おにぎり
「あれ、草若さんお久しぶり。」
「久しぶり、てこの間オレが昼に食いに来たのからまだ半月も経ってへんで。」
「そうかて、あんた最近夜はご無沙汰やん。」
扉を開けるとそこにはいつもの寝床の光景があった。
最近白髪染めを使って頭が明るい茶色になってるおかみさんに、仏壇屋のおばはんの隣には床屋の磯七さん。
「草若もまあ、まだあの天狗座の向かいにおんのやろ。寝てても中華料理が出て来る場所におるなら、ここまではなかなか来えへんで。」
「寝てても、て……そんな三年寝太郎みたいな美味い話があるかいな。朝くらいは、ちゃんと作ってんのやろ。」
「まあなあ。」と頭を掻いた。
寝床のおかみさんの挨拶にツッコミを入れただけやぞ。
席に着く前だというのに機関銃のようにやいのやいのと言われて、かったるいことこの上ないけど、最近のオレの暮らしに足りんかったんはこれやな、と思ってしまう。
おばはんも今ではすっかりばあちゃんの年になってしもたけど、口だけはまあ達者やな。
「日暮亭出来て暫く経つし、そろそろ間借りみたいなアパートから出る金くらい貯まったんと違うか?」と磯七さんから水を向けられて、苦笑した。
「まあ、そら冬は寒いし夏は暑いし年中うるさいしでええとこないですけど、あっこ、落語の稽古だけは周りの部屋のことは気にせんと出来ますから。」
「周りがそれ以上にうるさい部屋か一軒家でないと、稽古は厳しいか。それはまあそうやな。かといって、交通費が掛かるの考えたら、郊外出るのも厳しいやろ。」
「引っ越しても、まだうちにみかん食べに来てるさかいな。」と仏壇屋のおばはんが言った。
「……たまには差し入れしてるで。」と返事をする。
「そら、昔遠慮もなしに食べてった分を返してるだけと違うん。」
「食い逃げに飲み逃げよりはマシと違うか? アレ、先代草若の十八番やったやろ。」という磯七さんのフォローはまったくフォローになってない。
「草若さん、飲み物はどないする?」とおかみさんの助け舟に「ウーロン茶で。」と返す。
「どうしたん、仁志。何か病気でもしたんか?」
ほんまにさっきから食いつきええな~。
「いや、そんなんとちゃうて。後で飲みたなったら頼むわ。」
禁酒ていうか、金ないだけていうのもあるんやけどな、と言いながらなんか適当に頼む、と言ったら「今日は金目の煮つけが美味いで、」と奥から声が聞こえて来た。
魚の煮つけになると、酒の肴ってよりはただの夕飯やな。
「そんなら、それと焼きおにぎりも頼むわ。」
「そういえば、炊き立てのご飯やから自家製梅干し入れたただの塩むすびにも出来るけど、草若さんどないする?」
そっちのがすぐ出て来るで、と言われたらそら頷くしかないな。
「そういえば、仁志、磯七さんとこの近くに出来た甘味の店、あんたあの行列見てたか?」
「新しい店?」
どっか潰れたんか、と聞くと「ほら、三代目の草若さんがまだいてはったときに、草々くんやら借金取りが玄関のガラス割らしてしもて、あんたんちにもよう出入りしてたいつものガラス屋さん。最近土地代払っていけんし、車置くにも往生する、言うので店仕舞って郊外に引っ越してしもたんや。その前に、あすこの出戻りの娘さんが綺麗に内装整えて、権利もろたらしいてな。」と長々しい答えが返って来た。
なんや途中で妙に聞き捨てならん話聞いたような気がするけど、あの頃はほんま、オレとオヤジはずっと断絶状態で、オレんとこには借金取りが来なかったのが奇跡みたいなもんやった。
まあ今思えば、天狗芸能の稼ぎ頭やったこともあるし、何か裏のとこで口利きがあったからかもしれへん。
「ああ、あったなあ、草々のガラス割り事件。」と磯七さんがしみじみしている。
「手数料浮かすのに自分で填めようとして落として割ったガラスまでツケにされてもうて、てうちに来て愚痴ってたわ。懐かしいなあ。若狭ちゃんが来てからそないなことも少しずつなくなってったけど……草若さん、ちゃんとあのツケ払っていったんやろか。」
「……。」
