図書館の幽霊(仮)

 薄暗い図書館の奥は開架でも滅多に人が寄り付かない場所だった。移動棚がひしめき合っているエリアだが、尾形は自分以外の人間が動かしているところをついぞ見たことがない。
 放課後の尾形は大抵この奥まった空間を特等席と定めて、課題や読書をして過ごしていた。部活動はそもそもしていないし、隠れてやっていたアルバイトは学校側に知られて辞めざるを得なくなった。
 家に帰っても有名大学への進学を勧める母から成績について煩く言われるだけなのでなるべく閉館まで居座っている。母は父の妾だったが関係を清算された今も一方的に慕っているらしく、何かにつけて引き合いに出してくる。母の希望としては生物学上の父と同じ大学に行って欲しいらしい。それも尾形にとっては苦痛だった。
 そんな時に見つけた図書館奥の特等席は、人目につくことも殆どなく気ままに過ごすことが出来た。眠気を感じれば机に突っ伏して寝ることもある。尾形にとってこの場所は、数少ない安心できる逃げ場だった。
 ある日、その楽園に人が立ち入ってきた。尾形がいつものように席に課題を広げたまま、気晴らしに本でも読もうと移動棚のボタンを押したときだった。開いていく棚と灘の間をぼんやりと眺めていると、狭まっていく隣の棚から「えっ、あれっ、出られないッ」という声が聞こえてきた。まさか自分以外にこの棚を利用している人間がいると思っていなかった尾形は慌ててボタンを押して棚を元の場所に戻してやった。
「びっくりした……」
 再び開いた隣の棚から飛び出して来たのは尾形より十センチ以上は高いかと思われる男子生徒だった。尾形の通う中高一貫校は制服がなく私服なのだが、その男は白シャツの上にブレザーのようなジャケットを羽織っていて少し畏まった格好に見えた。
 学年は自分と同じ、いや上級生だろうか。
 尾形は心の中で小さく舌打ちするとそのまま席に戻ろうとした。
「あの、助けてくださってありがとうございます」
「……いや、人が居るのを確認せずに動かした俺が悪かった」
 無視をしても良かったのだが、礼を言われる筋合いではないので事情を伝えて踵を返した。
「いい場所ですね」
 尾形は会話を打ち切ったつもりだったが男はそのまま話し続けている。気のせいでなければ尾形の後ろから付いてきているようだ。
「図書館なので静かに」
「あっ、そうですよね。すみません」
 口を押さえて小声になった男は項垂れて近くの席に座った。尾形の特等席からも目に入る位置だったので邪魔に思ったがそこまで言うのは流石に気が引ける。
 仕方がないとばかりに小さくため息を吐いて、尾形は課題の続きをすることにした。途中、何気なく盗み見た男が読んでいた本は尾形にも見覚えのある本だったので、感想を聞きたいような気もした。

「お疲れさまです」
 翌日も背の高い男は尾形の特等席近くで読書をしていた。よく見れば切れ長の目元にこれまた長い睫毛が陰影を作っていて日本人にしては通った鼻筋が一層その容姿を際立たせていた。清潔感のある髪は色素が薄いのか茶色がかって見える。
 尾形は無言で男を一瞥すると定位置へと座った。先客が居るからといって別の席に移動するのも癪だったからだ。いつものように課題用のノートと問題集を取り出して机に並べると、尾形は自分に向けられている視線に気づいた。
「何か用でもあるのか」
 訝しげな声で尾形が聞くと、男は慌てたように手元の本に目線を落としたが暫くすると「すみません……」とか細い声で呟いた。この日も男の読んでいる本は尾形がつい先日読み終えたばかりの本だった。
 それからも男は毎日尾形の前に現れた。尾形より早く来ている日もあれば、遅れてやって来ては窺うような顔で近くの席に座ることもある。男の態度に尾形は苛ついていたが、出て行けとも言えずに放置していた。
