トラファルガー・ローが死んだ日 ※R18
トラファルガー・ローが死んだ。
その悪い冗談のような一報が一味にもたらされたのは、明け方の五時を過ぎたところだった。冬気候の寒い海域を通っているときで、空気は刺すように冷たく、吐く息は白かった。その電伝虫は、朝食の下拵えをしていたサンジがとった。
「はい、まいどこちらクソレストラン」
軽口を叩いたサンジは、覚えのある声が震えていることにすぐに気がついた。ハートのペンギンだと名乗った男は、絞り出すように「麦わらを出してくれ」と言った。サンジは瞬間的に嫌なものを感じ、まだ深い眠りについているルフィの元へと走った。
眠そうに目を擦るルフィを叩き起こし、ハートのクルーから緊急の通信が入っていることを伝える。サンジのただならぬ気配に気づいたルフィは、一段声を低くして「何があった」とサンジに聞いた。いい報せではないだろうと言いかけたが、口にはしなかった。代わりに、キッチンで出ろと言って案内し、電伝虫を渡してからその扉を閉めた。
その頃には一味が集まってきていた。フランキーが、どうした、と聞く。サンジは今度こそ答えた。
「よくねぇ報せだ」
一番最後にやってきたゾロが、一味の最後尾でサンジを見ている。サンジはもう一度腹の中でゾロへと向かって繰り返した。
(よくねぇ報せだ、クソ野郎)
ルフィは、随分と長い間ペンギンと話していた。漏れ聞こえるルフィの声は最初から最後まで低く冷静で、ただの一度も声を荒げることはなかった。何かを伝えるペンギンの悲痛な声が、時々空気を震わせて扉のこちらまで響いた。
会話が終わると、ルフィは場違いなほど鷹揚な声でゾロの名を呼んだ。弾かれたように、全員が最後尾に立つゾロを見遣った。ゾロはわずかに目を見張ったあと、ルフィの声と同じくらいゆったりとした歩調で一味の間を抜けてやってきた。そして仲間へは一瞥もくれずに、キッチンのドアを開けて中へと入った。扉が閉まるわずかの間、ルフィはゾロを見上げて一言二言声をかけた。ゾロが頷き、わかったとだけ応えた声が、閉じたドアによって遮られる。隻眼の横顔からは、些かの感情も読み取れなかった。
ややあって、ルフィだけがキッチンから出てきた。場所を移そうと言うルフィの言葉に従い、一味はアクアリウムバーへ集まった。ルフィは開口一番に告げた。
「トラ男が死んだ」
一味に対し、ルフィはペンギンから聞いた顛末を話した。
ローの命を奪ったのは、ローの治療を受けていた子どもが身につけていた爆弾であること。治療中であったために、ローの眼前で爆発したそれを避けることができず、飛散した爆発物によってハートの一味の中にも負傷者が出ていること。ローがの遺体は一部しか残っておらず、ほとんどが爆散してしまったこと。子どもが誰に送り込まれたのかは今のところわからないこと、もし首謀者がわかったらハートは何を持ってしても相手を殲滅させるつもりであること。
ルフィは感情を込めず、ただ事実だけを語った。淡々とした声がかえって場を重くした。
トラファルガー・ローが新世界で果たしていた役割は大きかった。世界政府および海軍、そして麦わらの一味を含む海賊たちの動き方に、少なからずの影響が出るだろうことはサンジにも想像ができた。ルフィが話し終わると、ナミが手を挙げた。
「わたしたちはどうするの、ルフィ」
敵討ちに出るのならば、急いで船の行き先を変えなければならない。だが、聞かれたルフィは首を傾げた。
「おれたちは何もしねぇ。なにかをするならそれはトラ男んとこの奴らがやることだ」
だけど、と言い募ったナミを、サンジがやんわりと止めて言葉を引き取る。
「けどよ船長。マリモはそんなわけにゃいかねぇだろ」
キィ、と蝶番が軋む音に顔を向けると、先ほど廊下で見たのと同じ表情をしたゾロが立っていた。サンジはゾロヘと目を向けたまま、ルフィへ言った。
「マリモを行かせてやらねぇのかよ、ルフィ」
「それもゾロが決めることだ。ゾロ。お前、トラ男の敵討ちしに行きてぇか」
「あ? なんでおれが。そりゃあいつらがやるこった」
ゾロは、己の刀の斬れ味と同じくらい、寄る辺もない物言いでサンジの気遣いを斬って捨てた。しん、と鎮まった空間に、ルフィが言った。
「ただし、弔いの宴はやる。サンジ、うめぇもん作れ。三日三晩飲んで食って歌ってトラ男を送るぞ」
ゾロとローが「敵船の戦闘員と船長」という関係だけではないらしいというのは、いつの頃からか仲間内では周知の話だった。
実を言えば、サンジはその始まりを知らない。一味が二つに分かれて行動していたときであったのと、サンジ自身がほかに目を向ける余裕が全くなかった時期と合致していたからだった。
ホールケーキアイランドから脱出し、ワノ国で仲間に無事に会えてからしばらく経ってからのことだった。蕎麦を啜りながら、ウソップが「ゾロだけどよ」と前置いてから、一人事情を知らないサンジに、ウソップの知る限りのことを聞かせてくれた。
聞き終わったときサンジが思ったことを正確に述べるのは難しい。率直にそんなことをやってる場合かと思ったし、獣と呼ばれる男も所詮人の子かよとも思った。おそらくほかにも色々浮かんだが、もう忘れてしまった。
ただ一つはっきりしているのは、「おめでたい」とか「祝ってやろう」とか「よかったじゃねぇか」とか、そういう類のことは一切思わなかったということだった。
浮ついた態度を一度でも見せたら、皮肉の一つや二つ、口からついて出るのは止められまいと思っていたが、幸か不幸か、二人はそんなそぶりは一切見せなかった。ウソップに二人の関係を教えてもらっていても、サンジの目にはゾロとローは一時的な同盟関係を結んだけの「自船の戦闘員」と「敵船の船長」以外、何にも見えなかった。サンジが見る限り、二人は用もなく近づくことも、視線を交わすこともなかった。
それはワノ国での戦いがひと段落ついても変わらなかった。戦いで瀕死の重症を負ったゾロは、ルフィとともに長く伏せった。だが、ローは見舞いに来ることはなかった。その後二人が目を覚ましたときも、国をあげた宴が催されたときも、ローは自船のクルーとともにいた。それはゾロも同じで、ゾロはずっと麦わらの一味のそばにいた。この頃になると、サンジはウソップに担がれた可能性もあるな、と疑い始めていた。それぐらい二人は、あまりにも完璧な他人同士だった。
別れの日は快晴で、太陽が海面を照らしてあちこちに光を反射させていた。海鳥が空を飛んでいる。出港前特有の高揚感が港周辺に充満していた。サンジは柵近くで海を眺めているゾロの傍へ立った。そこからは黄色い潜水艦がよく見えた。海風がゾロの着る長い裾を靡かせている。
「ローに何か言わなくていいのかよ」
「特にはねぇな」
そう言うと、ゾロは口の端だけをあげて静かに笑った。その瞬間、サンジはウソップが真実を語っていたことを唐突に理解した。
陸から自船へと乗り込んだローは、潜水艦の扉が閉まる直前にサニー号を振り仰いだ。ゾロはそんなローをじっと見つめていた。サンジはゾロの片目の閉じた横顔を見遣った。その表情はどこまでも穏やかで、ゾロの振る刀と同じ静謐さを湛えていた。ゾロは自分を見上げるローへと一度だけ小さく頷いた。ローは一瞬だけ目を眇め、上着を翻して仲間が待つ船内へと消えた。
それからもローとは時々新世界で出会った。同盟を解消して久しい関係であっても、ルフィにとってはそうではないらしく、仲間に対する態度と変わらない親しさでハートの一味と接した。船長がそうであれば自然、自船の連中も気さくに再会を喜んだ。
サンジがローを見かけるとき、大体いつもローはハートの一味の最後尾に立ち、長刀を携えてクルーを離れたところから眺めていた。ルフィやキッドと比べると、このローの姿勢は際立った特徴と言えた。上陸後の動き方をクルーに指示し終えると、ローはすっと集団から抜けて船内へ戻っていく。いつだったか、ローは陸に上がらないのかとハートのクルーに聞いたことがある。クルーは快活に応えた。
「キャプテンは能力で好きなところに行けるからなぁ。今も船内にいるとは限らない」
ハートのクルーの言を待たずとも、ローの能力はつくづくと便利だった。
新世界に入ってから、サンジは多くの能力者と出会った。能力者といってもさまざまで、一括りにするのは難しい。中でもローは、個人の能力と悪魔の実の特性が不可分に結びついているタイプの能力者だった。過去にもオペオペの実の能力者はいたはずだが、ローよりも実の能力を自在に使いこなせた者がいたかは疑わしい。ローのために生まれたとしか思えない悪魔の実は、ローと出会うべくして出会ったとしか思えなかった。
もし他の能力者に比してローに欠けている部分を挙げるとするならば、海賊であるよりも先に、医者たろうとする一点だった。その矜持は立派だが、どうしたって海賊の本分と相反する。それを本人がどう考えていたのかは知らない。だが、身に抱えた矛盾は長い時を経て、結局ローを殺した。
最後にローと会ったのは、春気候の島だった。ログを溜めるだけに立ち寄った小さな島で、入江に入ってすぐに黄色い潜水艦を見かけた。ルフィは喜びかけたが、あちらは大きな戦闘をしたばかりで負傷者も多く、それどころではないことはすぐに知れた。事態を悟ったチョッパーは鞄を持って怪我人を診に行った。ゾロも続くかと思ったが、部屋にいるとナミへと言い置いて船を降りさえもしなかった。
