n回目のxxx

アイカツスターズ きらあこ小説。
以前芸カで頒布したものを無料公開。
「理想のはじめてのキス」を夢見ているあこちゃんが、きららちゃんへの思いを自覚し始め葛藤します。きらあこファーストキス小説です。


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 すっかり夜も更けた四ツ星学園の中庭を歩いていく。艶やかなストレートのロングヘアを靡かせるその少女は、この学園でたった4人にしか着ることが許されていない、深紅の制服に身を包んでいる。
 切り揃えられた前髪の下のキリリとした双眸はしっかりと前を見据えている。皆の憧れ、劇組S4早乙女あこだった。
 今日は午後から始まったドラマの撮影が長引いたため、随分帰りが遅くなってしまった。あこの演技に触発された監督が、セリフを変えたり、別のアングルからカメラを回したりと、色んなことをしている内に、予定の倍ほどの時間が経っていた。
 とは言え、それには一切不満はない。監督の意図を汲み取り、あこも積極的に意見を出したし、納得のいく撮影が出来た今は、満ち足りたような気持ちにすらなっている。
 花壇の側にある時計の針が21時ちょうどを指していた。もうすぐS4城が見えてくるところまで来た時、前を歩く生徒が酷く咳き込んでいるのが見えた。
「あなた、大丈夫ですの?」
 あこの声に振り返った彼女は、脳内データベースによると、確か劇組の1年生。フレッシュアイドル大投票会でも上位に食い込んでいた期待のホープだった。
 こんな時間まで出歩いているところは初めて見るが、最近はシリーズもののCM出演が決まって忙しいようだったし、あこと同じく仕事が長引いたのだろう。
「あっ、早乙女せんぱい!!おっ、お疲れ様で……ゴホッゴホッ……!!」
 あこに挨拶をしようとした彼女は、氷点下近くなった空気をめいっぱい吸い込んでしまい、先程より派手に咳き込んだ。
 見るとあこのようにマフラーを巻いているわけでも、手袋をはめているわけでも、イヤーマフラーをしているわけでもない。
「あらあらまあまあ……体調管理もアイカツのうち、ですわよ。この時期はちゃんと防寒しませんと」
「ゴホッゴホッ……すっすいませ……ハッ、ハックション!!」
 今度は大きなくしゃみが飛び出した。
 憧れのS4に直々に指導を受けてしまった上にくしゃみをぶちかましてしまい、彼女は涙目になりながらほんとうに申し訳ありません、と慌てて深々と頭を下げる。
 それがなんだか微笑ましくて、あこは思わず口元を緩めた。自分だって憧れの先輩に注意を受けて慌ててしまったことがあったな、なんて思い出したのだ。
 脳裏に浮かぶのは厳しすぎるあの人の面影。
「ふふふ。調子が悪い時は無理に話すと余計に喉を傷めますわよ。これ、差し上げますわ」
 鞄から取り出した予備の使い捨てマスクとのどあめを彼女に差し出した。
「あっありがとうござ……ゴホッゴホ……」
 また咳き込んだ彼女の口元にぐいっとマスクを押しつけて、「ほら。もういいですから、声は無理に出さないこと、ね?」とウインクする。
 コクコクと頷いた彼女は頬を赤らめながらマスクを装着すると、何度も頭を下げてから一般寮の方へ戻っていった。 
 赤い制服の裾が冷たい夜風で翻る。
いくら防寒をしているとは言え、このまま寒空の下に居続ければ、あこだって流石に風邪をひいてしまいそうだ。
「わたくしももう戻りませんと」
 白い息を吐きながら、改めてS4城の方に歩みを進めた。
 S4城。ほんの一年前までは、そこは憧れの場所であり、なおかつ近寄りがたいS4の住まいだった。
 でも今は、聳え立つお城のようなシルエットを見ると、帰ってきたんだと思える自分がいる。
 思えばこの1年で自分は随分成長したな、と思う。アイドルとしても、S4としても。
 もちろん尊敬する元S4の先輩、如月ツバサの足元にはまだ及ばないと思ってはいるが、彼女の意思を引き継いで、厳しくも優しい指導を心掛けている。
 最初は慣れないS4としての仕事に戸惑うことも多かったし、2年生S4ということもあって、3年生も含んだ劇組全体をどう統括するべきか悩むこともあった。しかし坂本ありさを始めとした頼れる幹部や、同じS4の仲間たちの助けもあって、何とか軌道に乗っている。
 個人の仕事だって、アイカツランキングに登録していない分、今日のドラマもそうだが、来夏公開の映画の撮影や、『みんな集まれあこにゃん×2』、それにきららとの『フワッと夢見心地♪』といったバラエティ番組への出演など、様々な方面で精力的にこなしている。
 そんな毎日は目まぐるしくも全てが楽しくて、これから更にどんなことがあるのかワクワクしていた。これが充実している、ということなのだろうか。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、いつのまにかS4城の扉の前まで来てしまっていた。
ふう、と一つ息を吐くと、急に疲労が全身を襲ってきて吸い込まれるように自室に入る。
「わたくし、結構疲れていましたのね」
 後ろ手に扉を閉めて、そのまま扉にもたれかかりながら呟いた。小さなその声は広い室内にすぐに消えてしまう。
 日中スタッフや共演者、四ツ星の生徒達などたくさんの人に囲まれて過ごす分、最近は部屋に戻ってくるとその静かさに驚くのが常だった。ここには自分しかいないのだと実感する。
 だが、孤独だとか寂しいとかそんなマイナスな気持ちは浮かばない。それは、どこか解放されたような静寂で、一人になれるこの時間は、あこにとっては大切なものだった。
 今日は早めにシャワーを浴びて早く寝ようか、そう思って前方に進もうとした時、足元に置いてあった物につまずいた。
「にゃぁあぁ!?びっくりしましたわ。なんですの?」
 小さな段ボール箱がそこにあった。同じような箱が4つ積み上げられていたが、あこの足が当たったことで崩れて床に転がってしまったようだ。
 そう言えばあこの帰りがこんな風に遅くなった時、郵便物があると坂本ありさが気を利かせて部屋の入口に荷物を入れておいてくれるのだった。
 何が送られてきたのかしらと、かがんで荷物の内容を確かめる。
 貼り付けられていた送り状が目に入ると、あこの顔は突如としてキラキラと光り輝き始めた。送り主の欄に見慣れたレコード会社の名前が印字されていたのだ。
「にゃにゃにゃにゃ~~ん♡遂にきましたのね~♡♡」
 倒してしまったものを速やかに拾い集めて優しく撫でながらそれらの安否を確認する。幸い、どれもしっかりと梱包されていて特に問題はなさそうだ。
 中身はもちろんM4の新曲CD(初回限定版DVD付き)だった。4つのうち1番大きな箱にはType-S、Type-N、Type-K、Type-Aの4枚組が収まっている。
 3そしてその他の3つの箱からはそれぞれ全く同じCD、Type-Sが1枚ずつ出てきた。何が違うと言われればもちろん店舗特典だ。CD計7枚と付属特典をその手中に収め、あこは恍惚とした表情を浮かべた。
「あああんん~すばるきゅ~~ぅん。かぁっこいいですわぁあ~~♡♡ちょっとこのタペストリーどういうことですの!?笑顔が眩しすぎますわぁあ~~♡はぁん♡♡♡」
 身体をくねらせながら頬を上気させ、CDや特典をつぶさに確かめていく。そして一つ一つにスリスリと頬を擦り付けながら悶えるのだった。
 興奮気味にはしゃぐ姿は、先程まで撮影で監督に意見を出していた実力派女優の顔や、S4として1年生に接する凛々しい顔つきとはまるで別人。
 1年生が見たらぎょっとするかもしれないし、2年生以上であこがM4、というかそのメンバーの結城すばるの大ファンであることを知っている者が見ても、この痴態には流石に驚いてしまうかもしれないくらいだ。
 しかしこれこそが、あこの活力源であり、忙しい日々を乗り切るための最大の癒しなのだった。
 一通りそれらを堪能したのち、全て胸に大事に抱えてベッドとは反対側のスペースに向かう。
 S4になってからはいくら自室とはいえ、幹部が出入りすることも多いし、時々S4のお部屋紹介というようなメディアの取材もあったりするので、私物が目立ち過ぎるのはよくないと、クッションなどの大きなグッズ以外は全てこちらの戸棚(すばるきゅん棚)の中にしまってあった。
 ポスターは壁には貼らずにA1サイズが収まるファイルの中に入れてある。あこは新しい特典達をその中にてきぱきと収納していった。
 その後も滞りなく、新曲CDをPCに取り込み、表題曲はもちろん、タイプ別のカップリング曲(Type-Sはすばるのソロ)も全て一通り聞いて、初回特典のDVDもチェック。それらをすべて終える頃には部屋に戻ってから1時間半が経過していた。
「はぁ~すばるきゅんのソロ曲、最っ高でしたわ♡♡」
 あれだけ疲れて帰ってきたはずなのに、すっかり復活、というより昼間よりも元気なくらいの状態だ。
 跳ね上がったテンションは治まるところを知らず、新曲を聞いたとき特有の興奮、胸に湧き上がってくる気持ちを誰かと分かち合いたい気持ちでいっぱいになっていた。
 早速キラキラッターでS4ファン達とそれを分かち合おうと、アイカツモバイルを手に取った。
 すると画面に最新芸能ニュースアプリの通知がポップアップされているのに気付く。いつもならそんなものは後で見ようと一旦閉じてしまう。けれどそこに並んでいた文字列にあこの目は釘付けになってしまった。
〝M4結城すばる、ラブコメ映画主演決定!!ついに初めてのキスシーン♡〟
 新曲お迎えですっかり幸せな気持ちなっていたあこにとって、そのニュースはまさに青天の霹靂、鈍器で殴られたような衝撃だった。
「は、はじめての、キスシーン、ですって!?!?」
 更新は今から2時間前となっているので、本当に最新のニュースだ。居ても立ってもいられなくて、リンク元のニュース記事をすぐさまタップした。
 女子中高生に絶大な人気を誇るラブコメコミックの映画化が決まり、すばるがその主演に抜擢されたこと、そして原作で頻出するキスシーンの話題を中心にしたすばるへのインタビューが掲載されていた。
〝今回キスシーンに初挑戦ということになりますよね。ぜひぜひ意気込みを教えてください!〟
〝(すばる)え?意気込みっすか(笑) なんかこの役が決まってからやたらそれ聞かれるんだけど(笑) 別に、他の役とは変わらないんですけどね。心を込めて芝居するだけですよ〟
「ええ、ええ。さすがはすばるきゅん。なんて素晴らしいお言葉。役者の一人として尊敬いたしますわ……そうですわよね、お仕事ですもの。キスのひとつやふたつくらい当然のこと……」
 そう言って自分を落ち着けようとするが、顔が勝手に穴が空いてしぼむ風船のようにしょぼしょぼとなっていくのが分かる。
「……まさかキスシーンの相手に先を越されるなんて想定外でしたわ……すばるきゅん、これまであまり恋愛映画に出てませんでしたのに。出ていたとしても主人公の親友役とかでしたし、油断してましたわ……」
 はぁ、と大きな大きなため息をついてしまう。考えてみれば今をときめくM4の結城すばるなのだ。恋愛映画でこれまで目立った主役を張らなかったのが不自然とも言えた。
 どうしてそんなことに気が付かなかったのだろう。いや、考えないようにしていただけかもしれない。
すばるはキスシーンをやらない。だってこれまでやったことがないから。だからこれからもやらない。そう信じたかった。
 こんな風にファンとして大好きなアイドルのキスシーン決定にショックを受けたり、複雑な思いを抱くことはそう珍しいことではないだろう。
