いこみずワンドロワンライ「溺れる」
おもろい試みやったなあ、と生駒は相好を崩して、しみじみと告げた。
「あないなところでも落語って聞けるんやな」
「俺も博物館で落語は初めてですわ」
「そうやったん? 想像してたもんを実際に目にできるんはオモロかったわ、ありがとな」
三門市からほど近い県立博物館で開催された「江戸時代の芸能メディア」展からの帰路だった。浮世絵や道具類の展示のみならず、浄瑠璃の人形を実際に操ってみたり、芝居の装束を実際に着られるなど、多角的に楽しめるイベントで、生駒も自分の趣味に付き合わせてしまう不安などすぐに払拭してしまう楽しみかたをしてくれた。まさか生駒が三味線を弾けるとは思ってもいなかったが。
行きは駅からバスで来たが、帰りは三門市とは違う街並みを楽しみながらのんびりと水路沿いの道を徒歩でどうかと提案したのは生駒で、水上も否やはなかった。歩くのは正直かったるかったが、生駒と共ならば悪くはない。
「楽しんでもろたら俺も嬉しいです」
「ワークショップで落語体験もできるんやろ。どや、来週も行かへん? じぶんが高座あがっとる姿見たいし」
「そろそろランク戦始まるやないですか」
「ええやん、空いとる日くらい」
かなんなあ、こん人のワガママは聞いてしまいとうなる、とほとほと甘苦く困り果てた水上だったが、突然隣を歩いていた生駒が足を止めて眉をひそめた。
「どないしたんですか」
「ちっこい子ぉの泣き声と、悲鳴、や」
剣呑な内容をぼそりと呟くと、生駒はすぐさまに走り出し、水上も慌ててその後に続いた。
(どないな耳してはるん?)
水上の耳には道に沿って流れる川の水門からあふれ出る水音くらいしか聞こえはしなかった。
かなり引き離されてしまった生駒に追いついた時、そこは喚き散らす声の主を遠巻きに見る人たちの中で彼は渋柿を口に詰め込まれたような顔で腕を組んでいた。
穏やかに流れる川に沿った遊歩道だった。ゆるやかに流れる川の穏やかな水音や、すぐ傍にある公園で遊ぶ子供たちのはしゃぐ声が普段は聞こえているであろう住宅街の一角には、しかしまったく似つかわしくない男の怒号がなり響いていた。
そのまばらな人垣の向こうには、警察の制服姿があって、「その子を離しなさい」「話なら聞いてやるから」「落ち着いて、ナイフを置きなさい」と上ずった声で呼びかけていた。
そしてその言葉通り、護岸された河川の柵を背にした、三十からみくらいの男が、片腕に幼稚園くらいの男の子を抱えて、もう片腕に安っぽいナイフを手にその子供の喉につきつけていた。「いいから、その女をこっちに連れて来い!」と怒鳴りながら。
警察官と野次馬の間ほどの場所には、こざっぱりしたトップスとボトムにおそろいのエプロン姿の女性がふたり、立ちすくんでいた。男が呼びつけるたびに歩み出そうとする片方の青白い顔色の女性を、もう片方の女性が腕を掴んで押しとどめているように、水上の目には見えた。
「応援は?」
「本町通りでバスを巻き込む事故が起きたせいで遠回りしないといけないとか」
「……」
「イコさん」
息を切らせながら、声をひそめて生駒に話しかける。
「おう。見ての通りや」
「愁嘆場というか修羅場ですな」
てつろうくんは関係ない、離してあげて、という女性に対して、だったら今すぐこっちに来い、どれだけ金を注ぎこんだと思ってるんだ、と言い合い、だったらお金は返すからと続き、おれと一緒になるって言ったんだろうがとの応酬である。
「……『大丸屋騒動』かいな」
水上が呆れたように呟く。
「それ何?」
「家族が説得できるまで会わへんようにしとこう言うた舞妓の恋人を他にいい相手が出来たと思い込んでうっかり斬り殺してまうアホぼんの噺ですわ」
「うっかり?」
「飾ってあった村正を持ち出して、脅しに肩をぽーんと叩いただけやねんですけど、そこは妖刀、鞘が割れてもうて恋人をざくう、と」
「はー、なるほどな。しかし籠釣瓶とええ風評被害もええとこやなあ。千子ならじいさまの知り合いに一度鞘を払わせてもろたことあるねんけど、表裏揃うた綺麗な刃紋のええ刀やったで」
持ったことあるんかい、とツッコミたいところを我慢して、水上は道の途中でこんなこともあろうかと拾っておいたものをさし出す。
