トラファルガー・ローが死んだ日 ※R18
トラファルガー・ローが死んだ。
その趣味の悪い冗談のような一報が一味にもたらされたのは、明け方の五時を過ぎたところだった。ハートのクルーが鳴らした電伝虫とったのは、朝食の下拵えをしていたサンジだった。冬気候の寒い海域を通っているときで、冷えたキッチンは吐く息まで白かった。
「はい、まいどこちらクソレストラン」と軽口を叩いて電伝虫とったサンジは、覚えのある声が震えていることにすぐに気がついた。ハートのペンギンだと名乗った男は、揺れる声を奮い立たせるようにして、麦わらを出してほしいと言った。サンジは瞬間的に嫌なものを感じ、まだ深い眠りについているルフィの元へと走った。
眠ぃと目を擦るルフィを叩き起こし、ハートのクルーから緊急の通信が入っていることを伝える。ルフィはサンジのただならぬ気配を感じ、一段声を低くして、何があった、とサンジに聞いた。いい報せではないだろうと言いかけたが、口にはしなかった。代わりに、キッチンで出ろと言ってキッチンまで案内し、電伝虫を渡してからキッチンの扉を閉めた。
その頃には一味が集まってきていた。フランキーが、どうした、と聞く。サンジは今度こそ答えた。
「よくねぇ報せだ」
一番最後にやってきたゾロが、一味の最後尾でサンジを見ている。サンジはもう一度腹の中でゾロへと向かって繰り返した。
(よくねぇ報せだ、クソ野郎)
ルフィは、随分と長い間ペンギンと話していた。漏れ聞こえるルフィの声は、最初から最後まで低く冷静で、ただの一度も声を荒げることはなかった。何があったのかを伝えるペンギンが、時々耐えきれないというように、悲痛な声をあげていた。
会話が終わると、ルフィは場違いなほど鷹揚な声でゾロの名を呼んだ。全員が最後尾に立つゾロを見遣った。ゾロは驚いたように隻眼をわずかに見張ったあと、ルフィの声と同じくらいゆったりとした歩調で一味の間を抜けてやってきた。そしてサンジへと一瞥もくれずにキッチンのドアを開けて中へと入った。扉が閉まるわずかの間、ルフィはゾロを見上げて一言二言声をかけた。ゾロが頷き、わかったとだけ答える声が、閉じたドアによって遮られる。瞳の見えない横顔からは些かの感情も読み取れなかった。
ややあって、ルフィだけがキッチンから出てきた。場所を移そうと言うルフィの言葉に従い、一味はアクアリウムバーへ集まった。一味に対し、ルフィはペンギンから聞いた顛末を話した。トラファルガー・ローが死んだこと。遺体は一部しか残っておらず、ほとんどが爆散してしまったこと。ローの命を奪ったのは、ローの治療を受けていた子どもが身につけていた爆弾であること。治療中であったために、ローの眼前で爆発したそれを避けることができず、飛散した爆発物によってハートの一味の中にも負傷者が出ていること。子どもが誰に送り込まれたのかは今のところわからないこと、もし首謀者がわかったらハートは何を持ってしても相手を殲滅させるつもりであること。ルフィの飾らない言葉で語られた伝聞は、淡々とした語り口であるがゆえに事態の深刻さをこれでもかと思い知らされた。
トラファルガー・ローが新世界で果たしていた役割は大きく、白ひげ死亡ほどの影響はないにせよ、世界政府および海軍、そして海賊たちの動き方に少なからずの影響が出ることは必至だった。ルフィが話し終わるのと同時に、ナミが手を挙げた。
「わたしたちはどうするの、ルフィ」
敵討ちに出るのならば、急いで船の行き先を変えなければならない。だが、聞かれたルフィは理解できない言葉を聞いたときの顔つきで首を傾げ、「おれたちは何もしねぇ。なにかをするならそれはトラ男んとこの奴らがやることだ」と答えた。だけど、と言い募ったナミを、サンジがやんわりと止めて言葉を引き取る。
「けどよ船長。マリモはそんなわけにゃいかねぇだろ」
キィ、と蝶番が軋む音に顔を向けると、先ほど廊下で見たのと同じ表情をしたゾロが立っていた。サンジはゾロヘと目を向けたまま、ルフィへ言った。
「マリモを行かせてやらねぇのかよ、ルフィ」
「それもゾロが決めることだ。ゾロ。お前、トラ男の敵討ちしに行きてぇか」
「あ? なんでおれが。そりゃあいつらがやるこった」
ゾロは、己の刀の斬れ味と同じくらい、寄る辺もない物言いでサンジの気遣いを斬って捨てた。しん、と鎮まった空間に、ルフィが言った。
「ただし、弔いの宴はやる。サンジ、うめぇもん作れ。三日三晩飲んで食って歌ってトラ男を送るぞ」
ゾロとローが「敵船の戦闘員と船長」という関係だけではないらしいというのは、いつの頃からか仲間内では周知の話だった。実を言えば、サンジはその始まりを知らない。一味が二つに分かれて行動していたときであったのと、サンジ自身がほかに目を向ける余裕が全くなかった時期と合致していたからだった。
ホールケーキアイランドから脱出し、ワノ国で仲間に無事に会えてからしばらく経ってからのことだった。蕎麦を啜りながら、ウソップが「ゾロだけどよ」と前置いてから、一人事情を知らないサンジに、ウソップの知る限りのことを聞かせてくれた。
聞き終わったときサンジが思ったことを正確に述べるのは難しい。率直にそんなことをやってる場合かと思ったし、バカなんじゃねぇかとも思ったし、お前らがついていながらなんでそんなことになったんだとも思ったし、色恋なんぞ好きにしやがれとも思ったし、獣と呼ばれる男も所詮人の子かよとも思った。おそらくほかにも色々思ったが、もう忘れてしまった。ただ一つはっきりしているのは、「おめでたい」とか「お祝いしなきゃな」とか「よかったじゃねぇか」とか、そういう類のことは一切思わなかったということだった。
浮ついた態度を一度でも見せたら、皮肉の一つや二つ、口からついて出るのは止められまいと思っていたが、幸か不幸か、二人はそんなそぶりは一切見せなかった。ウソップに二人の関係を教えてもらっていても、サンジの目にはゾロとローは一時的な同盟関係を結んだけの「自船の戦闘員」と「敵船の船長」以外、何にも見えなかった。二人が用もなく近くに寄って立っているところどころか、個人的な話をしているところすら見たことがないままだった。サンジが知るところでは、視線を交わすことさえなかった。
それはワノ国での戦いがひと段落ついても変わらなかった。戦いで瀕死の重症を負ったゾロは、ルフィとともに長く伏せった。だが、ローは見舞いに来ることはなかった。その後二人が目を覚ましたときも、国をあげた宴が催されたときも、ローは自船のクルーとともにいた。それはゾロも同じで、ゾロはずっと麦わらの一味のそばにいた。この頃になると、サンジはウソップに担がれた可能性もあるな、と疑い始めた。それぐらい二人は、あまりにも完璧な他人同士だった。