思い返せば、ちょうどその時もサンジは晩飯の下拵えのためにキッチンにいた。船の修理も怪我人の治療もあらかた片付いた頃、ローがサニー号へとやってきた。木床に響く足音に玉ねぎの皮剥きをしていた手を止めると、普段より一際顔色の悪いローがキッチンの入り口に立っていた。目深に被った帽子の下で、油断のならない暗い色を湛えた目が二つ、サンジを見据えていた。
「マリモなら男部屋にいる。ほかの連中は街に出てるから一人だぜ」
教えてやったのに、ローは礼も言わず、勝手知ったる人の船を迷いもしないで出て行った。足取りはしっかりしていたように見えたが、キッチンに残った消毒薬のにおいがローの傷の深さを思わせた。
晩飯の時間になっても、ゾロとローは現れなかった。おそらくローの能力を使って船を降りたのだろう。こういう時でもローの能力は便利だった。
サンジが二人と顔を合わせたのは翌朝だった。なぜかローは麦わらの一味とともに朝食を食べることにしたらしかった。そうあることが当然のような顔でゾロの隣に座り、サンジの握ってやった握り飯を美味そうに食べた。ローはウソップとフランキーに船の修理の礼を言い、二人は快活に笑ってそれに応えた。ゾロとどこでどんな話をしたのかは知らないが、来たときよりは陰鬱さが和らいでいた。
この日の別れもいつかの時と同じだった。自船へと乗り込む間際、ローはサニー号から自分を見送るゾロを見上げた。まるでその姿を目に焼き付けるように数秒ゾロを見つめてから、ローは扉の向こうに消えた。
サンジがローを見たのはこれが最後になった。 このときローは三十歳。ローが死ぬ半年前のことだ。
弔いの宴から数週間が経ったある夜、夕食の片付けをしているサンジのところに一味の半分ほどが集まってきた。片付けは任意参加なので、この人数が集まることは珍しい。なんとなく離れがたくて寄り集まった理由は察せられた。
数時間前、ハートのクルーから通信が入り、ローの遺体の回収が終わったから一度北の海へ戻ると告げられたからだった。ルフィは細かなことを一切聞かず、「わかった。また会おう」とだけ返して通信を切りかけた。慌てたナミが電伝虫をルフィから取り上げ、あちらの状況を詳しく聞いた。そして通信の終わり際、「なんだよ、おれは話すことなんかねぇぞ」と訝るゾロに無理やり電伝虫を押し付けてから一味に部屋を出るように言い、ルフィの手を引っ張って一番に部屋を出て行った。
ゾロはそこから二、三分ほどの時間、シャチと話して部屋を出てきた。それきり夕食も取らず男部屋に引きこもっている。
皿を拭く手伝いをしているブルックを除いた面々は、ダイニングテーブルを囲んでカードゲームに興じていた。金を賭けた途端、圧倒的な強さを見せ付けているナミは、ウソップが持つカードを一枚引き抜くと、弓形に唇を吊り上げて笑った。その瞬間にウソップがカードを空中へと放り投げて、「やめだやめだ!」と叫んだ。「海賊らしくないわねぇ!」とナミがウソップの頭を叩く。フランキーが散らばったカードを拾っている。チョッパーが「ナミは強ぇなぁ」と心酔したように言う。様子からしてお開きのようだった。
サンジはブルックから最後の一枚を受け取って棚の中へと片付けてから、ポケットを探って煙草に火をつけた。 カタンと靴音が鳴ったので目を遣れば、眠っていたとも思えない顔つきをしたゾロが入口に立っていた。「おーゾロ、起きたか」とフランキーが陽気な声をかける。ゾロは眉間に皺を寄せたまま部屋の中へと入ってくると、煙草を吹かしているサンジの前にあるカウンターテーブルへと腰を下ろした。
「何か食わせろ」
「…今全部片付け終わったとこなんだけどなぁ。何が食いたい。酒は?」
「腹に入りゃなんでもいい。酒はいらねぇ」
「まぁ珍しい!」
ナミが叫んでも、ゾロは煩わしそうな顔をしただけだった。ブルックが「そろそろお暇しましょうか」とみんなに水を向ける。異を唱える者は誰もおらず、風呂空いてるかなぁ、などと言いながらキッチンを出て行った。
話し声と足音が完全に聞こえなくなるまで待ってから、サンジは言った。
「お前、気を遣われてるんだぞ。ありがたく思えよ」
「あ? おれの何に気を遣う必要があるんだ」
「それがわからないほどバカじゃねぇだろ。おれには必要ねぇが、ほとぼりが冷めたらみんなに礼の一つくらい言ったってバチは当たらねぇぞ」
言いながら、いつほとぼりが冷めるんだと思った。果たして、何をもってしてほとぼりが冷めたと言えるのか。
そもそも、麦わらの一味にとってトラファルガー・ローの死は「敵船の長の死」でしかない。個人的な関係を理由に、それ以上の意味を抱えているのはゾロだけだった。
知った顔がどこかで命を落とすなんてことは、この海ではあまりにも日常茶飯事に起こる。当然それは、罷り間違えば自分もまたその一人になる可能性があり、強大な敵とぶつかるたびにその確率は上がった。自分が今そうなっていないのは、ただの偶然だった。一つひとつの死に特別な意味を持たせるには、この海はあまりにも不向きだった。
吸い終わった煙草の火を消し、もう一本に火をつける。こういう時、煙草は便利だった。沈黙の理由を探さなくて済む。
「…ほとぼりってどうやったら冷めんだよ」
ゾロが独り言のように呟く。フッ、と短く煙を吐いた。思考までボケていれば多少の可愛げもあったが、サンジの失言を流さない程度には頭は死んでいないようだった。つくづく可愛げがねぇなと内心で毒づきながら、それでも己の失言を認めてやる気も起きず、「何のほとぼりかは聞かねぇのか」とまぜっ返してやった。ゾロはついた頬杖から一瞬だけ頬を離してサンジを凝視したあと、一転、凶悪な顔をして舌打ちをした。
パスタでいいか、とサンジが聞くとなんでもいい、とゾロが応える。サンジは冷蔵庫から白身の魚と、一つ前の島で仕入れた菜の花に似た野菜を一掴み持ってきて、下ごしらえを始めた。ニンニクと鷹の爪を入れたフライパンにオリーブオイルを気持ち多めに入れて香りを出してから、白ワインに漬けておいた白身魚の実を入れる。キッチンに香りが立ちこめる。規定よりかたく茹でたパスタを引き上げる直前、鍋に切った野菜を入れ数秒だけ茹でてから、手早くパスタと野菜をフライパンへと移す。レードル二杯分の茹で汁を入れ、強火にして一気に汁とオイルを乳化させていく。トングを使って出来上がった料理を美しく盛り上げ、仕上げに刻んだイタリアンパセリと粒胡椒を挽いた。
湯気が立ち上がる皿をゾロの前へと置くと、ゾロはいただきます、と恭しく言って食べ始めた。黙って食べているのを腕を組んで眺める。食いっぷりはいつものゾロだった。常よりかは幾分疲れた顔はしているものの、言ってしまえばその程度で済んでいる。日常的な鍛錬も怠っている様子もない。じゃあゾロが以前のゾロと同じかと聞かれると、即答しづらかった。サンジはワノ国で見た、ゾロの静謐な横顔を思い出していた。
コップに冷えた水を酌んでやり、カウンターの上に置く。ゾロは皿の上を綺麗に食べ切ったあと、出された水を一気に飲み切った。
「………お前、元気そうだな」
「お前、おれが元気だと気に入らねぇのか」
「わからねぇな」
「あ?」
「おれはお前にそうやって平然としていてもらいたかったのか、クソ動揺してもらいたかったのかがわからねぇ。多分おれはお前がどうなっても等分に気に食わなかった」
ゾロは特に反応らしい反応をしなかった。そのまましばらく沈黙が流れたあと、頬杖をついて天井へと隻眼の視線を流した。数秒の間をあけてから、考えてたんだけどよ、とゾロが話し始める。
「頑張れば、トラ男と会った日数は数えられるんだよな」
「……あ?」
「航海日誌でも見せてもらえれば、ほぼ誤差のない数字が出やがるだろうな。会った日を全部合わせたら一年分もあると思うか。多分ねぇ。時間にしたら何百時間になると思う? おれにゃ計算できねぇが、頭のいいやつに頼んだらそれもすぐ計算できちまうだろう。きっと短い時間だろうぜ。てめぇらと一緒にいる時間に比べたらな」
何の話だ、と口を開くのを見越したように、ゾロが言葉を継いだ。
「おれは、トラ男が死んだと聞いてもピンときてねぇんだ。おれが平然としているように見えるならそれが理由だ。最初から毎日顔を合わせていた相手じゃねぇ。おれの日常にトラ男はいなかった。次にいつ会えるか確かだったときは一度だってねぇ。じゃあよ。死ぬ前と今とで何が違うんだ」
「…………おまえ、何を言って…?」
「本当はあいつ、死んでねぇんじゃねぇのか」
それはどこまでも静かな声だった。故にゾロが狂った末に妄言を吐いたわけじゃないことを示していた。勘弁してくれと思った。首筋にうっすらと立っているのは鳥肌だろうか。火を使った直後だというのに、妙に寒い。爪の先の体温が下がる。隻眼が戻ってくる。猛禽類を思わせる油断のならない目が一つ、サンジを見据えた。
「…ローの心臓はもうねぇぞ」
「そうか? おれは見てねぇ」
言われた瞬間、嫌な予感がして反射的に深い色のシャツを掴んだ。勢いよく広げたそこに、ゾロの心臓が正しくはまっていることを確認する。安堵したが、ゾロはサンジの頭の中を覗いたように答えを吐いた。
「あいつの心臓、あのまま取り替えておいたらよかったぜ」
笑いながら言われたそれに、肌の上で小さな火花が爆ぜた気がした。短い導火線が即座に燃えて怒りに直結した。怒声が喉から迸った。
「てめぇら、悪趣味なことやりやがって…! 今ここにあいつの身体の一部がてめェに嵌ってるとか言わねぇだろうな!?」
「やりたけりゃ見聞色で探れよ。おれは構わねぇぞ」
掴んでいたシャツを乱暴に手放す。びくともしない体躯を憤怒の表情で睨みつける。上がった息は収まらない。数回深く呼吸をして押さえ込み、乱れた前髪を掻き上げた。凪いだ空気のままのゾロに吐き捨てる。
