Afretwards, Afterwords

 彼を見送ったあと、静寂に包まれた施術室に一人佇む。
 冷え切っていた手のひらには、それでも最後に握った彼の手の温度が残っているような気がした。
 呼吸を止めた彼の頬に触れようとした。
 その瞬間、つるりとした頬がふわりと崩れて、土の塊になっていく。
 わかっていた。もちろん理解していた。彼もまた同じように理解をしていて、お互いにお互いではない相手を見て話していた。言えなかったことを言い合って、できなかったことをしてやりたかった。わかっていたけれど、それでも先ほどまで話していた相手の肉体が崩れていくのを見るのは妙な心地だった。拒絶と許容をどちらも孕んだ、やさしくてつめたい事実だけがそこにある。
 けれど、そのことがたまらなく嬉しかった。泣きたくなるくらいに。
「……よかった」
 よかった。今度は自分の手で、自分の意思で、見送ってあげられた。
 かつての自分は己の至らなさで彼を殺した。それは変えようのない事実だった。
 けれど、それでも。全てを失って、何も成し遂げられなかった自分に、彼の未来のために成せることがあることが誇らしかった。
 ざまあみなさい、北風総一郎。 
 平行世界の自分とやらに向かってわらう。彼はきっと知らないのだ、知ることもない。あの子を一度失ったこの絶望も──もう一度出会えた、この救済も。
 並行世界の美邦夏向を構成していた泥に手を触れた。 
「……ありがとうございます。どうか、末長く、良い現を」
 彼を見送るために使った薬品の残りを手に取る。
 椅子に腰掛けて、深く息を吐いた。
 注射針を重く感じることなどもう無くなっていた。
 注射を打ち込んだ最後、ゆらりと視界がゆらめき、とろりとした酩酊が訪れる中でふと思う。
 彼の最後がこのような微睡であって良かった。
 こればかりは、やってみなければわからないことだったから。
 口元には笑みを。あるともしれないあの世への希望を。
 もしもあの世があるのなら、僕はきっと地獄に落ちるのだろうけれど。
 それでも怖いとは思わなかったのは、きっと、彼のおかげだったのだろうと、そう思った。

===
◇◇◇

「……美邦さんを、呼んでいただけますか」
「は、」
 しばらくぶりに目を覚ました北風先生が最初に口にしたのは、僕らへの労いでもなく、研究についての示唆でもなく、あの被験者の名前だった。

 聖陽医療センター細胞老化研究部主任、北風総一郎が床に伏せるようになってから半年ほどが経過した。違法な人体実験、発端が不明な薬剤、諸々の条件からこの研究のことを知っている人間は聖陽医療センター内でも数人しかおらず、研究メンバーとして僕──三波が抜擢されたのも異例のこと。
 故に、彼が病床に伏せればその面倒を見るのは必然的に僕の役割となった。
 とはいえ、北風総一郎について僕が知っていることはそう多くはない。研究についての引き継ぎは、自分がいつ死んでも大丈夫なようになどという不吉かつ真っ当な文言付きで、丁寧すぎるほどに受けているというのに、北風総一郎という個人について彼は何も開示しない。
 知っていることといえば、彼が非常に優秀な医師であること、責任感が強いこと、表情の変化に乏しく私生活は不明であること。
 そして、ケース・セノリティクスの被験者である美邦夏向という青年にひどく付き纏われていること、ぐらいだった。

「やっほ〜三波くん! お元気?」
 先生の言いつけに従って美邦に連絡を取ってから、実際彼が病院に姿を現したのは3時間後のことだった。電話先に聞こえた声から外出していたのかもしれないが、それにしても訪れた彼の服装はいつもと変わらず洒落ていた。
「美邦さんと違って繊細なので」
「そっか? ま、元気だしなって! 笑ってる方が似合うよ〜三波くんも!」
 嫌味のように言えば、しかしそれが届いた様子もない。年齢を感じさせないつるりとした若々しい顔立ちに、へらりとした笑みを浮かべる彼に、大きくため息をつきたくなるのを堪えた。
「……先生がお呼びです」
「ん、あんがとね〜じゃ、ちょっとお借りすんね!」
 ひらり、と手を振って病室へと消えていく彼の後ろ姿を見送って、一つため息をついてから資料に戻った。
 北風総一郎もまた、ケース・セノリティクスの被験者だった。
 であれば、死にゆく彼の身体データも研究のために必要な資料としてまとめる必要があるのだから。

 結局、その後、僕が北風先生と会話を交わすことはなかった。
 美邦夏向との面会を最後に息を引き取った先生が最後に何を話したのかを、僕は知ることがない。

 手続きを終え、もう日もとっくに暮れた診察室から廊下に出た時、不意に風を感じて顔を上げる。
 窓は開いていないが、どうやら階段の上──屋上からの風の流れがあるようだと気づいた。
 
