きみに向かう夜

 この時間、折り紙大学の前にこれだけ学生が集まっているのは珍しい。
 今日割り当てられていたホテルの部屋の番号がHDFであるとしっかり確かめてから夢境に入ったのに、穹は今日もまた折り紙大学がある太陽の刻から少し離れた夢境で目を覚ました。慌ててスフェロイドに乗り込んで滑り込んだはいいが、もしかして遅刻だっただろうか。人混みの中、どこに行けばいいんだ、と周囲を見回していると、くい、っと不意に後ろから腕を引かれた。
「? ――あ、丹恒!」
 人混みを掻き分け、いつの間にか真後ろに来てくれたらしい。全くおかしな話だ。家を出てくる時は一緒だったし、夢境に入ったであろう時間だってさほど変わらないはずなのに、どうして夢境に入ると、それぞれバラバラの場所に落とされてしまうんだろう。丹恒は穹を見つけたことに少しほっとしたような表情をして、「また遠くに落とされたのか」と尋ねてきた。
「そーそー。今日はブルーアワーの刻に飛ばされた。丹恒は?」
「ここだが」
「何でだよ!?」
「……そもそも、折り紙大学の方で割り振られている部屋やドリームプールは、今日の憶質の動きに合わせ、この夢境に飛びやすい物を選定して知らせているから、遠くと言っても飛ばされるのはせいぜい隣の夢境なんだ。お前の場合は違うようだが……」
「ホントに何でだよ。おかげで毎回遅刻しかけてんだぞ」
「……気になるようなら相談にいけ」
「もう行った。けど、原因が分からないってさ」
 だからもう少し早く夢境に入ればいい話なのだが、睡眠薬を飲まないとなかなか寝付けず夢境に入れないため、それも難しい。夢境に入る際、宿泊客も時折割り振られている部屋を使っているため、学生に開かれた部屋が判明するのはいつも決まった時間なのだ。その時間に合わせてホテルに向かっても、薬の調整で入眠する前に歩きながら、もしくは待合のロビーで眠ることになってしまう。丹恒が運んでくれればいいのだが、そういう時に限って丹恒が割り当てられた部屋と穹が割り当てられた部屋が対角線上にあったりするのだ。
「まあ、もう結構慣れたよ。スフェロイド酔いにも」
「そうか。あまり無理はするなよ」
 それより集まって何するんだろうな、と穹は漸く丹恒に尋ねた。今日はこの後、予定していたインターンがいよいよはじまるのだ。既に派遣先の夢境は学生に通達されているはずだから、現地集合で問題ないんじゃ、と集合場所と集合時刻が通達された時に疑問符を浮かべたのだが、どうやら他の学生もなぜ自分たちが集められたのか理解していないらしい。時間になったからか、教授のひとりが、では同じ夢境に向かう者同士で顔合わせをしてください、と拡声器で指示を出してくる。同じって言うと、と穹は丹恒に視線を向けた。
「丹恒と俺の他に、同じとこいくやつ? 誰だろ」
「さあな。……ご丁寧に看板が立った」
 動き回る看板に、それぞれの夢境の名称が書かれている。学生たちは怠そうな動きで、その看板の近くに移動し始めた。穹も彼等に倣い、自分たちが向かう夢境の看板を探す。視線を彷徨わせ、一番端に漸く【車輪の刻】と書かれた看板を見つけた。
 飛び交う声や言葉たちの喧騒の中、何人かの学生たちが自分たちの班の顔ぶれを確かめるように自然と円になっていく。多くの輪が出来ていく中、何故かこの看板の近くに寄ってくる者がもういない。他の班はそれぞれ四、五人から、多い場所は十人を越えているのに、何故かここは二人だけだ。では【白銀の刻】へ向かう者からこちらへ、と教師が彼等を呼びつける。学生たちはぶつくさと言いながらも、教師に従い何かを手にすると、それぞれ目的の夢境に向かい、スフェロイドに乗り込んでいった。
 向こう側の看板から順に呼ばれていたのでまさかとは思っていたが、穹と丹恒が呼ばれたのは他の学生がすべて移動した後の事だった。君たちで最後ね、と教師はいい、名簿にチェックを入れながら、穹と丹恒に何かを手渡してくる。アンプルくらいの大きさのカプセルだった。初めて見るものだ。
「憶泡採取に使うものよ。インターン中の成果物を一つ、憶泡として取り出してそこに入れて提出してちょうだい。評価基準とするけど、中に入れる憶泡の選定はあなた達に任せるわ」
「質問を」
「どうぞ」
 丹恒が手を上げる。教授はそれにどこか上機嫌に答えた。きっと、丹恒の事を意欲のある学生だとでも思っているんだろう。
「成果物というのは完成した作品以外に、実習中のドリームメイクの過程ややり取りも含まれるのか」
「ええ。もちろん。完成品を、とは言っていないから。貴方達が評価してほしいと思うものであればすべて成果物とみなします」
「解釈の余地がありすぎないか?」
 穹は難しい顔で続けて尋ねた。教師はそれに明確な答えを与えず、にこりと微笑むだけだ。ドリームメーカーには想像力や発想力も必須な能力となる。確かに、何を選ぶかによっても評価は変わるか、と穹は鞄の中にカプセルをしまった。
「――あなた達は、……【$◎Ⓡнの刻】ね。行ったことは?」
「ない」
「……? お、俺もないな」
 今教授が何と発言したのか聞き取れなかった。車輪の刻のはずだよな、と穹はきょとん、と疑問符を浮かべるが、丹恒は特に気にした素振りもないし、教授もまた噛んではっきりと言えなかったことを恥ずかしがるようなそぶりも見せなかった。聞き間違い――だろうか。丹恒ってスルースキル高いよなあ、と思いながら、穹は空気を読んで今のを突っ込むのはやめておこう、ときゅっとくちびるを噤んだ。
「そう。……ここは少し他の夢境から離れた場所にあって……、静謐の刻の境目にあるスフェロイドからしか迎えないの。だからまず静謐の刻に行ってくれるかしら。さっき同じく静謐の刻に向かった学生がいるから、彼らと同じように折り紙大学のインターンで来た、と言えば通してもらえるわ。折り紙大学から静謐の刻へ向かうスフェロイドは、他の乗り場と違って少し離れたところにあるのだけど、わかる?」
 静謐の刻というのは、夢境の中でも一般公開がされていない夢境の一つだ。関係者以外の立ち入りを禁じていて、学生でも普段は入れない。
 教授はグラークス棟の非常口近くに小規模なスフェロイド乗り場があることを教えてくれた。指導先で教わる指導役については、行ってみないと分からないようだ。
 ひとまず、穹は丹恒と共に目的のスフェロイド乗り場に向かった。広場から校舎の一つを通り道にして、一旦棟を通り抜ける。グラークス棟を目指し、スフェロイド乗り場の影を探しながら先へ進んだ。そのうち、何故か周囲から人けがなくなり、しん、と周囲が静寂に満ちていく。恐らく授業が始まっただけなのだろうが、いつもどこかしらから聞こえてくる音楽一つ聞こえてこないことに漸く気付いた。なんだかぞわぞわするな、と思いながら歩いていて、穹はふとあの『怪談』のことを思い出した。……たしか。
「……丹恒」
「なんだ」
「例の怪談ってさ……」
 確か、グラークス棟の非常口じゃ、と尋ねる。丹恒も今気付いた、とばかりにやたらと静かな周囲を見回し、「そうだったな」と頷いた。「だが、今から行くのは非常口じゃない。スフェロイド乗り場だ」
「そ、そうだけど!? や、なんか、……ちょっと静かすぎないか?」
 ざわざわ、と聞こえてくる風の音すらやたらと大きく聞こえるほど、人の声がしない。気配もない。丹恒は対して気にすることでもないだろう、とばかりにきょとんと首を傾げる。
「そうか? 学生があまりいないだけだろう。学内でも似たような場所はごまんとある」
「そ、そうかなあ? そうかな!?」
「逆に聞くが、お前は一体何に怯えているんだ。こんな真昼に幽霊が出たとしても、それを恐ろしいと思うか? ましてやここは夢境で、どう考えてもその幽霊と言うのは記憶域ミームの」
「あーあーあーそういう論理的なのはいい! 真昼でも幽霊は怖い」
「そうか。手でも握るか?」
「握っていいか聞こうと思ってた。愛してるぜ親友」
 提案されるや否や、穹は手を繋ぐどころか丹恒の腕にしがみ付いた。これで幽霊が出てきても大丈夫、と何も起こっていないのに、勝手にばくばくと馳せ始めていた胸をなだめる。星核よ落ち着いてくれ、と自分の胸に語り掛けたところで、はた、とまた一度思考が止まった。……星核ってなんのことだっけ?