「トラ男は死んだ。二度と会えない。いいか、二度とだ」
「……おれが認めりゃの話だ」
「てめぇが認めようが認めまいがトラファルガー・ローは死んだ!! 二度とてめぇの前には現れねぇ!!」
しん、と静まったキッチンに怒声が響き渡る。ゾロは平行に真っ直ぐ走った二重を数回瞬かせた。そして、どういう思考回路を辿ったのか、片手を額に押し付けながら「まいったぜ」と呟いた。何がだ、と聞くより早く、ゾロが立ち上がった。
「……どこへ行く」
「夜風に吹かれてくる」
「あぁ!?」
「飯、ありがとな」
ゾロは重くて鈍い足音を立ててキッチンを横切ると、入ってきた方向とは違う出口から出て行った。甲板に向かうのか。この海域の夜は冷える。せめて上へ向かえば、と言いかけたが、面倒になってやめた。煙草に手を伸ばしかけたが、それもやめた。眉間に皺を刻ませて、調理台に勢いよく腰を叩きつけた。
目の前にローがいたら容赦なく蹴り上げてやりたかった。だがもう、その相手もいない。ゾロがどう詭弁を弄しようとも、ローはもうこの世にはいない。ローが食べるために生まれたとしか思えない悪魔の実ごと、どこかの島で吹き飛んでいなくなった。
ゾロの言う通り、ここ新世界においては「会えない」ということと「二度と会えない」は近似なのかもしれない。だが、一生会えなくてもそいつが死なない限りは会える可能性があり、そいつが死んでしまえばその可能性はゼロになる。それが、それこそが「死」だ。解釈でどうにか折り合いをつけるような話ではない。
知ってるはずだろうが、クソ野郎、とサンジが内心で吐き捨てたときだった。ゾロが出て行った方向から何かが落ちる音がした。何の音だ、と思うのとほぼ同時。続いて、フランキーの怒鳴り声が耳へと届く。
「ジンベエ! 船を止めろ! ゾロが海に落ちた!!」
**
「お前、決めた相手はいるのか」
聞いたくせに、まるで独り言のような物言いだった。ゾロは振っていた木刀を一旦止めて、声が聞こえてきた方を見遣った。声の主は芝生の上に長い脚を伸ばし、読み終わったからと言ってナミが持ってきた新聞を広げていた。男は他船の長だった。ゾロと同じ妖刀遣いで、長刀のそれはいつも男の傍らにあった。
波と海風の音が二人の間を過ぎていく。ゾロはしばらくローを眺めたが、ローは新聞に落とした視線を上げないままだった。直上から少し西に傾いた太陽が、ローの横顔に当たって彫りの深さを色濃くしている。空耳だな、と結論付け、ゾロは木刀を振るのを再開しようと構え直した。
「お前に聞いてるんだぞ、ゾロ屋」
ゾロは木刀を下ろした。睨め付けると、広げた新聞の上から金色の目玉が二つ覗いていた。はぁー、と大きなため息を吐く。分かりにくいんだよ、と呟いてから答えてやる。
「決めた相手、の定義による。命を賭ける相手なら決めている。ル」
「いまそいつの名前を言うな。聞きたくねぇ」
「そうかい」
「いねぇんだな」
揶揄いは含ませていないのに、断定する物言いだった。ゾロは片方の口の端を意地悪げに吊り上げた。
「いねぇならなんだ、立候補でもする気か」
ローは目深に被った帽子の下の目を見開いた。そして少しあってから顎を上げ、ゆっくりと笑った。
「…悪くねぇ答えだな」
「あ?」
「てめぇの口からその答えが出るのは悪くない」
どういう意味かを計りかねるゾロを置き去りに、ローは喉の奥を震わせるような声でひとしきり笑ってから、また元のように新聞を読み始めた。それきりこの会話は終いになった。
いつも騒がしい船なのに、この時この瞬間だけ、なぜか狭間に落ちたような空白の時間が二人に与えられた。事実、この僅か後にチョッパーがローを呼びにきて、それから少ししてウソップが見張りの交代だとゾロを呼びにきた。
幻のようなやりとりだったが、これがそうでなかったことはすぐに知れた。ローはこの日から数えて四度、ゾロに同じ質問をした。タイミングはいつもバラバラで、なにといったきっかけがあったわけじゃなかった。だが、四度目に質問されたとき、ゾロの目の前にはローの顔が間近にあった。ついに立候補をする気になったのか、とゾロが聞くと、ローは薄い唇をゾロのそれに極限まで近づけて、尊大に、そして震えるように言った。
「おれに決めたのはお前だろう」
そうして始まった二人だった。
ローからは、いつも乾いた冷たい海のにおいがした。それが出自によるものだと気づいたのは、ゾロが北の海に行ってからだった。北で見た海は、ローの纏う空気そのものだった。
どの海賊もそうだろうが、名を上げる前の来歴は、本人が吹聴しない限りあまり知られていない。ローが北の海のどこで生まれて、どのようにして海賊となったのか。ローはゾロに最後まで語らなかった。ゾロも本人が言わないものを、わざわざ話題にはしなかった。
だが、ローの纏う空気を近くで吸うたび、ローが生まれて育った北の海を思った。一年を通して、他の海に比べて日照時間が少なく、雨よりも雪がよく降り、青空よりも薄曇りの空を見上げることが多い土地に住んだ者だけが持つ、乾いた雰囲気だ。おそらくそれは東の海出身のゾロには僅かも備わっていないものだった。
ゾロは、ローが纏う冬の海を思わせるどろりとして重く、陰鬱な色が好きだった。それは静かで、冷たく、孤独だった。
縁とは導かれるものなのか、ローとは何度か共闘した。ローの能力は物理法則を無にするという一点において万能に近かった。本人の望むところではなかっただろうが、ローは戦闘の最前線に位置するよりかは、援護型の攻撃をする方が力を発揮した。
頭より先に身体が動くタイプとは真逆なこともあり、混戦状態になればなるほど、ローは後衛に回ることが多かった。敵対する相手には同情した。前衛を全員倒しても、最後にローが控えているのは控えめに言っても最悪だっただろう。
だが、力で圧倒することが好まれる新世界にあって、ローの強さはあまり伝聞に向いていなかった。ルーキー時代の鮮烈な戦績が印象深過ぎたのも否めない。ローの首に桁外れの懸賞金がかかってもなお、ローのことを気味の悪い技を使ってくる奇術師程度にしか思っていなかった海兵も多かっただろう。ローの強さを的確に評した流説を、ゾロは終ぞ聞かなかった。ローの強さは、戦場で戦った者だけが知っていた。そしてここ新世界において、それ以上に価値のある評価はなかった。
一度くらいはあるに違いないと思っていたが、結局、ローと本気で闘りあう機会はないままとなった。「ローと命の取り合いをする」。その瞬間の高揚を、ゾロは知ることができなかった。
その代わりというわけでもないだろうが、ローは実に多くのことをゾロに伝えた。他人と身体を触れ合わせること、異なる二つの体温が緩やかに一つになること、そのことによって生まれる心地良さ。それらをゾロに教えたのはローだった。
それは言葉であり態度であり空気であり、距離をも越える何かだった。海賊が海賊に口にするにはあまりにも繊細で透明で混じり気のない情けを、ローは衒いもなくゾロへと手渡した。死の文字を彫り込んだその手は、ゾロにとってそういうものだった。
ローとの関係がゾロの何かを変えたことはほとんどなかった。だがローという存在は、それまでのゾロが持ち得なかった感傷を連れてきた。それは二人でいるときよりも、一味に戻って一人のときに、より強く感じた。それは時に酷く煩わしく不要なものであり、時に変わった自分を反芻するいいきっかけになった。
言う機会もなかったし言う必要性を感じていなかったから、そのことを本人に伝えたことはない。だが、こうなって思う。おれは一人でいると時々お前を思い出す、と言ってやればよかった。きっとしたり顔のローのツラを拝めたに違いなかった。
ローは船長という生き物共通の押しの強さとこだわりを持った男だったが、医者でもあるがゆえの倫理観と衛生観を合わせ持ってもいた。ゾロからするとあまり相性がよく思えない両者も、ローの中では行儀よく並んで身の内に収まっているらしかった。
他人の距離ではわからない個人の特性も、身を晒せば自ずと分かることもある。ローはセックスの前後、いつだって馬鹿ていねいに身体の隅から隅までを洗いたがった。宿屋に備え付けのものが粗悪品だったことがあって以来、どこで仕入れたのか、いかにも高級そうなよく泡立つ石鹸まで用意するようになったのにはつくづくと閉口した。
性行為のことはおおむね終えた頃、ある島で偶然再会したことがあった。ログが溜まるまでの短い時間しかなかったが、酒場に連れ込んで酒を奢らせるぐらいはできた。カウンターに並んで座り、酒を浴びるように飲むゾロを、ローは呆れたような顔で眺めていた。
「飲む量に文句を言うのはやめたのかトラ男」
「言って響かない野郎にかける言葉はねぇな」
「おれを泡だらけにするのをやめないお前には言われたくねぇなぁ」
面倒くさくねぇのかあれ、と続けた軽口に、ローは虚を突かれたように目を見張った。ローの空気が変わったことに気づいたゾロが酒瓶をテーブルに置くのと同時、金色の目玉が二つ、ゾロをひたと捉えた。
「何も面倒じゃない」
なにもだ、とローが繰り返した。酒場は喧騒に満ちていたのに、その声は一語も欠けずゾロへと届いた。酔客の笑い声とローの物言いはまるで釣り合っていなかった。酒瓶を握っていた手にローの手が重なる。ゾロがローの視線から逃げたのは、その時の一度きりしかない。
ゾロは、ローと何度となくセックスをした。だが、挿入にまで至ったのは片手で数えられるほどしかない。男同士の性行為は時間がかかるのが理由の一つだったが、突き詰めて考えればそれは遠因に過ぎないように思えた。結局、二人ともがそれに充分な時間を使える状況になかった。