しかし、あこにとってすばるがあこ以外の人物とキスをするというのは大変な事態なのだ。
 あこには夢があった。
『ファーストキスは大好きなすばるきゅん♡とお互い初めて同士でクリスマスの夜に愛を誓いあいながらする』という夢が。
 あこはまだキスをしたことがない。
 誰かと〝恋人〟としてお付き合いをした経験もない。早乙女財閥の一人娘として厳格な両親に清く正しく育てられてきたのだ。そんな機会があるわけもない。
 アイドルになってからだって、例えドラマや映画の中であってもキスシーンは演じたことはなかった。まあこれについてはあこだけがそうだというわけではなく、同じ年代のアイドル、特に女の子であればみんなそうだったけれど。
 いくら実力があったとしても業界の中で見れば「アイドル学校に通う中等部の少女」。プロデューサーやスポンサーサイドでそんな脚本は通らない。
 あの如月ツバサであっても中等部在籍中はキスをほのめかすカットが一瞬あったくらいで、実際のキスシーンはなかった。
 そんな環境に身を置いていたからこそ、あこは人一倍キスに対して強い憧れを抱いていた。
 幼い頃、おばあちゃまに連れられてよく観に行った歌劇。そのキスシーンはとてもロマンチックだった。
 お互い恋を知らない敵国同士の王子と姫が惹かれ合い、秘密の逢瀬を重ねるのだが、誰にも関係を言えなかった二人が満点の星空が眩いクリスマスの夜の教会で、神の前でだけは真実の愛を誓い合おうと、初めての口づけを交わすのだ。
 舞台上ではフリだけで本当に唇が触れ合っていないとは分かっているのに、家に帰ってもずっとドキドキしたのを覚えている。
 だから、いつかするならあんな風に素敵なキスがしたい。いや、してみせる。そう心に決めたのだ。
 やがて〝すばるきゅん〟という、あこにとって、〝キスをする相手に相応しい素敵すぎる王子様〟を見つけた後は、必ずすばると理想のファーストキスの夢を叶えようとずっと思ってきたのだ。
 すばるが仕事一筋で誰かと恋仲になったことがないのはファンなら誰だって知っている。だからいつか女優として唯一無二の実力をつけて、すばるの相手に見合う自分になれたら、正式にお付き合いをし、その夢を果たそうと思ってきたのに。
 しかし、すばるがキスを経験してしまえば、例え今後あこがすばるの恋人になれる時がきたとしても、初めて同士のキスではなくなってしまう。あこのファーストキスの夢が完璧な状態で叶うことはなくなるのだ。
 それを思うと身体から力が抜けていった。よろよろと歩いていってベッドにその身を投げ出す。
 ベッドのスプリングが上下した反動で、手に持ったままだったアイカツモバイルの画面ONボタンに指が振れた。画面には再びインタビューに答えるすばるの爽やかな笑顔が映し出される。
 いっそドラマの撮影が始まる前に、すばるの唇を奪えば初めて同士のキスが出来るのではないか、なんてぼんやりと考えてしまって、いやいやと即座にそんな考えを打ち消す。
 今の自分はまだすばるの恋人ではないし、自分でも彼に相応しいとは思えない。
 それに今はクリスマスではない。映画の公開は秋の終わり頃のようだから、もちろん撮影はそれまでには終わってしまうわけで、次のクリスマスなんて待ってくれない。夢のシチュエーションを再現するのは物理的に不可能なのだった。
 もしこれが四ツ星学園に入学する前の自分だったらもっとショックを受けていただろうな、と思う。それこそ今からでもすばるの唇を奪おうとしていたかもしれない。
 そもそも四ツ星学園にきたきっかけはすばるに少しでも近づきたいからだった。
幼い頃からおばあちゃまの影響で舞台が好きだったし、家のコネで子役としてドラマに何度も出演した経験もあって、並みの子より演技には自信もあった。劇組のトップになって、そしてすばると肩を並べてお付き合いするのだと、当時はそれだけを夢見ていた。
 そんなあの頃からもうすぐ2年、たったそれだけの間で随分自分は変わった。
 劇組でツバサの厳しすぎる指導を受けて、芝居というものがこんなにも奥の深いものだったのかと思わされたし、すばると現場で一緒になってもお互いプロとして責任を持って仕事をすべきだと自覚を持った。
 自分のファンのために出来ることは何だってしたいという気持ちが生まれ、きららとのWミューズだって新しいことにどんどん挑戦出来る、可能性を広げられる場として大切にしたいと思っている。
 すばるに憧れるだけの、恋に恋する少女というだけではなくなった。すばると結ばれることだけがゴールではないと、もっとたくさんの可能性を手に出来るのではないかと思えるようにさえなってきた。
 しかし、幼い頃に抱いた憧れのファーストキスの夢は、あこがずっと大切にしてきた想いであり、恋愛観そのものだった。
 それをいきなりすっぱり捨てることなんてできるはずがない。
 だから例え現実の出来事が〝あなたの夢はもう完璧に叶うことはないんですよ〟と言ってきたところで、はいそうですかなんて、すぐに受け入れられるものではないのだ。
 アイカツモバイルの画面をスワイプして、すばるの口元を拡大表示する。
 キスとはどんなものなのだろう?実際にこの唇に触れられたのならどんな気持ちになるのだろう?
 目を閉じて画面に唇を寄せた、その時だった。
 急に着信音が鳴って画面が電話アプリの表示に切り替わった。誰かからの着信、それもテレビ電話のようだ。
 いきなりのことに身体が追い付かず、あこの唇は切り替わったその画面に思いっきりぶちゅっと音を立てて触れることになってしまう。
 着信の相手、アイカツモバイルの液晶越しの花園きららの顔に。
「んんんんんん~~!?!?!?!?」
 唇が画面に触れたまま、あこはくぐもった悲鳴をあげる。無情にも唇での接触で応答ボタンが反応し、通話が始まってしまった。
『あこちゃーん元気ー?ってうわっ!?なに?あこちゃんの、口!?びっくりしたぁ~』
 いつものように話し出したきららは、テレビ通話の画面いっぱいにあこの唇が広がっていることに驚きの声を上げた。
「ぷはぁっ!!……びび、びっくりしたのはこっちですわっ!!もう、なんなんですのよいきなりっ」
 あこは慌てて画面から顔を離して、取り乱しながらもなるべくいつものように言葉を返す。
「え~なになに、きららからの電話が嬉しくてちゅーってしてくれたの~?」
 すると画面の向こうのきららは少し意地の悪そうな顔になってくすくす笑いながらからかってきた。その言葉に顔が一気にカーッと熱くなっていく。
「そっそんなわけありませんでしょう!?あなた何考えてますのッ!?……手が、そう、手が滑ったんですわよ!!」
「ふ~ん?なんか慌てちゃってアヤシイな~。でもきららもあこちゃんのことだいすきだしー、あこちゃんといっぱいちゅーしたいけどね!ほらほらちゅ~♡」
 今度は画面にきららの唇が大写しになってぶちゅっと音を立てた。唇の跡が残ってカメラが曇ってしまう。
 映像はぼやけてしまったが、画面から離れたきららがえへへ、と得意そうに笑っているのは分かった。
「まったく何してますのよ。ほんとにこっちが恥ずかしくなってきますわね……」
 あこの言葉を聞いているのかいないのか、きららはカメラ部分をごしごしと拭き取りながら幸せそうに微笑んでいる。
 なんとなくきららの唇に視線をやった。きららのように〝好き〟だというそれだけの感情でこんな風に素直に唇を寄せることが出来たなら、どんなにいいか。きっとあこのようにファーストキスの夢に囚われて苦しんだりすることもないのだろう。
「……あの、あなたは誰かとキスしたことはありますの?」
 いつの間にかそう口に出していた。きららはきょとんと大きなまあるい瞳をぱちくりさせたが、なんてことないように頷く。
「あるけど?」
「だっ、誰とですの!?」
「誰とって……パパとかママとかグランパとか。あとはねぇニュージーランドの学校の友達ともしてたし、あっ、それからエルザ様ともよくおはようのちゅーするよ。最近はあんまりしてくれなくなっちゃったんだけどさー」
 きららの答えにあこはガクッと崩れ落ちた。
したことがあるなんて言うからどんなキスかと思えば。
「そんなの、挨拶のキスじゃありませんの。そういうことではなくて、恋人とするロマンチックなキスの話ですわよ!」
「こいびと、かぁ……それならしたことないなぁ」
 きららが唇に人差し指を当てて上の方を見ながらそう答えるのを見て、あこは何となくほっとする。
これまでただでさえきららには敵わないと思わされてきたのだ。恋愛経験まで負けているなんて許しがたい。
「それにきらら、恋とかよく分かんないんだよね。すきなひとと、きらいなひと。それだけなんだもん」
 どうやらきららの恋愛経験はあこよりもずっと乏しいらしい。あこは得意げになって言った。
「ふふふ。あなたもまだまだお子様ですのね。恋というのはただ好きだということとは全然違いますわ!特別に好きで、その人のことをいつも考えてしまって……胸がきゅーん♡となるようなのが、恋!ですわよ!」
「なるほどー。特別なすき、かぁ。それならきらら、あこちゃんに恋してるのかも!あこちゃんのこと特別に、いっちばんだいすきだし」
 きららはふむふむと納得したように頷いたが、あこの呆れたように溜息を吐いた。
「はぁ~やれやれ。まったく分かっていませんわね。そんな好きはきっと恋ではありませんわ」
「む~っ、そんなことないと思うんだけどなぁ。っていうか、あこちゃんはこいびととキスしたことないの?」 
「えっ!な、なんですの急に」
 いきなり自分の方に矛先が向いて、あこはたじろいた。
「あこちゃんだってさっき急に聞いてきたじゃーん」
「う……」
「あこちゃん?」
 モバイルの画面越しにきららがあこの瞳を覗き込んだ。裏表のない済んだきららの目を見ていると、嘘なんてつけなくなる。
「……ええそうですわよわたくしだってキスなんてしたことありませんわ悪かったですわね!!」
「えー悪いなんて言ってないじゃん。じゃあきららと一緒だね。えへへ」
 先程まで恋の先輩を気どっていた自分が恥ずかしくて居心地が悪い。
それでも、あこはきららの知らない“恋”知っている。恋に囚われたことのないきららとは違う、そう思った。
「い、一緒にしないでくださる?わたくしはあなたと違っていつかキスをするときのことをちゃーんと考えてありますの。場所も時期もシチュエーションも!理想のファーストキス以外お断り、なんですのよ!」
「ふーん、そんなに難しく考えなくっても、すきならいつでもキスしたらいいのに」
「まったく、やっぱりなんにも分かっていませんわね……というかあなた、何の用事で電話なんてかけてきましたの?」
「えーっとね……なんだっけ。忘れちゃった。でもあこちゃんの声がいっぱい聞けたから、もういいや!」
「何がいいんですのよ……他に何もないならもう遅いし、切りますわよ」
「うん、おやすみあこちゃん」
「おやすみなさい、ですわ」
 通話をオフにすると、また自室に静けさが戻ってきた。
「まったくなんなんですの、あの子……」
 そう言いながらも、電話が始まる前までの重く沈んでいた心はいくらか浮上していることに気付く。
 そういえばきららと話をしていると、いつも嫌なことは忘れてしまうような気がする。全く予想もつかない返答が返ってくるので、余計なことを考えている暇がない、とも言えるけれど。
 モバイルの時計表示が23時ちょうどに変わったのが視界に入った。
「はぁ。もうシャワーを浴びて寝ませんと、お肌によくありませんわね」
 あこは気だるい身体を起こして浴室へと向かった。