 浮かんだその単語に胸の辺りをぎゅっと掴む。それは万界の癌と呼ばれる、宇宙のどこかに存在する謎に包まれた物質だ。星核は突然惑星に降り立ち、時折災禍となり、人々や星に傷跡を残す。なぜかその恐ろしいものが、懐かしい言葉のように感じた。何に懐かしさを感じているのだろう。わからない。わからない。……わからない。そうしている間に、その言葉も水のように何かに滲んで、痕跡だけを残しどこにも無くなってしまう。穹はすぐ、その違和感のことなど忘れて、再び歩き出した。
 スフェロイド乗り場は、あの教師に言われた通り棟の裏、非常口付近から少し離れたところに設置されていた。あまり利用者がいないのか、今は誰も並んでいない。乗り場につくと、丹恒はスフェロイドのドアを開け、すぐに中に乗り込んでいった。一人乗りではなかったから、まーぜて、とそのまま穹も一緒にスフェロイドに乗り込む。
「行先の設定いる?」
「いや、……既に固定されている。静謐の刻は他の夢境と繋がるスフェロイド乗り場が一つしかないらしい」
 画面を操作しながら丹恒が言う。もう行っていいなら閉めてくれ、と言われドアを閉めた後、すぐに浮遊感が身体を浮かせた。ものの数十秒でその浮遊感がきえ、浮いていた体がすとん、と再び座席に収まる。勝手にドアのロックが外れた。どうやらもう着いたらしい。
 話によれば、静謐の刻から、さらにスフェロイドを乗り継いで現場に向かう必要がある。静謐の刻は観光客等、ピノコニーに訪れた外部の客が入れないようにスフェロイド乗り場近くに検問があり、関係者であることを証明するものや一時的な申請が必要になっていた。
 恐らく既に報せは受けているはずだが、と丹恒はスフェロイドから降りてすぐ、設置された検問へ向かっていく。検問には天環族の男性がいて、二人を見てすぐに「折り紙大学の学生さんですか?」と尋ねてきた。「申請は聞いています。学生証を提示してください。お二人はすぐに【$◎Ⓡнの刻】へ向かわれるとのことですので、案内人を手配させていただきました。奥にいるオムニックのドリームメーカーについて行っていただけますか? スフェロイド乗り場まで案内させていただきますので」
 やはり何を言っているのか聞き取れない所があるが、丹恒はやはり気にしていないな、と穹もまた黙ったままでいた。言われるがまま学生証を見せ、案内人に従ってさらにスフェロイドを乗り継ぐことになる。案内人のオムニックは始めにこちらです、と言ったきり黙ったままで、黙々とただ目的地へ二人を案内するだけだった。
 静謐の刻は関係者しか入れない夢境だからか、何があるのか穹も正直なところ把握していない。ピノコニーの夢境はそれぞれに広大な土地を持ち、また現地民でも勤務地が決まった後は他の夢境に足を踏み入れることも少なくなるため、ピノコニーに住んでいるからといってすべての夢境に詳しいわけでもないのだ。
 初めて来る、と思いながら周囲をきょろきょろと見つつ進んでいるうち、遊歩道はいつの間にか舗装され、周囲は木々に囲まれてしまった。木々の所為で遠くの様子はわからないが、少なくとも【白銀の刻】とは違い、摩天楼はなく、そして人が住んでいる気配もない。「そういや関係者しか入れないって言うけど、ここには何があるんだ?」と今更のように穹は案内人のオムニックに尋ねた。オムニックはその質問にちら、と穹を振り返り、再び前を向いてしまう。
「――折り紙大学の学生には便宜上この夢境への出入りが一時的に許可されていますが、本来は卒業後正式にドリームメーカーの資格を有するようになってからでないと許可証の発行が出来ません。学生と言えど守秘義務はありますが、人の口に戸口は立てられません。ですから、あなた方にお伝えできるのは是だけです。『この夢境に関することは全て秘匿事項に含まれ、関係者以外の開放はしておらず、また一時的に足を踏み入れる者に関しても、案内人なしに夢境内を歩くことを禁じている』。つまりここに何があるか、あなた方にお答え出来ることは今現在ございません」
「聞きたかったらドリームメーカーになってからにしろってこと?」
「そうなります」
「えー? そんなあ」
 そういうものだろう、と丹恒が小さく息を吐く。前方にこの静謐の刻に繋がるあの学内の敷地内にあったスフェロイドと同じくらいの大きさのスフェロイドが見えてきた。ただ、どこか見慣れたスフェロイドと雰囲気が違う。
「あちらのスフェロイドに乗っていただきます。十三番目の刻は少し特殊な場所でして、スフェロイドも鍵がないと動きません。鍵はスフェロイド内部の天井の隠し棚にございます。ロックナンバーは――」
 半分聞き流していたが、まあ丹恒がちゃんと聞いてくれているだろう、と穹は別の場所へと意識を逸らした。後方にあるスフェロイドは知っているスフェロイドと形も色も全く違う。色も塗られておらず、金属質の鈍い光沢がむき出しで、そしてどこか古めかしく、錆が目立つ。ガラクタに近いヴィンテージの家具や道具が並ぶ店を知っている。そこに並んでいる飾ってあるだけの骨董品みたいだ、と穹は思った。
「あれ、本当に動くのか?」
「ええ、もちろん。メンテナンスは毎月行っておりますから。十三番目の刻へ向かうスフェロイドの設置はこの場所のみですが、戻ってくる際は指定先が他の夢境になります」
「一方通行ということか?」
「ええ、そうです。あなた方を運んだあと、スフェロイドは自動運転を行い勝手にここに戻ってくるので問題ありません。特に何もせず、そのまま降りてください」
「分かった。他に注意事項は?」
「あとは十三番目の刻で案内があると思います。そちらで確認してください。他に質問がなければ、どうぞ」
 ぷしゅ、っと空気が抜ける音がして、密閉されていたスフェロイドのドアが勝手に開いた。行くぞ、と促され穹は丹恒の後に続く。乗り込んでドアを閉めた後もしん、と静まり返り、スフェロイドは微動だにしない。天井だったな、と丹恒が手を伸ばした。少し潰されそうになりながら、もぞもぞと狭い室内でロックを解除し、隠し棚から丹恒が鍵を取り出すのを待つ。
 つ~ぶ~れ~る~、と冗談交じりに訴えていたところで、かこんっ、と音がして、続けて何かが頭に落ちて転がってきた。んあ、とその僅かな感触にびく、っと何が起きたのかわからずに身構える。足元に何かきらりと光るものが落ちていることに気付いた。なんだこれ、とすぐに拾い上げてみる。
「……? チケット、……みたいな形の、……鍵?」
 バッジのように見えるが、不思議な形をしている。長方形だが、角が一つだけ取られていて、金色の版には模様のような溝が彫られている。短辺に赤いラインが引かれているのだが、その赤が金に映えて薔薇のように綺麗だった。平たく、少し重い金属質の感触だ。これが鍵? と尋ねながら穹はそれを丹恒に手渡した。丹恒もそれを受け取り、恐らくそうだな、と棚の中に他に何もないことを確かめる。
 スフェロイドの操作パネルの近くに、丁度スロットのように細長い穴が空いていた。ここにいれろ、とばかりにサイズもぴったりだ。丹恒がそこへ鍵を差し込むと、しんと静まり返ってたスフェロイドの中が急に起動音で煩くなった。瞬間、ぱっと世界が切り替わったかのように、スフェロイドの窓が、そして今座っているこの場所すらも星空になる。おわ、っと思わず穹は驚きながら丹恒へ手を伸ばした。座席の感覚はあるのに、どこまでも落ちていきそうな気がして。
 これで行先を、と丹恒が操作しようとした途端、かくんっ、とスフェロイドが傾いた。身体を固定する前だったから、まるで星空にそのまま体を投げ出したかのように、浮遊感が全身を包む。ぎゅっと思わず丹恒にしがみ付くように腕に力を入れた。丹恒もこの状況は想定していなかったとばかりに、驚いた表情をしている。
 宙を流れる星々のように、周囲の光が棒状に伸びていく。驚きを通り越し、穹はなにこれすご、と思わず笑いだしそうになっていた。まるで宇宙を猛スピードで駆けているような感覚だった。
 その高揚するばかりの旅もそう長くは続かず、感じていた浮遊感が不意に地に足をつけると、機械音の終息と共に、静かに夜は明けていってしまった。投影が終わり、周囲は宇宙空間から狭いスフェロイドの内部に戻ってしまう。ぷしゅ、っと勝手にロックが解除され、ドアが開いた音がした。どうやら目的地に着いたようだ。
 何だったんだろうあれ、と束の間の宇宙の旅に心を躍らせながら、穹は反射的にしがみ付いていた丹恒から手を離した。丹恒は鍵を取り出そうとしたようだが、鍵は何故かスロットに吸い込まれたまま戻ってこず、仕方がなく無理に取り出すことはせずに、二人は球状車両から這い出ると、そのまま戻っていくスフェロイドを見送ることにした。
 降り立った場所は何もない、強いて言えば海と砂浜だけがあるだだっ広い場所だった。海なら他の夢境にもあるのだが、ここの海はどうしてか酷く寂寥感に満ちている。指導を担当するドリームメーカーは何処だろう、と人気のない砂浜でぼんやり突っ立って周囲を見回し、穹はあれ、と首を傾げた。いつの間にか、先ほど自分たちが乗ってきたはずのスフェロイドが止まっていた乗り場が忽然とその姿を消している。
「……使わなくなったら透明化するとか?」
 こわ、と急になくなった設備の不思議に首を傾げていると、穹、と少し離れた場所で丹恒が声を上げた。彼の目の前にはバケツと掃除用具、それから釣り用具が転がっているが、それを使用するであろう人の姿はない。そもそもどこに行けばいいんだよ、と困っていたところで、うわーっ! と遠くから叫び声がした。丹恒もその叫び声にはっとして、穹と共に後ろを振り返る。……遠くに点が見える。
 その点は、こちらへ徐々に近づいてきているように見えた。しばらくして、その点が人であることを視認できるようになり、そのうち、その人影が少年程の背丈であると分かるようになる。穹も丹恒も一度顔を見合わせた。こちらへ懸命に走ってくるあの少年の元へ、自分たちは駆け寄っていった方がいいのか、と。
 少年はあまり走るのが得意ではないようで、途中で徐々に失速し、物音が届くくらいになると息も絶え絶えになっていた。ついぞあと十数メートルの距離で体力が尽きたらしくその場で止まってしまったので、穹は丹恒ともう一度顔を見合わせ、少年に近づいていくことにする。
 スウィート・ドリームシロップのような曖昧な色をした海に照らされ、少年の水色の髪は本当の水のように透き通って見えた。
「おーい、大丈夫か」
 ぜえ、はあ、はあ、ひい、と未だ息を落ち着けていて、会話どころではない少年に穹は尋ねる。少年はようやく、「ひょっほ、まっへ、ひだだへまへんひゃ……」と全く回っていない呂律で告げた。
「なんて?」
「少し待ってほしいんだろう」
「あー、なるほど」