だが、ゾロはローとのセックスが好きだった。名と立場に付随したあれこれを衣服と同時に脱ぎ捨ててしまえば、そこに残るのは欲を抱えた身二つしかなかった。時間的物理的身体的な制限が多いというのを建前にして、できる限りやれる限りのことはやった。この意味においても二人はよく気が合った。
人には言えないようなこともやった。セックスにローの悪魔の実の能力を使うようになるまでにはさほどの時間はかからなかった。挿れていればここまでは入るという腹の位置に手のひらを乗せ、最弱まで絞った電気を流されると、入っていないはずのローの性器が内臓の奥底までを拓く様をありありと感じさせられた。
前立腺だけを抜き出されたこともある。剥き出しの神経の塊を嬲られて取り繕える者がいるだろうか。全身を戦慄かせ、声もなく息も忘れて達したゾロに、ローは慈愛と傲慢さに満ちた声音で言った。
「気持ちいいなぁ、ゾロ屋。まだいけるよな」
おそらく、ゾロの身体でローが触れなかった箇所はない。皮膚、穴、何かの先、間。目に見えるもの見えないもの、胎の中、その奥。それら全てをローは開いて拓いて引き摺り出して性器に変え、快楽を生み頂上を塗り替えた。その途方もない道のりを思うと、ゾロはいつでも目眩がした。
心臓を取り替えてやろうと言ったのはゾロだった。互いの性器を粘性の強い液体に塗れさせ、両手でまとめて握って擦り上げる。擬似性器と化した手のひらに、どちらともつかない先走りの体液が滴り落ちる。速っていくローの鼓動にゾロは笑った。
「はぇえよ、心臓」
「お前もだ」
額を合わせて目を閉じる。差し出した舌はローが呑むように食べた。水をかぶったような汗を互いの皮膚が吸い合い、融解した。射精の快感は尾を引くように長く続いた。二人がするセックスはいつもこういうものだった。
いつのことだったか、春気候の島に入港するなり黄色い潜水艦が浮かんでいたことがあった。いつものように船首にいたルフィがそれに気がつき、喜びの声をあげると同時、横にいたナミが「おかしいわ」と訝しげな声を出した。船は見るからに砲撃によって傷がついており、沈んでいないのが奇跡のような有様だった。
船を横付けするなり、船医が道具を抱えてすっ飛んで行った。お前は行かねぇのか、とサンジに聞かれたが、敵が島にいるわけでもない状態で他船の戦闘員が乗り込んでいく謂れもなかった。ゾロは男部屋に引っ込んだ。ソファの背に腕を広げて、後頭部を後ろに預けた。天井を見上げていた目を閉じる。
しばらくすると、壁の向こう側でトンカンと金属を叩く音が響き出した。ウソップとフランキーも行ったのか、と眠気半分の頭で思った。等間隔で聞こえる音は心地が良かった。
「つれねぇじゃねぇか」
突然聞こえた声に跳ね起きた。瞬間的に目を流した窓の外には、海面近くまで落ちた太陽が空と海とを橙色に染めていた。先刻まで喧しく聞こえていたはずの修理の音はいつの間にか止んでいた。あのまま寝入っちまったのか、と思いながら、ハシゴの傍に佇んだまま動かない男へと首を動かした。上着の下に大きな包帯が巻かれているのが見える。
「終わったのか」
「あらかたな」
「相手は?」
「海軍。海流が悪くて逃げそびれた」
「…こっぴどくやられやがって」
言ったゾロに、ローが手のひらを前に出した。ヴン、と鈍い音がすると同時、瞬きの間にゾロはポーラータング号の船長室にいた。ゴトトン、と三つ、愛刀が床に落ちる音を背中で聞きながら、ゾロは衝動的にローの頭を両手で掴んだ。
帽子が落ちるのも構わず、引き寄せて噛み付くように口付けた。そのつもりだったのだろう、当たった衝撃で歪む唇の間に、息を吸う隙間を縫ってローの舌が侵入してくる。吸って、擦り合わせて、噛んだ。
一気に腰に熱が溜まる。ローがゾロの後頭部から首、耳の後ろ、背中を掻き抱いた。そうされながら、ローの邪魔な上着を脱がせて床に放った。ローの指がゾロのシャツの裾から中へ入り込む。引き剥がすように脱がされた。うっすら汗を掻き始めている皮膚の上を撫でられただけで、総毛立つような快感が全身を忙しなく走った。誤魔化しようがない状態になった下半身を密着させながら、ローを壁付けの机まで追い込む。
唇は片時も離れなかった。ゾロはローの肩口に額を押しつけてズボンのボタンを性急に外した。
「抜いてやるよ」
これは嘘だった。ローのためにしてやりたいことではなかった。ゾロは今、ローの性器を咥えて飲んで奥まで挿れたかった。思考が、おれを犯せ、という一色で塗り潰されている。
性急にジッパーを下ろし、下着に手をかけると、中から勃ち上がったローの性器が飛び出してきた。根本を二本の指で摘んで緩くあやしながら、期待した目でゾロを見つめるローの唇に吸い付く。わざとらしく音を立ててから、それを触れ合わせたまま囁いた。
「そんな顔するなよトラ男、たまらなくなるだろ」
跪いて性器に顔を寄せた。治療で清拭をしたばかりなのか、そこにまとわせている体臭は随分と薄く、部屋に充満している消毒薬に似たにおいが鼻をついた。
ほとんど臨戦体制になっている性器を横から食みながら、先走りを湛えた先端を手のひらで包んだ。ローの手がゾロの額から後頭部を辿る。根本から袋まで、食んでは舌を伸ばして舐め上げた。頬と口元は唾液とローの体液ですぐにべたべたになったが、構わなかった。音を立てて性器に口付けながら徐々に根本へと至り、下生えに鼻を突っ込んだところでようやく雄臭い香りが鼻腔を直撃した。ゾッと総毛立つ。
欲情したのは即座に伝わったらしい。首筋を撫でていたローの指が、ゾロの短い髪を握った。ゾロは目だけを上に向けた。見下ろすローの目とかちあう。視線を合わせたまま、根本から先端までを裏筋を舌の表面でなぞった。段差のついた部分は舌の先で散々刺激してやったら、髪を引っ張られた。
「焦らすな」
「いきなり喰ったらびっくりさせちまうだろうが」
「精々可愛がれよ」
これが可愛いものか、と返す代わりに、つるりと張った性器を一気に口内に飲み込んだ。ローが食いしばったように低く呻く。唾液が口腔内でだくだくと湧いて出る。口からはみ出た部分は指で扱いた。塩っぽいような青臭いような先走りが唾液と混ざり、泡立っては口元から滴り落ちた。
上顎の性感をローの性器が掠めるたび、耳の裏側で高音域で耳鳴りがする。加速度的に不足していく酸素に、瞼の裏側が明滅し始める。目をきつく瞑ったまま、ローに向かって中指を立てた。こい、と指先だけで呼んだ。ローの両手がゾロの顎から首までを包み込む。親指が臼歯の根を確かめるようにゆっくりと撫でたが、優しかったのはそこまでだった。
それは容赦なく喉奥まで突き入れられた。反射で逃げようとするゾロを、後頭部を押さえるローの両手が阻む。バチバチバチッと神経と神経が無理やり接続させられて全身から汗が噴き出した。開けた喉奥にローの性器が嵌まり込む。
二つ分の獣じみた呻き声は、淫猥な水音の加速と並行した。やめろとやめるなという相反した感情が脳を支配する。生命維持に必要なあれこれが緊急事態の鐘を鳴らし、嘔吐感と窒息感とが混ざって混ざって混ざり合って、誤解と感情の取り違えの果てとしか思えない強烈な快感へと直結した。掴んだ髪をローが一際強く握った。口内の性器が震え出す。迫り上がってきたものを粘膜が感じたと同時、喉の奥に精液が叩きつけられた。脳髄を貫かれ、ゾロの身体は痙攣した。
壁に阻まれて逆流したそれを飲み込もうとしたが、本能がまさった。さっき脱がされたシャツが床に落ちているのを慌てて引っ掴み、咳き込みながら吐き出した。鼻水が垂れているのを雑に拭いていると、名前を呼ばれた。顎をあげる前に、屈んだローに頭を抱き込まれた。消毒薬に包まれながら呼吸を整える。つむじに長い長い口付けをしているのを適当なところでやめさせて、ローに水をもらった。ざっと口の中を濯いで、もう捨てるしかなくなったシャツに吐き出した。
沸騰したような性欲の波がようやく引いた。妙に暗いと思ったら、いつの間にか陽が落ちかけていた。薄暮の中、互いにぬるついた下着とズボンを脱ぎ払い、ベッドに転がった。
ローの身体を近くで見てみれば、あちこちがそれなりに傷んでいた。痛いから触るな、と言うのをいなしながら一等痛そうなところを適度にいたぶってやり、飽きたところで胸に描かれた絵の上を指でなぞった。ローもまたゾロの胸を揉んだり緩く勃ち上がった性器をいじったり好きにしていた。寄せた額がぶつかり、片目で二つある金色の目を等分に覗き込む。引き寄せられるように口付け、舌を食んだ。
揺蕩うような快感を追いながらそれぞれ二度目の射精をした頃には、海面に月が映っていた。腹が減った、とぼやいたら、ローは艦内に繋がる伝送管でシャチを呼び、飯を二人分持ってこいと命じた。シャチはその短い命令で全てを理解したらしい。「キャプテンが元気そうでなによりです」と皮肉のような感心したような言葉を返した。しばらくしたらペンギンが二人分の食事とゾロの分のアルコールを持ってきた。顔は合わせなかったがそこにゾロがいるのはわかっていたのだろう、扉が閉まる直前にペンギンがゾロに向かって中指を立てたのが見えた。ゾロは声を出して笑った。
サニー号には翌朝帰った。ローは麦わらの一味と同じ朝食を食べた。そうして二人は別れた。
あれが最後か。
あれが、最後か!
ゾロは唐突に瞠目した。色が白く変わるほど、柵を掴んだ指に力が入る。眉毛の上あたりが鈍く痛み出す。頭蓋骨をなにか酷く硬いもので叩かれているような音が思考を埋め尽くした。
死んだ? ローが?
