ドアの外で 「マテリアリスト」の感想と掌編
「マテリアリスト」
セリーヌ・ソン監督作品 2025年
☆ネタバレあり
感想
もっとロマコメなのかなと思ってたんだけど、セリーヌ・ソン監督作品なのでそんなわけもなかったですね。いかにもロマコメ的なあらすじの中で、もっと醜い部分も怖い部分も描いていて、その割に展開としてはおとぎ話で、そのへんのさじ加減が絶妙でした。
醜悪なのは、「アセット」とか「バリュー」なんて言葉がひたすら繰り返される「市場」みたいな場で、美しい言葉で飾って取引されるのが「結婚」だということ。
そして怖いのは、そんな場ですら、どうしたって女性が弱い、或いは不利な立場に追い込まれることがあるということ。そして男たちの多くが、それを当たり前みたいに捉えること。
自分自身の価値を、他人からの評価でしか測れないこととその孤独。すべてを金額に置き換える資本主義の認知のゆがみ。ニューヨークで暮らすことはそのまま、極端な貧富の差を目のあたりにしながら受け入れて暮らすことでもあること。
人をボードゲームのコマみたいに扱い、記号で呼ぶエージェントたちが全員着飾った若い女性であること。それもなんかすごく歪みに思え。
でもラストはとてもロマンチック。
いろんな醜い・怖い面はサラっと読み飛ばして、表象だけ楽しむということもできると思うけれど、私はずっとルーシーのクライアントの一人だったソフィーの存在と顛末が気になって仕方なかったのでした。
なのでこの映画からの短いお話は、ソフィー目線です。
そしてめちゃめちゃネタバレなので、ご注意ください。
☆ネタバレあり☆ネタバレあり☆ネタバレあり☆ネタバレあり
「ドアの外で」
今日、ルーシーとジョンは結婚した。でも派手な結婚式はなかった。手続きは市役所で済ませて、こじんまりとしたレストランに友人たちを招いてお披露目をする。それだけ。
そしてなぜかそのパーティーに、私は招かれている。とてもカジュアルな雰囲気で、結婚式というより、本当に親しい人だけの誕生日祝いの集まりみたいな場に。
正直言って、最初に招待を受けたときはすごく困惑した。
だって私は、かつてマッチメイカーであるルーシーのクライアントだったけれども、「事件」のあと彼女の会社と紹介された男を訴え、話したいと訪ねてくれた彼女を路上で罵ったんだから。それなのに、そのあとに彼女を深夜に自宅に呼び出して助けを求めた、迷惑な女なわけだから。
でも、訴えた相手が自宅に押し掛けてきた夜。私が恐ろしくなって助けを求めたのはルーシーだった。
彼女はかなり遠いところにいたのに駆けつけてくれて、私がぶちまけた不安や不満や恐怖について辛抱強く付き合ってくれた。そして落ち着くまでそばにいてくれた。それこそ、夜が明けるまで。
あの晩確かに私たちの関係性は大きく変わって、そのあと私たちは個人的に連絡を取り合うようになった。
それでも、もし「私たちは「友達」と言える?」 と質問されたら、私はまだ少し考えることになると思う。
マンハッタンで本当の「友達」を見つけるのは、理想の夫を見つけるより難しい。夫はそれこそ、マッチメイカーに依頼して探すという手段もあるけど、友達はそうもいかないから。
実際あの恐ろしい晩、私は電話をかけて助けを求める相手を思いつけなかった。
飛んできて助けてくれそうな人を思いつけなかったというより、そこに至るまでに起きた色々を誰かに話せる自信がなかった。高いお金を払ってマッチメイカーを雇ったのにろくな相手と出会えず、あげくレイプ被害に遭うなんて。それまでの経緯でどれだけ傷つけられてきたのかという点についてだって、正直に話せる相手はいなかったんだから。
そしてそのことがまた、とうにぼろぼろだった私の自尊心をひどく傷つけていた。友達すらいない女が、まともな夫を見つけようとするなんて高望みだったのだ、と。
でもルーシーは、私が未来の夫候補について出したバカみたいな条件や、彼女が紹介した男たちがどんな連中だったか、すでに何もかも知っていた。私は彼女に対して何も隠す必要がなかったし、彼女が私をジャッジしないという根本的な信頼関係はちゃんとあったのだ、ということを、私はその夜に思い出すことができた。
□
