朝になって起きると、隣に寝ている男の横っ面には赤い痣が出来ていた。
しかも、その跡は、こうして視界に入って来たのだから当たり前だが、譲介の今の長ったらしい前髪では隠れない方の側に付いている。
譲介が夜中に戻って来た頃、ただいま帰りました、という声は聴いた。
ベッドの中で構って欲しくてどれだけ冷たい足先をくっつけて来ようが、絶対に起きねえぞという気持ちで目を瞑っているうちに、くっついてきた体温と寝息ですっかり寝入ってしまったが、こうして寝顔を見ていると失敗したな、と思う。
曲がりなりにも惚れてる男の頬にどこぞでビンタを食らって来たような跡があるとなれば、どこでこんなもん作って来たと詰問するのが筋だろうとは思うが、それはそれとして面白いものは面白い。
痛みはあるのかないのか。痣になっている赤い部分を指先でつつくと、朝の光の中で、譲介は嫌そうに眉を顰めている。
ククク、と笑いながら、面白半分にその頬に触れていると、とうとう譲介は、ううん、と唸って寝返りを打ち、こちらに後頭部を向けた。
じょうすけ、と名前を呼んでも、振り返りはしない。
名を重ねて呼ぶと、やっと顔をこちらに向けた。
これが惚れた欲目ってもんか、小さな平手の紅葉を頬に押された男が、やけに男前に見える。
早く起きちまえ、と声に出さずにまた頬をつつくと、てつろうさん、といつものように呼ぶ声が聞こえる気がした。


***


犯人はリスです、と譲介は言った。
スクランブルエッグをパンに乗せてかぶりついているTETSUの前で、朝から米のメシが食いたくなったと言った譲介は、炊き立ての米の上に、フライパンいっぱいに作ったスクランブルエッグの残りの半分とカレーソースを掛けたオムライスらしき何かを、黙々と頬張っている。
「そりゃどんな言い訳だよ。」
心の中でツッコミを入れるはずが、口からするりと出てしまったらしい。
こちらの呆れた様子を見て、譲介は苦笑した。
「この時期って、ハロウィン用のランタンの南瓜を食べたリスがぶくぶくに太って大きくなるんですよ。」
キックも自在です、とオムライスに突き刺したスプーンを引き抜いて、斜め四十五度に傾けている。
リスの足がそんなにピカピカ光ってるわけねえだろうが、と思うが、今度はTETSUの方が口いっぱいに頬張ったパンが邪魔をして言葉にはならない。
「クエイドの敷地内で無残に食い散らかされていた南瓜を見かねて片付けようとしたら、睡眠不足で油断してたのであいつらの足技に負けちゃいました。……って徹郎さん、それ、どんな顔なんですか?」
そりゃまあ、三十路男が朝からカレーを食らう言い訳にしちゃ、凝り過ぎてるな、っつう顔だろ。
譲介の食べているカレーは、ほとんどが一昨日作ったカレーの残りの、具をさらえたソースの部分だ。
冷凍しようかどうしようかと悩んで一昼夜冷蔵庫に置いていたが、結局はこうして食べている。
このところは、休日か、あるいは失敗したくない手術の前にカレーを作って食うというスタンスにしているようだが、好物が目に付けば自然と食っちまうのが人間ってもんだ。
「リスなあ……。」
「この時期は気を付けて、って朝倉先生にも言われてたんですけど、一年経つと忘れてました。」
米と卵とカレーがカーニバルのように山盛りになっていた皿は、気が付けばすっかり空になっていて、一息ついた譲介は、大学の紋章入りのカップに並々と注いだ牛乳を飲んでいる。
洗剤のような容器に入ったガロン入りの牛乳は、一度買ってしまうと、どれだけ飲んでも減ることがない。
TETSUのカップには、譲介が淹れたグアテマラが入っていて、黒い液体がまだ湯気を立てているが、これが明日、明後日ともなれば、残った牛乳と一緒にカフェオレに早変わりする予定だ。
「大体、普通の平手って言うには赤くなってる部分が少ないんじゃないですか。」
さっき鏡で見たら、確かに多少赤くはなっていましたけど、と譲介は今朝TETSUが触れていた部分を親指で押した。
普通に明かりの下でこんな風に見てりゃあそうだが。薄暗い中じゃ、多少は見間違いもするってもんだ。
「第一、パートナーがいるって公言してるのに、誤解を受けるような振る舞いはしませんよ。」
譲介は心外だ、という顔を作ってTETSUの方を見た。
「世の中にゃ、色んな人間がいるからな。」
リスに嫉妬するような馬鹿もここにいることだ、と思いながら、TETSUはゆっくりと、秋の温度に冷えて来たコーヒーを啜る。
「ハロウィンといえば、徹郎さん、仮装の話を断っちゃったんですか?」
どこから漏れ聞こえて来た話を耳にしたのか、譲介にそう問われて、飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。
回診の時間に、狼男か吸血鬼の仮装はいかがですか、と事務方の男に訊かれたのはよぉく覚えているが、浮かれた行事はガキどもだけで楽しめばいい、ときっぱり断ったはずだ。
衣装は使い回しがあるが、背丈と胴回りが合う医者や看護師が暫くいなかったのだと言われて、なるほどなと物わかりのいい顔をしてはみたものの、鏡の前で付けてみると、くたばりかけのジジイが着てサマになるようなものでもなかった。
「一也みたいなマントを一枚羽織れば、それでなんとかなりますよ。それってなんとかの真似でしょう、って子どもの方から、ヒントを出してくれるので。」
やけに詳しいじゃねえか、と聞くと、新米医師はなんでもこなす必要があるので、と言って譲介は苦笑した。
TETSU自身にも、身に覚えのあることではあった。英語で「新鮮な肉」と言われる新人は、どこの世界だろうが、生贄の肉にも似た処遇を周囲から押し付けられるらしい。
「そっちに二着あるなら、当日は僕と一緒に着てみますか?」
ランチを一緒にしましょうと言うほどの気軽さで譲介は言うが、押し付けられそうになった衣装を頭に思い浮かべれば、色よい返事は難しい。
「クリスマスに揃いでトナカイのセーターを着た方がマシだ。」と言うと、譲介はいいですね、とひとこと、「じゃあ約束してください。」と素早く小指を差し出した。
「今夜は絶対に早く帰って来ます。一緒にイーベイを見て、今のうちに十二月のセーターを選びましょう。」
意気軒昂、あるいは喜色満面と言った面持ちの譲介を前に「気が早くねえか?」とTETSUは及び腰になる。
「案外、ああいうのって直前になったら身体に合うサイズがないんですよ。」と言って、譲介はこちらを飽かぬ様子で見つめている。言い逃れが出来そうにない状況を前にして、小さく嘆息した。
楽しみですね、と笑いながらイエスの返事を待つ譲介の前に、TETSUは渋々と言った面持ちで、ゆっくりと指を差し出した。

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