死んだのか、あのトラファルガー・ローが。
ぐらっと身体が揺れた。胃の裏側に火を焚べられたように身体が内側から沸騰している。熱い。明瞭でない何かを咆哮しそうになって、咄嗟に奥歯を噛み締めた。
暇と気まぐれと酔狂を理由に始めて、暇と気まぐれと酔狂を理由に終わらせればいいだけの関係だった。それをせず、別れの日に特別な言葉を交わし合わなくてもいい関係を選んだ。
なぜか。あれがトラファルガー・ローだったからだ。尊大で、繊細で、無愛想で、愛情深い、北の海のにおいがする男だった。潔癖さと性善さを捨てきれず、何者かになりたくて海賊になった男。ゾロ屋、と呼び、ローがゾロを見る。あの、金の目。海風が吹いた。
突風に煽られるように顔を上げたゾロの眼前には、月さえ昇らない夜の海があった。黒々とした青はローの髪の色に似ていた。終にゾロは絶叫した。喉が裂けんばかりに、失ったその名を叫んだ。
どぉ、と低く鈍い音がしたと思ったときには、もうゾロは海の中にいた。泡沫に抱かれながら落ちていく中、いつかの会話を思い出した。
『心臓の形ってハートじゃねぇんだな』
窓辺に心臓を二つ並べて、明け方近くまでたわいもない話をしたときのことだ。穏やかに脈打つ二つのそれを眺めながら言ったゾロに、ローはあぁ、と眠そうな声で返してから、半分眠ったような声音でゆったりと話した。
『ゾロ屋は悪魔の実の実物を見たことはあるか』
『あん? どうだったかな、ねぇかもな。あんまり興味がないから忘れちまっただけかもしれねェ。…話の繋がりが見えねぇな、なんで?』
『おれが食った悪魔の実はハートの形だった』
ゾロはへぇ! と尻上がりの声を上げた。だが、ローは目を閉じたまま、あれは不味かったな、と脈絡のない呟きを返した。並んだ心臓に向けていた視線をローに遣る。穴の空いた胸が規則正しく上下していた。寝たな、と内心で呟く。ゾロもまた大きな欠伸を一つしてから、ローの隣に転がった。
天井を眺めても蜘蛛の巣どころか、埃一つついていない。波の音も聞こえない静かな空間は、ゾロには少し居心地が悪かった。部屋にはベットが二つ並べられていたが、もう一つはシーツが張られたままだ。あと半刻もしたら太陽が昇る。それが昇りきるまえに二人はここを後にする。
『…たぶん、…』
『びっ…くりしたぁ、寝てたんじゃねぇのか』
『起きてる…悪魔の実が不味いのは生命そのものの味だからじゃねぇかと思う』
『生き物は美味ぇだろ、肉でも魚でもよ』
『生き物じゃねぇ、生命』
言い直されたが、ゾロはあまりその違いがわからなかった。頭を起こし肘をついた。室内灯を消した部屋は、窓から入る仄かな月明かりが漏れ入るだけの薄闇だった。そこに浮かぶローの鼻梁を見つめる。閉じていたはずのローの瞳はしっかりと開き、先ほどゾロが眺めたばかりの天井を見上げていた。
『海は生命の生まれる場所らしい。もし海を食えたらさぞかし不味いだろうぜ』
明瞭さを取り戻した声はさらに続けた。
『悪魔の実はその能力者が死んだら世界のどこかで同じものが生るのだと聞いたことがある。同一の命がこの世に二つ存在しないのと同じだ。誰がつけた名だか知らねぇが、悪魔と名乗る割に俗っぽいぜ』
『そういう話はもっと賢いやつとやれよ』
『ゾロ屋』
『なんだよ』
『もしおれが死んだら』
あ? と顔を顰めるのと同時、その言葉は発せられた。
「海を探せよ。そこにおれの心臓があるから」
冷水のような海水を逆巻くように引き摺られ、海面へと浮上させられた。呼吸器官が正常に働くのと同時、盛大に咳き込んだ。ジンベエが耳元で怒鳴り上げていたが、一語たりとも脳へは届かなかった。鼓膜がどうにかなったかのように、全ての音が遠い。
血管の芯まで縮み上がりそうな冷たさの中を引っ張られ、船まで辿り着くなりチョッパーが用意していた毛布に包まれた。甲板の上は服が吸い込んだ海水で、あっという間に水溜りになった。
サンジが胸ぐらを掴んで喚き散らしている。それをナミが制止する。頭上で怒号が飛び交う。だが、誰の言葉も聞こえない。ばたばたと頭から落ちる海水を誰かの手で拭かれながら、ゾロはウソップの照らす投光器の明かりの向こう側を見た。逆光で影になっている方向へと、海だ、と口からこぼれるように呟く。
「あぁ!?」
サンジが叫んだのを乱暴に肘で押し退け、頭の上に乗ったタオルを剥ぎ取った。開けた視界の中、ゾロは仲間の最後尾に立つルフィへと震える声を紡いだ。
「ルフィ。海だ、トラ男の心臓は海にある」
「まだ言ってやがるのかクソマリモ野郎!」
「てめぇは黙ってろ! 悪魔の実だ、ルフィ! 頼む。トラ男が死んだんだ、今この瞬間にでも世界のどこかでオペオペの実が生まれているかもしれない。あいつの心臓だ、おれが見つけてやらなきゃならねぇ」
「それはおれの船を降りてぇって話か、ゾロ」
浸かった海水よりも低い温度の声が落ちた。ルフィの一言で、騒然としていた場が瞬間で鎮まる。
ゾロは片目を掌で拭ってから、深く呼吸を吸った。居住まいを正す。さっきまで頭の中で反響し続けていた鈍い音は止んでいた。思考が定まる。両方の腿の上で拳を握った。ゾロは遠くに立つルフィを見据えた。視線が交わる。
「おれを降ろせ、ルフィ」
「駄目だ」
「心臓を見つけたら戻る」
「駄目だ」
「…なんでだ!」
「まだおれが海賊王になってねぇ」
ゾロは隻眼を見開いた。ルフィが一歩を踏み出す。サンジが掴み上げていたシャツを離した。ルフィはゾロの前まで歩いてくると、冷たい海風に煽られる麦わら帽子を慣れた所作で押さえた。そして視線だけを動かし、ナミを呼んだ。
「トラ男の実の情報がおれに入るようにできるか」
「え!? ど、どうかしら。悪魔の実については世界政府の直轄案件だから、わたしたちが手出しするのは難し」
「待ってルフィ。オペオペの実には特別な力があると聞いたことがあるわ。あなたが探していると今話題になるのは、いらぬ推測を生み、無駄な騒動に転じるかもしれない」
ロビンの言葉を、軽やかな声でブルックが継いだ。
「ヨホホ、それならば簡単です。悪魔の実の情報全てに価値をつけたらいい。ついでに世界経済新聞さんにもそれとなく連絡を入れておきましょう、四皇のルフィさんが悪魔の実に興味があるとなったらメディアは放っておきませんよ」
「なるほどな。木を隠すには森の中ってやつか。まぁ、スーパー勘のいいやつらは勘づくかもしれないが、かまやしねぇよ、そんなやつらとはどうせやり合うことになる」
「同感じゃ。それにあの実は使える者が限られる。戦略的にあの実を探すような連中とは分かり合えやせん」
「大海賊団の連中にも探して貰えばいいんじゃねぇか!?」とチョッパーが声を上げた。すぐに連絡を入れるぜ! とウソップが返す。わいわいといつもの調子でやり出した仲間を、ゾロは惚けたように見つめた。
「なんで…」
こぼれた本音にナミの張り手が側頭部に飛んだ。闇夜にいい音が響く。高いヒールをカッ、と鳴らして仁王立ちするなり、人差し指をゾロの顔に突きつけながら叫んだ。
「ほんとにあんたってやつはバカみたいに強くなってもバカなままなんだから! なんでですって? あったり前じゃないの! トラ男くんはこの船にも乗ったのよ! 彼を特別に思っているのはあんただけじゃないわ!」
「ナミさんの言うとおりです。それに今ゾロさんに船を留守にされては困ります」
ゴホン、とウソップが仰々しく咳をした。
「あ〜、刀ばかり振っているゾロくんは知らないようだが、古来より探し物は一人でするより大勢でした方が早く見つかるという説がある」
「くだらねぇ、もし他のやつが見つけたら奪いに行けばいいだけのこった。海賊らしくよ。なぁルフィ」
そう言ってサンジはタバコの煙を長く細く吐いた。だが振られたルフィはシシシ! と笑ってから、大丈夫だろ、と鷹揚に言った。
「トラ男はゾロを待つさ。あいつはそういう男だ」
おそらく、このときのルフィに確固たる根拠があったわけではなかっただろう。だが結果として、ルフィのこの言葉はまるで未来を見たかのように正確だった。この後、世界はあらゆる勢力がぶつかり合って揺れた。オペオペの実は、そんな世界の騒々しさを嫌うように、数年の後まで世に生まれることはなかった。
ここから一年と三ヶ月後、ルフィは偉大なる航路の制覇を果たす。ゴール・D・ロジャー以来、二人目のラフテル到達だった。新たな海賊王の誕生は、長きに渡り圧政によって維持されてきた秩序の崩壊と表裏にあった。だが、それを引き起こしたルフィとその仲間たちは誰よりも自由だった。
ルフィは世界政府に対して、麦わらの一味がラフテル到達を果たしたことを宣言し、その日から一ヶ月に渡って宴を催した。はじめは内輪だけの宴だったそれがメディアによって世界中に報じられると、日が経つにつれ参加人数が増えていった。宴には老若男女はもちろんのこと、種族、宗教、言語、政治、生まれ、信条、時代を越えた者たちが集った。彼らに上下はなく、境はなく、違いもなかった。新しい時代は、どこまでも続くなだらかな平地から始まったのだった。
ルフィはその場にいた誰よりも喋り、誰よりも食べ、誰よりも笑った。ルフィはいつも輪の中心にいたが、自ら場の中央に座すことだけはしなかった。ルフィの傍にいた隻眼の剣士もまた、名を知る、知らない相手を問わず、同じ目線に座り、己が決めた船長と同じくらい食べ、飲み、声を上げて笑った。
この、世界を巻き込んで行われた宴は後の世にまで残り、歴史として語り継がれることとなったが、一味にとってもまた忘れ難いものとなった。戦いに参加した仲間が一人として欠けることなく顔を揃えた宴は、このときを最後にして開かれなかったからだった。
宴が終わった翌早朝、ゾロはサニー号を降りた。ゾロが乗る船はフランキーがつくった。見送りはナミとチョッパーが務めた。薄曇りの空に上がったばかりの陽光が射し、鱗のような雲が天に向かって広がっていた。