別れの日は快晴で、太陽が海面を照らしてあちこちに光を反射させていた。海鳥が空を飛んでいる。出港前特有の高揚感が港周辺に充満していた。サンジは柵近くで海を眺めているゾロの傍へ立った。海風が長い裾を靡かせる。そこからは黄色い潜水艦がよく見えた。
「ローに何か言わなくていいのかよ」
「特にはねぇな」
そう言うと、ゾロは口の端だけをあげて静かに笑った。その瞬間、サンジはウソップが真実を語っていたことを唐突に理解した。
陸から自船へと乗り込んだローは、潜水艦の扉が閉まる直前にサニー号を振り仰いだ。ゾロはそんなローをじっと見つめていた。サンジはゾロの片目の閉じた横顔を見遣った。その表情はどこまでも穏やかで、ゾロの振る刀と同じ静謐さを湛えていた。ゾロは自分を見上げるローへと一度だけ小さく頷いた。ローは一瞬だけ目を眇め、上着を翻して仲間が待つ船内へと消えた。
それからもローとは時々新世界で出会った。とうに同盟ではないハートの連中であっても、ルフィにとってはそうではないらしく、仲間に対する態度と変わらない親しさでハートの一味と接した。船長がそうであれば自然、自船の連中も気さくに再会を喜んだ。
サンジがローを見かけるとき、大体いつもローはハートの一味の最後尾に立ち、長刀を携えてクルーを離れたところから眺めていた。ルフィやキッドと比べると、このローの姿勢は際立った特徴と言えた。上陸後の動き方をクルーに指示し終えると、ローはすっと集団から抜けて船内へ戻っていく。いつだったか、ローは陸に上がらないのかとハートの誰かに聞いたことがある。クルーは快活に応えた。
「キャプテンは能力で好きなところに行けるからなぁ。今も船内にいるとは限らない」
ローの能力はつくづくと便利だった。
ローは大勢いる能力者の中でも、個人の能力と悪魔の実の特性が不可分に結びついているタイプの一人だった。ローがオペオペの実とどうやって出会ったのかは知らない。だが、ローはその実と強い何かによって結びつき、能力者として世に立ち現れたことは確かだった。これまでにオペオペの実の能力を操る能力者が何人世に生まれたかはわからないが、その中でロー以上に能力を使いこなした者を探すのは骨が折れただろう。もしそいつらの中に海賊がいて、その海賊と比べてローに欠けている部分があるならば、海賊であり船長であるよりも前に医者たろうとする一点のみであったろう。その矜持は、海賊の本分と相反するからだった。
最後にローと会ったのは、春気候の島だった。ログを溜めるだけに立ち寄った小さな島で、入江に入ってすぐに黄色い潜水艦を見かけた。ルフィは喜びかけたが、あちらは大きな戦闘をしたばかりで負傷者も多く、それどころではないことはすぐに知れた。事態を悟ったチョッパーは鞄を持って怪我人を診に行った。ゾロも続くかと思ったが、ナミへと部屋にいると言い置いて船を降りさえしなかった。
思い返せば、ちょうどその時もサンジは晩飯の下拵えのためにキッチンにいた。船の修理も怪我人の治療もあらかた片付いた頃、ローがサニー号へとやってきた。木床に響く足音に玉ねぎの皮剥きをしていた手を止めると、普段より一際顔色の悪いローがキッチンの入り口に立っていた。目深に被った帽子の下で、油断のならない暗い色を湛えた目が二つ、サンジを見ていた。サンジは「マリモなら男部屋にいる。ほかの連中は街に出てるから一人だぜ」と教えてやった。ローは礼も言わず、勝手知ったる人の船を迷いもしないで出て行った。足取りはしっかりしていたように思えたが、キッチンに残った消毒薬のにおいがローの傷の深さを思わせた。
晩飯の時間になっても、ゾロとローは現れなかった。おそらくローの能力を使って船を降りたのだろう。こういう時でもローの能力は便利だった。
サンジが二人と顔を合わせたのは翌日の朝だった。なぜかローは麦わらの一味とともに朝食を食べることにしたらしかった。そうあることが当然のような顔でゾロの隣に座り、サンジの握ってやった握り飯を美味そうに食べた。ローはウソップとフランキーに船の修理の礼を言い、二人は快活に笑ってそれに応えた。ゾロとどこでどんな話をしたのか、来たときよりは陰鬱さの和らいだ表情に見えた。
この日の別れもいつかの時と同じだった。自船へと乗り込む間際、既視感を覚える様子でローはサニー号から自分を見送るゾロを見上げた。まるでその目に姿を焼き付けるかのように数秒ゾロを見つめてから、ローは扉の向こうに消えた。
サンジがローを見たのはこれが最後になった。 このときローは三十。ローが死ぬ半年前のことだ。
弔いの宴から数週間が経ったある夜、夕食の片付けをしているサンジのところに一味の半分ほどが集まってきた。片付けは任意参加なので、この人数が集まることは珍しい。なんとなく離れがたくて寄り集まった理由は察せられた。数時間前にハートのクルーから通信が入り、ローの遺体の回収が終わったから一度北の海へ戻ると告げられたからだった。ルフィは細かなことを一切聞かず、「わかった。また会おう」とだけ返して通信を切りかけた。慌ててナミが電伝虫をルフィから取り上げ、あちらの状況を詳しく聞いた。そして通信の終わり際、「なんだよ、おれは話すことなんかねぇぞ」と訝るゾロに無理やり電伝虫を押し付けてから一味に部屋を出るように言い、ルフィの手を引っ張って一番に部屋を出て行った。
ゾロはそこから二、三分ほどの時間、シャチと話して部屋を出てきた。それきり夕食も取らず男部屋に引きこもっている。
皿を拭く手伝いをしているブルックを除いた面々は、ダイニングテーブルを囲んでカードゲームに興じていた。金を賭けた途端、圧倒的な強さを見せ付けているナミは、ウソップが持つカードを一枚引き抜くと、弓形に唇を吊り上げて笑った。その瞬間にウソップがカードを空中へと放り投げて、やめだやめだ、と叫んだ。海賊らしくないわねぇ! とナミがウソップの頭を叩く。フランキーが散らばったカードを拾っている。チョッパーが「ナミは強ぇなぁ」と心酔したように言う。様子からしてお開きのようだった。
サンジはブルックから最後の一枚を受け取って棚の中へと片付けてから、ポケットを探って煙草に火をつけた。 カタンと靴音が鳴ったので目を遣れば、眠っていたとも思えない顔つきをしたゾロが入口に立っていた。おーゾロ、起きたか、とフランキーが陽気な声をかける。ゾロは眉間に皺を寄せたまま部屋の中へと入ってくると、煙草を吹かしているサンジの前にあるカウンターテーブルへと腰を下ろした。