パーティーの途中で少し休憩しようと店の外に出ると、秋の風がひんやりと冷たいくらいだった。それまで頭の中をいっぱいに占めていた今日初めて会った人たちの名前とか酔いとか喧騒が一瞬ですっとひいて、私は一つため息をついた。それはけして嫌なものではなくて、久しぶりに味わう開放感みたいなものに近かった。
店の中が賑やかに盛り上がっている雰囲気は、ドアを閉めても外まで伝わってきていた。けれどももうだいぶ遅い時間だ。
私はたばこ一本だけ吸ったら中に戻って、ルーシーに改めてお祝いを言って、そして帰ると伝えようと思いながら、ポケットからシガレットケースを取りだした。
そしたらふいにドアが開いて、誰かが出てきた。私は一歩よけてたばこを一本取りだし、それからライターを探そうとバッグに手を伸ばしたのだけど。
「どうぞ」
あまりにも完璧なタイミングでライターの火を差し出されて、私は驚いて火をつけるのも忘れて相手の顔を見た。そこに立っていたのは今日の主役の一人、ルーシーの夫になったばかりのジョンだった。
「あ」
「帰っちゃうのかと思って追いかけたんだけど、たばこだったならよかった。どうぞ」
「ありがとう」
差し出された火をもらって、でも口をつける前に私は返した。
「さすがにお祝いのパーティーから黙って消えたりしないわ」
私はジョンに会うのは今日が初めてだった。でもここに来た時に、他のあらゆる客たちと同じように、私はふたりにお祝いを言ったしプレゼントも渡した。たくさんの人がいたから、その場でそれ以上の会話はできなかったけど。
ルーシーと彼の馴初めについては、結婚することにしたというルーシーの言葉に驚いた数ヶ月前にある程度のことは聞いてた。
『まさか私が、一文無しの売れない役者と結婚することになるなんて!』
ルーシーはそんな言い方をして笑ったけど、幸せに輝いている表情がまぶしいくらいだったし、パーティーでのふたりの様子もものすごく美しいカップルで。
そのあと彼らの友人たちから、二人の過去にあったあれこれを、たぶんかなりの誇張も含めていろいろ聞いてしまったけれど、それも全部彼らの心からの祝福が込められた内容だったから、私はもう勝手に彼がとてもいい人なのだとわかった気分になっていた。
ジョンは主役だっていうのにもうジャケットもタイもどこかに脱いでしまったみたいで、でもシンプルに白いシャツ一枚の姿が、彼の率直さと二枚目ぶりを目立たせてもいた。
彼は私が言った言葉にちょっと笑って、それから自分の煙草にも火をつけ、美味しそうに一服して見せて、それから言った。
「失礼に聞こえたらごめん。でも知り合いもいないだろうから、楽しめてるかどうか心配してたんだ」
私は最初、ルーシーの職場の人達もこのパーティーに招かれているんじゃないかと心配した。ルーシーのお祝いはしたくても、あの会社の人達には二度と会いたくなかったから、もしそうなら断るつもりだった。でもルーシーは私の心配を笑い飛ばした。
『まさか。あの人達を呼んだりするわけない』って。
だから今日ここには、私の知り合いはルーシー以外誰もいなかったんだけど。
まさか主役の彼が話したこともない私のことなんて気に掛けてたとは思わなくて、私は思わず聞き返した。
「ルーシーが?」
「俺もだよ。ちょっと個性が強すぎる連中ばっかりだから、居心地悪いんじゃないかと」
ルーシーはかつて俳優を目指していて、そのころにジョンに出会ったと聞いた。ジョンは今もオフブロードウェイで俳優の仕事をしている。
彼らの友人たちはアーティストや俳優やジャーナリストって感じの人達ばかりで、確かにとても刺激的だった。
「私がこれまで出会ったことがないような人達ばかりで、ものすごく楽しんでる」
そう言ったら彼はチャーミングに眉をあげて見せて笑った。
「ならよかった!」
「気にかけてくれてありがとう。私のこと知らないのに」
そう言ったら、彼はちらっと笑った。
「会うのは初めてだよね。でも君の家がどこにあるかはよく知ってる。あと、玄関前の階段がどんな感じかとかも」
その言い方にぎょっとした、のはそのまま私のこの正直な顔がそのまま伝えてしまったから、ジョンは笑った。
「あの晩俺は、ルーシーと一緒にいたんだ。それで君の家まで行ったんだよ」
彼が言った「あの晩」というのがいつのことか、彼の表情で伝わって、私は息をのんだ。
「まさか」