 *

 その電話の夜から数日経った日、久しぶりに1日オフだったあこは、この機会にと来シーズンから始まるドラマの原作小説を自室で読んでいた。
 今回のあこはお江戸を守るくノ一の役。原作はアクションシーンのテンポとキレがよく、これが映像化するなんて読んでいるだけでもわくわくしてくるような内容だ。
 ちょうどきりの良い章まで読み終えて栞を挟んだ時、部屋のドアが叩かれた。
と同時に「あーこちゃん」という声も聞こえてきたので、来訪者が誰なのかはすぐに分かった。
「きらら?急にどうしましたの?」
 扉を開けると、いつものヴィーナスアークの制服姿ではなく、パステルカラーのニットに暖かそうなベロア素材の赤いスカートを穿いている。
「午後からオフだったから、遊びに来ちゃった。久しぶり」
「久しぶりって……先日電話でも話したところじゃありませんの」
「でも実際に会うのは結構久しぶりだよ」
「言われてみれば、そうですわね。でも来るなら来るで、前もって言ってくれればよかったですのに」
「うん……そうだね。ごめんね、急に」
 きららはそう言って、あこから視線を反らすように俯いた。いつもとどこか様子が違う、そう思いながらもあこはきららを部屋へ招き入れた。
 そう言えばきららと再来週のロケの打ち合わせをしておきたいと思っていたところだったのでちょうどよかったかもしれない。
 今回のロケはフワフワドリームの春の新作おひろめ写真集の撮影だ。春先にデジタルフォトブックとして世界同時配信される予定になっている。
 フワフワドリームというと、その世界観から撮影は屋内でおこない、CGを多用した映像編集をするのが常だったが、今回はブランドとして初めての屋外撮影も含んだロケだった。
 場所は話題のフォトジェニックなゆめかわカフェ兼雑貨屋で、なんと沖縄にあるという。店内はもちろん、屋上にも素敵なカフェテラスがあり、そこを貸し切って撮影をおこなうことになっていた。店は全体がポップなゆめかわ系のデザインで統一されていて、写真映えする家具や小物もたくさん置かれているらしい。
 撮影コンセプトは『南国で見る春の夢』。きっと素敵な撮影になるに違いなかった。
 先日ブランドオーナーや企画プロデューサーと打ち合わせをした時の資料を並べて、早速きららと撮影時のコーデの確認をする。
 大体の見当をつけ、でも微妙な色味の加減もあるし、どのカットにどのドレスを合わせるかは実際に現場入りしてから決めようなどというところまで話し終えて、一息ついた。
「きらら、あなたそろそろロケのための旅支度は始めていまして?わたくし、今の時期日焼け止めがなかなか手に入らなくて困っているんですけれど」
「……うん、そうだね」
 あこと目が合うと、きららはふいと視線を反らしてしまう。今日はずっとそうだった。仕事の話はもちろんちゃんとするけれど、どこかぎこちない。
「あなた、少し変ですわよ。どうしましたの?わたくしに何か言いたいことでもありますの?」
 彼女が反らした視線を追いかけるようにしてその顔を覗き込む。
「言いたいこと、あるよ……」
「なんですの?ハッキリしなさいな」
 その言葉にきららは頷いたが、口を開きかけては、また躊躇うように唇を引き結んで、それから喉を鳴らして唾を飲み込んで。そしてやっとあこの方に向き直って言った。
「きららね、あこちゃんと、キスしたいの」
「え……?」
 ストレートなその言葉に心臓が飛び跳ねた。
 『キス』
 先日の電話での会話が蘇ってくる。でもあの時と同じようにその軽く流す、なんて出来なかった。
 きららのくるんとカールした睫毛に縁どられた大きなその瞳は熱っぽくうるんでいて、あこを真っ直ぐに見つめている。
 冗談で言っているわけではないと、そう思わざるを得ない、そんな真剣な瞳。
「この間、電話したときキスの話、したでしょ?あの後ね、きらら、すっごくすっごくあこちゃんとキスしたいなって思っちゃって、それからそのことばっかりずーっと考えちゃって。それで今日、ほんとはレッスンを入れる予定だったんだけど、あこちゃんに会いたくなって、来ちゃった」
「あなた、何を言ってますの。そんなのまるで……」
 まるで恋のようだ、と言いかけてハッとした。そのまま二の句を告げなくなったあこの言葉の続きを、きららが紡いでいく。
「きらら、あこちゃんのこと、特別にすきだよ。きっとこれがこいびとのすきなんだって思うの。この間あこちゃん、言ったでしょ。その人のことをいつも考えてしまって胸がきゅーんってなるのが恋だって。あこちゃんのこと考えてるとね、最近よくそうなるの。きららね、あこちゃんのこと、だいすき」
 それは本当に、ただただ愛の告白だった。こんな風に誰かに真正面から愛を告白されたのは、あこにとって生まれて初めてのことだ。
 いや、初めて、ではないかもしれない。だってきららはあの日も電話越しに、あこが好きだと、あことキスがしたいと言ったではないか。
 あの時自分は何と返事をした?
『はぁ~やれやれ。まったく分かっていませんわね。そんな好きはきっと恋ではありませんわ』
 まったく分かっていなかったのは、あこの方だった。
「あこちゃん……すき」
 きららの手があこの手に触れる。
 その手は思いの外、冷たく汗ばんでいて、緊張しているように少し震えている。
「あこちゃん……すきだよ」
 きららはまた同じ言葉を繰り返す。
 赤く染まった頬、震える睫毛。ゆっくりとその顔が近づいてくる。
 囁くような声があこの鼓膜を震わせて、胸の内に入り込んでくるような気さえした。更に距離が縮まって、きららの鼓動が聞こえてくるほどになってくる。ドキドキとこちらにまで伝わってくる心音。薄っすらと赤く染まっている耳朶。
 今、きららがあこに見せる全部が、恋する女の子のそれだった。
 きららのこんな表情を、あこは見たことがなかった。なんとなくまじまじとそれに見入ってしまう。
 きららにこんな顔が出来るなんて思いもしなかった。けれどきらららしくないとか、変だとかそんな風には思わない。むしろ……
 あこの胸に急に込み上げてきた感情があった。
 しかしそれが何なのか、すぐに分からなくて。
 分からないから怖い。
 急に今この状況が怖くてたまらなくなった。
「やめてくださいな!!!!」
 あこの唇にあと数センチにまで迫っていたきららを力いっぱい押しのける。
「あこちゃん……」
 きららは頭から冷水を浴びせられたかのように驚いて目を見開いていた。
「だめ、ですわ、こんなの……だって、だってわたくしには理想のファーストキスがありますもの……!だから、だからこんなの、だめなんですのよ。あなたとなんて、お断りですわ!」
 頭が整理できないまま、うわ言のようにそう言っていた。
 そうなのだ。あこは理想の王子様であるすばるとキスをするのだから。例えすばるが初めてじゃないとしてもその思いは変わらないはず。なのに、どうしてこんなにも心が不安定に揺れているのだろう。
「あこちゃん、きららのこと、嫌い……?」
 きららが悲しそうにあこの顔を覗き込んだ。
「そんなの……!!」
 聞かれて、何と答えればいいのか分からなかった。自分の気持ちが分からなくなる。
「あこちゃん……」
「いいからもう、出て行ってくださらない?わたくし、この本を読まなくちゃいけませんから!!」
 目に留まった読みかけのドラマの原作本を手に取って叫ぶように言う。きららが何か言いたげに、あこちゃん、ともう一度呼んだけれど、あこはそれに背を向けた。
「出て行って!」
 自分でも驚くくらい鋭く冷たい声が出た。背中越しにきららが息を飲むのが分かる。
 程なくして足音が諦めたようにあこから遠ざかっていき、扉が開いて少し未練を残したように間をおいてから、静かに閉じた。
 部屋からきららが出て行ったのを確認すると、あこはその場に崩れ落ちる。
「わたくし、何をしていますの……」
 自分で自分のことが分からなくて、怖い。でもどうすればいいのかも分からない。あこは抱きしめるように自分で自分の肩を抱きながら、ただただそこに蹲るばかりだった。