温い南からの風が、海賊王の右腕が乗るにはいささか小さな船を揺らす。荷物として載せたのは、チョッパーの用意した薬箱、サンジが作った日持ちのする食料、水、それから僅かの酒だけだった。ナミに渡された電伝虫は腹巻きの中に入れた。
「トラ男くんによろしくね」
ナミが言うのに片手を挙げて応え、ゾロはサニー号を後にした。見送りに出なかった仲間の中で、去っていくゾロを真に見なかったのはルフィだけだった。ルフィを除いた一味全員が、各々の持ち場から小船が水平線の向こう側に消えるまで見送った。
世紀の宴が終わったばかりの翌日とは思えない、静かで穏やかな朝だった。
南の海に小さな島がある。島民百人にも満たない世界政府準加盟国だが、周辺に点在する島々へ渡る宿泊地として長く栄えてきた。島の北西部には開墾地があり、島民が食べる程度の食物と、島に立ち寄る他島民と観光客に売るための果物が栽培されていた。年間を通して三十五度を下回る日はなく、決まって夕刻頃から降る滝のような雨が島特有の個性種を育んだ。島民による記録では、その日、島には有史以来降ったことがない雪が観測された、とある。
「よぅ、久しぶりだな」
かけられた平坦な声に顔を向けると、男が一人立っていた。売り物を載せた荷台の横で店番をしていた店主は、知り合いにこんな男がいただろうか、と記憶を探った。フードを目深に被った下から感情の見えない目がひとつ覗いており、静かな佇まいで世界を見ていた。立派な体躯の男の腰には三本も刀が下げられている。はて、ひと目見たら忘れられそうにない風情の男だが、と首をかしげる店主に、男が続けた。
「おれに追いかけられるのはそんなに楽しかったかよトラ男。随分長い間逃げ回りやがって」
「? あの、誰かと間違えて」
言いかけた店主を男がようやく見た。目が合った瞬間、皮膚温度が数度下がったような心地がした。太陽はいつもと変わらず照りつけており、湿気を含んだ海風が島全体を通り抜けていた。店主は思わず半袖の腕をこすった。そんな店主の前で男の手がすぅ、と上がり、売り物には混ぜずに飾ってある赤い実を人差し指が捉えた。
「店主。こいつを売ってくれ」
船が着いたらしく港から流れてきた人出は増すばかりだったが、男の低い声はよく通った。一言一句聞き間違うことなく店主の耳へと入った言葉で、ようやく合点が入った。男は自分の知り合いではなかったらしい。安堵は警戒心を解いた。店主はあぁこれ、と苦く笑ってから「お客さん、これは売り物じゃないんですよ」と応じた。
「そうなのか? 荷台に置いてあるからてっきりそうなのかと思ったぜ」
「血みたいに赤い奇妙な形の実が生ったって一時期島で話題になったやつなんですが、切ろうとしても砕こうとしてもびくともしないんですよ。関係するんだかしないんだか、こいつが生った日は島に雪が降りましてね。みんな気味悪がるのでわたしが引き取ったんです。捨ててもよかったんですが、どういうわけか腐りもしないからこうして飾っているってわけです」
「へぇ」
「年に一度、本島から派遣されてくる植物学者がいるので、今度その先生にこいつが何か聞こうって思っ…お客さん! 触らない方が」
静止する店主の声に耳を貸さず、男は節の目立つ指で赤い実を掴むと、顔の前で掲げてしげしげとひとつ目で眺めた後、それをごく自然な動作で懐にしまった。そのあまりにも自然な様子に声を出し損ねていると、男は自身の肩にかけていた麻袋を店主へと投げた。足元にそれが落ちた瞬間、土の上で金属が擦れ合うような派手な音を立てる。その音と重なるように、片方の口の端をつり上げた男が言った。
「売り物じゃねェなら話は早ぇ」
「え?」
「おれの名はロロノア・ゾロ、海賊だ。本来ならばただ奪って終わりにするんだが、ちょうど荷物が重いと思っていたからそれは駄賃にやるよ」
「海賊!?」
店主が目玉を丸くして叫んだ時には、男はもう背を向けた後だった。走り去ったわけでもないのに、男の姿は瞬きの間に雑踏に紛れて消えた。店主はしばらくその場で右往左往したが、男が麻袋を投げて寄越したときの重そうな音の方が気になった。雑に紐で縛ってある口を開いて中を覗き込むなり、店主は今度こそ悲鳴を上げた。
雪の降った日に生った奇妙な実については、隻眼の剣士が金銀財宝と引き換えに持って行ったという以外、何の記録も残っていない。
実が本当は何だったのか。隻眼の剣士が、その実を探してどれだけ世界中を巡ったのかはもちろん、実を手に入れた剣士が最初に北にある島へ電伝虫を鳴らしたことも、その電伝虫に出た元海賊が声もなく泣き崩れたことも、誰も知らない。
ゾロがサニー号を降りてから三年が経過していた。
**
「お前、バラティエを継がねェか」
第一声がそれかよ、とサンジは久方ぶりに声を聞いたクソジジイの一言に、目の前にある電伝虫を凝視した。ボケたのか? と思ったのが伝わったのか、野太い声がすぐさま続いた。
「てめぇ、何か失礼なことを考えてねぇだろうな!」
「それだけ元気なら百年先もオーナーシェフをやっていられるだろうが。大体なんでおれ…パティたちの方が相応しいだろ」
長い髪を緩く結えた頭を薬指で掻きながら、サンジはあちらに聞こえない程度のため息を吐いた。
海賊になると言ってバラティエを降りたあと、サンジは長く店を空けた。麦わらの一味のコックとして腕を振るってはいたが、その味を食べたくて店に足を運び金を払って帰る客の腹を満たしていたわけじゃない。
一食たりとも手を抜いて作った食事はなかった。だが、その一食は、金を払った客の「腹以外の何か」をも満たして帰らせることができたか、という一点において、バラティエを降りていた期間の自分と兄弟子たちを同列には出来ない。本当にバラティエを継ぐならば、自分よりも兄弟子たちの方が相応しい。十分な言葉にして伝えてきたとは言い難いが、サンジがサニー号を降りてからバラティエに戻らなかったことの真意をゼフはわかっていたと思っていた。
だが、いつだってこの育ての親はサンジの上をいく。ゼフは喉を一拍の間を置いてから鳴らして笑ったあと、サンジよ、と続けた。
「てめぇが筋を通すやつなのはおれも含めてみんな知ってる。その上でお前に話持っていってんだ。お前の店をどうするか、ってことにもなるだろうから無理にとは言わねェ。急ぐ話でもねぇから、少し考えてみてくれ」
急ぐ話じゃないならなぜ今なんだ、と思ったがあえて言わなかった。サンジは今年で四十の後半に至った。ゼフもまた同じだけの歳を重ねたことになる。だがゼフが作ってくれた猶予を自ら放棄する意味もない。サンジはわかった、と応えてから、軽い近況を伝えたのち電伝虫を切った。
ルフィが海賊王になったとき、ナミは一味に対して冒険で得た宝を分配した。サンジはその金を元手に自分の店を持った。ゼフのように海上に店を出すことも考えたが、悩んだ末に北の海にある港町に店を構えた。
北を選んだことにあまり意味はない。バラティエに近い東の海に帰ってもよかったが、麦わらの一味の一人として名を馳せたあとで、ゼフの近くに戻るのもどこか成長がない気がした。消去法で選んでいった果てに残ったのが、自分が生まれた海だった。誰にも言ったことはないが、ろくなものを食った思い出がないガキの頃の自分を、今ならば少しくらい救ってやれるんじゃないか、という気持ちがなかったとは言えば嘘になる。
そんな末弟の本音を知ってか知らずか、姉がたまに一人で店に訪れる。レイジュはますます母親に似てきた。レイジュが「美味しかったわ」と言い、サンジの頬にキスをして店を後にするのを見送るたび、サンジは己の血と後悔にようやく向き合っているのを感じた。海賊王のクルーとして首に賞金がかかった身であろうとも、家族のこととなると所詮はただの人なのだった。
サンジは、ルフィが海賊王になってから二年後にサニー号を降りた。最初の一人目がゾロになったのは因縁めいていた。ある日の夜、サンジの電伝虫にナミから連絡が入り、ゾロが「探し物」を見つけた、という報告を聞いた。
ちょうどその頃、暫定世界政府と旧宗主国とが小競り合いをしていた時期で、大戦前夜といった重苦しい空気感が世界中を席巻していた。麦わらの一味に懸賞金をかけていた旧体制はすでになかったが、盗聴の可能性を配慮し、短い報告だけで切られたそれは、確かにその頃のサンジにとって数少ない吉報となった。
だが、ゾロがどうやって悪魔の実を見つけて手に入れたのか、手に入れた実をどうするつもりなのか、あるいは実を手にしたゾロはどこへ向かうのか、といった詳報は得られないままとなった。結局ゾロがサニー号に戻らなかったと知ったのは、大戦が回避され、革命軍の幹部とネフェルタリ家、光月家を中心とした新政府体制が確立した後になる。
麦わらの一味とは今でも時々会う。ルフィでさえ、サンジの店にやってきては昔と変わらない食べっぷりで料理を平らげて帰っていく。だが、ゾロとは再会しないまま二十年近くが経った。
ルフィに二度だけ、ゾロのことを尋ねたことがある。一度目に聞いたときには「元気なんじゃねぇか?」だった答えは、次に聞いたときには「元気だったぞ」に変わったから、おそらくどこかの段階でルフィには会いに行ったらしかった。自分には手紙一つ寄越さないくせに、と皮肉の一つも言いたい気もしたが、どこか、ロロノア・ゾロらしいなとも思えた。
最も多いときで小国の国家予算並みの懸賞金をかけられた天下の剣豪は、約束の通り己の船長を海賊王にしたあと、表舞台から名を消した。死んだという話は聞かないから、今日も世界のどこかで三本刀を気ままに振るい、大酒をくらいながら自由に生きているに違いない。