「何か食わせろ」
「…今全部片付け終わったとこなんだけどなぁ。何が食いたい。酒は?」
「腹に入りゃなんでもいい。酒はいらねぇ」
まぁ珍しい! とナミが叫んでも、ゾロは煩わしそうな顔のままだった。ブルックが「そろそろお暇しましょうか」とみんなに水を向ける。異を唱える者は誰もおらず、風呂空いてるかなぁ、などと言いながらキッチンを出て行った。
話し声と足音が完全に聞こえなくなるまで待ってから、サンジは言った。
「お前、気を遣われてるんだぞ。ありがたく思えよ」
「あ? おれの何に気を遣う必要があるんだ」
「それがわからないほどバカに落ちぶれたわけじゃねぇだろ。おれには必要ねぇが、ほとぼりが冷めたらみんなに礼の一つくらい言ったってバチは当たらねぇぞ」
言いながら、いつほとぼりが冷めるんだと思った。そもそも何をもってほとぼりが冷めたと言えるのか。
言ってしまえば、麦わらの一味にとってトラファルガー・ローの死は「敵対組織の船長の死」以上の意味を持たない。それ以外の意味を持っているのはゾロだけだ。しかもそれだって、一味とは無関係の極めて個人的な理由に過ぎない。
大体にして、知った顔がどこかで命を落とすなんてことは日常茶飯事なのがこの海だった。当然それは、罷り間違えば自分もまたその一人になる可能性を孕むものであり、強大な敵とぶつかるたびにその確率は上がった。自分が今そうなっていないのは、ただの偶然だった。一つひとつの死に特別な意味を持たせようとするには、この海はあまりにも不向きだった。
吸い終わった煙草の火を消し、もう一本に火をつける。こういう時、煙草は便利だった。沈黙の理由を探さなくて済む。
「…ほとぼりってどうやったら冷めんだよ」
ゾロが呟くように言った。フッ、と短く煙を吐く。思考までボケていれば多少の可愛げもあるが、サンジの失言を流さない程度には死んでいないようだった。つくづく可愛げがねぇなと内心で毒づきながら、それでも己の失言を認めてやる気も起きず、「何のほとぼりかは聞かねぇのか」とまぜっ返してやった。ゾロはついた頬杖から一瞬だけ頬を離してサンジを見たあと、凶悪な顔をして舌打ちをした。
パスタでいいか、とサンジが聞くとなんでもいい、とゾロが答える。サンジは冷蔵庫から白身の魚と、一つ前の島で仕入れた菜の花に似た野菜を一掴み持ってきて、下ごしらえを始めた。ニンニクと鷹の爪を入れたフライパンにオリーブオイルを気持ち多めに入れて香りを出してから、白ワインに漬けておいた白身魚の実を入れる。キッチンに香りが立ちこめる。規定よりかたく茹でたパスタを引き上げる直前、鍋に切った野菜を入れ数秒だけ茹でてから、手早くパスタと野菜をフライパンへと移す。レードル二杯分の茹で汁を入れ、強火にして一気に汁とオイルを乳化させていく。トングを使って出来上がった料理を美しく盛り上げ、仕上げに刻んだイタリアンパセリと粒胡椒を挽いた。
湯気が立ち上がる皿をゾロの前へと置くと、ゾロはいただきます、と恭しく言って食べ始めた。黙って食べているのを腕を組んで眺める。食いっぷりはいつものゾロだった。常よりかは幾分疲れた顔はしているものの、言ってしまえばその程度で済んでいる。日常的な鍛錬も怠っている様子もない。じゃあゾロが以前のゾロと同じかと聞かれると、即答しづらかった。サンジはワノ国で見た、ゾロの静謐な横顔を思い出していた。
コップに冷えた水を酌んでやり、カウンターの上に置く。ゾロは皿の上を綺麗に食べ切ったあと、出された水を一気に飲み切った。
「………お前、元気そうだな」
「フ。お前、おれが元気だと気に入らねぇのか」
「わからねぇ」
「あ?」
「おれはお前にそうやって平然としていてもらいたかったのか、前後不覚になるほど動揺してもらいたかったのかわからねぇ。多分おれは、お前がどうなっても等分に気に食わなかった」
ゾロは特に反応らしい反応をしなかった。そのまましばらく沈黙の時間が流れたあと、ゾロは頬杖をついて天井へと隻眼の視線を流した。数秒の間をあけてから、考えてたんだけどよ、とゾロが話し始める。
「頑張れば、トラ男と会った日数は数えられるんだよな」
「……あ?」
「航海日誌でも見せてもらえれば、ほぼ誤差のない数字が出やがるだろうな。会った日を全部合わせたら一年分もあると思うか。多分ねぇ。時間にしたら何百時間になると思う? おれにゃ計算できねぇが、頭のいいやつに頼んだらそれもすぐ計算できちまうだろう。きっと短い時間だろうぜ。てめぇらと一緒にいる時間に比べたらな」
何の話だ、と口を開くのを見越したように、ゾロが言葉を継いだ。
「おれは、トラ男が死んだと聞いてもピンときてねぇんだ。おれが平然としているように見えるならそれが理由だ。最初から毎日顔を合わせていた相手じゃねぇ。おれの日常にトラ男はいなかった。次にいつ会えるか確かだったときは一度だってねぇ。じゃあよ。死ぬ前と今とで何が違うんだ」
「…………おまえ、何を言って…?」
「本当はあいつ、死んでねぇんじゃねぇのか」
それはどこまでも静かな声だった。故にゾロが狂った末に妄言を吐いたわけじゃないことを示していた。勘弁してくれと思った。首筋にうっすらと立っているのは鳥肌だろうか。火を使った直後だというのに、妙に寒い。爪の先の体温が下がる。隻眼が戻ってくる。猛禽類を思わせる油断のならない目が一つ、サンジを見据えた。
「…ローの心臓はもうねぇぞ」
「そうか? おれは見てねぇ」
言われた瞬間、嫌な予感がして反射的に深い色のシャツを掴んだ。勢いよく広げたそこに、ゾロの心臓が正しくはまっていることを確認する。安堵したと同時、あろうことか「あいつの心臓、あのまま取り替えておいたらよかったぜ」とゾロが笑いながら言った。肌の上で火花が爆ぜた気がした。短い導火線が即座に燃えて怒りに直結した。怒声が喉から迸った。
「てめぇら…悪趣味なことやりやがって!! 今ここにあいつの身体の一部がてめェに嵌ってるとか言わねぇだろうな!?」
「心配なら見聞色で探れよ。おれは構わねぇぞ」
掴んでいたシャツを乱暴に手放す。びくともしない体躯を憤怒の表情で睨みつける。上がった息は収まらない。数回深く呼吸をして押さえ込み、乱れた前髪を掻き上げた。凪いだ空気のままのゾロに吐き捨てる。
「トラ男は死んだ。二度と会えない。いいか、二度とだ」