 *

 ゆめとブランドの撮影と打ち合わせが滞りなく終わった。
 一足先に次の現場へ向かうゆめを見送った小春は、駅に向かおうと一旦歩みを進めたものの、視線を上へ向けるとそこで立ち止まった。
「すごくいいお天気だなぁ」
 空はふんわりとした淡いブルー。
 冬の空気はやはり冷たいけれどお日様の光がそれを随分和らげてくれている。まさに小春日和だと言えるお天気だ。次のお仕事は小春個人のもので、それまであと2~3時間はある。移動距離を考えても十分に余裕があった。
 せっかくこんなにいいお天気なのだから、楽しまないともったいない。小春は駅へと向かう道を反れて、海辺の自然公園まで足を延ばすことにした。
 公園では様々な人が、様々に自分の時間を過ごしている。
 はしゃぎながら追いかけっこをする子どもたち、ジョギングしているお姉さん、缶コーヒーで一息ついているスーツ姿のサラリーマン、欄干で何か懐かしむようにじっと海の向こうを見ているおじいさん。
 小春もおじいさんの隣で欄干に手をついて海を眺めてみる。遠くから船の汽笛が聞こえてきた。
 それを懐かしく感じた自分に少し驚いた。ヴィーナスアークの生徒だったのはついこの間のことだというのに。
 船の中で波を感じながら眠って、汽笛の音で起きるあの生活が、もう既に自分のものではなくなってしまっていることを実感する。
 そう言えばヴィーナスアークではずっと海が側にあったけれど、こんな風にじっと海面を眺めていられたのは数えるほどしかなかった。
 今までとにかくアイカツに邁進していたから、のんびりと自分一人だけの時間を過ごすのは久しぶりだ。
 子どもたちのはしゃぎ声がごく近くに聞こえてきたので振り返った。彼らはこちらの方まで駆けてきて、小春のすぐ後ろで押し問答のようなことを始めたが、すぐに楽しそうに笑いながら、もっと向こうの方へ走っていってしまう。
 そう言えばゆめちゃん、鬼ごっこ得意だったな、なんて小学校時代のことが思い出されて、自然と笑みが零れてきた。あの頃の自分には今のことなんて全然想像がつかなかっただろうな、と思う。
辛いことや大変なことももちろんあったけれど、でも、今となっては重ねてきたそれらの全てがいとおしくも感じられた。
 子どもたちの背中を眺めながらぼんやりしていると、視界の端にそれが入ってきた。見覚えのある水色とピンクのツートンカラー。なんともインパクトのある色の髪を見間違えるはずなんてない。
「きららちゃん?久しぶりだね」
「小春ちゃん!久しぶり~」
 きららはすぐそこの白いベンチに身体を預けるようにして座っている。
小春を見ていつものように明るい声を上げたが、その表情はどことなく沈んでいるように見える。
「……なにかあった?」
「うん……」
 きららに元気がないなんて珍しい。
 アイカツランキングの決勝トーナメント前まではわりと浮き沈みがあったとは聞いていたけれど、先週あこと話した時には、『あのこ、すっかり復活していましたわ』なんて、腹立たしそうに装いつつも、頬を緩めながら言っていたのに。
 小春の姿を映すその瞳は、まるで群れからはぐれた子羊のように路頭に迷ったような色合いを帯びていて、なんだか放っておけなくなった。
 きららの隣に腰かける。
「飴、食べる?」
「うん、ありがとう」
 きららは小春がポケットから取り出した飴の包み紙開くと早速食べ始めた。小春も同じように一つ口に含む。
「小春ちゃん、これミルク味だね。ハチミツをいっぱい入れたホットミルクみたいでおいしい」
「よかった。私も好きなんだ。おいしいよね」
 眉間に皺を寄せていたきららの表情が柔らかくなって嬉しくなった。こういう時本当に、飴、持っておいてよかったなと思う。
 心なしかさっきより日差しも一段と強まって、暖かく辺りを包み込んでいた。そんな穏やかな空気の中、きららが突然言った。
「ねえ小春ちゃん、キスってしたことある?」
「き、キス……!?」
 いきなりの質問に思わずたじろいてしまった。
「挨拶のキスじゃなくてね、こいびととするロマンチックなキスなんだけど」
 恋人とする、ロマンチックな、キス。きららの口から初めて出てきた言葉に、小春の胸は妙にドキドキと音を立てた。
 きららのただならぬ様子から察するに、これは恋の悩みというやつではないか、そう思い当たったからだ。
 アイドルになる前まではクラスの女の子達は当たり前のように恋バナをしていたが、四ツ星学園や留学先のイタリア、そしてヴィーナスアークでは学業と仕事であっという間に一日が終わっていたし、仲間たちの中で話題に上るのは、アイカツのことがほとんどだった。
 久しぶりに誰かの恋の話、それもこんなに身近な友達の恋バナだなんて、なんとなく緊張してしまう。
 というかきららは自分に質問をしているのだ。キスをしたことがあるか。それに答えなければいけない。
 でも、どう答えるのがよいだろうか。小春のキスの経験を話すと言うことは、そのキスの相手のことについても話さなければいけないかもしれない。
 別に後ろめたいわけではないけれど、それを自分から言うのはなんだかちょっと恥ずかしい。
 小春が言いあぐねていると、「この前ね」ときららが話し出した。どうやらさっきの質問は小春に返答をして欲しいというよりは、自分の話を始めるためのきっかけに過ぎなかったようだ。
 そのことに少しほっとしながら、きららの言葉に耳を傾ける。
「あこちゃんとキスしようとしたんだけど、あこちゃんきららとはしたくないって言って、部屋を追い出されちゃったの。それでね……」
 前提条件から、いきなり物凄い新事実が飛び出してきたので、小春はパチパチと目をしばたたかせた。 
 きららはそんな小春の様子を特に気にするでもなく、欄干の間から切れ切れに見えている、日差しをキラキラと反射させる海を見つめながら言葉を続ける。
「それでレイちゃんに相談したんだけど、きっとあこちゃんは恥ずかしがってるだけだろうし、何か違うアプローチをしてみればいいんじゃないかって言うんだ。だけどどうやったらいいのか分からないの」
「……そうなんだ」
 小春はなんとかそれだけ言うと、改めてきららの方をじっと見た。
 きららの恋のお相手があこだったなんて。久しぶりに聞く友達の恋バナの、その恋のお相手が同じく自分の友達だった、なんて初めてのことだったのでどぎまぎしてしまう。
 だけどせっかく話してくれたのだから、お悩みを解決してあげたいと思う。それには今の話だけでは少しばかり情報が足りなかった。
「えっと、きららちゃんとあこちゃんは、お付き合い、してるの?」
「うーん、付き合うっていうのはよく分かんないけど、きららはあこちゃんのことだいすきだし、あこちゃんもきららのことすきだよ?あこちゃんすぐにツンツン!シャー!ってしちゃうけど、ほんとは全然そんなことないの」
 きららは事もなげに、さらりと言って笑った。その笑顔は自信満々だ。
 確かに二人は普段からとっても仲が良いし、お互いに好きだと言うなら、両想いということで良いのだろう。恋人のキスをしても問題のない間柄ということにもなる。
「そうなんだ。じゃあ、あこちゃんはどうしてキスするのが嫌だって言ったんだろう?」
「うーんとねぇ、きらら、あこちゃんとどうしてもキスしたくって。だからしようとしたら”お断り”って言われちゃって。”理想のファーストキス”ってやつがあるって……。あこちゃん、何だかいつもと違って物凄く怒ってた」
 なるほど。つまり理想のキスではないから嫌、ということか。それなら恥ずかしがっている、というのとは少し違うかもしれない。
「〝理想のファーストキス〟ってなんだかすごくあこちゃんらしいね。すごくしっかりイメージしてそうだもんね」
「そう!そうなの!前にも言ってたよ、場所も時期もシチュエーションも決めてある、って。別にすきならいつでもどこでもキスしたらいいのにさ~……」
 きららはまた眉根を寄せて、むぅと唇を尖らせる。
 どうやらきららとあこのキス観というか、恋愛観というか、それが根本的に違っていることが原因であるようだ。
 理想のキスを決めているあこ、いつでもどこでもと言うきらら。二人の考え方はまるっきり真逆なのだから、衝突するのも無理はない。
 しかしファーストキスがまだというなら、これからするのは2人にとっての初めてのキス、ということになる。
 小春だってあこほどのこだわりはないにしても、初めてのキスというものは重要なものだと思うし、大好きな友人カップルには、やっぱり大切に迎えてほしいと思う。
「ええっと、ファーストキスって人生に一度だけのものだよね。逆に言うと1回しちゃえばそれっきりってこと。だからやっぱり特別だと思うな。その1回目だけでもあこちゃんの理想に合わせて素敵なキスをするのがいいんじゃないかな?」
 小春がそう言うと、それまで暗く沈んでいたきららの瞳がきららんと輝いた。
「そっかー、1回目は特別にとっても大事ってことなんだ!」
「うん。あこちゃんの気持ちになって想像したら、それが一番いいかなって思ったんだ」
「なるほど~、小春ちゃんすごーい!!」
 きららは感激しながら小春の手を取って喜んだ。
 けれどピタッとその動きを止めたかと思うと、またすぐにガクッと肩を落として、どんよりとした表情を浮かべてしまう。
「でもなー、きららあこちゃんのファーストキスの理想っていうのが分かんないし、どんな風にすればいいんだろ……」
 どうやら道筋が見えただけで、具体的な考えは浮かんでいないらしい。
「そうだね、あこちゃんの理想……」
 小春もきららと一緒になって考えてみる。そういえばいつだったか、演技の勉強と称して名作恋愛映画をあこと一緒に観た時、あこが熱っぽく語っていたことがあった。
「きららちゃん、私一つ思い出したよ。あこちゃんと映画を見たとき、キスシーンのところでこれが理想って言ってたの」
「ほんと!?それってどんなおはなし?」
「えっと確か有名な舞台を映画化したラブストーリーで、敵国同士の王子と姫が恋に落ちて、周りのみんなには秘密にするんだけど、お姫様はそれが辛くなって何だか上手くいかなくなっちゃって……でもクリスマスの夜に王子様がこっそりお姫様を連れ出して、教会の神様の前で『この愛が本物であることを』って誓うの。それで二人は初めてキスをするんだ。あこちゃん、理想のキスだって何回も言ってたっけ」
「確かにあこちゃん、そういうの好きそうかも」
「ふふふ。でも私も素敵なお話だと思うな」
 きららと顔を見合わせて笑い合う。でも、その理想を叶えるにはどうすればいいんだろう。
 きららも同じことを思ったようで先程と同じようにうーんと眉根を寄せていた。
「クリスマス、過ぎちゃったしなぁ……あこちゃん、理想の時期も決めてあるって言ってたし、絶対全部映画と同じがいいとか言うんだろうな」
「確かにそうかも……。でもシチュエーションだけでも同じなら嬉しいと思うよ?」
「うん……、うん、そうだよね」
 きららはまだどこか浮かないながらも、何度か自分の考えを確かめるように頷いて、やがて吹っ切れたような顔で笑った。
 コロコロと変わる表情、大好きなひとのために一生懸命になれるその姿は、まさに恋する女の子のそれだ。
思わず、きららちゃん、かわいい、と思ってしまう。可愛らしい友人のこの恋を見守っていたいなと素直に思えた。
「これ、映画のタイトル、書いておくね」
「ありがとう小春ちゃん!」
 鞄に入れていた花柄のメモ帳にサッと書き付けて渡すと、きららは大事そうにそれを受け取る。
「きらら、頑張るね!」
「うん、応援してるよ!」
 それじゃありがとうと手を振って駆けていくきららに、同じように手を振る。向こうにその後ろ姿が消えるまで見送ってから、小春も歩き出した。
 この後の仕事で今日は終わりだから、いつもより少し早く寮に戻れるはずだ。
「キス、かぁ」
 何となく自分で自分の唇に触れてみる。頭には自然と彼女の顔が浮かんだ。
 キス、という言葉で思い浮かべてしまうひと。そして思い浮かべてしまったら、会いたくてたまらなくなってしまうひと。
 すぐにこんな気持ちになってしまう自分に苦笑しながらも、小春はキラキラインで彼女に『今夜、会えるかな』なんてメッセージを送ったのだった。

 *

 夢を見た。
 あこは誰かに手を引かれて歩いていく。白いタキシードの背中。ああきっとこの人はあこの理想の王子様だ。
 やがて立ち止まると、彼は振り返ってあこの瞳をまっすぐに見つめた。
「やっぱりすばるきゅんでしたのね」
 あこを見つめる優しいまなざし。それは確かにすばるだった。静かに微笑みながら二人は言葉もなく、ただただ見つめ合う。
 そしてすばるの顔がゆっくりとあこに近づいてきて、唇と唇が重なろうかという瞬間、突如目の前のすばるがキラキラ光り輝いたかと思うと、まるでソーダの泡のようにしゅわしゅわと弾けて、夜の空気の中に溶けてしまった。
「すばるきゅん!?どこへ行ってしまいましたの?」
 辺りを見回すが、すばるはもうどこにもいない。あこは一人でただただそこに立ち尽くした。
 すると、そんなあこの手をふわっと包み込む手があった。すばるではなくて、もっと華奢な女の子の手。
 目の前にいたのはきららだった。
「あなた、どうして……?」
 きららは何も答えない。
 ただただ、きららのことを、あの日と同じ熱っぽい目で見つめているだけだ。
「ねえきらら、何か言ってくださいな。でないとわたくし!」
 あこの方からぐいっと顔を近づけて、言葉をぶつけるようにそう問う。けれど答えが返ってくることはなくて、そしてそのまま、二人の影が、唇が一つに重なった。
 そんな様子を悲しそうに見つめる一対の双眸があった。よそ行きの濃紺のワンピースを着たその少女は、ああそうだ、幼い頃のあこ自身の姿……


