください。」
譲介は、唇を引き結んで、TETSUの顔を見つめている。
泣きはらした目と、赤くなった鼻。
十五のガキが持たなかった脆さを晒して懇願する男から、目を離すことが出来ない。
この先はもう、家族の『真似事』をしたい訳ではないと。
和久井譲介という男は、そう宣言したのだ。
「ったく、男前が台無しじゃねえか。」と額を指で弾くと、漸く笑いやがった。
「泣いたら腹が減りました。」と所在なさげな顔で言うのに、何かないかとズボンのポケットを探ったら、中から小さな飴が出て来た。
「食うか?」と差し出すと、「それはあなたのものです。」と譲介は言って、何か作りますね、と立ち上がった。
確かに、今は外に出て行けるようなツラじゃねえか。
小さな包みを開けて出て来た飴玉を舐めながら、台所でエプロンの紐を結んでいる男をまじまじと眺めていると、こちらの視線に気づいた譲介が、恥ずかしそうにはにかむ。

ああ、クソ。捕まっちまった。
そう思ったけれど、口には出せない。
泣きべそをかいた後の顔を無防備に晒して台所で立ち働く物好きな男を、TETSUは眩しいものを見るような目で見つめていた。

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