ぱっと見薄暗いけどそうでもないIfよーりん

太陽がベッドに腰掛けてスマートフォンを弄り、凛は彼の肩にもたれ掛かりながらぼんやりと宙を見る。
このような時間の過ごし方は二人にとって珍しくない。時計の針が動く音と、ほんの薄らとスマートフォンの画像をなぞる太陽の指の動く音だけが響いている。それほど静かな空間だった。そんな空間に唐突に1つの声がゆったりと鳴った。

「凛、袖食うなよ」
「え、…あ、」

凛は無意識に口元に寄せていた手を引く。我が物顔で着ている柄物のシャツは太陽の私物だが、凛が着ると少し余るその袖口は少しだけほつれている。理由は単純で、何度か凛自身が噛んでしまったからだ。噛んだ理由は、と言われると凛本人にも上手く説明は出来ない。ただ何となく、自分でも気付いていない時に袖口を口元に寄せて噛んでしまう、そんな癖が何時からか凛には出来ていた。いざ手が伸びてしまうことこそ無意識だが、その切っ掛けに関しては薄々凛の中にも自覚があった。そしてその理由は、自覚した時点で太陽に伝えていた。彼は凛が心の内を秘めようとするとその前に先手を打つように両手を広げて掬い上げてしまうから。

「今更変に我慢すんなっつってんだろ」
「んん、そんなつもりないし」
「前は止めろつっても引っ付いてきた癖に」
「それはぁ」
「とりあえず、ほら」

太陽はスマートフォンを枕元に投げて見せると、それを合図にしたかのように凛はその胸元に飛び込んだ。元々の距離感に対して力加減を誤ったのか、最初から考えていなかったのか、結構な勢いで飛び込まれた太陽だったが特にうろたえることもなく抱き留めてそのまま片手で軽く凛の背を叩く。すり、と太陽の首元に頬を寄せる凛の姿はマーキングする犬のようにも見える。
凛は太陽と今のような関係―端的に言うと恋仲になる前から距離感が可笑しい男ではあったが、それでも本人なりにセーブしていたんだなと何気なく太陽は思った。言ったこともあった。それに対する凛の返事は素直な肯定だった。だがそう言う割に、変な所で引くようにもなってしまったのは、セーブの自制が緩くなりつつも本人なりの遠慮が合わさった結果だと太陽は勝手に解釈した。
袖を噛むこともそうだ、マンションに住む男性陣の服を勝手に借りるのは今までと変わらないが、太陽から借りたもの以外は噛むどころか口元に寄せることすらしない。太陽から借りた、彼の衣服にのみ行う行為だった。

「ふふー」
「満足したかよ」
「した」

バチッと音が弾けそうな程に至近距離で合わさった視線に、凛は嬉しそうに力なく笑った。擬音にするとふにゃ、といった所か。いつも他の住人と相対する時にも見せる犬のような懐っこい笑顔。太陽はそれを視認するとすぐに視線を外して溜息を吐いた。

「嘘つけ」
「え?」
「言わせんな、さっさと満足しろ」
「……いいの?」

遠慮がちに上目遣いで見上げてくる凛の視線を断ずるように太陽は凛の後頭部を掴んで再度自身の首元へ引き寄せる。それを自身の返事に対する肯定と受け取るのは凛も慣れたことで、目を細めて緩く口角を上げる。その笑みは先ほどと違ってどこか猫のようなそれだ。もう一度すり、とすり寄ってから距離を置き、その綺麗に並んだ歯で衣服越しに太陽の肩に噛み付いた。
噛む、というには力なく、どちらかというと歯を立てて少しだけ力を入れている、それくらいのもので太陽に痛みは無かった。このまま一頻り好きに噛ませていたら凛は満足してまた普通に、いつも通り楽しそうに抱き着いて来るところまで太陽は先が見えていた。

「満足した! ありがとぉ、よーくん」
「ん」

予想通り、数分も経たない内に凛は太陽の肩口から口を離した。そして礼を伝えると、これまた予想通りぎゅうっと抱き着く。先ほどと同じように数回その背を緩く撫でながら、空けていた片手で放り投げていたスマートフォンを拾い上げて再び操作し始めた。抱き着いている凛にその様子は見えていないが、気配で何となく太陽のそれらの動きを察しては苦しくない程度に太陽に回す腕に力を込める。

太陽が凛の“噛み癖”の真意に何処まで気付いているのか、凛には分からない。
凛は噛みたいのではなく、“痕”を付けたいのだ。

ただ皆に愛される太陽に自身が明確に独占の痕を付けていいのか未だに迷ってしまう凛は、せめて薄い、薄い痕を付けたかった。痕にしようと思って噛んでいない紛い物のような薄い痕は、へたしたら数時間後には消えてしまう。だから凛は毎日寂しくなって、独占したくなって、太陽の衣服の袖を噛む。そんな本心―衝動を伝えたところで、太陽は戸惑ったり驚きはしてもきっと受け入れてくれるだろうと凛にも分かっていた。
だがこれは凛の弱さであり、同時に甘えだった。自分だけのものと言えない弱さと、甘えたい気持ちを逃がそうと思う前に捕まえてくれる太陽への甘え。全てを受け入れて貰えたら、きっと凛はもっともっと我慢できなくなってしまうから。想いが通じ合っただけでも凛にはこの上ない我儘で、贅沢だというのに。

「ねぇねぇよーくん、俺にもっと構ってよ」
「今は無理」
「もぉー!さっきもずっとスマホ弄ってたじゃん!」

だから今はまだ、凛はこれで満足していたかった。

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