獣の飢餓/もんけま

※事後

 その鋭い牙が喉元を食い破る瞬間を、ときおり夢に見る。

「お前、さあ。本当に好きだな、ここ」
 首元がよく見えるよう手鏡を何度も傾け、鬱血痕の残っている場所を指先でなぞる。今夜は同室が不在だからと誘った部屋のなか、空が白み始めたのを合図に脱ぎ散らかしていた衣類を拾っている文次郎の背に向けて言えば、なにやら怪訝そうな顔が返された。
「何だって?」
「ここ。喉んとこ」
 その背にうっすらと浮かび上がるいくつかの赤い筋は昨晩、留三郎が付けたものだ。だから自分の喉元にあるこれも勢いの産物であって、日常への影響に文句があるのもお互い様、冷静になった今あらためてとやかく言うつもりはない。ただ、ちょうど喉仏の上、頭巾を被った際にギリギリ隠れるであろうあたりにうまいこと付けられたそれを、ここ最近共寝したあと見ない日はなかった気がする、とぼんやり思う。
 どうやら文次郎は痕を残すのが好きらしい。そしてそれはいつも同じ場所だった。
 閨の最中、気が昂ったときによく、文次郎が鎖骨あたりに顔を埋めているのを知っている。
 ぐらつく視界と熱に浮かされながら、(―――あ。いま、)その鋭い歯が触れた、と。思う瞬間がある。それでも、たしかにその感覚があったはずなのに、覚めて見ればそこには鬱血痕がひとつあるのみで。その痕もきれいに消えたかと思えば、ふたたび文次郎によって色が濃く戻される。そのくりかえしだった。
「何だよ。隠せないからやめろって?」
「そこまで言ってないだろ。つーか、ちゃんと隠れるところなのが腹立つくらいだ」
「ならいいじゃねえか」
「頭巾をしてるときならな! 四六時中付けてるわけねえだろうが、俺にも日常生活ってものがあんだよ」
「だったらそこにある包帯でも巻いておけばいいだろう」
「お前なあ……」
 学園一忍者していると称される男らしからぬ物言いに二の句が継げないでいると、文次郎がなにかを投げて寄越した。眼前で受け止めたちいさなそれは貝殻を加工した容器で、開けると独特のつんとした匂いが広がる。留三郎もずいぶんと見慣れたそれは塗り薬の一種だ。文次郎が近くに座り直し、背を差し出してきたのを見るに、おそらく塗るのを手伝えということなのだろう。留三郎が付けたひっかき傷だ。こちらが手当てをすることに文句はない。―――ないのだが。
「お前は残せて、俺は反対に手当てさせられるってのはよ。なんつうか割に合わなくねえ?」
 記憶以上に残されているひっかき傷に薬を塗り広げながら、脳裏によみがえるのは昨晩の己の痴態だ。
 そこまで気を遣った覚えはないのだが。しがみついて爪を立ててしまったと数えていた分よりも、なんだか多く傷跡が残っている気がする。それでも、コイツはこのあとすっきりした顔をして朝を迎え、そのうち傷も治って、何ら変わらず日常へと帰っていくのだろう。片や自分は残された首元の痕を見る度にふたりの夜に戻されて、腹の底のほうで燻ぶり始めた情欲に蓋をして、次の機会など期待していないという顔で過ごすのだ。なんつーか腹が立つ。自分ばかりというのは、なんだか負けたようで受け入れがたい。
 そんな恨みの念がこもった手つきから何かを察したのか、目の前にある肩がため息に合わせて深く上下する。
「よくわからんが。こっちは血が出ているところもあるんだ、放置して化膿でもしたら困るだろうが」
「いや、そう言われるとそうなんだが……」
「それとも何か? 負けたみたいで悔しいとでも思ってるのか」
「だ、れ、が、何だって?」
「俺に負けたときの顔をしてるぞ、お前」
「ぁあ゛? お前に負けたことなんかねえだろうが!」
「俺はよく見るけどなぁ? そういう顔」
 だからいつだよ! という留三郎の反論は、発せられる前に喉の奥へと消えた。振り向いた文次郎に上体をやんわりと押され、敷きっぱなしだった布団の上に逆戻りする。自由に跳ねた留三郎の癖毛が、くしゃくしゃに皺の寄った布地に広がる。
「またどうして変なことを言い出したんだ」
「変なことって言うな!」
「十分変なことだろう。……痕を付けるのは許して、俺が治るのは許せねえなんてな。残したいのならお前も残せばいい」