「……おれが認めりゃの話だ」
「てめぇが認めようが認めまいがトラファルガー・ローは死んだ!! 二度とてめぇの前には現れねぇ!!」
しん、と静まったキッチンに響き渡る。ゾロは平行に真っ直ぐ走った二重を数回瞬かせた。そして、どういう思考回路を辿ったのか、片手を額に押し付けながら「まいったぜ」と呟いた。何がだ、と聞くより早く、ゾロが立ち上がった。
「……どこに行く」
「夜風に吹かれてくる」
「あぁ!?」
「飯、ありがとな」
ゾロは重くて鈍い足音を立ててキッチンを横切ると、入ってきた方向とは違う出口から出て行った。甲板に向かうのか。この海域の夜は冷える。せめて上へ向かえば、と言いかけたが、面倒になってやめた。煙草に手を伸ばしかけたが、それもやめた。眉間に皺を刻ませて、調理台に勢いよく腰を叩きつけた。
目の前にローがいたら容赦なく蹴り上げてやりたかった。だがもう、その相手もいない。ゾロがどう詭弁を弄しようとも、ローはもうこの世にはいない。ローが食べるために生まれたとしか思えない悪魔の実ごと、どこかの島で吹き飛んでいなくなった。
ゾロの言う通り、ここ新世界においては「会えない」ということと「二度と会えない」は近似なのかもしれない。だが、一生会えなくてもそいつが死なない限りは会える可能性があり、そいつが死んでしまえばその可能性はゼロになる。それが、それこそが「死」だ。解釈でどうにか折り合いをつけるような話ではない。
知ってるはずだろうが、クソマリモ野郎、とサンジが内心で吐き捨てたときだった。ゾロが出て行った方向から何かが落ちる音がした。何の音だ、と思うのとほぼ同時。続いて、フランキーの怒鳴り声が耳へと届く。
「ジンベエ! 船を止めろ! ゾロが海に落ちた!!」
**
「お前、決めた相手はいるのか」
聞いたくせに、まるで独り言のような物言いだった。ゾロは振っていた木刀を一旦止めて、声が聞こえてきた方を見遣った。声の主は芝生の上に長い脚を伸ばし、読み終わったからと言ってナミが持ってきた新聞を広げていた。男は他船の長だった。ゾロと同じ妖刀遣いで、長刀のそれはいつも男の傍らにあった。
波と海風の音が二人の間を過ぎていく。ゾロはしばらくローを眺めたが、ローは新聞に落とした視線を上げないままだった。直上から少し西に傾いた太陽が、ローの横顔に当たって彫りの深さを色濃くしている。空耳だな、と結論付け、ゾロは木刀を振るのを再開しようと構え直した。
「お前に聞いてるんだぞ、ゾロ屋」
ゾロは木刀を下ろした。睨め付けると、広げた新聞の上から金色の目玉が二つ覗いていた。はぁー、と大きなため息を吐く。分かりにくいんだよ、と呟いてから答えてやる。
「決めた相手、の定義による。命を賭ける相手なら決めている。ル」
「いまそいつの名前を言うな。聞きたくねぇ」
「そうかい」
「いねぇんだな」
揶揄いは含ませていないのに、断定する物言いだった。ゾロは片方の口の端を意地悪げに吊り上げた。
「いねぇならなんだ、立候補でもする気か」
ローは目深に被った帽子の下の目を見開いた。そして少しあってから顎を上げ、ゆっくりと笑った。
「…悪くねぇ答えだな」
「あ?」
「てめぇの口からその答えが出るのは悪くない」
どういう意味かを計りかねるゾロを置き去りに、ローは喉の奥を震わせるような声でひとしきり笑ってから、また元のように新聞を読み始めた。それきりこの会話は終いになった。
いつも騒がしい船なのに、この時この瞬間だけ、なぜか狭間に落ちたような空白の時間が二人に与えられた。事実、この僅か後にチョッパーがローを呼びにきて、それから少ししてウソップが見張りの交代だとゾロを呼びにきた。真昼に現れた幻のようなやりとりだったが、これが幻でなかったことはすぐに知れた。ローはこの日から数えて四度、ゾロに同じ質問をした。タイミングはいつもバラバラで、なにといったきっかけがあったわけじゃなかった。だが、四度目に質問されたとき、ゾロの目の前にはローの顔が間近にあった。ついに立候補をする気になったのか、とゾロが聞くと、ローは薄い唇をゾロのそれに極限まで近づけて、尊大に、そして震えるように言った。
「おれに決めたのはお前だろう」
そうして始まった二人だった。
ローからは、いつも乾いた冷たい海のにおいがした。それが出自によるものだと気づいたのは、ゾロが北の海に行ってからだった。北で見た海は、ローの纏う空気そのものだった。
どの海賊もそうだろうが、名を上げる前の来歴は本人が吹聴しない限りあまり知られていないものだ。ローが北の海のどこで生まれて、どのようにして海賊となったのか、ローは最後までゾロに語らなかった。本人が言わないものを無理やり聞き出すたちではない、ゾロもわざわざ話題にはしなかった。
だが、ローの纏う空気を近くで吸うたび、ローが生まれて育った北の海を思った。一年を通して、他の海に比べて日照時間が少なく、雨よりも雪がよく降り、青空よりも薄曇りの空を見上げることが多い土地に住んだ者だけが持つ、乾いた雰囲気だ。おそらくそれは東の海出身のゾロには僅かも備わっていないものだった。ゾロは、ローの冬の海を思わせるどろりとして重く、陰鬱な色が好きだった。それは静かで、冷たく、孤独だった。
何の因果か、ローとは何度か共闘した。ローの能力は物理法則を無にするという一点において万能に近かった。本人の望むところではなかっただろうが、ローは戦闘の最前線に位置するよりかは、援護型の攻撃をする方が力を発揮した。頭より先に身体が動くタイプとは真逆なこともあっただろう、混戦状態になればなるほど、ローは後衛に回ることが多かった。敵対する相手には同情した。たとえ前衛を全員倒しても、最後にローが控えているという状況は控えめに言っても最悪だっただろう。
だが、力で圧倒することが好まれる新世界にあって、ローの強さはあまり伝聞に向いていなかった。ローの強さを的確に評した流説を、ゾロは終ぞ聞かないままだった。ルーキー時代の鮮烈な戦績が印象深過ぎたのも否めない。ローの首に桁外れの懸賞金がかかってもなお、ローのことを気味の悪い技を使ってくる奇術師程度にしか思っていなかった海兵も多かっただろう。ローの強さは、戦場で戦った者だけが知っていた。そしてここ新世界において、それ以上に価値のある評価はなかった。