 少年は生唾を飲み込み、砂浜をかけて上がった息を漸く整えると、「お待たせしてしまい申し訳ありません……」とまず謝ってきた。「お二人をご案内に来ました。ボクはミーシャと言います」
「ミーシャ?」
「はい! 車輪の刻へようこそ。ええと……お荷物はありますか?」
 まるでドアボーイのようなことを聞く。少年はすこし育ちのいいお坊ちゃん、とでもいうような白いシャツに短パンという格好をしていた。案内人ってことは、と穹は彼に尋ねる。
「インターンの指導者のとこまで案内してくれるってことか?」
「ああいえ……、お二人がここにいらっしゃる間の拠点までご案内する予定でした」
「あなたが指導者ではないのか?」
「え? ああ……ええと。そうすることも出来ます。ご希望とあれば、ですが。今は移動でお疲れだと思うので、先に拠点へご案内しちゃいますね」
 まだそんなに疲れていないんだけど、と返す前に、こちらです、と聞く耳も持たず少年が歩き出す。すると、少年の向かう先に、何故かそれまで全く見えなかった街が見えるようになった。
 蜃気楼のように現れたそのビル群に、穹は驚き、どういうこと、と丹恒に助けを求めるように視線を向ける。彼なら何が起きているのかわかるかと思ったのだが、丹恒もまた不可解な表情を浮かべるばかりで、目にしているものについては穹が求めているような答えは持ち合わせていないようだった。



「……答えられないってどういうこと?」
 ホテル・レバリーのVIPルーム、そのうちの一つの部屋に、他に三人のナナシビトが顔を突き合わせている。彼らの傍にはソファに横たえられたまま、深く眠り微動だにしない少年が一人。なのかがその彼を見、神妙な顔をして尋ねた。ブラックスワンはそうねえ、と言葉を選ぶようにゆっくりと彼女に返す。言葉の通りよ、と。
「夢境の中での彼が無事かどうか確認できていない以上、推測する以外に答えを持たないわ。確信が持てない言葉で安心させるならいくらでも出来るけれど、あなたはそれを望んでいないでしょう? ――先に説明した通り、彼がこのピノコニーの十二の夢境のどこにもいない、ということは、それ以外の夢境に閉じ込められているか、記憶域まで潜ってしまっているか、または他の何かしらの中にいるかよ。少し時間はかかるけれど、彼の事を探すことは出来ると思うわ。けれど、彼の状態によってはそのまま彼だけを連れてくることは不可能かもしれないの」
 例えば憶質の濃度が濃い場所に彼がいたとする。そうなると、彼が彼のものではない憶質に触れ、その影響を受けている可能性が十二分にある。
「可能性って、どんな?」
 なのかの問いに、彼女は莞爾として笑った。
「彼が彼でなくなってしまっているかも」
「……!? ど、どういうこと?」
「誰かのものだった憶質の影響を酷く受け、自我が曖昧になっている可能性がある、ということか」
 丹恒の問いに、ブラックスワンが頷く。「その状態で無理に彼を連れてくることは可能よ。でも、出来れば自分自身で自分のことを思い出す方がいいでしょう」
「ブラックスワンでもどうにか出来ないの? こう、この子の記憶はこれですーって本当の自我を前に持ってくるとか……」
「形のないものを証明することほど難しいものもないわね。……だから提案というか、お伺いをしているの」
 通話先でもその話を聞いて、静かに息を吐く声がする。それまで黙って話を聞いていたヴェルトが、「時間がかかる、というのはどれくらいを想定しているのか教えてくれないか」とブラックスワンに尋ねた。「もうじき星穹列車はピノコニーを発つ予定だった。数日、一カ月、それよりもっと時間がかかるものなのか。もちろん、彼をこのままピノコニーに置いていくことをするつもりはないが、長引くのであればこちらも計画を練り直さないといけない」
「ごめんなさい。今の時点ではっきりと言えることはないわ。エナの夢で既に体験済みだとは思うけれど、夢で感じている時間の経過と、現実世界での時間の経過は必ずしも一致しない。私が夢境のより深い場所、それから記憶域まで彼を探している間、現実ではたった一時間も経っていない可能性だってある。奥へ向かえば向かうほど、感じる時間は間延びして、途方もない時間に感じることも。……ただ、早く彼を探しに行くに越したことはないわね。こうしている間にも、深く、深く沈んでいるでしょうし」
『……――現時点では、星穹列車は彼の救出を貴方に頼むしか方法を持たないわ、ブラックスワンさん。こちらが代わりに差し出せるものはそう多くはないけれど――』
「あら。私は星穹列車のみなさんに何かしらの対価を望んでいるわけではないわ。気にしないで。それにもう、勝手にいただくつもりでいるから」
「いただく?」
「ええ。彼が今、【夢の奥深くで見ている記憶】だとか。……――では、星穹列車の皆さんには、彼の救出について合意を得たものと思っていいのよね?」
 話を切り替えるようにブラックスワンが問う。
「ああ。もちろんだ」
 ヴェルトが頷いた。じゃあ、とブラックスワンは、彼を見、その視線をなのかへ、そして丹恒へと順番に移していった。その視線に、丹恒もなのかもきょとん、とする。彼女の視線は丹恒の前で止まり、そこから動かない。
「ではお一方、私の護衛として一緒に来ていただけないかしら」
「……え!?」
「わかった」
「え!?」
 ぎょっとするなのかに被せて、丹恒がすぐに頷く。それにもなのかが声を上げ、そういうことか、とヴェルトが納得したように頷いた。
「何故、この件で俺たちに合意を得てから彼を追う必要があるのか理解したよ。つまり初めから、あなたは星穹列車の内の誰かを一緒につれていこうと?」
 ヴェルトの問いにブラックスワンはええ、と悪びれもせずに頷いた。
「何も言わずにそちらの護衛さんを一緒に連れていくことも出来たけれど――何も話さずに連れて行ってしまっては、星穹列車の皆さんに誤解を生みかねないから」
「そ……そうだよ!? ていうか何、丹恒もそんな簡単にわかったって……」
「元々は俺が穹と一緒にいたんだ。だのに、あいつは戻ってこないまま、俺だけが目覚めた。きっかけは俺だ。なら、当然ついていくべきなのは俺だろう。それに護衛としての経験はそれなりにある」
 答えた丹恒を、ヴェルトはいつものような少し優しい、穏やかな声で諭してくる。
「丹恒。彼が心配なのはわかるが、あまり気負い過ぎるな。それに、先ほどブラックスワンさんが言っていたように、今のピノコニーの夢境は不安定な状況にある。イレギュラーが起きる確率は元々高かったんだ」
「……ありがとう、ヴェルトさん」
「だから、原因が自分にあると思い詰めるな。それにあの子が少し手がかかるのはもう君も分かっているだろう」
「ホントにそう! あの子ってばまた色々問題起こすんだから。……ていうか、丹恒が行くのはもう決定なの? ウ、……ウチも行く! あの子のこと、心配だし」
 少し不安げな表情をしてはいたが、意を決してなのかがブラックスワンに言う。だが彼女は、それを穏やかなに微笑んで聞くだけだった。
「あら、ありがとう、三月さん。でもごめんなさい、私が誰かを連れて行けるのはおそらく一人だけなの」
「一人だけ?」
 だから初めから、ブラックスワンは丹恒の前で視線を止めた。列車組の皆と今後の事を話をしたい、と言いつつも、初めからこうすることを決めていたのだろう。決めていた、というより、彼女からすれば「決まっていた」に近いのかもしれない。カードを一枚引くように容易く、恐らく彼女にはこうなることが見えていたはずだから。ええ、とブラックスワンはなのかの言葉に頷いた。
「そもそも、ねぼすけさんを見つけて連れ帰るだけなら、星穹列車のみなさんの助力は必要ないわ。それこそ、また一人、現実に戻ってこれなくなるリスクを冒す必要はない。でも、先ほど言った可能性……万が一、彼が夢境の奥深く、もしくは記憶域に囚われ、これまでの自分の事を忘れてしまっているとすれば――彼に彼自身の事を思い出してもらうきっかけが必要なの。それが……」
「丹恒ってこと?」
 なのかの質問に、ええ、そうよ、とブラックスワンは頷いた。
「要するに、丹恒さんは【釣り針】として一番適しているの。今の彼の記憶は、あなた達と出逢ったところから始まっている。だからこそ、夢を見ている彼には、あなたたちがいることを思い出してもらうのが一番いいきっかけになると思うの」
「それには賛成だが……、丹恒を連れていくとして、丹恒自身にも何かしら影響がある可能性は?」
 ヴェルトが問う。ブラックスワンはその言葉に一度だけ頷いた。
「ないとは言い切れないわ。今言ったことは当然、彼だけでなく、丹恒さんにも起こり得ること。だからこそ、私一人ではなくもう一人を連れていく意味がある。二人が記憶を失い、私の介入すら難しくなった場合でも、互いがきっかけになって現実の事を思い出すかもしれないから」
「じゃあ……思い出すなら、何でウチやヨウおじちゃんだとダメなの?」
「話を聞いた限り、最後に彼といたのは丹恒さんでしょう。私は、二人が見た夢の泡のことをまだすべては把握していないわ。その夢の泡に似た場所が夢境や記憶域で見つかれば、それを辿って彼の元へ行ける可能性がある。だから彼を選んだの。もし彼と夢境で最後にいたのが三月さんであれば、私は三月さんに同行をお願いしたわ」
 ブラックスワンの話に、ヴェルトはしばらく考え込むように黙り込んだ。彼が話を始める前に、通話先から、『――わかったわ』と、それまでずっと黙り込んでいた姫子から声があがる。全員が彼女と通話を繋いでいたなのかの端末に視線を向けた。『丹恒。護衛として彼女について行って、穹を一緒に迎えにいってくれる?』
「……ああ。もちろん」
 まあそうなるよね、となのかは姫子の言葉で納得したように息を吐いた。あの子ってば本当に手がかかるんだから、と。そうね、とその声に姫子が通話の向こうで苦笑する。
『何事もなく戻ってきて。一緒にいけなくてごめんなさい、丹恒』
「気にするような事じゃない。何より、元より原因は……」
「こら、またそれだ。たまたま偶然が重なった可能性もあるんだ。君たちが夢の泡を見たというのは事実だが、実際にこうなってしまった、その因果関係は異なるかもしれない。丹恒、考えてしまうのはわかるが、今は切り離すんだ」
 ヴェルトが諭すように言った。そーだよ、となのかもそれに続く。
「大体、ウチらがトラブルに巻き込まれるのなんていつものことじゃん」
「私がみなさんを一緒に連れていけたらよかったのだけれど。ごめんなさいね」
『貴方としても、出来る限りのリスクは回避したいはず。今の夢境は安全とは言い難いわ。それに、連れて行くのは一人でも、連れて帰るのは二人だもの。……ありがとう。お言葉に甘えて、二人のことを任せていいかしら』
