Asymmetry Wind #0

「え、俺も合奏練習出ていいんですか」
「ああ、さっさと準備しな」
銀色に光るトランペットと、譜面に1音1音音名を書き込んだ大会曲の楽譜を入れたクリアポケットのファイル、それと楽譜台。「雑巾忘れるなよ」と先輩の声が飛んでくる。
「未狩(みかり)先輩」
「ん?」
「先輩、いつも『合奏はいいぞ』って言ってますけど、そんなにいいんすか? 全員の前で1人で吹いてみろって言われるとかシンプルに公開処刑じゃないすか?」
ちっちっ、と先輩が指を振る。
「わかってないな泰河(たいが)。合奏はいいものだ。みんなで同じ曲を奏でる、その場にしか生まれない、なんていうかな……曲の中にしか存在しない世界、景色があるんだ。そしてそれは、一緒に演奏している人同士にしか見えない、わからないものだと思ってる。まあ個人の意見だけど」
開いたままの楽譜台と金色のトランペットを器用に同じ手で持って、渡り廊下で先輩が振り向いた。一陣の風がその長めのスカートの裾を揺らす。
「それは……楽しみっすね。楽器始めて2ヶ月の俺でも分かります?」
「たぶんな」
「それより公開処刑怖すぎるんすけど。どきどきしすぎて心臓止まりそう」
「生きてくれ。まあ当てられてもパートごとまでだろうし、ド初心者を全員の前で吊るし上げるような先生じゃないから大丈夫だろ。知らんけど」
まあ私は前の顧問に吊し上げ食らったけど、と先輩が椅子に座って譜面台の高さを調整しながら笑った。
「やっぱり食らってんじゃないすか!!」
「悲しき記憶だ。……緊張して上がっちゃって、思いっきり音外してな」
「うわあ……」
そんな会話をしているうちに顧問がやってきて、チューニングが始まる。音の高さ順にチューニングするので、木管楽器が終わったらすぐにトランペットの番だ。
音を出すのには慣れてきたが、音程を安定させるのはなかなか骨が折れる。電子ピアノの音に合わせて必死で吹く俺の横で、未狩先輩が背筋をしゃんと伸ばし、真っ直ぐに楽器を構えて真っ直ぐな音を出す。今日の青空のてっぺんにすら届いてしまいそうなくらいまっすぐな、遠くまで響くような音。その音に寄り添うように音程を合わせていく。
「おお、未狩ちゃん、今日もいい音」
「ありがとうございます」
「泰河くんもよろしくね。初めてだし、吹けるとこ参加してくれたらいいから」
「……うっす」
緊張してカチコチになりながら返事すると、「そこははいだよ馬鹿野郎」と先輩に小声で言われ脇腹を肘でつつかれた。

「はい、じゃあ曲の頭から、金管だけで」
…………難しい。1人で練習している時とは全然勝手が違う。早いし、容赦なく進むせいですぐに置いていかれる。音も外れるし、そうこうしているうちに今どこを演奏しているかわからなくなる。涼しい顔をして隣で演奏している先輩がだんだん怪物に見えてきた。いやこの人はもともと怪物だった。ああ今どこ演奏してるんだろう。もう何もわからん。うまくいかないし、同じフレーズを繰り返し聞かされるしで、俺は飽き始めていた。上手くない。わからない。……悲しい。
「はい練習ここまで。5分休憩したら全員で合奏して、今日は終わりにしましょう」
タクトを下ろした顧問が言って、場の空気が緩む。楽器のメンテナンスをするもの、水を飲みに行くもの、隣のものと喋り出すもの。先ほどまではなかった、謎の一体感が生まれ始めていることに俺は気づいた。
「どうだ?」
トランペットの菅に溜まった水を雑巾を使って抜きながら、先輩。
「全然っす」
「それがわかっただけでも収穫だ。合奏は自分のパートだけじゃなく、金管全体、木管、打楽器全部の流れを掴まないと上手く流れてくれないから。他の人の音をよく聴くといいかもな」
「…………っス」
俺も楽器の水を抜きながら返事する。
「さ、次は全員で合奏だから、出来るとこだけ吹いてみな。大丈夫、多少の間違いは見逃してくれる」
「……了解っす」
やがて人が戻って来て、全員が席につく。顧問が全員を見渡し、……ゆっくりとタクトを上げた。
「!」
タクトが振り下ろされた瞬間、空気が変わる。木管と先輩のトランペットが先導する流れが他の楽器や打楽器の音で厚みを増して、下の方ではそれを支える低音が別のメロディで蠢く。大きくなって小さくなって、枝分かれしてまた合流するような、華やかに上下動するメロディラインを裏打ちするように、たくさんの音が溢れてくる。穏やかに見えて流れの早い大きな川のような、滑らかな音が流れていく。そして、その川を構成する一滴は、間違いなく俺の音だった。

「どうだった?」
帰り際、楽器を磨いていたら先輩が声をかけてきた。
「…………なんか、すごかったっす。俺なのに、俺じゃないみたいな」
なるほど、と先輩が笑った。
「いい例えかもな。……あれが『合奏』だよ。よかったろ」
俺は2回ほどうなずいた。……もっと上手くなりたい。先輩に、そしてあの「重藤先輩」に負けないような音を出したい。あの人の良さそうに笑う顔を驚きだか嫉妬だかで歪ませたい。俺の決意を知ってか知らずか、先輩もうなずいた。
「楽しいんだよ、吹奏楽は。ちょっとでも知ってもらえたみたいで嬉しい」
「……はい!」
大きく息を吸い込んで腹から返事すると、「その意気だ」と先輩が親指を立てる。夕方の風が頬に心地よかった。

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