 ピピピピピピピと、目覚ましアラームが鳴り響いて、あこは目を覚ました。
「なんて夢、見てるんですの、わたくし」
 何となく起き上がる気になれなくて、ベッドの上で妙にさえた目だけを持て余してしまう。
 唇に手をやった。先程の夢の中で確かに彼女のそれと重なった唇は、朝の空気の中で少し冷たくなって乾いている。
 もちろん感触なんて覚えていないし、そもそも実際にはしたことがないから分かる筈なんてない。けれど何となくゴシゴシと唇を擦った。そうすることで忘れてしまおうとするように。
 あこはいつか、あこの王子様とキスをするのだ。
 こんなこと、あってはいけない。
 きららと最後に会った日、キスをしそうになったあの時からすでに12日が経過していた。あこは新しいドラマの撮影が始まっていたし、きららも世界各地の回ってステージをしていたから、あれから一度も顔を合わせてはいない。
 嫌な別れ方をしたので、正直顔を合わせるのは気まずい。だからちょうどよかったと思う半面、会えない時間の分だけ、あの時のことを繰り返し思い出してしまう自分に気付いて、辛くもあった。
 実際、こうして夢にまで見るほどなのだ。あこはずっと、花園きらら、彼女に振り回されたままだ。
「はぁ。それにしたって、こんな日にあんな夢で目覚めることありませんのに……」
 大きなため息を吐きながら、流石にそう言ってしまった。
そう、今日は件のフワフワドリーム春の新作おひろめ動画、沖縄ロケへの出発日。否が応にもきららと顔を合わせなければいけないのだから。
 多忙な2人ゆえ、たった1泊2日の旅ではあるが、その間は常に一緒に過ごすことになる。
 あこはまた新しい溜息を吐きながら、のろのろとベッドから起きだした。
 いつものように身支度を整えて、荷物を確認する。もちろん昨日の間にほとんどの準備は整えてあるので、モバイルのバッテリータップやお財布といったものを少し足すだけで終わってしまう。
 時間には余裕があったが、じっとしていると落ち着かなくなって、少し早く部屋を出た。

 空港でブランド関係者を始めとした何名かのスタッフと合流し、飛行機に乗り込んだ。空が少しどんよりとしていたので撮影は大丈夫かと心配したが、機内放送によれば現地の方は晴れているようで一安心だ。
 きららはまだ一緒ではない。
 彼女は昨日、韓国のポップカルチャーイベントに出演していて、そこから現地に直行することになっていた。
 飛行機は問題なく成層圏を南に向かって進んでいく。あこは持ってきていたS4番組の台本に目を通し終わると、手持ち無沙汰になって、何か他に持ってきたものはあっただろうかと、手荷物の中を探ってみる。
「これ、持ってきてましたのね」
 手に取ったのは、ピンク色の表紙の小冊子だった。
 タイトルは『夢占い辞典』。辞典と言っても、簡易なつくりのそれは、端が少し擦り切れてしまっていて、些かチープすぎるように見える。
 これはあこがまだ小学生の頃、初めて買ったジュニア向けファッション雑誌の綴じ込み付録の一つだった。
 付録と聞いて侮ることなかれ、中身は確かに辞典という名に相応しく、夢の種類やシチュエーションごとに、それがどんな意味を持つのか細かく記載されている。
 なんと言っても掲載されている夢の種類が多く汎用性が高いので、昔からおまじないや占いが大好きだったあこは、なにか印象に残る夢を見ると必ずこれを見るようにしていた。
 今日開くページはもちろん決まっている。50音順の見出しのカ行のところを捲って、それを探す。

 ☆キスの夢☆
『キスには基本的に他者との精神的なつながりを求める気持ちが表れます。一方で、唇を塞ぐという行為から、隠し事の象徴として表れることもあります。』
 まずは概要としてそんな風に書かれてある。
 何となくドキっとした。自分はきららと繋がりたいなんて思っているのだろうか。それとも何か隠したい気持ちでもあるのか。
 その下には更にシチュエーションごとに説明が記載されているので読み進めていく。説明文は二つの項目に分かれていた。
 〝自分からキスする〟と〝誰かにキスされる〟とだ。今朝見たあの夢はどちらからだっただろう。
 最初に顔を近づけたのは、あこの方だったと思う。
けれど、そのあといきなり視界が遮られ、気付いたら唇が重なっていた。
 自分の意思でキスをしたわけではないのであれば、された、と解釈するのがいいだろうか。
 〝誰かにキスされる〟の項目は更にキスされた相手によって細分化されている。恋人、兄弟、友達、全然知らない人。
 ふと、きららは自分の何なのだろうと思った。
 恋人ではない、はずだ。
 少なくともあこはそう思う。
 けれど、友達、というと、その言葉はどこかぼんやりしていてしっくりこなかった。
 花園きらら。
 彼女は昨年の春、いきなりあこがミューズになるはずだったブランドを奪った。
 しかも勝手にWミューズだと言いだして、めちゃくちゃに振り回された。なのに実力は十分にあって、そのステージは誰もを惹きつける素晴らしいものだったから、何にも言い返せなかくて、痛いくらいに悔しかった。
 ゆめ達がヴィーナスアークに留学した時、自分が一緒に行かなかったのは、きららを見ると否応なくその苦しい気持ちを思い出すのが嫌だったから、というのも少しあったかもしれない。
 でも何だかんだで彼女はあこの側にやってきて、一緒にいるようになってしまった。
 そのうちに、裏表がなくて、何にでもまっすぐで、意外に芯を持っている、そんなきららの素敵なところが分かってきて、憎めなくなってしまって困った。
 Wミューズとなってからは、誰よりも隣にいるのが自然に思える相手になった。
 それから今は。
 あこに恋をしていて、睫毛を震わせながら熱っぽく唇を寄せてきた女の子。
「こんなのもう、ただの友達なんかじゃありませんわ……」
 それなら一体何だというのだろう。
 その答えが分からなくて、分かりたくなくて。
 もう夢占いの解説文なんて頭に入ってこなくなっていた。重い息を吐きながら、静かに目を閉じる。

  *

 3時間程のフライトを終え、一行は無事に日本にいながらの亜熱帯、その楽園の地を踏んだ。
吹いてくる風の暖かさ、湿度、におい。何もかもが日常とは全く違っている。あこは胸いっぱいに暖かい空気を吸い込んだ。
 機内放送で聞いた通りによく晴れた空は、鮮やかな青。日差しが照り付けてきて、背筋に薄っすら汗をかいてしまう程だ。
 あこは着ていたコートを脱いでキャリーケースに仕舞う。今日の最高気温は19℃だそうだ。
 先月にはもう桜が開花している沖縄だから当然と言えば当然なのだけれど、実際に体感するとこういうものなのかと驚いてしまう。
 空港のターミナルの待合椅子に座ってすぐに、その声が聞こえた。
「あっ、あこちゃーん、スタッフのみなさんも、おはようございまーす!」
 あこ達が出てきたのと反対側の到着口からやってきたきららは、南の島の空気によく似合った笑顔で手を振っていた。
 すぐにあこの方まで来ると「久しぶりだね」と言って笑う。
 何だか拍子抜けしてしまった。あんな風に別れた後だというのに、きららはいたっていつも通りだった。こちらはこんなに悶々として、夢にまで見てしまったというのに。
 そう思うとちょっと悔しくなってくる。
「どうしたのあこちゃん、眉間にシワ、寄ってるよ?」
 そんなあこに、きららはぐいっと手を突き出し、人差し指であこの額に触れた。それからおでこのシワを伸ばすように指をそのままぐりぐりと回してくる。容赦のない距離感、重なる視線。不自然に心臓が飛び跳ねた。
「なっ、何するんですの!」
 あこはどぎまぎしながらそう言って、きららの指から逃れる。
「えへへ。いつものあこちゃんだー。ほら、行こっ。」
 言いながら、他のスタッフ達の後ろに付いてきららが歩き出したので、あこもその背中を追いかけた。
 本当にきららはいつも通りだ。この間はあんな顔を見せたというのに。
 今日、いつもと違うのはむしろあこの方だ。胸の中で、なーにがいつものあこちゃんですの、わたくしのこと何にも分かっていませんのね、なんて毒づいてみる。だってほら、さっき触れられたおでこがこんなにも熱い……。
 ロケ地となるそのカフェは、空港から車を1時間ほど走らせたところにあった。
 立方体の形をしたその建物は、軒が鮮やかなマゼンタピンクをしていて、眩しい日差しを跳ね返している。
 入口のガラス戸の格子はこの地の海の色と同じ、アクアブルーに彩られていて、軒のピンクとのコントラストが可愛らしい。そのツートンカラーはまるできららの髪の色のようで、だからもちろん用意されているドレスにも映える色合いだ。今回の撮影にはぴったりだねとスタッフ達も声を揃えた。
 扉の前にはこちらも同じくマゼンタピンクをした可愛らしいフラミンゴのバルーンが置かれていて、あこ達を見つめている。
 店内に足を踏み入れると、足元は一面の芝生に覆われていた。目に飛び込んできたのは「LOVE」というアルファベットの形の木の大きな置物。
 高さは80cm程あるだろうか。それもやはりマゼンタピンクをしており、文字の隙間からパイナップルやバルーン、鮮やかな花々が顔を覗かせている。
 ふと天井に目を向けると白と赤のプルメリアの花に覆われていた。
「うわー本当にすごいね!!とっても楽しい気分になってきちゃう」
「ええ、本当に。色んな撮り方が出来そうな場所ですわね」
 思わず声を上げたきららに、あこも素直に賛成する。快く迎えてくれた店員の案内で、あこたちは更に店内を見て回っていった。
 インテリアは基本的にピンクを中心に統一されていてハート形のバルーンがそこらじゅうで踊っている。
 しかしどこか80年代を思わせるアメリカンレトロな家具や小物達のおかげか、ファンシー過ぎないカジュアルな空間になっている。そのバランス感が絶妙だ。新作ドレスの中には普段使いのアイテムもあったし、それにもよく似合うだろう。
 奥には真っ白な階段があり、こちらにも「HAPPY」というアルファベット型をした木製のインテリアオブジェが上の段から一文字ずつ置かれている。
 そこを上がっていくと、屋上に続いていた。屋上もやはり全面が芝生で、ピンクのテーブルやベンチ、たくさんのバルーンが置かれている。
 向こうには海も見えた。今日はよく晴れているから、海面がマリンブルーに輝いているのが良く見える。まさに絶景。
 一通り店を見て回ったけれど、改めて本当に凄い場所だ。今回の撮影のために作られた撮影セットにしか見えないと思えるほどに。
 けれど確かにそこはカフェであり、先程見た大きな「LOVE」の置物の奥には本格的なカウンターキッチンが備わっている。
 屋上から降りてくると、店員の女性がそこでドリンクを作ってくれていた。
 マンゴーのイエローとベリーのレッドが二層になった鮮やかなスムージー、それにシークワーサーとパイナップルを使ったスカッシュ。グラスに刺されたストローはくるっと曲がっていて、可愛らしい。
 ストローにはハイビスカスの花が添えられており、南国気分を盛り上げてくれていた。それを飲みながら、あこときららは早速カットごとのドレスのチョイスを相談したり、スタッフと撮影の打ち合わせに入っていく。