 ただ、男の読む本がすべて尾形が最近読んだものと一致するのが気味悪く思われた。
「その本、面白いか?」
 ある日、手持ち無沙汰になった尾形は本を物色するついでに男の背後から話しかけた。かなり集中していたのか、男は大仰に身体を震わせて振り返った。その顔は真っ赤に染まっていて尾形は逆に驚かされる。
「ま、まだ途中ですが小火器の歴史とスペックが分かりやすく図版になっていて面白いです。難解な内容の割に読みやすいのは翻訳が上手なのかもしれません」
 男が述べた感想に、尾形は思わず目を見開いた。自分も同じことを感じていたからだ。尾形にとっては興味を惹かれる本だが、この男はどうなのだろう。単なる同好の士である可能性も捨てきれないが、尾形はこのタイミングで気になっていたことを確認することにした。
「戦争別に特徴を比較しているのも興味深いと俺は思った。ところで俺の勘違いかもしれんが、あんたがここのところ読んでる本は全部俺が最近読んだ本なんだが」
「うっ、すみません。実は一ヶ月ほど前から尾形さんの事が気になっていて……その、手元を見ていて覚えているタイトルのものだけだも読んでみようと」
 どんどん小さくなる声は嘘をついているようには思えなかったが、尾形はかなり引いていた。気になっていてとはどういう意味か分かりかねるが記憶力が良すぎやしないだろうか。それともいちいち書き留めていたのか。つっこみたい事は沢山あったが、面倒なのでやめにする。
 気味が悪いことに変わりはなかったが、やたらと容姿の整った賢そうな男が汗をかいて慌てふためく様が滑稽で怒る気にもならなかった。顔のいい人間は約得だ。見た目の美しさとのギャップですら魅力になるのだから。
 結果として、この日をきっかけに尾形と怪しい男は少しずつ言葉を交わすようになった。初めは本の感想が中心だったが、男は次第に日々の出来事を話すようになった。それは天気の話だったり美味しかった食べ物の話など 他愛もないものばかりだったが、尾形は不思議とそれを聞くのが嫌いではなかった。
「昨日の帰りは急な雷雨で大変でした。尾形さんは大丈夫でしたか?」
「ずぶ濡れで帰った」
「えっ。風邪を引いたりしてませんか」
「何ともない」
 人の来ないエリアとはいえ図書館なので小声での会話だ。男の声は澄んでいて尾形よりも高いので聞き取りやすい。元々会話に適した場ではないので長くは続かないが、時折交わす二言三言が尾形にとっては気晴らしにもなった。
 同級生やクラスメイトとは違った距離感を、尾形はどこかで楽しんでいた。
 その男が急に現れなくなったのはそれから間もなくのことだった。毎日顔を見せていた男は閉館まで姿を見せることがなかった。尾形はトイレに立ったときや好みの本を探しがてらほかの開架も回ってみたが、やはりあの長身は見当たらなかった。
 それが二日三日と続くうち、尾形は更に落ち着かない気分になった。初めは邪魔だと思っていた男の気配が、今となっては感じられないことの方が集中力を欠いてしまうのだ。
 本を読んでいても目が滑ってしまいページをめくる手が止まる。それがどうしてだか分からない自分自身にも、尾形は苛立っていた。
 
「おい宇佐美、俺より十センチくらい背が高くてやたら顔の綺麗な生徒を知らないか。髪はちょっと茶色がかってて多分俺たちより上の学年、成績も上位だと思う」
「はぁ? で、名前は」
「知ってたら自分で探してる」
 尾形は同じクラスの宇佐美に男のことを尋ねてみた。宇佐美は学年主任の鶴見を慕って勝手に業務を手伝っているらしく、その都合もあって全校生徒を把握していると専らの噂だ。なぜ同学年だけでなく全校生徒まで記憶しているのかは分からないが、こういう時こそ役に立つ知識だと思って尾形は声をかけたのだ。