「ふふ。ええ、だからちゃんとお話をしに来たのだもの」
 ブラックスワンは姫子の声に頷くと、そうと決まれば、と丹恒にまるでダンスを誘うかのように手を伸ばしてくる。その手(エスコート)の意味が分からず、丹恒がきょとんと目を丸くしていると、それを悟ったのか、「早く追いつかないとね」と、彼女は丹恒が取らなかった手を引っこめ、微笑みながら静かに丹恒の後ろへ向けた。彼女が示した先にはドリームプールがある。
「丹恒さんはあれで夢境へいって。あとで落ち合いましょう」
「わかった」
「え、本当に今すぐ行くの? じゅ、準備とかは!?」
「こうしている間にも彼が深い場所に落ちて行っている可能性はある。それに、どうせ夢の中だ。身一つでいくしかないさ。……大丈夫だ、今は彼女を信じよう。なのか」
 でも、と不安げな表情をするなのかに、じゃあ行ってくる、と丹恒は答えて、ヴェルトにも軽く視線を送った。ああ、気を付けて、と彼の声を聴いてから、丹恒はドリームプールに足を踏み入れた。
 クラムシェルの中に座った後、なのかが近くまで駆け寄ってきた。まだ何かあるのか、と不思議な表情でなのかを見上げ、丹恒はきょとん、と軽く首を傾げる。絶対絶対連れて帰って来てよ、となのかは丹恒と視線を合わせるように、その場にしゃがみながら言う。
「……ウチ、二人が戻ってくるまで寝ないで待ってようかな」
「いや、三月。無理はするな。それに、そういう時、お前は結局十割の確率で寝ている」
「もー! そ、そんなことないし!? ていうか十割って高くない?」
「……まあ、あまり気にするな。――けどもし、俺が何日も寝過ごしそうになったら、その時はお前が起こしてくれ」
 丹恒からの頼みに、うん、叩き起こす! と少しばかり物騒な意気込みが返ってきたが、まあいいか、と丹恒は一度呼吸を落ち着け静かに目を閉じた。
 ドリームプールは人が夢境に入りやすいよう環境を整えてあるから、余程寝つきの悪い人間でもなければ、ものの数分で入眠できる。水の中は、人肌よりも少し冷たい。ぬるいその温度が、静かに冷えて、体から僅かに熱を奪っていく。人の体は体温が下がった時に眠気がくるというから、これも整えられた「環境」のひとつなのだろう。なのか、とヴェルトが優しく彼女をクラムシェルの傍から離す声が聞こえた。じゃあ、――と遠くで聞こえるブラックスワンの声が、次第にぼやけていく。

 ――ごぽん。

 夢境に落ちて行く時の感覚は、冷たい水の中に沈んでいくような感覚とよく似ている。ドリームプールの底が抜け、深海の中に放り出されたような感覚で体が覆われた。そのまま深く、深くへ沈んで、意識を手放す。
 ピノコニーに着いた当初からエナの夢に落ちていたとはいえ、夢境にはまだあまり馴染みがなかった。その感覚に静かに意識を横たえ、ふっと、一度溶けた感覚が再び輪郭を描き出す。そうやって、数回試した通りに夢境に降り立った丹恒は、瞼を開き、朝焼けの透き通った紫色の空の下に自分が立っていることに気付いた。
 夢境に入る時、人はそれぞれ異なった夢境に足を踏み入れるものらしい。突如ここに現れたはずの丹恒の事など気にも留めず、この朝焼けの中で人々は静かに周囲を散策している。どうやら、無事に夢境に入れたらしい。
 まずはブラックスワンと合流しなければ。丹恒は彼女と連絡を取るため、一旦端末を取り出した。個人的に登録はしていなかったから、旧暉長石号でのやりとりのログを遡る。漸くブラックスワンを見つけたところで、そっと横から嫋やかに長い指が伸びてきた。
「……ブラックスワン」
「驚かせてしまった? ごめんなさいね。――少し移動しましょう。もう一度探してみたけれど、やはり開かれた夢境の中に彼の姿はなかったわ。夢境と夢境の挟間からまず探してみましょう」
「挟間?」
「ええ。十二の夢境というだけあって、それぞれの夢境は独立して維持されている。それらがそれぞれの夢境に干渉しないように、隣り合わせの夢境には、僅かな仕切りのような記憶域があるの。そこが挟間。時々夢境間の移動中に、その場所に迷い込んでしまう方がいるそうよ。その結果、ドリームリーフ(原初の夢境)まで落ちてしまった人も」
 表向きドリームリーフの存在は、ピノコニーではまだ秘匿されている。原初の夢境に住む人々がいることも、多くの者は知らないまま過ごしているのだ。彼女によれば、ドリームリーフにも穹の姿はなかった、らしい。夢境と夢境の間に留まっているのなら、確かにドリームリーフでは見つからないはずだ。
 ここは朝露の刻だけど、とブラックスワンは歩きながら何かを探すように周囲へ目配せ、そして遠くに佇む影に向かって歩き出した。
 羅浮の洞天も区画ごとに区切られ、隣接した洞天との間には境目になる部分がある。似たようなものなのかもしれない。仙舟では星槎があるが、このピノコニーの夢境では、夢境間の移動にこの夢境独自の交通システムを使う。――スフェロイド、と呼ばれる特殊な鉄道だ。
 球状車両が特徴で、乗り込むとまるでピンボールのように車両そのものが打ち出され、長距離を移動できる。夢境のいたる所に設置されているポピュラーな移動手段だ。乗るのはこれが初めてだが。
「夢境によって境目との距離が異なるようなの。私は兎も角、丹恒さんが一番挟間に行きやすいのは、太陽の刻かホテルね。ここからだと……近いのは太陽の刻かしら」
「太陽の刻?」
「ええ。折り紙大学が設置されている箇所よ。丁度その折り紙大学の学生に噂されている場所があるの。実際、その場所は夢境の構造からして挟間に近づきやすい。普通にしていても迷い込んでしまうことがあるくらいに」
「近づきやすい?」
「夢境は現実とは違う。だのに、どうして現実と似たような景観で出来ているか、それを考えたことはある?」
 ドリームメーカーの手によって作られた夢の中の都市。立ち並ぶ摩天楼と終わらない夜、或いは沈むことのない陽、どこまでも静謐な美しい景観、おもちゃ箱をひっくり返したようなテーマパーク、遊戯の場。それらはすべて夢の中のものではあるが、確かに彼女の言うように、実際に現実にあるものから着想してそれらは作られている。つまりね、とブラックスワンは続けた。
「夢は、そして憶質は、元は人や土地のものである、ということから逃れることが出来ないの。……例えば、ここから別の場所へ行こうとする時、これがあれば今いる場所とは別の場所に向かえると確信がある、そんな、頭に思い浮かべられるものはあるかしら。貴方が日常的に使っているもので思いつくものは?」
「……別の場所に、……移動手段ということか?」
「それもそのひとつ。もう少し考えてみて。それはあなたの目の前にある。貴方がそれに触れれば、今とは違う場所、空間に必ず行ける、という確信があるものよ」
 彼女の言葉を頭の中で何回か反芻し、丹恒は頭の中に列車を思い浮かべた。それからふと、彼女の言いたいことに見当が付く。
「――そうか。その場所というのは扉の形状をしているんだな?」
「ええ。……【グラーク棟の非常口】と、呼ばれてい――」
 るわね、と彼女が言いきる前に、搭乗可能範囲に近づいてしまったのか、自動でスフェロイドの球状車両の扉が開く。そこからまるで重力に引っ張られるかのように、宙に身体が浮き、丹恒は気付けば車両の中にいた。何が起こったのかわからずに目を点にしている間に、座席に固定され、ひゅっ、と風が流れる音を聞く。外を猛スピードで移動しているということは分かったが、その移動がガコン! と音を立てて急に止まり、再び外に放り出されるまで、丹恒はなかなか自身が置かれた状況を把握出来ないままだった。
 呆然としている間に、周囲の光が先ほどよりずっと明るくなった、と気付く。空は蒼く澄み渡り、雲一つない快晴が広がっている。先ほどまで立っていたあの朝露の少し湿った空間と異なり、からりと乾いた空気の、さわやかな景観だ。
 歩く者の年齢層も少し異なっていた。先ほどは年老いた老人や身なりの整った大人の男性や女性などが多かった印象だが、見た所若者が多い。折り紙大学が設置されているのだったか、と丹恒は漸く僅かなスフェロイド酔いから戻ってきて、こっちよ、と先を歩いていくブラックスワンの後に続いた。
 折り紙大学のキャンパス内、その敷地内に点在している棟が視界に入ると、目に見えて若者の姿が増えてきた。彼らは恐らく、この折り紙大学で学んでいる学生なんだろう。初めて訪れる場所を注意深く歩いていると、そのうち、ブラックスワンがふふ、っと小さく笑い出した。
「そう警戒する必要はないと思うけれど。ピノコニーの夢境はまだ表向きは安全よ。彼がねぼすけさんになっているのだって、恐らくは別の理由があるもの」
「だが、俺たちはただ夢の泡を見ていただけで、」
「それに、安全か安全でないかでいえば、この折り紙大学は他の夢境より余程安全よ。【この大学の中は安全である】と、大勢の学生の潜在意識を利用して、この夢境の補強をしているから」
「潜在意識を?」
「そう。憶質というのは人の感情や記憶に触れて、どんな形にも変化する。もともとドリームメーカーはそうやって憶質の形状を変化させていることだし。……だから、【扉】のこともまた同じ。グラークス棟の非常口に出る幽霊、という怪談は、この大学では有名な話。じゃあ、安全なはずの大学で何故その怪談話はずっと語り継がれているのか、あなたはそれがわかる?」
「……人の印象が夢境を強固にする一方、脆弱にもする。……なるほど、確かに切り離せない」
「多くの学生は信じていないわ。怪談はあくまで怪談である、とわかっているから。でも一部の人はそれを信じてしまう。ましてや、ここにいるのは憶質に触れることに対して慣れているドリームメーカーや知識を求める研究者、野心のある経営者の卵。望むものに対して多くの学生が貪欲なの。つまるところ、無意識で扉を別の場所に繋げている子が、どうしても出てくるのでしょうね」
「そういった学生はどうなるんだ」
「多くは恐怖心が勝って、元の場所に戻るでしょう。そして数人は、そのまま表向きは行方不明になり、より深い夢境へと落ちて行くでしょうね。オーク家の極秘資料に夢境での行方不明者のリストがあるの。そのリストに掲載された多くの行方不明者は、原初の夢境に降り立つ。そしてピノコニーの贅沢三昧な偽りの夢境がファミリーが用意した虚飾で彩られていることに気付き、そのままそこに根を張るようになる――のかもしれないわね」
「……それは見てきた誰かの記憶の話か?」
「さあ、どうかしら。――あそこに見える棟が見える? あれがグラーク棟よ。行きましょう」
 敷地内を移動する学生たちは自分たちに目もくれない。中にはここでこっそり学生に混ざって講義を聞いていく観光客もいるというから、もう学内を学生以外の人間が歩いているのも見慣れた光景なのだろう。