昔の縁とは引き合うものなのか、ゼフと話したあとに店舗へ降りて外へ出ると、下働きの男がサンジへ郵便を持ってきた。差出人の名を聞くとナミだと答えたので、ひったくるようにして封筒を奪い封蝋を切った。簡単な時候の挨拶から始まった手紙は、ナミを含む一味の近況が綴られており、また連絡すると結んであった。サンジは読み終わるなり手紙を抱きしめて、その場で回った。
「あぁ愛しのナミさん! あなたはいくつになってもおれの心を掴んで離さない!」
「オーナー、その人のこと好きですよねぇ。以前店に来たときもメロメロになってましたもんね。海賊王の右腕だった人でしょう? いいなぁあんな美人が右腕だったなんて。海賊王にもなると色んな役得が」
思うより先に脚が動いた。妄想を喋っていた男の尻を蹴り上げる。相当手加減したが、若くて細い身体は見事に吹っ飛んだ。痛い! ひでぇ! と喚く男に、サンジは鼻息も荒く吠えた。
「馬鹿野郎! ルフィとナミさんはそんなんじゃねぇよ! 大体、海賊王の右腕は…っ」
クソマリモ野郎、叫びかけた口を噤んだ。言ってどうなる。どうにもならない。ルフィは語りの対象となるのを嫌い、数多の島と同じように表舞台には最後まで立たなかった。結果、正史で語られず口承として残った麦わらの一味は、実像から大きくかけ離れた。サンジでさえ、巷に流布する自分の噂話には顔を顰めるほどだった。
サンジは一拍置いてタバコに火をつけた。
「なんだお前、まだいたのか」
「いま蹴り飛ばされましたが!?」
「くだらねぇことを二度と言うな、次は炭にする」
「なんて横暴な人だ…」
服についた砂を払いながら立ち上がった男に、「いつまでも遊んでないで仕込みの手伝いをしてこい」と言って手で追い払う。男は蹴られたところを痛そうに撫でながら、店の裏口へと走っていった。それをため息とともに見送ってから、サンジは店の上に広がる空を見上げた。
いつからかナミは連絡に電伝虫ではなく手紙を送ってくるようになった。今や古風な封蝋は、開封の形跡を疑え、という暗黙の警告だった。一線を退いたサンジには耳に入らないことも多い。また、権力を持つ者たちの勢力図が変わりかけているのかも知れなかった。世界屈指の海図を描いた航海士を欲しがる連中はいつの世にもいる。今のナミを簡単にどうこうできる連中は少ないだろうが、逆に言えば、それでも襲ってくるならば相応の相手と言えた。
ルフィが海賊王になるという夢を叶えた先に何があるのか、あのとき真に予想できていた者は誰もいない。あのロビンでさえ、今の一味を取り巻く現状を正しく想像できていたかは疑わしい。それでもロビンは世界が変わる方に賭けた。旧体制が倒れた段階でロビンは賭けに勝った。だが、その最初の引き金を引いた一味が、当時夢見たほどには自由でないならば、それは果たして勝ったと言えるのか。
手に入れたはずの自由とは、一体なんだったのだろう。その自問が頭をかすめるのは、いつもこういう瞬間だった。
店の三階にある自室からは港が一望できる。島同士の移動に船しか使えなかった時代はすでに過去となった。海には列車が走り、空を飛行する乗り物が飛ぶ。今はまだどちらも本数が少なく、一度に運べる人数も僅かだが、いずれ船での移動は時代遅れになる。時代の最先端を駆けたあの頃が、最近ひどく遠い。今や取り残されないようにしがみつくのが精一杯だった。
その日の夜、サンジはナミに返事を書いた。愛しのナミさんへ、から始まるそれは二十枚以上に及んでもペンが止まらなかった。少しでいい、せめてこれを見て笑ってくれ、と祈るような心情だった。
北の海にも多少の季節の移り変わりはある。二つ季節が巡ったある日、サンジのレストランにウソップとフランキーが連れ立ってやってきた。よく会っている方のウソップでさえ数年ぶりの再会だった。
世界政府を相手にしていた頃は改造に改造を重ねていたフランキーの身体は、二十年の間に随分と人間らしく戻っていた。最後に会ったときには巨大な鉄だった二の腕も、今はもうアロハシャツの中に収まるサイズになっていた。とはいえ、北の海にやってきて陽気なアロハシャツを着ているあたり、暑さ寒さの感覚はどこかズレているのかもしれなかった。
ウソップは船を降りたあと、一度は故郷の村へ戻った。浴びるほど酒を飲んだ夜に、好いた女と生きるのだと言っていたのを聞いたこともあった。だが、生粋の冒険好きが大人しく暮らしていられるわけもなく、数年もしないうちに村を飛び出て、世界を放浪し始めた。サンジがウソップによく会っていたのはこの頃だった。
ここから先はロビンから聞いた話になる。ナミが一味に分配した金を元手に、いつまでもふらふらしているウソップを見かねたのか、ウォーターセブンで解体業に戻っていたフランキーが声をかけたのだという。当初ウソップはその申し出を渋ったらしいが、フランキーはウソップの大言壮語の言い訳を呆れもせずに聞いてやってから、「冒険に出るにも金はいるだろ」と呵呵大笑して翻意させたらしい。実際にはフランキーが声をかけたとき、すでにウソップの金は底をついていた。本音では、フランキーからの申し出は喉から手が出るほどありがたかっただろう。
サンジならばそれが察せられた瞬間に本人に向かって口にしてしまいそうだが、そういう浅慮なことを決してしないのがフランキーという男だった。そして今日である。港に船で乗りつけたというから大所帯でやって来るのかと思ったら、蓋を開けてみれば、連れてきたのは顔馴染みの子分数名しかいなかった。
他の連中は、と聞いたサンジに、フランキーは船に置いてきた、とすまなそうに応えた。男所帯でマナーを知らない連中を洒落たレストランに大勢で訪れるのも、と遠慮したのだという。サンジは要らん気遣いをしやがって、と渋顔で返し、店にある中でもとびきりでかい鍋釜を使って料理をこさえてやった。マネージャーが食糧庫が空になっている! と青い顔で飛んできたが、オーナーシェフの強権を発動して追い払った。
海賊として海に出ていたとき、またな、と言って別れた相手と、二度会えることは稀だった。海賊だった経験が、コックとしてのサンジの何かを変えたとするならば、「またな」という言葉は約束ではなく願いに近いのだと知ったことにある。それは明らかに料理人として生きるサンジの根幹に影響を与えた。店に来た客は腹一杯食わせて帰すことを信念とするゼフの教えに、サンジなりの輪郭でもって理解を深くした、と言い換えてもいい。なんにせよ、フランキーの船に乗る連中に飯を食わさず帰すことだけはサンジはしたくなかった。
サンジの計らいに、ウソップとフランキー以下子分たちは暑苦しく号泣した。抱きついて離さない連中を乱暴に自分から引き剥がして店に戻ると、サンジは本来の仕事に戻った。当初、明らかに店の雰囲気にそぐわない一団を見た客たちは、遠巻きにして距離を置いていた。それを即座に察したウソップは大仰な謝罪口上を述べて場を和ませ、フランキーが場を騒がせている詫びにと、そこにいた全ての客の支払いを買って出た。
そこから先はただの宴だった。いいやつらと美味い飯と美味い酒があれば、見知らぬ者同士の壁もいとも簡単になくなる。例えそれが一夜のことであってもその経験は少なからず個人の記憶として刻まれる、とサンジは信じていた。それはルフィが海賊王になったあの日に、図らずも世界に示して見せたものと本質的に同じものだった。人は人との垣根を越えられる。些細で、簡単で、しかして何より難しい、人間の根源的な可能性だった。
店を閉められたのは、閉店時間を遥かに押した深夜になった。山と積まれた皿や鍋釜を前に途方に暮れるスタッフに、あとはおれがやるからと伝えて帰らせたあとは、麦わらの一味の三人きりになった。船にいた頃と同じように、三人でキッチンとフロアを片付ける。二人は手慣れたものだった。
だが、拭き上げた皿を棚に片付けようとしたフランキーが、突然「おい!」と大きな声を出した。巨体が何かに引かれたように一歩、また一歩と歩く。そしてあるところまで行って止まると、「こいつは、お前…」と言うなり、そのまま言葉を失い立ち尽くした。サンジは肩越しに振り返った。口に咥えたタバコの火が揺れる。フランキーは黙ったまま、太い指でつるりと曲線を描く造作棚を撫でていた。長い間があった。やがてフランキーはすん、と鼻を一度啜ってから言った。
「…ウソップ、見ろよ。この棚はサウザンド・サニー号にあったやつだ。そうか、サンジお前。店に置いてくれたのか…」
「サニーの!? マジかよ!」
皿を拭いていたウソップが嬉しそうな声を上げた。二人は気づいていないだろうが、この店にある皿もカトラリーも、サニー号で使っていたものだ。もうこんな量を一度に使うことはないだろうからと言って、ナミが餞別にくれたのだった。一度は辞したサンジにナミは涙声で「バカね」と言い、「さよなら、わたしたちのコックさん」とサンジを抱いた。
「おれがこの店を出すときに、ナミさんにお願いして外させてもらったんだ。お前に一言言えたらよかったんだが、勝手して悪かったな」
「おれとお前の仲で水くせぇことを言うんじゃねぇよ。ハハ、この傷はルフィが皿を落としたときにできたやつだ。あいつは海賊王にはなれたのに、皿洗いの一枚もまともにできなかった」
フランキーは目を細めた。その視線の先には何もない。ただ明かりを落としたフロアがあるだけだ。だが、サニー号の喧騒が目に見え、耳に聞こえてくるようだった。
絶え間ない波の音。ルフィが騒ぐ。ウソップとチョッパーが同調する。ナミが雷を落とし、ジンベエがそれをとりなす。やがてヨホホ、と笑う声に重ねて、陽気なバイオリンの調べが始まる。
サンジは新しいタバコに火を付けた。カン、というオイルライターの音が静かな店内に響く。
もう終わった、戻らない輝かしい日々だった。