 そこにいたのは、あの美邦だった。
 赤い髪が闇に溶け込んで、青空のような薄く青い瞳が遠くを望む。
 手元では潰れた煙草の箱とライターが弄ばれている。
「……こんなところで何を?」
 声をかければはっとしたようにこちらを振り返る。
 手元に一瞬視線を落とした彼は、そしてまたこちらに向かってへらりと笑った。
「煙草、吸う?」
「健康に悪いんでやめました」
「わはは、そりゃそっか。お医者様はね〜そうだよねぇ」
 そうぼやく美邦の表情に、どこか苛立った。なんでもありませんよ、といういつも通りを貼り付けたような薄っぺらい笑みが、どうにも普段と違って気味悪く思える。
「屋上、一般人の立ち入りは禁止ですよ」
「俺って一般人?」
「…………」
 その問いにはつい黙り込んでしまう。しかし追撃が来ることもなく、ただただ彼は、ぼんやりと言葉を続けた。
「研究完成したら煙草の吸い方教えてもらう約束だったんよね」
 ま、俺が勝手にそう言ってただけなんだけど。
 主語もないのに、それが誰を指しているのかはすぐにわかった。
「結局教えてもらえなかったな〜」
 その声が震えていることに気づいたときには、もう、だめだった。
 腹が立った。自分は北風総一郎が喫煙者であったことも知らないのに。看取ることも許されなかったのに。美邦夏向はそのどちらもを得ているのに。
「貸してください」
 KENT 6・100・ボックス。チラリと視線を落として、そして煙草を2本抜き取る。一本は自分に、もう一本は美邦の口に咥えさせる。
 煙草を吸うのなんて数年ぶりで、せっかくの禁煙が断念されることは心苦しかったけれど。所作は体に馴染んでいたようで、容易に思い出せる。
 自分の煙草に火をつけてから、美邦へと向き直る。
「な」
「息吸ってください。ストロー吸うみたいに」
「ひゃい」
 そうして目を開いてまじまじとライターの炎の揺れるのを見る彼の煙草に火をつける。
 途端に、咽せた。
「〜〜ッ、ゲホ、やっば!? なにこれ、えーーけむいんだけど!!!」
「そりゃ、煙草ですからね。煙を吸うもんですよ、煙草って」
「や、そりゃそうなんだろうけどさ〜〜あー……びっくりした」
 言いながら興味深そうに煙草を指で弄ぶその所作は、先ほどの様子とは打って変わってやけにきまっている。
 そのほうが、らしいなと思った。煙草を吸うことだけが下手なひとなのが、ひどく不思議だった。
「……俺、総一郎くんのこと、好きだったんだよね」
「はい?」
「わはは、言われても困るか!」
 煙草を咥えて、しかし余り上手にふかせないままただ燃える煙を吐き出しながら、彼は続ける。
「ついさっき気づいてさぁ。40年くらい一緒にいたのにね、馬鹿みたいじゃんね」
 何も言わずに煙草を燻らせる。何を言うべきかもわからないし、そもそも何が言う義理があるとも思えなかった。
「俺さあ。せんせーの研究を完成させてあげたかった。総一郎くんに研究以外の幸せもあげたかった。だって、俺はずっと幸せだったから」 
 フェンスに背をもたれて、煙を吐く。その横顔に目線をやれば、青がうっすら潤んでいるような、耐えるような、限界まで張り詰めたようにも見えて。
「……確かに北風先生は朴念仁で頑固で気が利かないひとでしたけど」
「三波くん目線でもそうなんだぁ……」
「……そんな人があなたを近くに置いていた理由が、研究だけなわけないでしょう」
 そんなわけがないのだ。北風先生と美邦夏向の間にあった歴史を全て知るわけでもない。北風先生のことを全て理解しているわけでもない。ましてやこの目の前の男のことを知りたいと思ったこともない。
 ただそれでも、二人が共に在る光景はきっとかけがえのなく特別なものであったことだけはわかるのだ。わかってしまうのだ。それが本当に憎たらしいと思っていたから。
 美邦は、くしゃりと笑った。
「そーだったら、いいなぁ」
「はっ、馬鹿馬鹿しい。そんな辛気臭い顔で見送ったんですか、あなたらしくもない。そんなちゃらちゃらした服装で看取りに来ておいて」
「ちゃらちゃらってひどいな〜! だって最後に記憶に残ってる俺はおしゃれで楽しそうであって欲しいじゃん!」
「そうでしょうね。だから、」
 煙草をもう一本取り出す。これが北風先生の煙草なのだとしたら遠慮すべきかと一瞬思ったが、もう吸うこともないのなら早めに消費するのが吉だろうと思い直す。
 だから。洒落た格好でいつも笑っていて、能天気で、衝動的で、頑固だったから。
「……そうだったんじゃないですか?」
 知りませんけど。
 煙と共に吐き出した言葉は空に溶けていく。
 抱えた思いも、いえなかった言葉も、同じように溶けていく。
 吸ったら吐き出す、吐き出したら吸う。その循環が呼吸だった。
 この空間において、煙草は僕らの呼吸を補助するツールだった。
「煙って、目に沁みんね~」
「……まあ、そうかもしれませんね。慣れないうちは特に」
 僕は自分の煙の行く末しか見ない。先生に残された研究資料を取りまとめるのに時間はいくらあっても足りないし、思考の整理はすぐにでも行うべきだった。