一度くらいは機会があるだろうと思っていたが、結局、ゾロとローが本気で闘りあう機会は訪れなかった。好悪の是非はさておき、命の取り合いをした者同士だけが分かり合えるものは確かにあった。その意味で、ローはゾロに「トラファルガー・ローと命のやり取りをする」瞬間の高揚だけは伝えないまま逝った。その代わりというわけでもないだろうが、ローは実に多くのことをゾロに語った。それは言葉であり態度であり空気であり、距離をも越える何かだった。海賊が海賊に口にするにはあまりにも繊細で透明で混じり気のない情けを、ローは衒いもなくゾロへと手渡した。死の文字を彫り込んだその手は、ゾロにとってそういうものだった。
ゾロとローとの関係が始まってから終わるまでの六年弱の間、何度となくセックスをしたが、挿入にまで至ったのは片手で数えられるほどしかない。男同士の性行為に時間のかかる準備が必要だったことも理由の一つではあっただろうが、突き詰めて考えればそれは遠因に過ぎず、結局のところ二人がそれに時間を使えるような状況になかったことの方が大きい。だが、他人と身体を触れ合わせること、異なる二つの体温が緩やかに一つになること、そのことによって生まれる心地良さをゾロに教えたのはローだった。
ローとの関係がゾロの何かを変えたことはほとんどなかった。しかし、ローという存在が、それまでのゾロが持ちえなかった感傷を連れてきたという側面は確かにあった。それは二人でいるときよりも、一味に戻り一人のときに、より強く自覚した。それは時に酷く煩わしく不要なものであり、時に変わった自分を反芻するいいきっかけになった。言う機会もなかったし言う必要性を感じていなかったから、そのことを本人に伝えたことはない。だが、こうなって思う。おれは一人でいると時々お前を思い出す、と言ってやればよかった。きっとしたり顔のローのツラを拝めたに違いなかった。
ローは船長という生き物共通の押しの強さとこだわりを持った男だったが、医者でもあるがゆえの倫理観と衛生観を合わせ持ってもいた。ゾロからするとあまり相性がよく思えない両者だったが、ローの中では行儀よく並んで身の中に収まっているらしかった。他人の距離ではわからない個人の特性も、身を晒せば自ずと分かることもある。ローはセックスの前後、いつだって馬鹿ていねいに身体の隅から隅までを洗いたがった。宿屋に備え付けのものが粗悪品だったことがあって以来、どこで仕入れたのか、いかにも高級そうなよく泡立つ石鹸まで用意するようになったのにはつくづくと閉口した。何度目かに、そんなところまで洗ってどうするのかと喚いたことがある。ローは眼前で喚いたゾロの顔を数秒見つめてから、笑いもしないで「知りたいか」と低い声で返した。何をだ、と思う間もなく、その後きっちり理由を思い知らされたので、以後ゾロはローのこれに文句を言うのをやめた。
性行為にまつわることはおおむねし終えた頃のいつかの時、どこかの島で偶然再会したことがあった。ログが溜まるまでの短い時間しかなかったが、酒場に連れ込んで酒を奢らせるぐらいはできた。カウンターに並んで座り、酒を浴びるように飲むゾロを、ローは呆れたような顔で眺めていた。
「飲む量に文句を言うのはやめたのかトラ男」
「言って響かない野郎にかける言葉はねぇな」
「おれを泡だらけにするのをやめないお前には言われたくねぇなぁ」
面倒くさくねぇのかあれ、と続けた軽口に、ローは虚を突かれたように目を見張った。ローの空気が変わったことに気づいたゾロが酒瓶をテーブルに置くのと同時、金色の目玉が二つ、ゾロをひたと捉えた。
「何も面倒じゃない」
なにもだ、とローが繰り返した。酒場は喧騒に満ちていたのに、その声は一語も欠けずゾロへと届いた。酔客の笑い声とローの物言いはまるで釣り合っていなかった。酒瓶を握っていた手にローの手が重なる。ゾロがローの視線から逃げたのは、その時の一度きりしかない。
実際のところ、ゾロはローとのセックスが好きだった。名と立場に付随したあれこれを衣服と同時に脱ぎ捨ててしまえば、そこに残るのは欲を抱えた身二つしかなかった。時間的物理的身体的な制限が多いというのを建前にして、できる限りやれる限りのことはやった。この意味においても二人はよく気が合った。誰にも言えないことだが、セックスにローの悪魔の実の能力を使うようになるまでにはさほどの時間はかからなかった。挿れていればここまでは入るという腹の位置に手のひらを乗せ、最弱まで絞った電気を流されると、入っていないはずのローの性器が内臓の奥底までを拓く様をありありと感じさせられた。前立腺だけを抜き出されたこともある。剥き出しの神経の塊を嬲られて取り繕える者がいるだろうか。全身を戦慄かせ、声もなく息も忘れて達したゾロに、ローは慈愛と傲慢さに満ちた声音で言った。
「気持ちいいなぁ、ゾロ屋。まだいけるよな」
おそらく、ゾロの身体でローが触れなかった箇所はない。皮膚という皮膚、穴という穴、何かの先、何かの間、目に見えるもの見えないもの、胎の中、その奥、さらにその深部、それら全てをローは開いて拓いて引き摺り出して性器に変え、快楽を生み頂上を塗り替えた。その途方もない道のりを思うと、ゾロはいつでも目眩がした。心臓を取り替えてやろうと言ったのはゾロだった。互いの性器を粘性の強い液体に塗れさせ、両手でまとめて握って擦り上げる。擬似性器と化した手のひらに、どちらともつかない先走りの体液が滴り落ちる。速っていくローの鼓動にゾロは笑った。
「はぇえよ、心臓」
「お前もだ」
額を合わせて目を閉じる。差し出した舌はローが食べた。水をかぶったような汗を互いの皮膚が吸い合い、融解した。射精の快感は尾を引くように長く続いた。二人がするセックスはいつもこういうものだった。
いつのことだったか、春気候の島に入港するなり黄色い潜水艦が浮かんでいたことがあった。いつものように船首にいたルフィがそれに気がつき、喜びの声をあげると同時、横にいたナミが「おかしいわ」と訝しげな声を出した。船は見るからに砲撃によって傷がついており、沈んでいないのが奇跡のような有様だった。船を横付けするなり、船医が道具を抱えてすっ飛んで行った。お前は行かねぇのか、とサンジに聞かれたが、敵が島にいるわけでもない状態で他船の戦闘員が乗り込んでいく謂れもなかった。ゾロは男部屋に引っ込んだ。ソファの背に腕を広げて、後頭部を後ろに預けた。天井を見上げていた目を閉じる。しばらくすると、壁の向こう側でトンカンと金属を叩く音が響き出した。ウソップとフランキーも行ったのか、と眠気半分の頭で思った。等間隔で聞こえる音は心地が良かった。
「つれねぇじゃねぇか」
