氏名欄/文字恋情

 明日の夜まであの人が帰ってこなかったら、一回担任に相談しよう。
 僕がリビングの真ん中で、左手に持ったプリントの文面を見つめてそう決めた数秒後、玄関の鍵穴にキーが差し込まれて扉が開く音が響いた。
 一瞬怪訝な気持ちになる。ここの鍵を持っているのはあの人と僕だけで、こうして扉を開けて入ってくるのは彼くらいだとわかっていても、本当にあの人が帰ってきたのか確信がもてなかった。あの人は家を空けることが多くて、それに加えて帰宅時間も僕の生活とはまったくかみ合わないものだった。
 だから、彼の帰宅に居合わせるのはもしかしたら初めてかもしれなかった。
 意味もなく緊張した。

 僕があれこれ逡巡しているうちに、リビングの扉が開いて、帰ってきた家主と目が合った。
 「……あ、おかえりなさい……」と言うとあの人は短く「ああ」とだけ答えた。
 あの人は手に持っていたボストンバッグをリビングのソファの上に置くと、僕のほうをちらりと見やって「それは?」と訊いた。視線で、「それ」が何を指しているのか分かった。
 「学校に出すプリントです。保護者のサインが必要で」と僕が短く言うと、彼は「分かった。ちょっと待ってろ」と言ってリビングを出て行った。
 洗面所から水の音がしてそのあと、彼の自室の扉が開く音がした。

 僕はどうするのが正解なのかわからなくて、リビングに突っ立ったままだった。
 またプリントを見つめる。
 保護者:と書かれた署名欄、その下の生徒氏名:の欄。
 そこまで眺めて、自分の名前を書いていなかったことに気づいた。しまった、忘れていたと思うのと、リビングの扉が開くのはほとんど同時だった。
 リビングに戻ってきたあの人は、上着を脱いだぶんいくらかくつろいだ雰囲気をまとっていた。
 僕がとっさに「あ、まだ自分の名前書いてなくて、今から書くので」と言ったをあの人は確かに聞いた。聞いた上であの人は「ああ、一緒に書くから気にすんな」と言った。そう言って僕の手からプリントをするりと引き抜いた。心臓の拍動が強くなった気がした。

 ソファに座って、ペンであの人はまず保護者欄に自分の名前を書いた。僕はまた突っ立ってその様子を見ていた。
 真田徹郎。
 とめはねのしっかりした端正な字。
 手は生徒氏名欄に移って僕の名前を書き始める。
 見ないようにするべきだと思った。だけど目をそらせなかった。見ずにはいられなかった。
 氏名欄にさらさらと自分の名前が書かれていくのを見ながら、はやくなる自分の鼓動をつよく意識した。自分の心臓の拍動の音が水位をあげるように喉まで迫ってくるような気がした。
 和久井譲介、と書き終わって、あの人は僕にプリントを差し出した。僕はそれを受け取って「ありがとうございます。」と言うのが精一杯だった。
 彼がソファから立ち上がってキッチンへ向かいながら、「今度サインを書いてほしい書類があったら、そのテーブルの上に置いとけ。もし俺が提出期限まで帰ってこなかったら、代筆でも、担任に言うでも、お前の好きなようにしておけばいい」と言うのをぼんやりした頭で聞いた。「はい」とうまく答えられたかわからない。声がかすれていたかもしれなかった。

 自分の部屋の扉を閉めた瞬間、その場に座り込んだ。
 何も感じないことを自分自身に証明しようとしてあえなく失敗した。見なければよかったとつよく後悔した。
 あの人の手には迷いがなかった。自分の名前と同じくらい書きなれた手つきで僕の名前を書いた。
 あの人の手が僕の名前を白い氏名欄に記していくのを頭の中で反芻する。心臓の輪郭をそっとなぞられているみたいで、息もうまくできなかった。心臓どころか、からだの、存在の輪郭をなぞられたようで、暴れる気持ちをおしとどめるように体に力を入れないと、この動揺をやり過ごせなかった。
 ため息をついた。
 
 あの正確に動く手が、僕の体にメスで線を引いたこともあるのだと思うと、今度こそとどめを刺されたような気持になった。

 こんなことで心を打ち砕かれるなんてバカみたいだと思った。
 床にへたり込みながらそう思って自分の恋心を慰めてやることしか、今の僕にはできなかった。

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