七夕

さあさあと雨が降り始めた頃に、同居している人が戻って来た。

表の方でガチャガチャと鍵が開く音がして、リビングで勉強していた譲介は顔を上げた。
扉の開閉の音がして、彼が年がら年中着ているコートとぴったりしたブーツを脱ぐ音が聞こえてくるので、誰何の必要はないと判断する。
帰宅は明日になると言っていたはずだ。
ローテーブルから立ち上がり、玄関まで出迎えることはせず、おかえりなさい、と譲介が言うと、おう、と挨拶代わりに返事が返って来る。譲介は彼のためにコーヒーを沸かす準備をしながら、夕食の支度はどうしようかとふと考える。
今日のような週末、譲介は彼が家にいる日のようなタイムスケジュールで動くことはない。
食事の支度はするが、勉強のキリがいいところで終えて外に買い出しに行く予定だった。レトルトのカレーの他に何か生活必需品が必要であれば、冷蔵庫の横に書いておけばなんとかなると彼は言うけれど、メーカーを指定せずに依頼すると、香料の匂いがキツい洗剤や家族向けのイラストが描かれているシャンプーなどが補充されることになるので、このところの譲介は人任せを止めて彼が置いていく金のいくばくかを財布に入れ、最近出来たドラックストアに出掛けることにしていた。
コーヒーメーカーにフィルターと豆の粉をセットしながら、さて、と譲介は思う。
期末テストが終わったばかりで翌週からの授業範囲の予習を終わらせるつもりだった。今から彼と食事を摂り、準備を始めて彼の点滴をしている間にノートを見せ不在の間に起ったことを手短に話すと、どう時間を巻いたところで十時近くにはなるだろう。まあ明日は週末か、と考えているうちにあの人がリビングへやって来た。
「メシは?」
「まだです。」と譲介は言うと、ドクターTETSUはそうか、と言った。
普段であればこうした日には自分の分の食事と譲介の翌日の朝食の分にするためのカレーを買って来る。その日が今日のような悪天候であればなおさらだ。それがどういう風の吹き回しか、カレーを食べに行くかと言う。
「今からですか?」と譲介が言うと、「オレが連れだとご不満か?」と悪そうな顔で軽口をたたく。
今日は機嫌と調子が良さそうだと譲介はホッとした。
いや、この人の場合、内心はそうでなくとも、腹の中身を隠せるくらいには余力がある日なのだろうと言い換えてもいいのかもしれなかった。
有無を言わせない声で、支度しろ、と彼は言う。
出掛ける準備と言っても、譲介の用意はただ雨避けのパーカーを羽織るだけだ。