 だから、隣で揺れた声の主がどんな顔をしているのかなんて、気にしやしないのだ。 

===
◇◇◇

「やっほ~、総一郎くん」
「……ずいぶんお早い到着ですね」
「ま、そりゃあね。総一郎くん直々のお呼び出しですから?」
「ああ……僕が意識を失っていただけですか」
「あ〜……あんたって、いっつもそういうとこ鋭いんだよなぁ。俺も結構隠すの上手い方だとは思うんだけどね」
「患者のことはきちんと見ているつもりです」
「はいはい、そーだね。せんせーはずっとそうだった」
「……私はもうすぐ息を引き取るでしょう。遅くとも本日中、早ければ次の瞬間にでも」
「そっかぁ。ま、そーだよね。体、しんどくない?」
「つらくない、といえばうそになるでしょうが……今更の話です」
「……」
「そんな顔をしないでください。今はどこか……安らかな気持ちなんです」
「なんでそんなこと言うの?」
「……」
「あー……だめだ。俺、ごめんね、俺……最後だから絶対笑って、あんがとねって、それだけ言いたかったのにさぁ。辛気臭い顔なんかしたくないのに、俺、」
「美邦さん」
「……死なないでよ。生きててよ。つらくても、痛くてもさあ……」
「美邦さん、」
「俺を置いてかないで」
「……あなたの主治医は僕でしょう」

 そう言って、緋色の瞳が真っ直ぐにこちらを射抜く。
 こんな年になって、最後の最後にやっとわかった。
 北風総一郎のことが好きだった。彼の魂が好きだった。不器用で潔癖で、傲慢で臆病で、やさしすぎるところ。つるりとした無関心を装った、冬の湖面みたいに透明で静かなまなざしと、そこににじむわずかな情。そんなところが好きだったのだ、腹が立つくらいに。

 衝動だった。
 ぐいと胸ぐらを掴んだ。緋色の瞳が一瞬大きく見開かれたのが印象的で、けれどそれはすぐに見えなくなる。距離をゼロにしたのだから当然のこと。
「……心臓が止まったらどうするつもりですか?」
「こんなんで止まるほどやわな心臓してないっしょ? 総一郎くんは」
「僕をなんだと思っているんですか」
「俺の好きな人」
 そう言えば、彼は困ったように眉を下げた。
「本当に……訳のわからない人だ」
「俺からしたら、総一郎くんもずっとわかんなかったよ」
「お互い様ですか」
「そうそう」
 へらりと笑った。
 そのはずなのに、不意に彼がこちらへと手を伸ばす。
 頬に手が触れた。ほっそりとして冷たい指先。爪が伸びていて、そうして少し乾燥している。
「なあに? 俺のかっこいい顔、近くで見たい?」
「……そうですね」
「へ」
 困ったように下がった眉。口元が少しだけ緩んで、笑顔と呼ぶには少しばかり歪で、似合っていなくて、下手くそで。
 「近くで見届けたいと、そう思いました。僕が救えた命であるあなたを」
 それでも紛れもなく彼は微笑んでいた。
「笑ってくださいますか」
 その言葉で、自分が泣いていることに、やっと気がついた。
 頬に添えられた手を取って、しっかりと握りしめる。体温を分け与えるみたいに。
「……あんがとね、せんせー。あんたに出会えてよかった」
 目を細めた彼は、そのまま目を閉じる。
「おやすみ、総一郎くん」
 もう一度だけ、唇を重ねた。
 この口はもう文句をいうこともないことが嫌でもわかって、それがひどく、寂しかった。
 これが童話だったら、王子様のキスでお姫様は生き返りました、になるかもしれないけれど、あいにくここは現実で、自分は王子様じゃないし彼もお姫様なんかじゃなかった。
 だからこれは、なけなしの初恋の置き土産だった。
「次に会うときは、最初っから100%の笑顔で行くからさ」
「で、そん時には、告白の返事も徴収すっからな、利子込みで」
「気長に覚悟して待っててね」 
 それまではこの、ひどく愛おしい現を、精一杯にお洒落して生きてやろうと思うのだ。

powered by 小説執筆ツール「arei」

10 回読まれています