 棟に近づいていくにつれ人影が少なくなっていく。どうやら学生たちの授業が始まったようだ。棟の正面を迂回し、非常口を探す。探していた非常口は、棟の外壁に沿って設置された階段の天辺にあった。
「これは外から入っても繋がるものなのか……?」
「それはあなたの想像力次第ね。ここが大学の建物である、という意識が希薄な状態の今なら問題はないと思ったのだけれど」
「…………」
「冗談よ。扉は私が開けるわ。……それで、丹恒さん?」
「なんだ」
「扉を開ける前に、いくつかあなたに伝えておこうと思って」
「……? ああ」
 なんだ、と尋ねながら、丹恒はブラックスワンの後に続いて階段を一段一段登り始める。蹴込み板のないスケルトン階段は、踏み込むたびにカンカンと金属質な音を立てた。まるで高音域の、大きな鍵盤の上を歩いているような音だった。
「これからまず夢境の挟間へ向かうわ。そこは、上も下も右も左もない、それこそ無秩序な場所。道らしいものもなければ、ただ何もない空間が広がっているだけの可能性もある。足を踏み入れるまで、そして踏み入れた後も、何が目の前に現れるかは未知数なの」
「……つまり、安全ではないということか?」
「ええ。だから、私の手を離さずについてきてくれないかしら。少なくとも、私が先に歩けばあなたはそこに【道】があると思い込むことが出来るでしょう?」
 自身の意識の操作がこの旅路の肝になる。そう覚えておくべきなんだろう、と丹恒は思う。いつもとは少し勝手の違う旅だ。人を探すなんて、これまでもずっとやってきたことなのに、たったそれだけのことがこんなにも難しい。
「――わかった。出来る限り、あなたの歩いた後をついていこう。だが、もし……何か思いがけないトラブルが起きて、あなたとはぐれてしまった場合、懸念されることは何かあるか」
「ふふ。そう硬くなって備えていたとしても、夢は思いがけなくあなたの足を挫くものよ? 美しい物にしても、悪い物にしても。……それに、あなたは元から少し夢見が悪いでしょう。だから憶質もその影響を受け、恐怖を持てば貴方をきっと飲み込もうとするかもしれない。ねぼすけさんの状態を確認出来ていないけれど、あなたもまた彼と同じような状態になってしまう可能性は十分にある。――でも、もしそうなってしまっても、私はあなたと彼を助けるわ。時間がかかるやり方かもしれないけれど。それだけは信じて待っていてくれる?」
「例えば?」
「夢が終わるまで見守る、だとか」
「……、それはただ、あなたが最後まで人の夢を見てみたいだけだろう」
 いつの間にか上がっていた舞台の観客の顔をして、彼女は微笑み返すだけだった。もしそうなってしまったら、さっさと夢を終わらせて叩き起こしてくれ、と言いはしたが、ブラックスワンがそれを聞き入れるかどうか、丹恒には何も判断がつかなかった。
 そうやって彼女と話している間に、足元の音階は止まり、目の前に重い扉が見えてくる。「手を、」とまた差し出された手を、今度はちゃんと握った。……あの時もこんな風に繋いでいたら、彼を見失わずに済んだのだろうか?
 いつもなら、呼べばなに、とすぐに飛んでくる癖に、どうしてこんな時は呼んでも返事一つしないのか。丹恒は手を引かれ、扉を開いていくブラックスワンの背中越しに、薄暗い宙を見た。自分の事がちっぽけな存在に見えるほどの、無限の宇宙が扉の向こうにあった。
 こんな時は呼んでも返事一つしない、と文句を言ったはいいが、そもそも呼んだのは夢境の外で、ここに来てからは彼の名前一つ呼んでいないことに丹恒は気付く。「……穹」どこにいるんだ、と囁くように零し、尋ねてみる。指先を握る手袋越しの温度では、到底、彼の手のひらの温かさには届かない。



 見渡す限り無人の、建物の輪郭もはっきりした摩天楼の下。空の色は曖昧で、他の夢境のように、決められた時間がいつなのかを全く感じさせない。穹はぐるりとその場で一回転し、その曖昧な色の空を飛ぶ船のような影を見上げながら、鳥と呼ぶには色々斬新な形だな、とぼんやりと考えた。
 周囲は海辺から打って変わり、都市の様相だ。広い道路に打ち捨てられた車や、からっぽの店の中を見る限り、どう見ても人が住んでいるような場所には見えない。夢境にもこんな廃墟のような場所があったなんて知らなかった。物珍しい、と顔に書いてあったのか、振り返ったミーシャがふふ、っと穹の表情を見て笑う。
「――ここは車輪の刻の下層部になります。夢境の空はもともとテーマに合わせて時間を固定していますが、ここは階層によって空の色が異なるんですよ。元々空は真っ暗で、下層部から見ると、どこもかしこも暗く、洞窟の中のようでした。でも、今は少し明るいでしょう? ランタンが必要なくなりました。……あ、元は人が住んでいましたが、中層や上層に街が出来てからはそっちに移動してしまって、今はあまり住んでいないんです」
「だから廃墟のような様相なのか」
 丹恒が尋ねた。それもそうなんですが、とミーシャは苦笑する。
「元はこれほどまでに酷くはなかったんです。今この辺りを治めているのはタルタロフという少し変わった方なのですが……。生憎、僕はまだお会いしたことはないですね。……あ、落ちてくるもので時々住民が怪我をするんですよ。なので、ここを歩く時は鋼で出来た傘を差すのがおすすめです!」
「へえ、そうなんだ。で、どこにあるんだ。それ」
「え? ――あっ! す、すみません……っ! ご用意するのを忘れていました……っ! い、今すぐ買いに行って……こ、この辺りでやっている店は確か三キロ先に……!」
 途端にミーシャが慌て始める。穹は彼を落ち着かせるように手を軽く横に振った。
「いいって。上に気を付けながら歩けばいい話だろ。……で、あの飛んでる船みたいなのってなんだ? 薄く見えてるやつ。鳥か?」
「はい? 船、ですか? ええと……」
 ミーシャが上空を見上げ、何のことか、と首を捻る。あれ、と穹はもう一度、グレーの影になって空を横切っていく船を指さした。まるで自分たちが水の中にいて、水面を見上げているようだ、と思いながら。
「――ああ! あれは【星槎】と言います。仙舟という場所で主に利用されている交通機関ですよ。それを元に作ったものです」
「仙舟? 丹恒がいたってとこか?」
 穹はその話をミーシャから聞いて丹恒を振り返った。彼もまた空を見上げ、遠く雲に混ざって空を滑っていく船をじっと見つめる。まるで空のあの場所に水が溜まっていて、ここは海底都市なのではないか、という気分になる。ぴしゃぴしゃと足元に水が絶えず溜まっているし。
 人が住まなくなった場所だからか、時折道には瓦礫や壊れたガラクタ、折れた看板などが落ちていた。錆びたもの、壊れたもの、扱いに困るような粗大ごみ。ここから見れば雲の上にしか見えない上層に人が住んでいる、ということは、つまりそこに人の営みがあるということで。
「落ちてくるものって……。なるほど、上からゴミを投げ捨ててるのか」
「ああ、そうなんです。禁止されているのですが、それでも時々人の目を盗んで、処理に困るものを廃棄したりするのです。どうせ、そのうち憶質は崩れ、時間をかけて泡のように消えてしまいますから」
 彼が言うように、そうやって既に物の形を保てず、形を持たない不定形の憶質に戻ってしまったものも周囲には漂っている。ふわふわと浮かんだり、あるいは地面に実るようにドーム型になって固まっているシャボン玉のような水泡は憶質で間違いないだろう。元は何だったのかすでに分からなくなっているものが山ほど転がっている。
 ミーシャはまず移動しましょう、と言って、穹と丹恒をどこかへ案内しようとしている。海辺からこの街中へ来たはいいが、いつになったら目的地へ着くのか。周囲の摩天楼は、よく見ると階層になっており、恐らくあの上に先ほどから耳にしている上層部分、つまり現在多くの人間が住んでいる居住区があるのだろう。こんな場所、あるならもっと話題になってもいいものだが、どこもかしこも初めて見る――だが、何故か知っている気がする。
 この頭に引っかかっている違和感の答えを穹はまた見つけられない。そのうち、瓦礫の山の影から、不意に何かがまろび出てきた。うわっ、と思わず身構える。あ、こんにちは、とミーシャが足元に現れたそれに笑いかけた。
「……なんだこれ、……機械、――オムニックの亜種?」
「この子はただの機械生命体ですよ。機械族やオムニックのように高度な知能は持っていません」
「そうなのか?」
 丹恒が尋ねる。彼もまた、出てきたそれに敵性があるかどうかを判断しきれず、少し警戒しているように見えた。
「ええ。元は……ヤリーロ-Ⅵなどに代表されるある時代の文明で作られたロボットの一種です。人の行う作業の肩代わりや助力を行うために作られた道具が多く、己の意思は回路の育成具合によっては持たない場合がほとんどです。学習環境によっては疑似的に感情を伴う行動に似ている動きをしますよ」
「そいつは?」
「この子は……そうですね。人が好きなようです。時々こうやって、人を見つけると寄ってきて、撫でると喜ぶんですよ」
 ミーシャはそういうと、近寄ってきた機械生命体のボディを軽く撫でた。キュルキュルとモーター音が高く響く。確かに彼が言う通り、機械生命体は撫でられて喜んでいるように見えた。
「今は何故、必要もないのにこの機械生命体が残されているんだ。ナイトメア劇団になる可能性もあるだろう」
「……それは――この場の夢の主がそれを望まない限りはまだ大丈夫です」
「この場の夢の主?」
「はい。……あ、すみません。寄り道をしてしまいましたね。エレベーターまでもうすぐです」
 ミーシャは何故か話題を誤魔化すようにそういうと、またね、と小さな機械生命体に笑い掛け、再び二人を先導し始めた。穹は丹恒の隣に並び、なあ、と少し声を潜めて彼に尋ねる。
「この場の夢の主って、他の夢境とは違うのか?」
「さあな。彼の言い方だとそのようにも聞こえるが」
「俺、夢の主って一人だけだと思ってた。違うんだ?」
「それは……俺には何とも言えないな。ピノコニーの深部まで知っているわけではないし、外部から来たこともあって、少しは大まかなクランの勢力図も把握しているが……夢境の【作り】に関しては秘匿されている部分も多いからな」
「なんだ、丹恒も知らないのか」
 ミーシャの進む先に、ぼんやりと、再び蜃気楼のようにゆらりと影から浮き上がってくるものがある。高くそびえる摩天楼の中、中央に鎮座する丸い柱のようなもの。まるで空を突き抜けるように真っすぐに、上に向かって伸びている。丁度視線の高さに扉のようなものがある。そこから中に入れるらしい。つまりはあれが、先ほど聞いたエレベーターだろうか?