 撮影は無事にどんどん進んでいった。
「じゃあ、ここの〝LOVE〟の前で2人、顔を寄せ合ってもらって……」
「はーい!」
「ええっ?」
「ほらあこちゃん、もっと寄らないと」
「え、ええ分かっていますけれど」
「じゃあ芝生に寝そべって、手を繋いでー。うんうんすっごくいい!そのまま見つめ合ってー」
 あこがどことなくどぎまぎしているうちにもカメラは回り続ける。
 もちろんあこもプロである。シャッターを切られるその瞬間には、きちんと求められる表情を作ることは忘れなかったけれど。
 きららと一緒に最後のワンカットまでチェックを終えると、カメラマンが大きく手を上げた。撮影監督がスタッフ全員に聞こえるように声をかける。
「はーい、OK。本日の撮影終了で~す」
 あこは、はぁ、と大きく息をついて、思わず傍らのピンク色のベンチに腰を下ろした。
 撮影は、この空間からも刺激をもらったことで、かなり充実したものになり、とても楽しかった。だが、きららに対するこのモヤモヤした感情を押し殺しながらそれをこなすのは、なかなか体力を要するものだった。
 撮影が終わった途端、早速自分のモバイルを取り出してセルフィーに勤しみ始めたきららを尻目に、先に移動用のワゴンに戻ることにした。
 お昼前にここに着いて、軽くドリンクや軽食を取りながら撮影をこなして。
 昼下がりと言える時間も少し過ぎた今は、日差しも真昼のものよりは穏やかになってきている。
 あこはぐったりと座席にもたれ掛かかって、その日差しを感じながら目を閉じた。
 しばらく微睡んでいると、声がしてみんなが戻ってきたのが分かったが、ぼんやりと車が動き出したことだけを認識して、そのまますぐに眠りに落ちた。

 *

 そこには、一人の幼い少女がいた。よそ行きの濃紺のワンピースをきた、どこか生意気そうな目をした女の子。あこは彼女に声をかける。
「また会いましたわね」
『ええ。またあなたのゆめにおじゃまさせてもらっておりますわ』
 声のトーンこそ幼く、少し舌っ足らずだが、2人の口調はほとんど同じ。
 だって彼女はあこ自身なのだ。幼い頃の、自分。
「ふふふ。わたくしって昔からそんなに生意気な物言いでしたかしら」
『しつれいしちゃいますわ。わたくし、もうりっぱな、れでぃでしてよ?』
「ええ、ええ、その通りですわね。失礼いたしましたわ」
 幼いあこは胸の前で腕を組んで、フンとそっぽを向いている。
 幼い頃から入れ違いにやってくるたくさんの大人に囲まれながら、早乙女の娘に相応しい立ち居振る舞いをと、失礼のないようにと、気を配って背伸びしていた姿。
 他の家の子になんて負けたくないとそれにこだわって、今よりもずっと虚栄心ばかり大きかったあの頃の自分の姿だ。
 それを今、愛しいと思いながら眺めることが出来る。
 そしてあこは幼い彼女の睫毛に涙が滲んでいるのに気付いた。
「ねえ、小さなレディさん」
『なにかしら?』
「あなた、もしかして泣いていましたの?」
『そ、そんなわけ……』
 しかし言葉とは裏腹に、彼女の瞳からはポロポロと涙が零れてきた。
『ねえ、わたくしは、おひめさまにはなれませんの?あこのおうじさまは、こちらにむかえにきてくださいませんの?』
「あらあら、まあまあ……」
 はらはらと零れてくる涙を拭って頭を撫でてやった。
「気を確かに持ちなさいな。大丈夫ですわよ。わたくしがついてますわ」
 そう言って幼い自分を抱きしめてやろうとした。
 けれど出来ない。あこの右手は既に誰かと繋がれていて、そちらを離すことが出来なかったからだ。
 どうして、と思いながら右手の方に視線を移した。
『あこちゃん!きららと一緒にもっと向こうへ行こう!』
 きららだった。その手は彼女と繋がれていて、しっかり絡まった指先は解けることはない。そのままきららはどんどん歩き出してしまう。
「ちょっと、ちょっと待ってくださいな。これじゃあわたくしは……!」
 左手の方を振り返る。
 小さな手があこの指先を握ってくるけれど、その力は弱くて、するすると指が解けていってしまう。
『いかないでくださいな……わたくしをおいていかないで……』
 幼いあこは瞳を涙で揺らめかせながら、そう声を振り絞った。離すことなんて出来るわけがない。なのに、あこは歩みを止めることが出来ない。
 時間はどんどん先へと進んでいく。
「きらら、待って下さいな!わたくしまだあの子と一緒にいますわ……!」

  *

 目を覚ますとそこには知らない天井があった。伸ばした左腕が空を切る。
「夢、でしたのね」
 力なく手を下ろした。胸に寂しい気持ちがいっぱいに広がっている。
 今日はよく夢を見る日だ。それも今度は昔の自分の夢だなんて。これにはどんな意味があるのだろう。またあとで、夢占い辞典で確認しようかなんてぼんやりと思う。
 そして、ここはどこなのか。
 目だけを左右前後に動かして、辺りを見てみる。部屋は完全に真っ暗というわけではなく、豆電球が付いていたので、目が慣れてくると大まかな様子は伺えた。
 ああ、ホテルの部屋なのだ。確か車の中で眠ってしまったはずだから、そのまま眠り続けたあこを誰かがここに運んでくれたのだろう。
 あこが今寝ているベッドのすぐ横にはもう一つベッドがあった。その掛布団の上にパイナップルの置物やハイビスカスの首飾り、脱ぎ捨てられたTシャツが乗っかっているのが分かる。
 そんな賑やかな光景とは裏腹に、部屋はしんと静まり返っていて、近くから波の音が規則正しく聞こえてくるだけだった。
 きららはどこかに行っているらしい。
 今何時だろう。ゆっくりと起き上がって、時計を探していると、オートロックの扉が解除される音が聞こえた。
「あ、あこちゃん起きてたんだ」
 入ってきたきららが部屋の明かりをつけた。
 暗いところに慣れ始めた目が、一瞬その眩しさにくらむ。
 もう一度きららの方を見ると、その頭のお団子の横にはハイビスカスの花を刺していた。随分沖縄の夜を満喫しているようだ。
「あこちゃん、ずーっと寝てたんだよ。ほんとに疲れてたんだね」
「……今、何時ですの?」
「えっと、8時過ぎくらいだったと思うけど……」
 そう言って時間を確かめようとするきららの視線を辿ると、ベッドボードの下の方にデジタル時計があり、確かにディスプレイには20時10分と表示されていた。
「本当に随分眠ってしまっていましたのね……」
 時間を意識すると急にお腹が空いてきた。
 そう言えばさっきから甘くておいしそうな匂いが漂っている。
「あっ、そうだった。晩ご飯、きらら他のスタッフさん達とさっきもう食べちゃったんだけど、あこちゃんがご飯食べれるかどうか分かんなかったから、とりあえずこれだけ持ってきたの。食べる?」
 きららの持っていた紙袋には、揚げたてのサーターアンダギーが入っており、袋の口を開けると、白い湯気と香ばしい香りが辺りに立ち込めた。
「ええ。ぜひいただきますわ」
 早速部屋に備え付けのティーバッグの紅茶を淹れて、二人でサーターアンダギーをつまむ。
 外はカリっと、中はしっとりほくほくとしていて、何個でも食べてしまえそうだ。実際、ご飯も食べたはずのきららはあこより多くそれに手を伸ばしていて、あこが「揚げ物ですわよ、もう少し考えて食べなさいな」と窘める程だった。
 朝からきららのことを意識してどぎまぎしていたあこだったが、やっぱりこうして一緒にいるのは居心地がいい。これまで伊達にWミューズをやってきてはいないのだから。
 そう、こうやって〝いつもの〟距離感でいる分には何の問題もない。
 食べ終えてお腹が満たされると、先程より随分気持ちに余裕が出てきた。
 あこはうーんと伸びをする。ふとサイドテーブルに綺麗な貝やサンゴ、そして小瓶に入れられた白砂が並んでいるのが目に入った。 
「綺麗ですわね。海に行ってましたの?」
「ほんとに綺麗でしょ?ホテルの裏、すぐ海岸になってるから、ご飯までの間そこに行ってたんだ。あこちゃんと行きたかったけど、よく寝てたから起こすの悪いなって思って」
「そうでしたの。せっかくこんなところまで来ましたのに、ずっと寝ていたなんて、もったいないことをしましたわ」
 1泊2日のロケなので、明日ビーチでの撮影が終われば夕方にはもう帰らなければいけない。
 今夜はこのロケにおいて、最初で最後の沖縄での夜だった。置かれている貝殻達は自分のものではない〝思い出〟で、どれも真っ白に光ってあこの目に眩しく映った。
 肩を落としたあこに「ねえ、あこちゃん」ときららが笑いかける。お団子の横に挿していた花を外して、代わりにあこの髪に挿す。急にきららの顔が近づいて来て、胸の奥がまたきゅんと跳ねた。
「これからあこちゃんと一緒に行きたいところがあるんだけど、来てくれる?」
 真剣なきららの瞳に見つめられて、目が離せなくなる。あこはただ、手を引かれるまま部屋を出た。

 *

「はい、あこちゃんどうぞ!」
 ホテルの正面玄関まで来ると、きららからそれが手渡された。
「何ですのこれ?」
「なにって、きららのアイマスクだよ。今日沖縄までの飛行機の中で寝る時に使ったんだけど」
 確かにそれはどこからどう見ても、羊のキャラクタープリントが可愛らしいアイマスクだ。ただ、それをいきなりここで渡される意図は分からない。
「それで、これをどうしろといいますの?」
「あこちゃん、アイマスクは目に付けるものだよ?」
「アイマスクの使い方くらい分かりますけれど!」
「うん、だから付けて。これから素敵な場所に行くから、きららが言うまで外しちゃ、メェ~ッ!だよ」
 きららはそう言ってあこにウインクして見せる。要領を得ないものの、ひとまずその言葉に従ってアイマスクを付けた。
 しかし、視界が遮られた状態というのは想像以上に心細かった。きららはゆっくりと歩いてくれたが時々ちょっとした段差などがあって躓いたし、進行方向が変わるだけでも動揺した。
 だからだろうか。いつも以上に五感は研ぎ澄まされた。例えばきららの手のひらの温度や、何度も何度もあこの方を振り向いて様子を伺ってくれている気配、優しい息遣い。それらがダイレクトに伝わってくる気がする。どこに行くのか分からない状況なんて、普通はもっと恐ろしく感じるはずなのに、不安はあるのに、それでも大丈夫だと信じていられるのはどうしてだろう。