突然聞こえた声に跳ね起きた。瞬間的に目を流した窓の外には、海面近くまで落ちた太陽が空と海とを橙色に染めていた。先刻まで喧しく聞こえていたはずの修理の音はいつの間にか止んでいた。あのまま寝入っちまったのか、と思いながら、ハシゴの傍に佇んだまま動かない男へと首を動かした。上着の下に大きな包帯が巻かれているのが見える。
「終わったのか」
「あらかたな」
「相手は?」
「海軍。海流が悪くて逃げそびれた」
「…こっぴどくやられやがって」
言ったゾロに、ローが手のひらを前に出した。ヴン、と鈍い音がすると同時、瞬きの間にゾロはポーラータング号の船長室にいた。ゴトトン、と三つ、愛刀が床に落ちる音を背中で聞きながら、ゾロは衝動的にローの頭を両手で掴んだ。帽子が落ちるのも構わず、引き寄せて噛み付くように口付けた。そのつもりだったのだろう、当たった衝撃で歪む唇の間に、息を吸う隙間を縫ってローの舌が侵入してくる。吸って、擦り合わせて、噛んだ。一気に腰に熱が溜まる。ローがゾロの後頭部から首、耳の後ろ、背中を掻き抱いた。そうされながら、ローの邪魔な上着を脱がせて床に放った。ローの指がゾロのシャツの裾から中へ入り込む。引き剥がすように脱がされた。うっすら汗を掻き始めている皮膚の上を撫でられただけで、総毛立つような快感が全身を忙しなく走った。誤魔化しようがない状態になった下半身を密着させながら、ローを壁付けの机まで追い込む。ここまでの間、唇は片時も離れなかった。ゾロはローの肩口に額を押しつけてズボンのボタンを性急に外した。
「抜いてやるよ」
これは嘘だった。ローのためにしてやりたいことではなかった。ゾロは今、ローの性器を咥えて飲んで奥まで挿れたかった。思考が、おれを犯せ、という一色で塗り潰されている。ジッパーを下ろし、下着に手をかけると、中から勃ち上がったローの性器が飛び出してきた。根本を二本の指で摘んで緩くあやしながら、期待した目でゾロを見つめるローの唇に吸い付く。わざとらしく音を立ててから、それを触れ合わせたまま囁いた。
「そんな顔するなよトラ男、たまらなくなるだろ」
跪いて性器に顔を寄せた。治療で清拭をしたばかりなのか、そこにまとわせている体臭は随分と薄く、部屋に充満している消毒薬に似たにおいが鼻をついた。ほとんど臨戦体制になっている性器を横から食みながら、先走りを湛えた先端を手のひらで包んだ。ローの手がゾロの額から後頭部を辿る。根本から袋まで、食んでは舌を伸ばして舐め上げた。頬と口元は唾液とローの体液ですぐにべたべたになったが、構わなかった。音を立てて性器に口付けながら徐々に根本へと至り、下生えに鼻を突っ込んだところでようやく雄臭い香りが鼻腔を直撃した。ゾッと総毛立つ。欲情したのは即座に伝わったらしい。首筋を撫でていたローの指が、ゾロの短い髪を握った。ゾロは目だけを上に向けた。見下ろすローの目とかちあう。視線を合わせたまま、根本から先端までを裏筋を舌の表面でなぞった。段差のついた部分は舌の先で散々刺激してやったら、髪を引っ張られた。
「焦らすな」
「いきなり喰ったらびっくりさせちまうだろうが」
「精々可愛がれよ」
これが可愛いものか、と返す代わりに、つるりと張った性器を一気に口内に飲み込んだ。ローが食いしばったように低く呻く。唾液が口腔内でだくだくと湧いて出る。口からはみ出た部分は指で扱いた。塩っぽいような青臭いような先走りが唾液と混ざり、泡立っては口元から滴り落ちた。上顎の性感をローの性器が掠めるたび、耳の裏側で高音域で耳鳴りがする。加速度的に不足していく酸素に、瞼の裏側が明滅し始める。目をきつく瞑ったまま、ローに向かって人差し指を立てた。こい、と指先だけで呼んだ。ローの両手がゾロの顎から首までを包み込む。親指が臼歯の根を確かめるようにゆっくりと撫でたが、優しかったのはそこまでだった。
それは容赦なく喉奥まで突き入れられた。反射で逃げようとするゾロを、後頭部を押さえるローの両手が阻む。バチバチバチッと神経と神経が無理やり接続させられて全身から汗が噴き出した。開けた喉奥にローの性器が嵌まり込む。二つ分の獣じみた呻き声は、淫猥な水音の加速と並行した。やめろとやめるなという相反した感情が脳を支配する。生命維持に必要なあれこれが緊急事態の鐘を鳴らし、嘔吐感と窒息感とが混ざって混ざって混ざり合って、誤解と感情の取り違えの果てとしか思えない強烈な快感へと直結した。掴んだ髪をローが一際強く握った。口内の性器が震え出す。迫り上がってきたものを粘膜が感じたと同時、喉の奥に精液が叩きつけられた。脳髄を貫かれ、ゾロの身体は痙攣した。
壁に阻まれて逆流したそれを飲み込もうとしたが、本能がまさった。さっき脱がされたシャツが床に落ちているのを慌てて引っ掴み、咳き込みながら吐き出した。鼻水が垂れているのを雑に拭いていると、名前を呼ばれた。顎をあげる前に、屈んだローに頭を抱き込まれた。消毒薬のにおいに包まれながら呼吸を整える。つむじに長い長い口付けをしているのを適当なところでやめさせて、ローに水をもらった。ざっと口の中を濯いで、もう捨てるしかなくなったシャツに吐き出した。
沸騰したような性欲の波がようやく引いた。妙に暗いと思ったら、いつの間にか陽が落ちかけていた。薄暮の中、互いにぬるついた下着とズボンを脱ぎ払い、ベッドに転がった。ローの身体を近くで見てみれば、あちこちがそれなりに傷んでいた。痛いから触るな、と言うのをいなしながら一等痛そうなところを適度にいたぶってやり、飽きたところで胸に描かれた絵の上を指でなぞった。ローもまたゾロの胸を揉んだり緩く勃ち上がった性器をいじったり好きにしていた。寄せた額がぶつかり、片目で二つある金色の目を等分に覗き込む。引き寄せられるように口付け、舌を食んだ。揺蕩うような快感を追いながらそれぞれ二度目の射精をした頃には、海面に月が映っていた。腹が減った、とぼやいたら、ローは艦内に繋がる伝送管でシャチを呼び、飯を二人分持ってこいと命じた。シャチはその短い命令で全てを理解したらしい。「キャプテンが元気そうでなによりです」と皮肉のような感心したような言葉を返した。しばらくしたらペンギンが二人分の食事とゾロの分のアルコールを持ってきた。顔は合わせなかったがそこにゾロがいるのはわかっていたのだろう、扉が閉まる直前にペンギンがゾロに向かって中指を立てたのが見えた。ゾロは声を出して笑った。サニー号には翌朝帰った。ローは麦わらの一味と同じ朝食を食べた。そうして二人は別れた。
あれが最後。
あれが、最後か!