「『詳しいこと話せないけど、クライアントが危ない目に遭いそうになってるから行かなきゃ』って。ルーシーがあんな青い顔するなんてよっぽどのことだし、『ただのクライアントじゃない人なの』って言うから、車を飛ばしたんだ。だいぶ早かっただろ?」
私はただ頷いた。
『2時間くらいでつけると思うから、それまで部屋から一歩も出ないで!』
そう言った彼女は実際2時間もかからずうちに家に来てくれたから。
「まあでも、俺がついてくわけにもいかないし? ルーシーには帰れって言われたんだけど、その男が戻ってきたりしたらいけないよな、と思ってしばらくそこにいようと思ったんだ。
結局寝ちゃってたからまあ、何の役にも立たなかったんだけど。不審者が寝てるって通報されなかっただけラッキーだった」
私はとっさに言葉が出なかった。私が住んでる部屋の玄関前の階段は、ニューヨークのアパートメントによくある、ありふれたコンクリートの数段だ。確かに、凍えたりするような季節ではなかったけど、そこで寝たいと思えるような場所じゃないことは確か。
そしてやっと私の口から出た言葉は、本来言うべきだったお礼とかとはちょっと違ったものになった。
「……どうしてルーシーがあなたを選んだのか、改めてわかった気がする」
彼らがその晩どこで何をしていたのか、私は知らなかった。でもなににせよそれを放り出して、2時間かけて戻ると言った彼女に付き合って、見ず知らずの私のことを気にかけて一晩外で待っていてくれる人。
私が契約していたマッチメイカーのリストにはけして載らない、載ったとしても身長以外のスコアがつかない人。
たくさんの「高条件の男たち」を見てきたルーシーが、結局選んだ相手。
それがジョンだってこと。
「本当に、心からおめでとう」
一人で納得して、そしてやっとそう言った私に、ジョンはよくわからないぞ? って顔をしながらも、笑顔で頷いてくれた。
「ありがとう」
その時店のドアがすごい勢いで開いて、ジョンのお友達らしい男性が顔をのぞかせた。
「こんなところにいたのか? 戻って来いよ!」
それを聞いて、私は自分が手にした煙草のことをすっかり忘れて話し込んでいたことに気づいた。
「主役は戻って!」
そう言ったら、ジョンは腕を掴んだお友達に引き戻されかかりながらも言った。
「君は?」
「煙草のこと忘れてたから、これを吸ったら戻る」
「OK! じゃあまたあとでね」
存在を忘れられていた煙草は、風に吹かれて半分くらい灰になっていて、私はそれが落ちて風に吹き飛ばされるのに任せながら、独りで笑った。
私の訴えに対しては、あれからうんざりするようなやり取りが延々続いていた。そのあげく、彼女の会社は驚くような「示談」金額を提示してきた。私の被害に対するものというより、ことが表沙汰になって会社や相手の男の立場が悪くなるのを防ぎたいという意図なのはあきらかな、でも驚くような金額。
私は怒るより呆れて、改めて世の中というものは金を持っている男にはつくづく甘く作られているんだと理解した。とっくにわかっていたはずだけれど、現実として「金額」に換算されて提示されると、その醜さにぞっとしたってことかも。あの人達は何でも、物事の価値を数字に置き換えないと気がすまないらしいという妙な納得感も、私には気持ち悪くてたまらなかった。
そして改めて、私は「そういう世界」のシステムにどうにかして乗っかろうと思っていたのだと思うと、過去の自分の考えももう否定するしかできなかった。
自分の将来に対して夢や期待を持つことは悪いことじゃない。あの事件について、私は何も悪くない。でも、いい加減目を覚ますころ合いなんだろうと思う。あんな連中の世界のルールに乗ろうとしたって、結局私自身は幸せになれない。そうよくわかった。
会社を辞めたルーシーが、本来の彼女らしい結婚をし、私を元クライアントとしてではなく、友人としてここに招いてくれたことは、私自身にとってもいいタイミングであるはず。
私は、明日の朝いちばんで弁護士に電話することにしようと思いながら、持っていた携帯用の吸い殻入れに吸いさしを放り込んだ。
そしてルーシーだけでなく彼女の周囲にいる奇妙な人達と知り合うことが、何かいい転機になるといいと期待しながら、パーティーに戻るため、もう一度店のドアを開けた。
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