 やがて、潮の香りが一段と強くなった。波の音がすぐそこに聞こえてきたところで、きららは歩みを止めた。
「あこちゃん、着いたよ。アイマスク外して」
 言われた通りに視界を開放する。
 目に飛び込んできたのは、満点の星空だった。高いビルや建物のない、どこまでも広い紫紺の空に無数の星がひしめきながら輝いている。
 また、その下には空と同じくらい広い海がある。頭上とそっくり同じ数の星々を水面に映したそれは、きらきらときらめいていた。まさに360度、視界の端から端までどこまでも続く星空がそこにはあった。
「すごい……本当にすごいですわね……」
 あこはその光景にただただ見とれながら感嘆のため息をつく。 
「ひみつのプラネタリウムに、ようこそ」
 きららが悪戯っぽく笑いながら言って、あこに手を差し伸べた。
「な、なんですのもう……」
 そう言いながらもその手を取った。なんてロマンチックなシチュエーションなんだろう。
「ほんとに晴れててよかったぁ。どうしてもどうしてもあこちゃんと一緒に見たかったから」
「あなた、前からここを知っていましたの?」
「うん、ロケのスタッフさんを通じて、ホテルの近くでいっぱい星が見られるところを聞いておいたの。ほら、あそこがさっきまでいたホテルだよ。すぐ裏手にこんな素敵なビーチがあってよかった~」
 きららの言う通り、海岸の向こうの防砂林を兼ねた木々のすぐ奥にホテルの建物が見える。視界を奪われていたのでかなり歩いたようにも思ったが、案外近くだったんだとぼんやり思った。そしてそれよりも気になったきららの言葉について聞いてみる。
「どうしても見たかった、ってどういう意味ですの?確かにこんなに素敵な星空見られたのは嬉しいですけれど」
「それはね……」
 言いながら、きららは少し目を伏せて、あこの手を取ったままで、片足を立ててその場に跪いた。
「〝この無数の星々に、そして私共を見守ってくださる主に誓いましょう。この愛が本物であることを〟」
「そのセリフ……!」
 紛れもなく、あこが幼い頃に憧れたセリフ、王子が初めてのキスの前に姫に言ったそのセリフだった。胸の奥が急速に甘酸っぱく疼いていくのが自分でも分かる。
「えへへ。小春ちゃんに教えてもらったんだ。セリフはこれしか覚えてないんだけど」
「え……?」
「あこちゃんの憧れの素敵なファーストキスをプレゼントしたくって。クリスマスじゃなくて、教会の前でもなくてごめんね?だからせめて、お星さまがいっぱいのところがいいなぁって思ったんだ」
 言いながら、きららがゆっくりと立ち上がる。目線の高さが等しくなって、星空を映したきららの瞳が同じものを映しているあこの瞳を捉える。
「ファーストキスって……あの時わたくし、嫌だって、そう言ったじゃありませんの……」
「じゃあ、あこちゃん、きららのこと嫌い?」
 あの日と同じ問いだった。きららはあこがそれに答える前に言葉を続ける。
「きらら、知ってるんだ。あこちゃんはあまのじゃくだけど、本当はちゃんときららのこと、すきでいてくれてるって」
「……とんだ自信家ですのね」
「きらら、目の前の人がきららのことすきなのかきらいなのか、なんとなく分かっちゃうんだよね。あこちゃんはきららのこと、きららと同じくらい、すきでいてくれてると思うんだけど」
 自信に溢れた笑顔。でもその言葉も表情もいかにもきらららしくて、あこは何だか納得してしまう。
 きららはフィーリングで行動する、自由なアイカツでスターダムを駆け上がってきたアイドルだ。それを成し得るためには目の前の相手、例えばファン達が自分に求めていることや、自分をどう思っているかを察知することに長けているのは当然だろう。
 それにきららの言葉は、実際に間違っていないのだから。あこは観念したように言葉を吐き出す。
「嫌いなはずありませんでしょう?でなければ、一緒にWミューズをやるわけありませんもの」
きららは満足そうに笑って、更に質問を重ねた。
「それなら、キスは?きららとキス、したくない?」
「っ……」
 言葉に詰まった。
 どうしてそんなに意地の悪い聞き方をするのだろう。すぐに答えの出ることなら、あこだってこんなに悩んだりしないのに。
 確かにきららのことを好きだと思う。思うけれど、それがキスをしたい好きかと言われれば、どうだろう。
 いや、考えてみればそれもおかしい。
 あこは理想の王子様たるすばるとキスをするのだから、答えなんてすぐに出るはずではないか。これまでのあこなら即答していたはずだ。
「きららは、あこちゃんとしたいよ……キス」
 呟くようにそう言うと、きららは急に余裕がなさそうに目を伏せた。
 赤く染まった頬、震える睫毛、こちらにまで伝わってくるような心音、薄っすらと赤く染まっている耳朶。
 あの日見せたのと同じ、恋する女の子の表情。
 自分で言ったキスという言葉で、あことのそれを想像してしまって、たまらなくなっているとでも言うような表情。
 きららは紛れもなく、あこに恋をしている。
 さっきまでの自信たっぷりな口ぶりはどこへやら。でも、そんなきららを見ていると、あこの中に、あのキスを拒んだ日と同じように、急速にまたその感情が湧いてくる。自分でもよく分からなくて目を背けた気持ち。
 なんて可愛いくて、愛しいんだろう、と。
 それをようやく自覚して、あこは目を見開いた。
 まさか自分がきららに抱いている〝好き〟が、こんな〝好き〟だったなんて。
 あこちゃんはきららのこと、きららと同じくらい、すきでいてくれてると思うんだけど。
 さっき、きららはそう言った。
 それはやはり全くもって正しかったのだ。あこが自分でも気付いていなかった感情を、きららは既に感じ取ってくれていた。
 それならば信じたほうがいいのだろうか。
 きららがゆっくりと近づいてきて、あこの指に自身のそれを絡ませる。うるさいくらいの鼓動が指先を通じて伝わってくる。
 いや、きららだけではない。あこの心臓だって張り裂けんばかりに高鳴っていた。潮風に混じってきららの香りがする。吐息があこの顔にかかる。
 満天の星空の下、憧れた舞台のセリフを囁かれ、だいすきなひとに唇を捧げる。それは紛れもない、〝あこの理想のファーストキス〟ではないか。
 これを受け入れたら幸せになれるのだろうか。
 あこはゆっくりと瞳を閉じる。
 だがその時、脳裏にその声が蘇ってきた。

『いかないでくださいな……わたくしをおいていかないで……』

 夢の中、瞳に涙を溜めながらそう訴えかけていた、幼い自分自身の姿。
あこは思わず息を飲んで目を開いた。
 嫌だと思った。
 それはきららを嫌だというのではない。これまでの自分とさよならすることが、いつか王子様と、すばると素敵なキスをしてみせると立てた自分の誓いを裏切ることが、嫌だった。
 四ツ星学園に入学して、この2年で随分変わった。女優として、アイドルとして。
でもそれはすっかり変化したというよりは、基本的な早乙女あこという人間性はそのままに大きく成長した、というのが正しい。
 しかし、今あこに迫ってきているのは価値観の変化だった。
 今まで正しいと思っていた、『恋』というものの認識、価値観。それが全く違うものにすげ替えられるような気がして、とてつもなく怖い。
 今まで通り、すばるといつか結ばれる未来を夢想していられれば、どんなに楽でいられただろう。
 そう思うのは、既に自分が変わっていってしまっているのを自覚しているから。きららを愛しいと思うこの感情が、嘘なんかではないと気付いている自分がいるから。
 それでもまだ、最後の一歩を踏み出すのが、怖い。胸の中をグルグルと色んな思いが駆け巡っていく。どうしようもなくなって、あこは俯いてしまった。
 あと少しで触れ合ったであろう唇と唇は、またすれ違ってしまう。
 夜の風がすり抜けていった。あこの胸中を映し出すかのように、心なしか海もざわざわと音を立て始めている。
「あこちゃん……」
 頭上できららの声が寂しく響いた。
 先程まで熱っぽく絡んでいた指がするすると解けていく。きららはそのまま一歩、二歩と後ずさりながらあこから離れた。
 その足元から水を踏む音が聞こえる。いつの間にか波がすぐそこまで寄せてきていた。
「やっぱり、きららじゃだめだったんだ……」
「それは……!」
「ごめんね、きらら、あこちゃんのこと全然わかってなかったんだね。そうだよね、きらら〝お断り〟だったんもんね……」
 ひどく傷ついたような顔。表面上の自信たっぷりな表情に隠れて見えなかった、恋する女の子の不安げな瞳が、さざ波のように揺れている。
 きららはまた一歩後ろに下がって、その足首を波が掠めていった。
「ちがいますの、わたくし……」
 ふるふる首を振ってあこはきららに手を伸ばすけれど、今いる場所から動けない。
 あと一歩を、踏み出せない。

 その瞬間だった。
 先程よりもかなり大きな波が打ち寄せたかと思うと、きららの足を攫った。後ろに倒れ込んだきららは波に全身を打たれてしまう。
 そしてもう一度、今度はもっと強い波がこちらに流れ込んできて、その身体を一気に飲みこんだかと思うと、水の中にきららをずぶりと引き込んでいってしまった。
 あまりにも突然の出来事だった。
 考えるより先に身体が動いていた。さっきまで進めなかったあこの足は、即座に砂浜を蹴っていた。
 きららの手首を掴む。しかし波の勢いは強く、二人を諸共に飲み込んで、その身体を沖の方に向かって強く引き込んだ。
 水中で前後不覚になってしまう。耳や鼻に水が入ってきて苦しい。どんどんと波に流されていってしまう。
 これは何だ?何が起きているのだ?一体どうすればいい?カタカタカタとあこは必死に脳内ベースを稼働させる。
 すぐさま弾き出したのは、以前、水難事故啓発ムービーのドラマパートに出演した時に勉強した時の知識だった。その時、あこは自分の年齢で取れるライフセービング関係の資格を全て取得している。
 今あこ達を攫った強い波、これは恐らく離岸流だ。
 岸から沖に向かう流れの速い波で、突然見舞われれば競泳選手であったとしてもその流れに逆らうことが出来ない程だという。どこの海岸でも突然起こる可能性があるこの現象は、水難事故の大きな原因の一つとなっていた。
 離岸流の水流の幅はせいぜい10m前後のはずだ。流れに逆らうことは難しいけれど、水流の帯から反れれば抜け出せるし、まだ対処のしようもあるというものだ。
 あこはやっとのことで波間から頭を出して一度呼吸をすると、きららの手を握り直して、流れと垂直になる方向に足を蹴った。
 出来るだけ少ない力で進めるようにしっかり手で水を掻くけれど、なかなか前に進まない。きららは突然のことにパニックになっているようで、もごもごと手足を激しくばたつかせている。
『だめですわきらら。落ち着いて、力を抜いて進むんですのよ!』
 そう伝えたいけれど、とても声なんて出せる状況ではない。一度呼吸が出来たあことは違い、まだ水面に顔を出せていないきららは、どんどん苦しそうにもがいてしまっていた。波を抜けて呼吸をしなければ。 
 繋いだ手の先がずっしりと重たく感じる。
 でもこのまま離すなんて出来るわけがない。
 きららが流れに攫われてしまうのを許すわけにはいかない。
『もう少し、もう少しですわ!』
 
 何とか強い水流から逃れられた時、傍らのきららが大きくあぶくを吐くのが見えた。どうやら限界を迎えて水を飲んでしまったようだった。その身体が力なく沈んでいく。
 そう、沈んでいく。
 その様子は普通ではなかった。
 急いでその顔を水面に出したけれど、きららはぐったりしていて、体にまるで力が入っていないようだ。これはかなり危険な状態かもしれない。
 速く岸に戻らなければ。
 つま先が海底に触れた。ギリギリ足が着きそうだ。
 あこの早い判断が功を奏し、幸いにもまだここは浅瀬だった。これなら何とか戻ることが出来そうだ。
 あこはきららの腕を自分の肩にかけ、何とか前へ前へと進んだ。