「百之助が綺麗な顔だなんて言うくらいだからよっぽどだよね。うーん、でも心当たりがないな。そもそもそんなに目立つ容姿なら校内でも有名人なんじゃないの」
 そう言われてみれば確かにそうだ。思い返してみても図書館以外で男を見かけたことがない。
「ひとりぼっちが過ぎて幽霊でも見たんじゃない?」
「幽霊……? そうか、その可能性もあるのか」
 考えてみれば一方的に自分を慕ってくる男の存在は都合が良すぎた気がする。自覚はないが、尾形は自分に人から好かれたい気持ちがあったのだろうかと驚く。
 いや、尾形にとっては誰でもいいわけではなくあの男だったから許せていたのではなかったか。男の正体が幽霊であれば納得できる答えが見つかりそうではあるが、その反面幽霊などではないはずだと思いたかった。
「……名前くらい聞いておけばよかったか」
 相手が名乗らなかったこともあるが、尾形からも聞かなかったのはこうして会えなくなる日のことを考えて予防線を張っていたのかもしれなかった。だが実際には名前など知らずとも会いたいと思ってしまっていた。
「幽霊くんの正体分かったかも」
 尾形が男のことを尋ねてから数日後、宇佐美がさも面白そうに声をかけて来た。経験上、相手を揶揄って楽しもうとしているときの顔だったので尾形は無視することにする。どうせなら本人に直接自分で聞きたい。
 男が図書館に現れなくなってから、もう一週間近くが経っていた。

「お疲れさまです!」
 以前と変わらぬ、いやいつもより元気な拶を挨拶をされて尾形は拍子抜けした。どうせ今日も来ないのだろうと思いながらいつもの指定席へ足を運んだ尾形の前に男は現れた。正確には尾形よりも先に来ていたのだ。
「暫く顔を出せないままですみませんでした」
 男が尾形に謝る必要などまったくない。約束していたわけでもなければ友人などでもないのだから。そうは思っても、尾形は目の前で下げられた男の頭のてっぺんにある旋毛を軽く叩いた。尾形と同じ左巻きだった。
 驚いた男は反射的に顔を上げたが、尾形の顔を見ると嬉しそうに笑った。
「お前は一体誰なんだ。どうして俺に近づいた」
 腹に抱えたモヤモヤを解消したくて、尾形からはそんな言葉が口をついて出た。どこの誰で名前は何というのか。先ほど旋毛を叩けたところをみると幽霊ではないはずだ。
 尾形の問いに男は眉毛をハの字にしてもう一度頭を下げた。
「まずはこの一週間、こちらへ来られなかったのは生徒会の仕事が立て込んでいたからです」
「生徒会?」
「はい、一応生徒会長なので抜けるわけにもいかず」
「おいちょっと待て」
 尾形の記憶では高等部の生徒会長は月島という、宇佐美同様に鶴見が目を掛けている小柄な男子生徒だ。柄でもないのに仕方なく務めているのだと宇佐美が話していたことがあった。
「生徒会長って……まさかお前中等部なのか」
「は、はい。尾形さんの一つ下です」
 見た目から考えて、尾形は男が年下である可能性を排除してしまっていた。尾形は高等部の一年なので男は中等部の三年ということになる。だから宇佐美に聞いてもすぐには分からなかったのだ。きっと宇佐美は尾形より先に中等部の人間かもしれないと当たりをつけてその正体に気づいたのだろう。
「確かに生徒会長が似合う顔だ」
「恐縮です」
「で、名前は。名乗れないわけじゃないだろう」
「勇作です……花沢、勇作」
 尾形には花沢という姓に覚えがあった。ありふれた苗字だが尾形にとっては母と自分を捨てた男の名だ。
「名前は聞かれない限り言わないでおこうと思ったんです。その、僕は一方的に尾形さんのことを知って近づいたので心苦しくはあったのですが」
 父が自分たちを捨てた理由は、尾形が生まれた翌年に本妻との間に息子が生まれたからだ。そう、目の前にいる花沢勇作と同じ年齢の――。