ゾロは唐突に瞠目した。色が白く変わるほど、柵を掴んだ指に力が入る。眉毛の上あたりが鈍く痛み出す。頭蓋骨をなにか酷く硬いもので叩かれているような音が思考を埋め尽くした。死んだ? ローが? 死んだのか、あのトラファルガー・ローが? ぐらっと身体が揺れた。胃の裏側に火を焚べられたらしい、身体が熱い。明瞭でない何かを咆哮しそうになって、咄嗟に奥歯を噛み締めた。暇と気まぐれと酔狂を理由に始めて、暇と気まぐれと酔狂を理由に終わらせればいいだけの関係だった。それをせず、別れの日に特別な言葉を交わし合わなくてもいい関係を選んだ。なぜか。あれがトラファルガー・ローだったからだ。尊大で、繊細で、無愛想で、愛情深い、北の海のにおいがする男だった。潔癖さと性善さを捨てきれず、何者かになりたくて海賊になった男。ゾロ屋、と呼び、ローがゾロを見る。あの、金の目。海風が吹いた。突風に煽られるように顔を上げたゾロの眼前には、月さえ昇らない夜の海があった。黒々とした青はローの髪の色に似ていた。終にゾロは絶叫した。喉が裂けんばかりの声で名を口にしたのと同時、どぉ、と低く鈍い音がしたと思ったときには、もうゾロは海の中にいた。泡沫に抱かれながら落ちていく中、いつかの会話を思い出した。
『心臓の形ってハートじゃねぇんだな』
窓辺に心臓を二つ並べて、明け方近くまでたわいもない話をしたときのことだ。穏やかに脈打つ二つのそれを眺めながら言ったゾロに、ローはあぁ、と眠そうな声で返してから、半分眠ったような声音でゆったりと話した。
『ゾロ屋は悪魔の実の実物を見たことはあるか』
『あん? どうだったかな、ねぇかもな。あんまり興味がないから忘れちまっただけかもしれねェ。…話の繋がりが見えねぇな、なんで?』
『おれが食った悪魔の実はハートの形だった』
ゾロはへぇ! と尻上がりの声を上げた。だが、ローは目を閉じたまま、あれは不味かったな、と脈絡のない呟きを返した。並んだ心臓に向けていた視線をローに遣る。穴の空いた胸が規則正しく上下していた。寝たな、と内心で呟く。ゾロもまた大きな欠伸を一つしてから、ローの隣に転がった。天井を眺めても蜘蛛の巣どころか、埃一つついていない。波の音も聞こえない静かな空間は、ゾロには少し居心地が悪かった。部屋にはベットが二つ並べられていたが、もう一つはシーツが張られたままだ。あと半刻もしたら太陽が昇る。それが昇りきるまえに二人はここを後にする。
『…たぶん、…』
『びっ…くりしたぁ、寝てたんじゃねぇのか』
『起きてる…悪魔の実が不味いのは生命そのものの味だからじゃねぇかと思う』
『生き物は美味ぇだろ、肉でも魚でもよ』
『生き物じゃねぇ、生命』
言い直されたが、ゾロはあまりその違いがわからなかった。頭を起こし肘をついた。室内灯を消した部屋は、窓から入る仄かな月明かりが漏れ入るだけの薄闇だった。そこに浮かぶローの鼻梁を見つめる。閉じていたはずのローの瞳はしっかりと開き、先ほどゾロが眺めたばかりの天井を見上げていた。
『海は生命の生まれる場所らしい。もし海を食えたらさぞかし不味いだろうぜ』
明瞭さを取り戻した声はさらに続けた。
『悪魔の実はその能力者が死んだら世界のどこかで同じものが生るのだと聞いたことがある。同一の命がこの世に二つ存在しないのと同じだ。誰がつけた名だか知らねぇが、悪魔と名乗る割に俗っぽいぜ』
『そういう話はもっと賢いやつとやれよ』
『ゾロ屋』
『なんだよ』
『もしおれが死んだら』
あ? と顔を顰めるのと同時、その言葉は発せられた。
「海を探せよ。そこにおれの心臓があるから」
冷水のような海水を逆巻くように引き摺られ、海面へと浮上させられた。呼吸器官が正常に働くと同時、盛大に咳き込んだ。ジンベエが耳元で怒鳴り上げていたが、一語たりとも脳へは届かなかった。鼓膜がどうにかなったかのように、全ての音が遠い。血管の芯まで縮み上がりそうな冷たさの中を引っ張られ、船まで辿り着くなりチョッパーが用意していた毛布で包まれた。甲板の上は服が吸い込んだ海水で、あっという間に水溜りになった。サンジが胸ぐらを掴んで喚き散らしている。それをナミが制止する。頭上で怒号が飛び交う。だが、誰の言葉も聞こえない。ばたばたと頭から落ちる海水を誰かの手で拭かれながら、ゾロはウソップの照らす投光器の明かりの向こう側を見た。逆光で影になっている方向へと、海だ、と口からこぼれるように呟く。あぁ!? とサンジが叫んだのを乱暴に肘で押し退け、頭の上に乗ったタオルを剥ぎ取った。開けた視界の中、ゾロは仲間の最後尾に立つルフィへと震える声を紡いだ。
「ルフィ。海だ、トラ男の心臓は海にある」
「まだ言ってやがるのかクソマリモ野郎!」
「てめぇは黙ってろ! 悪魔の実だ、ルフィ! 頼む。トラ男が死んだんだ、今この瞬間にでも世界のどこかでオペオペの実が生まれているかもしれない。あいつの心臓だ、おれが見つけてやらなきゃならねぇ」
「それはおれの船を降りてぇって話か、ゾロ」
浸かった海水よりも低い温度の声が落ちた。ルフィの一言で騒然としていた場が瞬間で鎮まる。ゾロは片目を掌で拭ってから、深く呼吸を吸った。居住まいを正す。さっきまで頭の中で反響し続けていた鈍い音は止んでいた。思考が定まる。両方の腿の上で拳を握った。ゾロは遠くに立つルフィを見据えた。視線が交わる。
「おれを降ろせ、ルフィ」
「駄目だ」
「心臓を見つけたら戻る」