「で、村正にはかなわへんですけど、ええ感じの棒なら落ちてましたけど、使います?」
街路樹の払われた枝が道端に積んであったものが目に入ったのだ。経緯はどうあれ、子供を巻き込むようなクズ思う存分、しばき散らしてもいいだろう。
だが、生駒はんーと少しばかり投げ首し、
「人質おると手加減できるか分からんし、ありがたいけどええわ。再起不能にしておロープ頂戴してもうたらマリオちゃんに叱られてまうし」
「おロープ頂戴」
せやけど、と生駒はそのしっかりとした顎を撫でる。
「他のおまわりさんらぁの到着遅れてはるみたいやし、あんまり待たせたらお子様が可哀相やしな。水上、ちょっと耳貸せ」
「お粗末なもんですが、どうぞ」
ひそひそひそひそ。
「こんにちは~、まちかどニュースちゃんねるのもさもさブロッコリーでぇす」
泣き過ぎたのか疲れてひきつったようにしゃくりあげる子供の泣き声に、かすれて震える女性の声に、それを上書きするような男の胴間声に、裏返りそうなところを堪えた若い警官の声という、地獄みたいな四重奏に、空気をかけらも読む気のない能天気な声が高らかに重なる。
そのひょろりと背の高い赤毛の青年は、舞台に上がるお笑い芸人のような腰つきで現れると、スマホを自撮り棒の代わりらしき木の枝を高らかに掲げて、ひょこひょこと男のほうへと近づいてくる。
「てめえ、近づくな!」
「えー、俺はいま、四塚市某町の事件現場に来とりますぅ。ほら、みなさん見えますか。聞こえますか。犯人は子供を人質に取って要求をしてはります。怖いですなあ、恐ろしいですなあ」
「おい、てめえ!!」
「なんとこの犯人、どうやらお姉さんに袖にされ……おっと、こないなことしょうもないことしでかすカスやから袖にするなんて言葉も分からへんか、フラれて逆ギレしてるみたいやで。お、見てはる人がうわーめっさみっともなーいやて! え、童貞か教えてやて。犯人はん、コメントくれはる?」
「……ツ、ふざけんじゃねえ!!」
煽りに煽った赤いブロッコリー(※通常の三倍ではない)に男は顔を真っ赤にしながら、それでも子供を掴んだまま――それを見て水上は軽く舌打ちはしたものの――、彼へと手にしていた凶器を振り回しながら突っ込んでくる。
その瞬間。
ざばあ。
男の背後の、コンクリートで固められた川べりに設置された柵を、下からむんずと掴んだ手がぐいと自らの体を引っ張り上げた。大きな水しぶきを上げて、川から出てきたのは生駒だった。頭に水藻を乗せたまま生駒は一息で護岸縁を駆け上がると柵を飛び越え、そのまま思い切り蹴りを入れた。
「どうや! 弓場ちゃん直伝のヤクザキックや!」
(イマジナリー弓場「いや、教えてねェーぞ?」)
男の腕の中の子供が大きく見開いた目をキラキラとさせて、「カッパーマンだ!」と声をあげる。
なにそれ、と水上が内心でツッコむいとまこそあれ、息も詰まるほどに背中を強く蹴られた男は大きくたたらを踏み、咳き込んだ拍子にその手から凶器と、子供が落ちる。
「もろたで!」
枝を放り出した水上は、男の手から落ちたナイフを蹴り飛ばし、自由になった子供を抱え上げると、よたつきながらもその場を離れる。
と同時に生駒が男の襟首を掴んで、そのまま地面に体重をかけてうつ伏せに押し倒す。
「確保!」
突然の展開に、一瞬だけ呆気に取られた警察官だったが、すぐに我に返り「銃刀法違反と人質強要の罪で逮捕する!」と言い渡すと犯人に飛びついた。周囲で眺めていた野次馬も加わって。程なくして、ようやく駆けつけたパトカーのサイレンの音があたりをけたたましくさせた。
表彰状を贈ることになるから、と言う申し出を丁寧に断りはしたが、念のために連絡先は伝えて、生駒と水上がその場から解放されたのは二時間くらい経ってからのことだった。
博物館を出る時には日はまだ高かったが、もはや暮れかけて街灯が灯り始めていた。
上流から川に飛び込んで、背後から奇襲をかけた生駒は当然ながらずぶ濡れで、調書に協力している間に用意してもらったジャージの上下を警察車両の中で着替えることになった。濡れた服が入ったスーパーの袋を手にした生駒は、どないする?と水上に訊ねた。
「どないしましょうかね」
放り出して傷だらけになってしまったけれど、幸い液晶は割れてなかったスマホで地図を開く。