 真っすぐに巨大なエレベーターの前に向かい、ミーシャが操作盤でロックを解除すると、すぐにエレベーターの扉が開いた。どうぞ、と開いた扉の奥に乗るように促され、穹はそのだだっ広いエレベーターに丹恒と共に乗り込む。最後にミーシャが乗り込んで、彼が扉を閉めた。しばらくして、一瞬重力を感じる。すぐに消えてしまい、室内が静寂に満たされた。
「このエレベーターは、宇宙ステーションヘルタのスペースエレベーターを参考に建設されました。下層、中層、上層を繋ぐ交通手段の一つで、ものの十数秒で下層から一気に上層まで登ることが出来るんですよ」
「ふうん。……、えーと、――『ヘルタ』?」
「はい。ご存知ですか?」
「……名前、だけ?」
 思いがけない単語が出てきたので、思わず尋ね返してしまっていた。何故か、自分がそこで生まれたという記憶だけがある場所だ。だが、そこがどんな場所だったかはあまり思い出せない。幼少期の記憶が朧げだというのは何も不思議な事ではないけれど、何故そこで生まれた事だけを覚えているのかは自分にもよくわからない。穹はミーシャの問いに首を傾げながら、どんなところかは知らないけど、と続けて答えた。
「宇宙ステーションヘルタは、……天才クラブは御存じでしょうか。その天才クラブに所属する、ヘルタ博士が造ったとされる宇宙ステーションです。ブルーという惑星の軌道上にあり、ヘルタ博士の意向もあり、奇物の収集、収容や研究を行っています。模擬宇宙、という共同研究を天才クラブ内で行っているそうですよ。あの機械族の王や、ルアン・メェイなどとも交友があるのだとか。宇宙ステーション内部には、博士はあまり常駐していなくて、彼女の意識を繋ぐ人形を指先代わりにしているそうです」
「ふうん……。よく知ってるな」
「そ、そうですか? へへ、ありがとうございます。以前、教えていただいたお話なんです。それをずっと覚えていて。僕もいつか行ってみたいなあ、と思っていました」
「……? 行けばいいじゃん」
「――、……ええ、そうですね」
 なぜかミーシャはその言葉に、はにかむように笑う。けど、今は大丈夫です、と答えた彼は、何故か酷く穏やかな表情を浮かべていた。
 確かに、ヘルタでは、これに似たスペースエレベーターがステーションの中央に走っていて、各層を繋いでいた――そんな記憶がふと浮かんでくる。これはかつて自分の頭にあったものだろうか、それともただ、このエレベーターを作った誰かの憶質に沁み込んだ感情の影響を受けているのだろうか。わからないまま、ぼんやりと突っ立っているうちに、エレベーターの動きが静かに止まった。静かだったエレベーターホール内に、開いた扉から新しい音が飛び込んでくる。
「わ、……」
 星が――浮かんでいる。
 穹は思わず感嘆の溜息を吐いた。まるで星空を至近距離で眺めているような、そんな幻想的な景色が穹の眸を射たから。高い天井に、ふわふわと球形の浮遊照明が浮かんでいるのだ。それらは暖かな蝋燭の火のように、僅かに赤く光を携え、ずっと上の階までばらばらと広がっている。
 その幻想的な景色と、打って変わって少し無機質なロビー。こんな景色は見慣れたものだ、と無関心な表情で、そこを行きかう人々。彼等はここに住まう住民というよりは、研究員のように見えた。そして中には、きちんとした身なり――つまりはスーツ姿の男性や女性も混ざっている。彼らは半円のカウンターに数名控えていて、まるでホテルのチェックインを待っているかのようだった。
「……もしかして、ここってホテルのロビーなのか?」
「お気づきになりましたか? 実はそうなんです。ホテル・レバリ、……【リバレー】に比べて、少し規模は小さいのですが、ここのホテルもなかなかの場所でしょう?」
 何故か、二人の耳元で内緒話をするかのようにミーシャが声を潜める。ここだけの話なのですが、と穹と丹恒に聞こえるように近寄ってきた。
「――ホテルの外は繁華街なのですが、……実は、夜の時間帯は、少しだけ治安が悪いです。長楽天・タウンと呼ばれているところで、おいしいものがたくさんあるので、お店がやっている昼間の時間帯に行くのがおすすめです。もし、夜に出歩く際は絶対に明かりを持って行ってくださいね。――では、お二方のお部屋を手配してきますね。カウンターの近くまで行きましょう。受付をしますから」
「受付……?」
「はい。この車輪の刻に滞在中は、このホテルの一室をお二方に提供します。ここにいる間の拠点としてお使いください。夢境から出る際は、部屋にあるドリームプールを利用できますし、ここにあるドリームプールで目覚めた後は、しばらく入る夢境の位置が固定されるので、また夢境に来た際もすぐにこちらに来ることが出来ますよ」
「え!? マジ!?」
 ここに来るまで大変だったんだからな、と穹はその言葉を真に受けて喜んだ。けど、とふと、自分が最近見舞われている不可解な現象の事を思い出す。
「あのさあ……。何でかわかんないけど、俺今、太陽の刻に出ようとしても、ぜんぜん別の夢境に出ちゃうんだよ。もしかしたらそれと同じで、ここに固定されるっていっても、実際は別の夢境に飛ばされるかも……」
「そうだったんですか? でも、大丈夫です。ここは他の十二の夢境とは作りが少し異なりますから」
「そうなのか?」
「はい。なのでご心配なく。――少し行ってきますね。準備が整い次第お呼びするので、こちらでお待ちいただけますか」
 ミーシャはそう言って、穹と丹恒にロビーのソファを示した。言われるがまま、そのソファに腰を下ろす。おわ、っと思わずそのまま後ろに倒れそうになってしまった。まるでマシュマロのような柔らかな弾力だ。座っているだけで体が沈んでいきそうになる。そして心地よい。思わず少し頭を上向けたまま、穹は背凭れにぐっと身体を預け、高い天井を見上げた。
 作り自体は、ホテル・【リバレー】とそう変わらないように見える。中央から高く天へ伸びた客室の扉が、ずらりと並んでいるところもそっくりだ。
 こんな場所があったなんて知らなかった。ピノコニーにはまだまだ知らないことが山ほどあるな、とぼんやりと考えながら、穹はこてん、と頭を擡げる。丁度、隣に腰掛けていた丹恒の肩に頭が乗った。
「重い」
「…………、」
「おい」
 わざと体重をかけるように、ぐ、ぐ、っと頭や体を強く傾ける。そういえばさ、と穹はふと思い出したように丹恒に尋ねた。
「俺たち、インターンに来たんだよな……?」
「そのはずだ」
「なのに、なんでホテルに案内されてて、担当の指導者もまだ会えてないんだ?」
「さあな……」
「待遇がいいのか悪いのかわからないんだけど」
「気になることがあるなら大学側に言えばいい」
「それはそう。けど折大の職員とか教授たちも規則罰則のこと以外は結構適当だしなー。なんでルールをやぶっちゃいけないんだ? ルールは破るためにある!」
「規則がなければ自由過ぎて破綻する。つまり、折り紙で出来た城なんだ。だから創造の自由を掲げていても、ここではルールを厳守させようとする。……ほころびからすべてが崩れてしまうこともあるからな」
「また丹恒が難しい事言ってる」
「それほど難しいことを言ったつもりはない。つまり、大人しくしていろ」
「へーい」
 まあ、今はもう少し流れに身を任せるか、と穹は腕を組んだまま、くたりと完全に丹恒に身体を凭れかからせた。待っている間にこのまま眠ってしまいそうだ。まあ、夢境の中で眠ることは出来ないのだが。カウンターでしばらくやりとりをしていたミーシャは、手続きを済ませたようで、こちらに向かって小走りに駆けてくる。どうやらこの後も、まだ彼が案内をしてくれるらしい。
 再び彼に連れられ、穹と丹恒はスフェロイドに乗りこみ、ホテルの上層階へと向かった。一体どこまで登るんだ、と訳の分からない顔のまま、ただ上がっていく数字を訝し気に睨んでいると、漸くその数字がぴたりと止まった。一番上の数字で。ミーシャはこちらですー、と廊下を渡り、その奥の両開きのドアを開いていく。ぱっと景色が開けた。その瞬間、ひゅう、っと風の音が確かに聞こえてくる。
「うわ……すご……」
 満天の星が上にも、下にもある。
 先ほどのホテルのロビーでみた景色は幻想的なものだったが、この光は幻想的というよりは、どこか寂しくなる美しさだった。吹いてくる風が少しつめたい。蒼く、水を湛えたプールが、水底から丸いライトに照らされてその水面を静かに揺らしている。
 空中庭園も兼ねているのか、周囲は緑と花の壁に覆われていた。人の気配はなく、ただ静かに、床面に埋め込まれたライトが作る光の道を歩いていく。そのうち、平屋のような建物が見えてきた。
「お二人にはこちらの宿舎をとのことでした。中の設備や食べ物、飲み物はご自由に使って構いません。ご用命でしたら中にある電話でフロントに連絡してくださいね」
「宿舎……――宿舎!? こんなリゾート地にある大金持ちの別荘みたいなとこで!? 俺たちインターンに来たんだけど!? っていうかここホテルの最上階じゃん!?」
「……? はい。そうですよ。綺麗な場所ですよね。僕も、しばらくはこちらでお掃除などのお手伝いをすることになりましたから、何かあれば言ってくださいね」
「お、おお……。え、本当にそれでいいのか?」