店の片付けを終えると、サンジは三階の自室へ二人を招いた。そこで互いが知る仲間たちの近況を伝えあった。店がある北の海から離れられないサンジと違い、二人は商いを理由にあちこちの海を渡っていた。その二人より自由に世界中をまわっているのがルフィだった。海賊王になるという悲願を叶えたら、さぞ退屈をするだろうと皆が思っていたが、それが杞憂であったことはすぐに知れた。
一度だけ故郷に戻ったルフィは、文字通り世界の全てを見て回る旅に出た。それはつまり、この世界にある全ての島に足を運ぶということだった。そこに島民がいれば語り合い、無人島であれば動物たちと遊ぶ。東から始めた旅は、いまはもう南へと至ったという。
初めてその話を聞いたとき、サンジはあまりの規模の大きい暇つぶしに呆れ果てたのだったが、己が一人と定めた船長らしい生き方は誇らしくもあった。今更ルフィをどうにか出来る者が世界にいるとも思えない。その意味でもルフィの新たな旅は順風満帆に思えた。
だが、一味にはサンジより心配症の世話焼きが一人らしい。死んだ兄からルフィを託されていたジンベエは、それを理由に、その頃はまだ東の海にいたルフィを追いかけていった。
その話をウソップとフランキーは立ち寄った魚人島で聞いたのだそうだ。老いてますます壮健なレイリーは、豪快に笑いながら言った。
「ジンベエは義理堅い男だが、今回に限って言えば義理はただの言い訳だろう。ただ一緒にいたいのさ。船長とはそういう存在だ」
だが、それを聞かされた二人は随分複雑な思いを抱えたらしい。ウソップは空になったグラスを床に強く置いてから、ぐずぐずと恨み言を口にした。
「ジンベエも水くせぇよな、おれにも一言あってもいいじゃねぇか」
「なんだと? お前にはおれが声をかけてやったじゃねェか。それともなにか、フランキーの兄貴じゃ不足だってのかよ」
「はぁ? そんなわけねぇよ!」
「ほんとかぁ〜?」
「こんなことでお前に嘘をついてなんの益があんだよ! そりゃあ…またルフィと冒険ができたらと思うのも事実だが、いつまでもルフィといるだけってのも成長がないじゃねえか…」
良くも悪くもウソップの言葉には裏表がない。語った言葉は偽らざる本音だろうと思えた。同じように思ったらしいフランキーは一瞬だけしんみりとした表情を見せたあと、ウソップの背中を思い切り叩いた。いてぇよ! と喚いたウソップはもういつもの顔に戻っていた。
サンジは足を折って立ち上がり、冷蔵庫からワインボトルを二本取り出した。擦れ合ったガラス瓶が硬質な音を鳴らす。手を伸ばしたフランキーにそれを手渡してやりながら、そういえば、と話を変えた。
「少し前にナミさんから手紙が届いたぞ」
「あいつ、なんかきな臭いことに巻き込まれてやしねぇだろうな? 電伝虫を鳴らしても出ねぇしよ」
眉を顰めて言ったフランキーに、サンジは肩をすくめた。ナミの手紙は何度も読み返したが、本人に関する詳細はほとんど何も書かれてはいなかった。だが、一つだけ確かなことがある。ナミは今、空島にいる。空島で空図を描いている。時代に取り残されそうになっているサンジとは違い、航路から空路へと移っていく時代の風向きを、誰よりも早く感じ取っていたのだろう。
いま、世界中の船乗りたちがナミの描いた海図を頼りに海を渡るように、いつか、ナミの描いた空図をもとに鉄の塊が空を飛ぶ日がやってくる。その未来は光の塊のように眩しくもあり、まだ置いていかないでくれと情けなく取り縋りたくもあった。
翌朝、サンジは眠る二人を置いて、日課となっている市場への買い出しに出た。北の海の太陽は色が薄い。斜めから射した陽光が、凪いだ海面を白く輝かせる。空気がうっすらと冬の気配を連れてきていた。サンジは冬が好きだった。北で育ったせいか、冷えた空気は身体の輪郭を明瞭にしてくれる気がした。
引いていった荷車はすぐにいっぱいになった。最後に寄った魚屋では、いつもの三倍買い込むサンジに、馴染みの店主が理由を尋ねてきた。「昔の仲間が来てんだ」と応えると、店主は店先に積まれていた牡蠣をバケツにいっぱい入れて「持っていけ!」と差し出してきた。サンジは遠慮なく厚意を受け取り、荷車に乗せた。
店に戻り、買い込んだ食材を片付け終える頃、階段からウソップが降りてきた。髪の毛が寝癖で四方八方に跳ねている。あれだけ飲んだのだから当たり前だが、ウソップがそこにいるだけで体臭が酒くさい。
「フランキーが起きてくる前に風呂に入ってこいよ。その間に朝飯作っておいてやるから」
「風呂は?」
「ベッドルームの横」
応えると、ウソップはふらつく足で降りてきたばかりの階段を上がって行った。
冷蔵庫から三日低温発酵させたパン生地を成形し、オーブンに入れる。その頃、ようやく二人が揃って階段を降りてきた。ウソップに教えられたのだろう、一応シャワーは浴びたらしいフランキーだったが、昨日着ていたアロハシャツはくしゃくしゃだった。そのシャツに負けないくらい、くしゃくしゃの顔で現れたフランキーが、すまねぇなぁ、と項垂れている。なんだと思ったら、朝起きたら部屋が綺麗だったというだけだった。サンジは呆れてため息を吐いた。
「お前…おれが誰の船のコックをやってたのか忘れたのか」
「そうだけどよ〜何から何まで悪いじゃねえか」
「くだらねぇこと言ってねぇで、さっさと朝飯を食えよ。出港まで時間がねぇぞ」
「サンジ〜!」
「暑苦しいな! まだ酔っ払ってんのか!」
抱きついてきたフランキーを交わして、作ったばかりのスープと、焼きたてのリュスティックをテーブル席に並べてやった。貰った牡蠣はオイル漬けにした。あとで煮沸した瓶に詰めて渡してやるつもりだった。
魚介の骨と根菜の切れ端で作ったスープは、二日酔いの身体に染み渡ったらしい。二人は美味い美味いと三杯を平らげた。窓から射し込む太陽は淡く、静かな朝だった。
港に向かうという二人に、作ったサンドイッチと、日持ちするように焼きしめたブール、それから牡蠣のオイル漬けをあるだけ渡してやった。港まで見送りに行かなかったのは、行けば「おれも乗せてくれ」と口にしそうだったからだ。港へ向かう道の分岐まで見送りを申し出たサンジに、ウソップがそういえばよ、と言って振り返った。
「おれは昨日、お前にチョッパーの話はしたか?」
「子どもが産まれたって話は聞いたが」
「それじゃねぇ。少し前に珍しくあいつから電伝虫が入ってよ。お前に聞きたいことがあるって言ってたんだよな」
おれに? と言って、サンジは片眉を跳ね上げた。チョッパーは今やドラムの国医になっている。おれのを鳴らしゃいいじゃねぇか、と言いかけたが、おそらくチョッパーの住む東の海と、サンジの住む北の海とでは通常の電伝虫では届かない。
「美味い離乳食の作り方でも聞きたいんじゃねえか?」
フランキーが笑ったとき、ちょうど道の分岐の前だった。腕からこぼれんばかりの食糧を受け取っていた二人は、その食糧ごと、サンジの肩に腕を回してぎゅっと抱きしめた。人肌の温かさに胸が詰まる。またな、とサンジは言った。
久しぶりに口にしたその言葉は、やはり祈りのような三文字だった。
この日を境に、島の空気が一気に冬めいた。若いスタッフを数人誘って森へ入り、薪にする丸太を切り出して店の前まで運ぶ。斧を使って薪を割っているのを横目に、サンジが鮮やかに足だけで割ってみせると、新入りが目を輝かせた。そんなことで喜ばれるとは思わず、少し照れくさかった。
冬が深まると、北の海はやがて凍りはじめる。破砕船が波を掻き分けられるうちはまだいいが、いずれ分厚い氷がそれをも拒む。冬季、凍った海の上を走るのは、両脇にスキー板のような巨大な板を備えた船だ。板の底には滑りを良くするために鯨の油が塗られている。冬の間、島と島とを繋ぐ生命線のような船だが、客商売であるサンジの店にとっても、文字通りの生活の支えであると言えた。
店と自室にある薪ストーブに火が点る頃になっても、チョッパーからの連絡は入らないままだった。空からちらつく雪は、否応なくドラムに住む船医を思い出させる。フランキーが叩いた軽口が用事であれば何の問題もないが、果たしてそんな些細なことをあのチョッパーが言うだろうか、とも思った。本格的に吹雪く前に一度手紙でも出すか、とそう思い始めていた。
その日は、底冷えのする夜だった。新月のために月明かりもない。こういう夜、人は温かいものを欲する生き物らしい。いつもより客入りのいい店で腕を振るい、最後の客にデザートを出し終えたところで、サンジはマネージャーに自室へ行ってくると告げた。寒くなってくると、店が終わる少し前に薪ストーブに火を入れに行くのはサンジの習慣だった。二階の客席から三階へと続く階段を登っていく。螺旋をくるりとまわり、階段の木板に革靴を乗せた瞬間、背筋を電流のようなものが走った。
空気が変わる。そこに〝何か〟がいる。
反射的に見上げた先には、薄く開いた扉が風に吹かれてわずかに揺れている。
揺れている? 〝なぜ〟だ。
サンジは浮かんだ疑問を知覚するなり、階段を三段飛ばしで駆け上がり、体当たりするように扉を開いた。
その瞬間、強い夜風が長い前髪を払った。皮膚を裂く冷たい風が頬を走る。開いた出窓からは、氷を掻いたような細かな雪が冷たい風とともに室内に吹き込んでいた。
「よぅ、ぐるまゆコック。何か食わせろよ」
低い声が暗闇から響いた。相対するそれは、獣の気配そのものだった。その気配に、眠っていた感覚が叩き起こされる。サンジはゆっくりと片足を上げた。足の先に炎が灯る。
その男は、まるで闇に溶けるようにしてそこにいた。それはロロノア・ゾロ、その人だった。
いつだって、サンジの前に過去は不意に現れる。
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(続く)
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