「ちょっと歩いたところにええ感じのご飯屋ありますけど、そこで腹ごしらえしてから三門に戻りません?」
ほら、と画面を見せる。太刀魚の塩焼きに豆腐の味噌汁と芋の煮っころがしの写真に、生駒がごくりと唾を呑みこむ。
「ええな! って俺、腹減ったって言うてへんけど」
「それくらい分かりますよ」
俺を誰だと思っとるんですか、と水上はすました顔で告げる。
「イコさん大活躍でしたもん。お腹ぺこりんでっしゃろ」
「弓場ちゃんほど足が長うないから届かへんかったらどないしよ思たわ」
何言うてはるんだか、と水上は相好を崩した。
「ここが三門やったら」
「?」
「トリガーを持ってるさかい、始末書覚悟でアステロイドのひとつもぶつけて気絶させられたのになあとか思うでしもて。気ぃ逸らすくらいしかでけんと不甲斐ないですわ」
「水上は水上の仕事ちゃんとしたやん。今日だけちゃうでいっつも俺は助けられとる」
「イコさん」
いい雰囲気になったが、残念なことに人気は少ないとはいえ天下の往来である。
水上はちょっとだけぴと、と肩をくっつけてすぐ離れる。
飯屋に向かいながら、それにしても、と水上はしみじみと呟く。
「えろう泣いてましたな、あのおっさん」
「おっさんはやめてやらん。本部長くらいちゃう?」
取り押さえられた犯人は暴れるのをやめて観念したや否や、あたり一帯に響くくらいの大音響でわんわんと泣き始めたのだ。曰、おれが何をしたんだ。おれは悪くない。あの女がおれを騙したんだ。おれのことを好きだって言ったのに、なんで会ってくれないんだetc。
「あの保育士はん、ガールズバーのキャストのバイトしてたんやて?」
「奨学金返す為や言うてるんが聞こえました。しかしどんだけの頻度で通ってかまでは知らへんですけど、相手は商売やてわきまえんとあかんですな。溺れるほどの恋なんて想像もできませんけど、イロコイ営業は罪深いですわ、ホンマ。……ってなんです?」
「いや、俺もおまえの恋心を利用してるんちゃうかなーて」
「はあ?」
「前、王子と話しとったやろ」
『西の人同士で群れるのもそろそろ飽きないかい。ぼく、みずかみんぐは隊長向きだと思うんだよね。水上隊とか考えたことはない?』
「それ聞いて頭ぽーんとしばかれたような気がしてな。ああ、もしかして俺は、水上が横におるんが当たり前や思うて、自由にさせてやってへんのかな、って」
しょんぼりした様子の生駒に、水上は我慢していたがこらえきれずに大きく噴き出した。
「おもろい、おもろいですわ、枝雀や米朝よりもおもろいですわ」
「褒めとるん」
「褒めとります」
そして水上は生駒の胸倉を掴んで、顔を寄せた。少しだけ覗き込むかたちで、その情の強そうな顔を見つめる。
「俺がそんな殊勝なタマ思います? 将棋指しなんて基本一匹オオカミや。なり損ねかてその性分は持ち合わせてるつもりです。そいでも俺はあんたについた。今もこれからも。あんたさっき言うてくれたやないですか。『水上は水上の仕事ちゃんとしたやん。今日だけちゃうでいっつも俺は助けられとる』」
一言一句違わず繰り返す。
「俺はね、イコさん、あんたに溺れて、藁でも掴むようなありさまであんたの傍におるんやない。ちゃあんと二本の脚で立って、地面に踏んばって、あんたの横におるて決めとるんです。見くびったらあきまへん」
分、か、り、ま、し、た、か。
一句一句念を押すように告げると、濡れたおかげで前髪がぺたんこになった少しだけ幼げなおもざしになった愛しい男は、せやな、とこくりと頷いて、ついでにぐーと大きく腹を鳴らした。
「サイレンよりもやかましいですな、イコさんの腹警報」
「おう、早よ行こか」
腹を撫でながら生駒は笑い、水上は道を指さす。
「そうですね。あ、こっちの道です」
「そか。ところであの子が叫んだカッパーマンって何?」
「あー、俺も気になって検索したら、なんかご当地ゆるキャラヒーローらしいですよ。そこの川に住んでる河童が変身するって言う」
「かっこええ? そいつかっこええ?」
「あ~、ちょっとイコさんに似とるかも」
「ならかっこええのん? なんで黙るん、な、水上。どうなん、ちょっと検索したやつ見せてや、おい」
powered by 小説執筆ツール「arei」