「父から兄のことは聞いて知っていました。高等部に上がったら会うかもしれないだろうと」
 勇作は困ったような顔で話し始めた。尾形の顔を見て察したのか、大前提については敢えて明言せずに進めるようだ。
「ひとりっ子育ちで幼い頃からずっと兄弟が欲しかった僕には嬉しい青天の霹靂でした。同じ学校に兄がいることを知ったからには会いたい気持ちを抑えられなかったのです。だけど高等部とはそもそも校舎が違いますし、生徒会の打ち合わせでお邪魔することはあっても教室まで訪ねて行くわけにもいきません」
 勇作は順を追って話しながらも、手元に目を落として言葉を選んでいるようだった。
「そんな時、この図書館で尾形さんを見かけたのです。ひと目で僕の兄様だと分かりました。父の若い頃に瓜ふたつですから」
 自分が父に瓜ふたつというのは母の態度からも分かっていたが、勇作に断言されて尾形は可笑しくもないのに笑ってしまいそうだった。だがそれよりも――、
「アニサマ?」
「あっ、すみません、つい」
「つい?」
「密かに尾形さんの事を心の中で兄様と呼んでいるのでつい口をついて出てしまいました。因みに兄様とお呼びしてもいいですか」
「嫌です」
「ここに居る間だけでも」
「……はぁ。それくらいなら」
「ありがとうございます!」
 尾形は今の自分の感情がどうなっているのか、どこに向いているのかを把握し切れて居なかった。まずは事実だけを確認しておきたい。
「俺とあんたは」
「勇作とお呼びください」
「俺と勇作……さんは兄弟で間違いないんですね?」
「尾形百之助さんですよね。父は花沢幸次郎で僕より一歳年上で誕生日は一月二十二日」
「分かった」
 尾形はまさか自分が弟という存在に会う日が来るとは思っていなかったので、急に降って湧いた事実をつきつけられてドッと疲れを感じる羽目になった。
 勇作が自分と同じ本を読んでいたことも、毎日尾形の領域に踏み入って来ていたことにも文句を言えなくなってしまった。尾形としては気になっていた幽霊などではなく男子生徒が中等部の生徒会長にして腹違いの弟だったという情報量の多い事実だけが残った。
「勇作さんはこれからもここに来ますか」
「そのつもりです。図書館ならば中等部と高等部の共用ですから堂々と兄様に会いに来られます」
「俺がもう来ないと言っても?」
「え」
「冗談だ。逃げるような真似はしたくないからな」
「では帰りも一緒に」
「図に乗るな」
 睨めつけた尾形と、懇願するように見つめる勇作の視線がぶつかってどちらからともなく吹き出した。まだ兄とも弟とも実感は湧かないが相性は悪くなさそうだと尾形は感じていた。
「正直勇作さんが弟だと言われてもピンと来ないが、取り敢えず後輩ということで大目に見ることにする」
「ありがとうございます。尾形さんは優しいです」
 兄様と呼ぶのではなかったのか、と思ってしまった時点で尾形は充分この男に絆されているのだと分かってしまった。
「これからもよろしくお願いします」
「よろしくされてやる」
 屈託のない勇作の態度が尾形の中の毒気を消していくようだった。これが望まれて生を受けた子どもなのかと、尾形は自分との差を見せつけられているようだった。だが自分の力ではどうにもならない事にいちいち突っかかっていてはキリがないと割り切るしかないのだ。
 それよりも勇作という一個人に向き合って行けば尾形の欲しい答えが見つかるかもしれないという希望的観測を、何故か尾形は確信に近い形で持っていた。
 二人がこのまま兄と弟になるのか、それとも別の関係を築くことになるのか。このときの尾形と勇作にはまだ知る由もない。共に刻む時計の針は今まさに動き始めたばかりである。

powered by 小説執筆ツール「arei」

58 回読まれています