 どうにか岸まで辿り着いて、きららの身体を仰向けに横たえる。
「きらら、大丈夫ですの?……きらら!!」
 肩を叩いて呼びかけるが返事はない。
 口元に耳を寄せるが、呼気も感じ取れなかった。
 意識も、呼吸もないことが確認される。
 心肺停止。頭を過ったその単語はあまりにも日常からかけ離れている言葉で、現実味がなかった。
 しかし暗くてその顔色がよく分からない中でも、きららが生気を失っているのは分かる。
 これは、現実なのだ。まごまごしていては本当にこのまま終わってしまう。
 あこはすぐさま心臓マッサージを始めた。
 胸骨圧迫は1分間に約100回のペースで、腕をまっすぐに伸ばして、しっかりと胸が沈み込むように。それを絶え間なく30回繰り返す。
 ライフセービングの講習で人形を相手に何度も練習したことだ。実際に人にするのなんてもちろん初めてだったが、とにかく出来ることをするしかない。
 どうか目を開けて欲しい。ただただそう思った。
 きららを失うなんて、ありえない、絶対に。
 今回の撮影が形になるところだって一緒に見届けたいし、いつも一緒に出演するレギュラー番組でだって、二人でこれからやりたいことをたくさん考えてある。
 今度Wミューズとして出るステージだって決まっている。もっとファッションやデザインの話だってしたいし、一緒においしいお菓子だって食べたい。
 それから、それから。
 可愛らしい甘いトーンのあの声で名前を呼んで欲しい。ついつい生真面目にイライラしてしまう自分の手を取って「大丈夫だよ」って笑っていてほしい。
 そして、ついさっきのように熱っぽい瞳であこを見つめて、抱きしめたりもしてほしい、そんな考えまで過って、そこで初めて気付いた。
 あこはもうとっくにその気持ちを受け入れていたのだ。
 心臓マッサージの後は人工呼吸だ。きららの額に手を当て、顎を持ち上げて気道確保する。
 迅速に、でも落ち着いて、カタカタカタと脳内データベースから記憶を取り出す。
 口腔内に血液や嘔吐物などがないことを確認してから、1秒間かけて自分の呼気を傷病者の口に吹き込む、というのがその方法だ。
 一瞬、きららの唇に目が留まった。いつも血色のいいきれいなそれが、今は青白く沈んだ色をしている。
 ああ、自分は本当に馬鹿だったな、と思った。
 ファーストキスにあんなに拘って、その上、自分の恋愛観が変わってしまうのが怖いからと、歩み寄ってくれたきららを拒んで。
 本当に馬鹿だった。
 自分の唇を守るなんて、そんなちっぽけなこと、どうだっていい。今、何よりも、世界中のどんなことよりも怖いと思うのは、花園きららを失ってしまうことだった。
 あこは自分の口できららのそれを覆い、たっぷりと息を吹き込んだ。

 *

 次の日の朝、カーテンの隙間から真っ白な光が入ってきて、あこは目を覚ました。
ゆっくりと身体をおこして、ああ眠ってしまったんだと思った。
 そこは病院の個室のベッドの上だった。うーんと言いながら背筋や腕を伸ばして深呼吸すると、病室特有の匂いで肺が満たされていく。
 部屋には他に誰もいない。立ち上がってカーテンを開けると、明るい南国の朝陽が飛び込んできた。
 まるで昨日のことなんて、夢の中の出来事だったのではないかと思う程に。
 しかし、確かにそれはあこときららの身にふりかかった現実だった。思い出して鳥肌が立った。あの波の恐ろしさが、まだ生々しくあこの体に残っている。
 昨夜、あの後、何度か心臓マッサージと人工呼吸を繰り返し、きららは無事に呼吸を再開した。
 そしてたまたま海岸を通りかかったカップルがあこ達を見つけ、119番通報してくれたのだ。
 一緒に溺れたにも関わらず、きららを助け、応急処置までしたあこの疲労はピークに達していたが、まだ意識の戻らないきららのことが気がかりで、病院に着いてもきららに付いていようとした。
 それをベテラン看護師に止められ、「あの子が目を覚ましたら、夜中でも真っ先に呼びに行くさー」と琉球訛りでそう言われて説得された。
 それで仕方なく自分に用意されたベッドに入ると、自分の意に反して、すぐに寝入ってしまったのだ。
 看護師はまだあこを呼びには来ていない。
 ということは、まだきららは目覚めていないということなのだろうか。それって大丈夫なのか。もしこのままきららが目覚めなければ、どうしたらいいのだろう。いてもたってもいられなくて入口の方に向かう。
 扉を開けようと手を掛けると、向こう側の誰かが一足先に扉を開けた。
「あなた……!」
 そこにいたのは、昨日のベテラン看護師だった。その顔には明るい笑顔が浮かんでいる。
「ああよかった起きてて。昨日約束した通り、ちゃんと呼びにきたさ。あのこ、ちょうどさっき目を覚ましたんだよ!」
「ほんとですの!?」
 看護師は力強く頷く。あこは彼女から病室の場所を聞くと弾かれたように出ていった。
 きららのいる部屋は、あこのいた部屋を出てすぐの渡り廊下を横切ったところだった。その扉からちょうど医師と看護師達が出てこようとしている。
 あこが駆け寄ると、医師達もそれに気付いて微笑んだ。
「無事に目を覚ましましたよ。意識もかなりはっきりしてますから、この後、念のため検査は受けてもらいますが、異常なければ退院できますよ」
「本当に、本当にありがとうございました」
 あこは深く頭を下げる。医師たちが行ってしまってから中に入った。
 そこには、先に今回のロケのプロデューサーとフワフワドリームのブランドオーナーが来ており、ベッドの上で半身を起こしているきららと話している。
「あこちゃん!」
 きららがあこに気付いて弾けるように顔を上げた。続いてプロデューサーとブランドオーナーも振り返り、あこの方に駆け寄ってきた。
「あこちゃん、本当に無事でよかった。あこちゃんがいなければどうなってたか……今もそのことを話していたの」
「本当に、僕ら大人は何にも出来なくて、すまなかった」
 涙ながらにそう言う二人に、あこはふるふると首を横に振る。
「いいえ。わたくし達が夜遅く勝手に抜け出したんですもの。本当にご迷惑おかけして、申し訳ございませんでしたわ」
「あこちゃん……」
 ブランドオーナーの瞳から一筋の涙が零れ落ちる。
「とにかく無事でよかった。今日の撮影は中止にして、二人にはもう少し休んでもらって。その後、大丈夫そうなら予定通り夕方の飛行機で帰ろう」
 プロデューサーはあこの肩に優しく手を置いて言う。
「でも、それでは撮影は……」
「いいんだいいんだ、昨日だけでも随分良い画が撮れてるから、もう十分だよ。アイドルだって誰だって、身体が一番大事なんだから、休むことを考えるんだ」
 彼はそう言って白い歯を見せて笑った。
 この人がプロデューサーで本当に良かったと、あこは心から思った。
「それじゃ、他のみんなにも連絡してこよう。ブランドオーナも、行きましょう」
「そう、ですね……。私達がずっと側にいても気が休まらないでしょうし。ごめんなさいね。もちろん検査前の立ち合いの時には、保護者代わりとして来ますからね……!」
 二人が出ていって、部屋の中にはあこときららだけになった。あこはきららの側に走り寄る。
「きらら、本当に、よかったですわ。わたくし、わたくし……」
「あこちゃん……」
 こうして再びきららの声を聞けるようになったことが、この上なく嬉しい。じんわりと目頭が熱くなってくる。
 しかしそれとは対照的に、きららの表情は辛そうに歪んだ。
「あこちゃん、あこちゃん、きらら……」
 その丸い瞳は右へ左へ揺れて、そして大粒の涙がポロポロと零れ落ちる。
「どうしましたの、きらら?どこか痛いところでもありますの?もう一度お医者様に来ていただきましょうか?」
 すぐさまナースコール機を見つけて伸ばしたあこの手をきららが遮った。
「違うの、そうじゃなくて、そうじゃなくって……」
 きららの涙は頬を伝って顎までたどり着いて、そこで大きな粒になってから、ポタポタと入院着や掛布団の上に落ちていく。
 先程プロデューサー達がいた時は、まだ完全復活とはいかないものの、すっかりいつもと変わらない顔をしていたのに。一体どうしたんだろう。
「きららね、さっき聞いたんだ。溺れたとき、あこちゃんが助けてくれたって。あこちゃんが応急処置をしてくれたって。それがなかったらかなり危ない状態で、ドクター達もすごく褒めてたって……」
「ええ。そうですけれど、当然のことですわ。わたくしはわたくしに出来ることをしたまでのことですもの」
「でも、でも……人工呼吸、してくれたんでしょう?」
「そうですけれど……それがどうかしましたの?」
 あこの返事を聞いて、きららは息を飲んだ。同時に瞳には更に新しい涙が溢れてくる。
「あこちゃん、きららとキスするの嫌だったのに……なのに……!きららのせいであこちゃんの理想のファーストキス、台無しになっちゃった……!」
 きららはあこの唇を指でなぞる。まるで自分の痕跡を拭い取るかのように、その顔を罪悪感でいっぱいにして。それからとうとう声を上げて泣き始めた。
「うっ、うっ、うわぁあああっ、うわぁああん」
「ちょっと、きらら、落ち着きなさいな」
「うあああっうわあああんっ……だってきららっ……」
 理想のファーストキスだなんて、そんなこともうすっかり頭になかったのに。でもきららはこうして泣いてくれるのだ、あこのために。
 気付けばあこの瞳からも、熱い涙が零れ落ちていて、一筋流れると次から次へと溢れ出してくる。
「ほんとに、ほんとに、そんなことで泣くなんて、仕方のない子ですわね……っ……ぐすっ……」
 急いで自分の涙を拭いながらそう言うと、あこはきららを抱きしめた。慟哭しながら震えるその背中を慈しむように撫でる。
「あこちゃ……っ」
「きらら、わたくしの話、聞いて下さらない?」
 そう言って、あこはきららと視線を合わせた。あこのその眼差しは、ひどく優しい。
「わたくし、気付きましたの。どんなに素敵なファーストキスが出来ても、あなたがこの世にいなければ、何の意味もないということに」
「あこ、ちゃん……」
「あの時、あなたが息をしていなかった時、わたくし本当に怖くて、気がどうにかなりそうでしたわ。理想のキスなんてどうだっていいって、心から思いましたのよ」
「あこちゃん……」
「あなたがいてくれれば、それでいいんですの。あなたとなら、いつでも、どこでも、それが何回目だって、きっと素敵なキスが出来ますわ」
「それって、きららでいいってこと……?」
 きららはまだ不安そうにあこの顔を伺っている。
 改めて聞かれると、気恥ずかしさが膨らんできてしまって困った。
「た、だから、そう言ってるでしょう?あなたとしか、しませんわよ……」
 言葉はどんどん尻すぼみになって、最後の方はほとんど蚊の泣くような声になってしまう。
 顔が熱くなってきたのを自覚して、あこは慌ててそっぽを向いた。そんなあこを見て、きららはようやく微笑んだ。

 しばらくして、涙を拭ってようやくいつもの顔に戻ったきららが、少し悪戯っぽく上目遣いで聞いてくる。
「ねえあこちゃん、本当に、きららとならどこでしても素敵なキスになる?」
「うっ……なんですの……本当、ですわよ」
「えー?ほんとにほんと?」
「なんですの、その言い方。わたくしの言葉が信じられませんの?」
「そういうわけじゃないけどー。でもそれなら、今ここでしたいな、キス」
「なっ!?」
「ねえ、いいでしょ?」
 本当にすっかりいつもの調子のきららだ。
「まったく、調子がいいんですから……病院なんですのよ、ここは」
「ふふふ。ね、キスしよう、あこちゃん」
 ため息をつきながらも、あこはきららに顔を寄せる。
「……1回、だけですわよ」

 窓から入ってくる朝の陽射しが、二人を眩しく包んでいる。唇と唇が優しく重なった。
 その瞬間にあこは確信する。きっと何回目のキスだって、こんな風に幸せで、満ち足りた気持ちになるであろうことを。

Fin.

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