 待遇間違ってない? と、穹はそわそわと逸る気持ちを抑えきれないまま尋ねた。ミーシャはにこにこと笑みを湛えたままだ。どうやら誰かと間違えているわけでは――ないらしい。そうと決まれば、と穹は行ってきてもいいか、と、目の前の宿舎を指さし、丹恒を振り返った。丹恒は少し呆れたような表情をしていたが、案内されてしまった手前止めるのもおかしいのか、と考えるように眉を顰める。結局、「いいんじゃないか」とお許しが出たので、ヨッシャ、と穹は束の間の別荘に向けて駆けだした。
 部屋はいくつもある。庭園や宿舎のすぐ傍に設置されたプールが見渡せるリビングは大きなガラス張りだが、外から中が見えないよう、投影で壁にすることもできるようだ。キッチンは広く、パントリーやワインセラー、冷凍冷蔵憶質ストッカーも完備。ベッドは五人は並べるほど広く、ゲーム機だけが並んだ部屋、図書館のように本がぎっしりと詰め込まれた部屋、映画のような夢の泡を見るための投影機が設置されたシアタールーム、大浴場を備えたバスルーム等、それこそ夢に描いたようなもので溢れていた。
 本当にここにいて贅沢三昧をしていいのか? とごろごろとベッドで芋虫のように転がっていたところで、丁度部屋の入口の前を通り過ぎようとした丹恒と視線が合った。何をしているんだ、という無言の視線が刺さる。
「丹恒も転がるか!?」
「いや、遠慮しておく。……第一、ここで寝転がったところで、精々転寝くらいだ。深く休めるほどは眠れないだろう」
「あ、そうか!? そうかも……。でも、こんなでっかいベッド初めてじゃん。あ、あっちの部屋にも同じやつあったぞ。丹恒はあっち使う?」
「だから、……わかった、もういい。好きにしろ。――それで、ミーシャから聞いてきた。俺たちを担当する予定だった指導者のドリームメーカーだが、急遽街の修繕に出かけてしまい、今日はもう戻らないらしい」
「修繕?」
「ああ。よくは分からないが……そういったことをしている人なんだろう。つまり、今日はもう指導は行われないから、後は起きるなり、ここで過ごすなり、好きに過ごしていいらしい。状況はまた知らせるらしいが、明日以降の事は明日にならないと分からないと言われた」
「マジ!? やった!」
 先ほど部屋の散策中に見つけたゲーム機でも試すか、と穹は、転がっていたベッドから跳ね起きた。思いがけなく別荘を与えられたと思ったら、遊んでいてもいいとまで言われるなんて! なのに自慢してやろう、とうきうきと胸を弾ませてベッドから降りた。そしてはた、と一度その場で動きを止める。
「……? どうした」
「え? あー……、……いや、なんでも、ない……」
 【なの】って誰の事だろう? 穹はまた、浮かんできた知らない何かに頭を捻り、答えの輪郭すら見つけられないまま、歩き出した丹恒の後を追いかけた。
「丹恒はこの後どうするんだ?」
「俺は……もう少し外の庭園を見て回ろうと思う。見たことのない植物があったんだ。それに作りも精巧だった。観察して、憶質のルーツを知りたい。憶泡で作られた植物はどれも似たりよったりだが、知っているものの中にモデルがないなら、いくつかの植物を組み合わせたものか、完全な創作物(オリジナル)だろうからな」
「ふうん? 真面目だなあ。今日はもう勉強しなくていいのにさ」
「お前はいつもの授業でも居眠りをしているだろう……。夢境の中なのに」
「夢の中でも転寝出来るって、一種の才能じゃないか? じゃあさ、飽きたら一緒にゲームやろ」
「俺はあまりそういうものは得意じゃない。構わなくていいぞ」
「えー? んー、まあ、分かった。じゃあ暇になったら教えてくれ。夢の泡もいっぱいあったからさ。映画でも見よう!」
「……ああ。それくらいなら」
 じゃあ後で、と穹はまた外に出ていく丹恒を見送り、自身はゲーム機が設置された部屋に向かった。
 設置されているのはスロットなどの単純なゲーム機の他に、ゲームの登場人物になって自ら操作する憑依型のゲーム、それに小鳥がチュンチュンとうるさいパズルゲームなどだ。それぞれのゲームの前に立って、どれにしようかな、と順にそれらを指さしていく。指が止まったのはパズルゲームの一つだった。
 それは半体験型のゲームで、テレビ型の入口から、生成された別のエリアに一時的に入り、中の特殊エリアに設置されたパズルを、自分が自ら動いて解くもののようだ。穹はレトロなテレビに触れた途端に、体が無理矢理に引っ張られ、引き延ばされるような感覚を覚えた。
「――おわあ!? っと……っと……? ん?」
 思わず声を上げ、気付くと自分が、何もない開けた空間にいることに穹は気付く。どこかで見た覚えがあるような、無いような――周囲を空に囲まれた【港】の端。ここが港であるという確信がある。海は何処にもないのに、空を船が飛んでいるし、貨物だっていくつも行き来しているから。
 目の前に鎮座しているのは大きなルービックキューブのようなものだった。ふふん、知ってるぞ、と穹は目の前のキューブに触れ、それを展開していく。二つの隣り合う側面と、中央に分かれたキューブの模様が一致すればパズルのクリアだ。こんなの簡単だし、とあれこれ弄っているうちにパズルがぴたりと止まる。クリアして、さて宝箱を、とわくわくして待っていたのに、いつまで経っても宝箱は現れず、代わりに新しいステージが現われた。
 もしかするとすべての問題をクリアしてから出るタイプなのか、と疑問に思いながらひとまず次々と出てくる問題をクリアしていく。そうやって解いては詰まって、解いては詰まって、と次第に難易度を上げていくパズルを解いていくうちに、ぱぱーっ、と急に陽気な音がして、目の前が真っ白になった。何なに!? と突然の事に驚いていると、気付けばあのゲーム部屋に立っている。先ほどまで入っていたはずの画面には、『congratulations!』とだけ表示されていた。スタッフロールは短く、最後に総監督、銀河打者とだけ表示されて、メニュー画面に戻される。
「……は~?」
 あんなに頑張ったのに宝箱は!? と何故か理不尽な気持ちで、穹はテレビ型の機体をむんずと掴む。おい、と物に意思が宿りやすい夢境だから、もしかして喋るかもしれない、と思い声をかけてみたが、ゲーム機はしんと黙り込んだまま、ニューゲームを始めるかどうかを尋ねてくるだけだった。
 はーあ、と一度ため息を吐いて穹は機体を離す。なんだか時間だけが取られたような気がする。報酬は必要だろ、と機体を睨んでいて、うん? と一瞬我に返る。なぜパズルをクリアした報酬に宝箱を自分は求めていたんだろう。そもそも、【ゲームはそれそのものの達成が成果報酬】だというのに。
「……? エディオンコインの排出口もないし、な……?」
 自分が何を求めていたのか自分自身の事なのにはっきりとわからない。穹はその曖昧な感覚に、パズルを解きすぎて頭が疲れたかな、と首を捻った。そういえば、どれだけの時間このパズルゲームに耽っていたんだろう。丹恒はもう先に帰ってしまっただろうか。
 気になって、穹は部屋を出て丹恒の姿を探した。宿舎の中を歩き回り、人けのない室内を見、どこいったんだっけ、と片っ端から部屋のドアを開け、リビングルームに辿り着く。全面窓の向こうに青白く水底が光るプールがあって、そこに一つ影があった。
「…………、」
 窓を隔てているからか、丹恒はリビングルームに穹が来たことに気付いていないようだった。
 彼はプールサイドに腰掛け、足先をプールの中に浸しながら、ぼんやりと遠くを眺めている。そういえば外の庭園の植物を見てくる、と言っていたのだっけ。どうやらそれもひと段落したようだ。
 丹恒の視線の先に何があるのか気になって、穹は彼に気付かれていないのを良い事に、リビングルームをそっと移動し、少しだけ窓に近づいた。
 彼の視線の先にあるのは星が瞬く夜空だった。他には何もない。この階に来た際に見た景色では、下の階の光もまた煌びやかに、星のように見えていたけれど、この位置からは同じ景色は見られなかった。だのに作られた何一つ正しい物なんてない星なんてぼんやり見上げている。何見てんの、と茶化しに行くのはどこか不思議な表情で。このままそっとしておくべきだろうか、と穹は静かに窓を離れる。部屋に並んだ大きなソファの上にスプリングの柔らかな感覚を伴って体を降ろし、別に悪い事でもないのに、丹恒の事を盗み見るように、彼から隠れるように、静かにソファの上に身体を伏せて、うつ伏せになっていった。
 それなりに長く丹恒とは過ごしてきたとは思うのだが、今でも時々、丹恒の事がよくわからなくなる。知っている彼と、目の前の彼とがたまに何故かぶれて見える。その感覚を何と言えばいいのか穹はなかなか名前を付けてやれなかった。既視感? 違う。懐かしさ? 違う。でも、この夢境で出逢う前からずっと、自分は彼の事を知っていたような気がするのだ。だからだろうか、彼と仲良くなるのに、時間はそう必要なかった。彼とは――いつ逢ったのだっけ。【ああ】、そうだ。――あれは。
 泡のようにふと何かが浮かんでくる。穹は静かに目を伏せて、その泡に指先でそっと触れるように、何かに向かって手を伸ばす。

 ――チャイムが鳴り響いた瞬間、穹は自分がここに立っている――ことを、思い出した。

「は?」とその瞬間目が覚めたかのように、周りの情報が一気に耳や目、鼻や頬を叩いた。散らばっていた無数の憶泡がその瞬間一気に集まってきたかのように、穹はここがピノコニーの折り紙大学で、自分はそこの学生だということを理解し、それから――今から受けるつもりだった授業に、自分が遅刻してしまったことを悟った。