息抜きのつもりだろうか、彼が車を出した先は譲介が良く買い物をするスーパーマーケットやドラックストアがあるのとは駅を挟んで反対側にある商店街だった。
「………なんだぁ?」
彼が怪訝な顔をして混雑した駐車場の隙間にいつものハマーを停めると、辺りの細い路地には、浴衣を着た人がこの時間にもぽつぽつと行き来をしている。譲介はふと、今朝登校する前に見ていた天気予報を思い出した。
「七夕だと思います。」と言うと、TETSUは譲介に向き直ることはせずに、ああ、と言い、傘を手に歩く浴衣のカップルや家族連れが多い中、居心地が悪そうな顔でがりがりと頭を掻いた。
「雨だってのに、なんだってこう物好きが多いんだよ。」
誰を向いて言っているのか分からないその独り言に、雨天では織女と牽牛が会えないくらいの知識がこの人にもあったのかと譲介は思う。
店はこの先だ、と言うので、譲介は、七夕飾りで仰々しくデコレーションされた通りを、不機嫌を全く取り繕えていない顔になってしまった保護者と並んで歩く。初めて来た商店街は妙に店が多く賑わっていて、今夜のTETSUに剣呑な雰囲気はないものの、譲介は店の名前くらいは聞いておけば良かったと思う。
小止みになった雨が、商店街のアーケードの天井を叩く音が聞こえる中を歩いていると、ふと、視線の先に、七夕の短冊を飾ろう、という垂れ幕が掛かった一角が見えて来た。
短冊を引っ掛けやすい節や葉が多い背の高い笹竹がいくつか並んだ横に、学校で良くあるような四角い机が並び、マジックで短冊を書くスペースが出来ていた。
学園に居た頃、何度かああした、ピンクや青、緑と言ったカラフルな短冊にマジックで願い事を書いた記憶がある。名前は忘れてしまったが、夜の間に短冊を引きちぎった子どもが出てからはやらなくなってしまった行事だった。親に逢いたいとか、手に入りもしないものが欲しいと書く短冊の多いのが癪に触った記憶はあっても、自分が何を書いたのかは覚えていない。
譲介の視線に気づいたのか、「アレで何か書きてえのか?」と隣を歩く彼が聞いて来た。
こうしたセンチメンタルな行事を鼻で笑いそうなタイプだと思っていたので、譲介はふと彼の方を見た。
書きたいなら好きに書けという雰囲気だけなら譲介も腹が減りましたのひとことを伝えれば済むというのに、彼はお節介にも机と笹のある方へとずんずん進んでいく。
五分待つからその間に書け、と言い置いて、彼は笹竹から結び目が解けてひらりと落ちた短冊をその大きな手で掬い上げて、誰も取れないような高みに縛り付けている。笹竹が設置される前に横倒しにして結んだのか、彼の視線に合う高さにも、いくつかの短冊が結ばれていた。
カラフルな短冊を眺めていた彼が、ふと口元を緩めたのが見えて、譲介は慌てて彼から視線を逸らした。
短冊を前にして、天に託してまで叶えたいような願いがあるかと言えば、今の自分には何もない。
手に余るような願い事を、もう書きたくはなかった。
これまでに叶えたい願い事があっても叶った試しはなく、自分で叶えられることが出来そうな願いならば、心の中に置いておく方がいい。
譲介は悩んで、大学に合格しますように、と書いた。
「誰も見ないような高い場所に結んでください。」と短冊を手渡す。
「どこに行きてえのかも誰が願ったかも分かんねぇと、アッチが困るだろ。」
TETSUはそう言って、学校関係の書類を出す時のかっちりした字で、短冊の余白に帝都の二文字と譲介の名を書いた。
これでいい、と差し出された短冊を見つめ、これでは僕の願いではなくあなたの願いになってしまった、と譲介は思う。
それでも、年長者の気遣いに水を差したくはなかったので、譲介は笑って、吊るしてください、と言った。
彼がその器用な指先で七夕の笹に短冊を結ぶ姿を、譲介は一幅の絵を見るように眺めた。
行くか、と彼が言った途端、アーケードの外から、急にバタバタという雨音が聞こえて来る。
アーケードが途切れるところが見えて来た。
宵闇の先の本降りの気配に、譲介がポケットに入れた小さな折り畳み傘を出そうかどうしようかと決めあぐねていると、彼は「そこの店だ。」と言って、数メートル先の店の二階を指差した。
よくインド料理店に見られる色調で縁飾りがされた看板を見つけた譲介は、傘をポケットに引っ込め、手を出した。
店の一階は携帯電話のショップで、インド料理屋のメニューの看板が出ているところを見ると、まだ営業中らしい。
現金なことに、食事が出来ると思うと、妙に腹が空いてくる。
隣を見ると、同じことを考えたらしい様子でこちらを伺っていた人と目が合った。
何も難しく考える必要はなく、この人が普段僕に叶えてくれている願いを書けば良かったのか。
ふと譲介はそんな風に思う。
雨の日だろうが晴れていようが、カレーが食べたいという小さな願いは、気が付いた時にはもう叶えられている。
その贅沢。
僕が彼に返せるものは、今はまだ何もないのだから、期待のひとつくらい受け止めればいい。
「腹が減って来ました。」と譲介が言うと、TETSUは、何でも頼め、と言って小さく笑った。

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