 体重を掛けて留三郎の肩を押さえ込む一方で、文次郎の右手はくすぐったくなるほどやさしく喉に触れた。いつも自身が残す、鬱血痕の場所。まるでなにかを塗りこむように丹念に、親指が肌を撫ぜる。
「痕を付けたいとかそういう話じゃねえよ。ただ―――」
 文句があるわけではない。口吸いをするとき、いまだに歯がかち合うことのある自分たちだ。相手へ食らいつきたいという勢いがあるからか、やさしく触れ合うことのほうが少ない。文次郎の勢いと留三郎の勢い、そのどちらかが劣ることなどない。でもそれが自分たちで、変わらない事実で、相手の情欲の激しさを伝えてくれると思うと自然と心が喜んでいた。
 だから留三郎は、基本的に文句はなかった。痕を残すことも、痛みを伴うことも。場所については議論の余地ありと思っているが。
「ほんとうは噛みたいくせに、どうして噛まないのかと思っただけだ」
―――俺の、首を。
 そう続けると、好き勝手遊んでいた文次郎の指の動きがぴたりと止まった。
 噛みたい衝動を抑えている理由があるとすれば、それは文次郎の優しさに他ならない。ならばその想いを無下にする必要もない。それでも留三郎は止められなかった。だってもう、ずっと喉が渇いている。この男に煽られて燻ぶり続けた劣情が、ずいぶんと前から頭をもたげてしまっている。
「いや、だから。お前が噛みたいのなら俺は別に」
「言っていいのか」
 留三郎の言葉を遮るように、文次郎が呟く。その声は常よりも低く、どこか獣の唸り声のようにも聞こえた。おもむろに顔を上げれば、逆光の陰りのなか滾る欲を宿らせた瞳がふたつ、留三郎を見下ろしている。
「本当は食ってやりてぇよ」
 思わず唾を飲み込んだせいで、喉仏がぐり、と文次郎の指先を押し返した。
「噛みついて、肉を食んで、したたり落ちる血の一滴まで飲み干してやりたい」
「……それは、」
―――喩えだよな?
 そう言うよりも前に、文次郎の親指が留三郎の喉を深く押し込んだ。えずきそうになるのを堪え、わずかな隙間から酸素をとりこもうと開いた留三郎の口を文次郎が噛みつくように塞ぐ。―――喰われている。瞬時にそう思った。
「ん、ぐ! んぅ゛……ッ」
 舌に歯を立てられ、引っ込めればどこまでも追いかけられ、絡めとられる。呼気すら奪うような、いつもと違う舐り方に目眩がした。くるしい。こんなにも息苦しいのに送り込まれる唾液なんてもはや毒だ。本当に毒だったならば、飲み干すしかないそれで自分は死んでしまうだろう。これはそういう行為だ。留三郎は今、好敵手相手に急所を晒している。
「かはッ、……っ、は、あ」
「はっ……、わかったかよ」
 好き勝手に咥内を堪能していった舌先が、糸を引きながら離れていく。心臓が早鐘を打ったようにうるさい。取り込まれた酸素が、体の隅々まで行き渡って熱を広げる。
 頭の血が沸騰しそうになるなかで、食べてもいいのに、と留三郎は思った。自分だって、己を食べ尽くしたいという情欲に負けぬほどの欲望を、この男に抱いている。一方では意味がないのだ。自分は、双方の苛烈さがぶつかる瞬間を味わいたい。手加減されて肌を吸われるくらいならば、歯を立ててその皮膚を食い破ってほしい。
「わ、かんねえよ。食いたきゃ、食えばいいじゃねえか」
「っ、」
「何を遠慮しているんだ。文次郎のくせに」
 それでも。ひとつ、こいつが見誤っていることがあるとすれば。
「そもそも簡単に食い殺せると思うなよ、俺を」
 文次郎が息を呑む。誘われるように、朝の淡い陽光から隠すように、ふたたび留三郎の身体に覆いかぶさる。
 そうだ、それでいい。手加減なんてしなくていい。消えてしまうのならば深く刻みつければいい。夜しか残らないのならば朝も残せばいい。単純な話だ。諦めるのなんて性に合わない。ふたりで同じくらいがいい。
 額と額がこつりと触れ合う。さらりと落ちてきた文次郎の髪がまるで帳のようだと思った。外から遮断されたちいさな箱庭のなかで、これからふたりの朝が、始まる。

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