「駄目だ」
「…なんでだ!」
「まだおれが海賊王になってねぇ」
ゾロは隻眼を見開いた。ルフィが一歩を踏み出す。サンジが掴み上げていたシャツを離した。ルフィはゾロの前まで歩いてくると、冷たい海風に煽られる麦わら帽子を慣れた所作で押さえた。そして視線だけを動かし、ナミを呼んだ。
「トラ男の実の情報がおれに入るようにできるか」
「え!? ど、どうかしら。悪魔の実については世界政府の直轄案件だから、わたしたちが手出しするのは難し」
「待ってルフィ。オペオペの実には特別な力があると聞いたことがあるわ。あなたが探していると今話題になるのは、いらぬ推測を生み、無駄な騒動に転じるかもしれない」
ロビンの言葉を、軽やかな声でブルックが継いだ。
「ヨホホ、それならば簡単です。悪魔の実の情報全てに価値をつけたらいい。ついでに世界経済新聞さんにもそれとなく連絡を入れておきましょう、四皇のルフィさんが悪魔の実に興味があるとなったらメディアは放っておきませんよ」
「なるほどな。木を隠すには森の中ってやつか。まぁ、スーパー勘のいいやつらは勘づくかもしれないが、かまやしねぇよ、そんなやつらとはどうせやり合うことになる」
「同感じゃ。それにあの実は使える者が限られる。戦略的にあの実を探すような連中とは分かり合えやせん」
「大海賊団の連中にも探して貰えばいいんじゃねぇか!?」とチョッパーが声を上げた。すぐに連絡を入れるぜ! とウソップが返す。わいわいといつもの調子でやり出した仲間を、ゾロが惚けたように見つめた。
「なんで…」
こぼれた本音にナミの張り手が側頭部に飛んだ。闇夜にいい音が響く。高いヒールをカッ、と鳴らして仁王立ちするなり、人差し指をゾロの顔に突きつけながら叫んだ。
「ほんとにあんたってやつはバカみたいに強くなってもバカなままなんだから! なんでですって? あったり前じゃないの! トラ男くんはこの船にも乗ったのよ! 私たちにとっても彼は特別よ!」
「ナミさんの言うとおりです。それに今ゾロさんに船を留守にされては困ります」
ゴホン、とウソップが仰々しく咳をした。
「あ〜、刀ばかり振っているゾロくんは知らないようだが、古来より探し物は一人でするより大勢でした方が早く見つかるという説がある」
「くだらねぇ、もし他のやつが見つけたら奪いに行けばいいだけのこった。海賊らしくよ。なぁルフィ」
そう言ってサンジはタバコの煙を長く細く吐いた。だが振られたルフィはシシシ! と笑ってから、大丈夫だろ、と鷹揚に言った。
「トラ男はゾロを待つさ。あいつはそういう男だ」
おそらく、このときのルフィに確固たる根拠があったわけではなかった。だが結果として、ルフィのこの言葉はまるで未来を見たかのように正確だった。この後、世界はあらゆる勢力がぶつかり合い揺れた。オペオペの実は、そんな世界の騒々しさを嫌うように、数年の後まで世に生まれることはなかった。
ここから一年と三ヶ月後、ルフィは偉大なる航路の制覇を果たす。ゴール・D・ロジャー以来、二人目のラフテル到達だった。新たな海賊王の誕生は、長きに渡って圧政により維持されてきた秩序の崩壊と表裏にあった。だが、それを引き起こしたルフィとその仲間たちは誰よりも自由だった。ルフィは世界政府に対して、麦わらの一味がラフテル到達を果たしたことを宣言し、その日から一ヶ月に渡って宴を催した。はじめは内輪だけの宴だったそれがメディアによって世界中に報じられると、日が経つにつれ参加人数が増えていった。宴には老若男女はもちろんのこと、種族、宗教、言語、政治、生まれ、信条、時代を越えた者たちが集った。彼らに上下はなく、境はなく、違いもなかった。新しい時代は、どこまでも続くなだらかな平地から始まったのだった。ルフィはその場にいた誰よりも喋り、誰よりも食べ、誰よりも笑った。ルフィはいつも輪の中心にいたが、自ら場の中央に座すことだけはしなかった。ルフィの傍にいた隻眼の剣士もまた、名を知る相手知らない相手を問わず同じ目線に座り、己が決めた船長と同じくらい食べ、飲み、声を上げて笑った。
この、世界を巻き込んで行われた宴は後の世にまで残り、歴史として語り継がれることとなったが、一味にとってもまた忘れ難いものとなった。戦いに参加した仲間が一人として欠けることなく顔を揃えた宴は、このときを最後にして開かれなかったからだった。
宴が終わった翌早朝、ゾロはサニー号を降りた。ゾロが乗る船はフランキーがつくった。見送りはナミとチョッパーが務めた。薄曇りの空に上がったばかりの陽光が射し、鱗のような雲が天に向かって広がっていた。温い南からの風が、海賊王の右腕が乗るにはいささか小さな船を揺らす。荷物として載せたのは、チョッパーの用意した薬箱、サンジが作った日持ちのする食料、水、それから僅かの酒だけだった。ナミに渡された電伝虫は腹巻きの中に入れた。
「トラ男くんによろしくね」
ナミが言うのに片手を挙げて応え、ゾロはサニー号を後にした。見送りに出なかった仲間の中で、去っていくゾロを真に見なかったのはルフィだけだった。ルフィを除いた仲間全員が、各々の持ち場から小船が水平線の向こう側に消えるまで見送った。世紀の宴が終わったばかりの翌日とは思えない、静かで穏やかな朝だった。
(続く)
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