「…………よし。サボろ」
 時には諦め、そして切り替えも大事である。
 たった今目が覚めたような心地で、穹はぐっとその場で伸びをした。寝惚けながらも通学って出来るんだなあ、というか、夢境の中で寝惚けるなんてへんなの、と首を捻り、教室へ向かおうとしていた足をくるりと方向転換させた。次に受ける授業まではしばらく時間がある。どこでサボろうかな、と穹は歩きながら大学の構内を見回した。
 教室から聞こえてくる声や、どこかから聞こえてくる歌声、それから誰かが節をつけて喋る、少し大げさな歯の浮く台詞。まあ、とにかくこの大学の授業は賑やかなのだ。人が使わなくとも勝手に演奏を始める楽器で溢れているし、至る所で誰かしらが踊ったり歌ったり。今は授業中だからまだ少ないが、部活の時間がはじまると勧誘の声が至る所から聞こえてくるし、部屋の前を通っただけでちょっと寄ってって、と腕を掴まれる。
 いっそ外に出よう、と思い付きで重い扉を開け、グラークス棟から逃げるように穹は外に出た。いっそのこと、他の夢境で時間を潰して、授業の前に戻ってくるべきなのかもしれない。賑やかな場所は嫌いではないけれど、今はなんとなく一人でいたくて、穹は誰にも見つからない場所、と人の目から逃げるようにわざと影を踏んで歩き、丁度、木の影が差す場所にベンチを一つ見つけた。人影はまだない、と喜び勇んで走っていき、そのベンチにまず鞄を放り投げ、続けてその鞄を枕にして仰向けになった。
 空が急に高くなったような心地がして、ぼんやりと枝の隙間から差し込んでくる光を眺めていた。ここが夢境であるということを一瞬忘れそうになる。影の涼しさと心地よさにそのままうとうとと微睡みそうになったところで、ドン! と急に間近で鈍い音がした。何かが落ちてきたようなその音に、驚いて肩を揺らし――なんだなんだ、と咄嗟に起き上がろうとしたその視界に彼は入ってきた。
「……――【見つけた】」
 それは、長い間離れ離れになっていた友人や家族や、或いは恋人や、またあるいは名前の付けられない、大事な誰かを、探して、探して、もうずっと探し続けて、漸く逢えたような、そんな声に聞こえた。
 青年は丁度木の上に登っていたようだった。暇だからってそんなところに登ってサボるなんてちょっと変だな、とは思ったが、言葉も笑い声も上手く出てこなかった。思わず無意識に自身の胸を掴む。
 穹はどこかで見た覚えのあるその青年を見上げ、やはりぎゅう、とどうしてか胸が締め付けられるような感覚を覚えた。手で押さえていても痛みのようなものは変わらなかった。それが寂しさだったのか、嬉しさだったのか、それともまた別の感情だったのかは、今になってはよくわからないが、とにかくあの時、自分の中で何かの音がしたのは確かだった。
「……ひ、」
「……? ひ?」
「――一目ぼれ、した、かも……?」
「は?」
 それを「そういうもの」だと定めてしまった事が、正しい事なのかもよくわからなかった。でも、こんな風に逢えてうれしい、だなんて感じたのは彼が初めてだったから、気に入った、という意味では一目ぼれで間違いはなかったのかもしれない。
 彼は驚いたような顔をしたが、十数秒黙りこみ、それから、何故か傷ついたような顔を一瞬浮かべ、「丹恒だ」と名乗った。差し出された手に引っ張り起こされながら、自分の名前を言おうとして、「穹、で合っているか」と先に尋ねられる。穹はもう俺の事知ってたの、と名前を呼ばれたことにあまり疑問も抱かないまま、うん、とだけ彼に頷いた。

 そこから――そこからだ。ずっと一緒にいる、はずだ。
 丹恒が下宿先が見つからなくて困っているというから自分の部屋の隣を教えて、彼の部屋に転がり込むことが多くなって、親友とどちらともなく言い出し始めて、他愛もないことを話したりするのに遠慮一つなくなって、「……眠れないのか」と、理由の一つを作ってじゃれて遊んだ。
 これほどまでに一緒にいるのに、丹恒は時々何かを探すように遠くを見る。その理由を穹は知らない。彼についての何もかもを知りたいわけではなかったし、丹恒が言いたくないことを無理に聞く必要はないと思った。だからただ、彼が話してくれるのであれば、その時を待とうと決めた。
 先ほど触れたばかりの憶質は、もうリビングルームのどこにも見えない。うつぶせていた体を少しだけ起こすと、ふとプールサイドでまだ足を水の中に浸したまま、丹恒がじっとこちらを見ていることに気が付いた。軽く手を振ってみると、彼もまた軽く手を振り返してくる。穹はむく、っと体を起こし、ソファから転がり落ちるようにして降りていくと、全面窓の真横に備え付けられたドアを開け、裸足のままプールサイドまで歩いていった。
「ゲームはもういいのか」
 丹恒が尋ねてくる。
 頭使い過ぎて疲れた、とそれに答えながら、穹は丹恒に近寄っていった。すぐ傍でしゃがみ込んで、先ほどまでどこか遠くの方をぼんやりと見ていた彼の表情から何かを探ろうとする。あまりにじっと見つめるものだから、丹恒も次第に訝し気な表情になっていって、ついぞ、その視線に耐えかねたようにぐい、っと穹の顔を横へ押しやってきた。
「なんだよ」
「視線が煩い」
「熱視線って言え! 美少女がお前だけ見つめてるんだぞ」
「一体何なんだ……」
 掌の力が緩んでいく。手が離れたかと思えば、そのまま顎を掴まれ、目の間まで影が迫った。ちゃぷん、と微かに水音が響く。鼻先が触れるほど近い所に眸があるが、いつまで経っても口付けはこない。掴まれた顎をそのままむにむにと指先で伸ばすように捏ねられる。おい、と視線だけで彼をじっと睨むと、指先の力が緩んで、漸くちゅ、っと小さく口付けられた。
「……で、何か考え事か?」
「え? いや、それは丹恒の方だろ?」
「俺の方」
「だってさっきからずっとここでぼけーっと星見てたじゃん」
 悩みがあるならこの大親友様が聞いてしんぜよう、と胸を張って鼻高々に答える。丹恒はまた呆れた表情をするかと思ったのだが、予想と反して、何故か小さく笑う。大したことじゃない、と丹恒は言った。
「……自分が、何か大事なことを忘れているような気がしていただけだ。それが何なのかを思い出そうとしていた」
「物忘れ? 丹恒……お前まだ若いのに……」
「お前に話したのが間違いだったな。忘れてくれ」
「うそうそうそ! ごめん揶揄うつもりじゃなくて! ……っていうか、なーんだ、そんなことか。それなら俺も結構な頻度であるぞ」
「……結構な頻度」
「うん。何かぱっと思い浮かんだと思ったら、しばらくすると忘れちゃってるって言うかさ」
「鳥頭」
「起きるまで耳元で鳥の鳴き真似サービスとかいかが?」
 古今東西いろんな鳥の鳴き真似出来るよ俺、と穹は丹恒に答える。こんな美少女が鳥の鳴きまねで起こしてくれるなんてお得だと思うんだけど。
「遠慮しておく。……――そろそろ戻るか。まだかなり時間はあるが、これ以上ここにいても今日はもう指導もされない」
「インターンで来てたの忘れそうになってた。そうだった……俺ここでまだ全然遊べるぞ。まだやれる、やらせてくれ……!」
「拠点にしていいと言っていたから、時折今日のように席を外すことが多いのかもしれないな。時間はある、今日と同じような日もあるだろう。……課題は自分でさっさと進めた方がよさそうだな」
「ほー? 自分で? でもさ、ドリームメイク出来る場所って決まってるんじゃ……」
「その件だが、庭園を散策している時にミーシャに尋ねた。今日はエレベーターに乗って上層まで一気に来たから中層へは止まらなかったが、どうやら最近この夢境の中層で妙なことが起きているらしい」
 いつの間にそんなことをしていたのだろう。水臭いな、言ってくれたら一緒に行ったのに、と穹は少しだけくちびるを窄めた。
「で、妙って?」
「何の前触れもなく、建物が崩れたり人がいなくなったりしているそうだ。今日戻ってこないと言っていた担当も、その所為で中層に呼ばれたらしい。俺たちが修理を手伝ったりするのは構わないか、と尋ねたらミーシャが許可を取ってくれた。建物の修繕と、或いは、完全に壊れてしまったものの再構築が出来るなら、実習内容としては問題ないだろう。一応、お前の分の許可証だ」
「天才?」
「サボるなよ」
 サボんないサボんない、と許可証を受け取りながら穹は丹恒に返す。許可証は小さなピンバッチだった。どこに付けようかな、と上着の襟元にひとまず針を通す。金属の板に筋入れで模様が付いている。どこかで見たような、と気にはなったが、どこで見たのかをすぐには思い出せなかった。ああ、今日乗ったスフェロイドの鍵によく似ている。それとは違って、一辺の欠けや、赤いラインもないただの金色の長方形ではあったが。
「明日、担当が来るかどうかを此処に来て尋ねた後、今日と同じように放っておかれることになるなら、俺は中層へ行ってみようと思うんだが」
 お前も来るか、と尋ねてくる丹恒に、穹は行く! と二つ返事で答えた。嬉しさのあまり勢い余って抱き付いたせいで、いつもは発揮される丹恒の体幹も空しく、濡れたプールサイドで咄嗟に体を支えようとした彼の手がずるりと滑っていく。穹は丹恒もろとも、憶質のプールに飛び込む羽目になった。

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