手当て
ヘルタ曰く、「オーバーヒートした」穹を迎えに来るよう要請が来たのはアーカイブの整理を始めてから11システム時間が経過した頃だった。その時は星神についての更新箇所を確認していて、虫の知らせのようなものもあったかもしれない。ちょうど手が空いていたのは自分だけだったこともあり、万が一の場合でも人ひとりくらいならば抱えて来られるからと広げていた資料を壁に寄せてヘルタから指定された場所――医療課へと向かった。
宇宙ステーション「ヘルタ」のサポート部分からベース部分へ進み、階段を上がり医療課の自動ドアをくぐる。決して初めてではない行路で妙に気が急いていた自覚はあったが、医療ベッドに寝かされた穹を見ていよいよひどい焦燥感に襲われた感覚はまだじとりと頸裏を湿らせている。医療課スタッフから「しばらく安静にしていればじきに目を覚ます」と説明を受けてようやく詰めていた息を吐き出した。ただ少し情報過多で脳がパンクしてしまったのだろう、とも付け加えられた。普段から口よりは行動が賑やかな彼も意識のない今ばかりはさすがに静かだとして、呼びかけても反応がないのは少々不安を煽られた。
とはいえ本来の目的は穹の迎えであり、当初の想定通り彼を抱え上げて列車へ戻ることになった。人を横抱きで抱えるには実はコツと相手の協力が要るのだが、穹からの協力は望めないため縦抱きで肩に担ぐ一歩手前のような姿勢になったのは許してほしい、と思う。その後どうにか列車へ戻ってきたものの、ラウンジ車両のソファでは寝づらく、また彼の様子を見ていられる人もいないため、アーカイブ室の自分の布団に寝かせることでひとまず目的は達成した。未だ目覚める気配はない。そのまま離れようとしたところで眉間に皴を寄せているのを見つけ、上着を脱がせ掛け布団をかけてやると幾分表情が和らいだ気がした。
「……穹」
枕元で胡坐をかき、今一度穹の寝顔を観察する。続けて手首に触れた。呼吸も脈も落ち着いている。基礎的な救命方法は身につけているが、医術に関する知識は残念ながらそう多くはない。特に自分の場合は、持明族、ひいては龍尊特有の力さえ不完全だ。思えば、宇宙ステーション「ヘルタ」で初めて彼に会った時もこのような状況だった。あの時は人命救助が最優先事項であったため迷わず人工呼吸の措置を選んだのだが。
「……」
アーカイブのサーバーやファンが駆動する音だけが聞こえるこの場所で、無性に穹の賑やかな声が聴きたくなった。腕を布団へ戻し、目元にかかった髪を避けてやる。そのまま数度頭を撫でてから枕元を離れアーカイブの整理を再開した。
肩を揺すられる感覚に意識を急浮上させると、視界の大半を鼈甲色が占めていて面食らった。
「丹恒、おーい丹恒」
思わず身構えるも聞こえてきたのは随分聞きなれてきた声で、視界を占めているのも彼の顔だと結論に至る。壁に備え付けられたテーブルと揃いの椅子の上、いつの間にか寝ていたらしく最後に時計を見た記憶から1システム時間ほど経っていた。
「布団ごめん」
背もたれ側から顔を覗き込んでいた彼は僅かに掠れた声で謝罪を口にした。
「気にしなくていい。それよりも、意識や記憶の混乱、呼吸や脈に異常はないか?」
「ん、この通りピンピンしてる」
「そうか。それでもしばらくは様子を見て、何か少しでも違和感があればすぐに言うんだ」
「分かった」
穹は聞き分けよく返事をして、立ちながら背後のテーブルの縁に重心を預けた。キシリと天板が軋む音が聞こえたが、それよりもまじまじと顔を見られているような視線が気になり居ずまいを正す。
「どうした?」
「丹恒が看病してくれたんだよなと思って」
彼はからりと笑って、「改めてありがとう」と言う。
「何か不手際があっただろうか」
「んーや、誰かが頭を撫でてくれる夢を見たからあれはきっと丹恒だったんだなって」
あの時か、と穹を連れて戻ってきた時のことを思い出す。恐らくあの時、移動時の振動など外部的な刺激で意識が浮上しかけていたのだろう。
「嬉しかったんだ。……ずっと前に、誰かにもそうしてもらったことがある気がして」
穹が忘れている記憶の一部なのだろう。彼は自分の足元に視線を落としながら、朧げなそれを懐かしむような目をしている。かと思えば、次の瞬間には好奇心に満ちた目をまっすぐに向けてくるので視線が正面からぶつかった。
「そういえば丹恒は、雲吟の術が使えないって前に言ってたよな?」
「ああ。癒しの力を持つものは全て白露に引き継がれたんだと思う」
「ふむふむ、なるほど」
テーブルから離れた穹が再びこちらへとにじり寄ってくる。自身の顎に人差し指と親指を当て、さながらアーカイブで観た映画に出てくる推理中の探偵のような仕草だ。
「これが本当の手当てか」
「手当て?」
穹の思考回路と発言の意図が掴めず――今回に限らず毎回のことではあるが――オウム返しをすると、彼はふふんと得意気に鼻を鳴らして俺の眉間に人差し指を向けた。
「よくぞ聞いてくれた。手当てというのは、すなわち、手を当て寄り添うことだ」
「そうだな?」
「丹恒は特別な力は使えないかもしれないけど、俺を心配して寄り添ってくれたんだなぁと思ったら何かじーんときた。この前ちょうど薬とか食事で内側から治すのも大事だけど、外側からでもできることが手当てなんだって教えてもらったから」
確かに持明族は雲吟の術だけでなく薬の扱いにも長けているが、そもそも最も初歩的な治療である手当てとは、外側から手を当て寄り添うことから始まる。丹鼎司に赴いた時に丹士の誰か、あるいは白露から説かれたのだろうと想像するのは容易だった。
「何かこうパーッと治っちゃうのも凄いんだけど! でもそれって傷は塞がっても、傷ついたっていう気持ちは置き去りっていうか……心は痛いままだからさ」
「そうだな」
それを言うのなら、穹にも特別な力はないが間違いなく俺に手当てをしてくれた一人だった。何か特別な言葉や扱いが欲しかった訳でない。そんなものがなくとも、あの時鱗淵境で傍にいてくれたことこそ彼がしてくれた手当てだったのだから。
穹は向けていた人差し指を下ろし、そのまま自身の胸元を服が皴になるのも構わず握り締めている。指先が白くなるほど握られたその手が痛々しくて、右手で触れると少しだけ力が緩んだ。
「何だったかな……心を……そく……?」
「心を熄《そく》せば、身は安らかになる」
「そうそれ」
内側には触れられなくても、外側からできることもある。その言葉をなぞるように、触れていた胸元の拳から頬へ右手を添わせていけば、穹は掌へ自ら頬を摺り寄せて見せる。途端にこみ上げてきた愛しさとぬくもりに触れた幸福を逃がさぬよう、そのまま穹を引き寄せて腕の中に閉じ込めた。
「わっ! 何だ丹恒、甘えん坊か~?」
「……そうかもしれないな」
「俺ってば美少女な上に癒しオーラも出てるからな!」
そう言って椅子に座る俺の膝に乗り上げたまま楽しそうに笑う穹は、任せておけという顔でそっと抱きしめ返してくれた。
――なぁ丹恒、手当てしてくれてありがとう。模擬宇宙って体は傷つかないけれど、心は傷つくんだよ。だから、本当に嬉しかったんだ。
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