やっぱりあの宝くじ当たってたら良かったとか、今更考えたくないで。
「そんで、その跡地に何が出来たって。」
「甘味屋や、甘味。試しに行こうかとしたんやけどな、並ぶの面倒になってしもて。」
「近所にあるんやから、今は無理に行かんでもええんとちゃうか。家でコーラにバニラアイス浮かべてるうちに落ち着くやろ。」と磯七さんが合いの手を入れる。
「あたしはメロンソーダがいいんやけど、最近自販機でも見かけんようになってしもたからなあ。」とおばはんが箸を振り回した。行儀悪いなあ。
「それそれ。ナタデココ入りのなんちゃら、とかに取って替わられてしもて。」とおかみさんが相槌を打つ。
「仁志、あんた、あの子も連れてったらどうや?」
「あの子て、オチコちゃんではまだ歯も生えてへんのやないか?」
磯七さんの話しを訂正しようかとした矢先に、「はい、草若さん。おにぎりとお味噌汁、それから金目の煮つけ。」と言って出て来た。
並んだおにぎりはふたつ。塩むすびて聞いたけど、ぴかぴかのおむすびには、両方海苔が巻いてある。
「お、おにぎりに海苔付いてんのか。旨そうやな。」
「こないだのちらし寿司にきざみのり使ったとき、久しぶりに食べたらうまいなあ、いうて、うちの人が今、調理場で炙って食べてんの。」
「ほとんど賄いやないか。」
「お咲ちゃん、今もたいがい始末やねえ、」と磯七さんもおばはんも笑ってるけど、パリッとした海苔は確かに旨そうに見える。
あんぐり口を開けたとこでガラガラと扉が開いた。
「お咲さんこんばんは、草若兄さんいてますか?」
今夜の女神登場や。
喜代美ちゃ~ん、今日も可愛いで!
って、おにぎり片手では格好が付かんなあ。
「あ、喜代美ちゃん、こっちやこっち。」
「仁志、あんた大口開けてんと手ぇ振って挨拶しいな、てあらあら、こんばんは。」
おばはんに、四草とこの子が、こんばんは、と返す。そのおじぎがいつもより深い。
「おちび、眠そうやな。」
「ご飯食べて、小草々くんと一緒にさっきまでオチコの相手もしてくれてたから余裕かな、て思ってたんですけどさっきいきなり電池が切れてしまって。」とふたりでこそこそと話してると、磯七さんさんが、お、こんばんは、と言っておちびにカウンターの方の椅子を勧めた。
「この子、大丈夫かいな。」
「いや、普段ならカウンターでもええねんけどな。」
まあふたりとも、四六時中子育ておかあちゃんしてる喜代美ちゃん、のこと一息付かせたりたいと気を遣ってやってんのやろな。
「なあ若狭、今日この子来てたんか。珍しいなあ、日暮亭、四草のトリとちゃうやろ。」と磯七さんが言った。
「えっ……あんた、もしかして日暮亭の番組の出演者全部覚えてんの?」
「そんなわけないやろ。今日はたまたま横通ったさかいな。こないしてちらっと見るわけや。」
茶番やな~。
どない好きでも毎晩通うんは無理やな、と磯七さんがギブアップして以来、とりあえず草若一門が出る時は見に行くで、と言っているのはおばはんも知っている。
喜代美ちゃんも、日暮亭出来て二年目に入って、千葉のネズミの国みたいに、日暮亭にも年間パスみたいなもん作ったらあかんやろか、と言っていたけど、今はまだ実現出来てない。ここがオレの特等席じゃ、と勝手に決めるおっさんが幅を利かせるのもどうかと思うけど、まあ磯七さんくらい落語が好きな人間がこないしてちゃんと通いつめてくれる方が、収入的に嬉しいんやろうな。
「草若兄さんは今から晩御飯ですか?」と聞かれて頷いた。
「そやねん。」
「そのおにぎり、美味しそうですねえ。いつもの焼きおにぎりも好きなんですけど、今夜はお米がつやつやしてて、海苔がパリッと……。」
喜代美ちゃん、それちりとてちんのモードに入ってるで……。
「なんや、若狭、夜ご飯まだ食べてへんのか?」と磯七さんからつっこみが入る。
「私もみんなと同じ時間に食べたんですけど、その後もロビーからヘルプ来て、立ったり座ったりしてたらあんまり食べた気ぃがせんで。」
「そんなら、若狭ちゃんにもひとつ作ってあげようか?」
焼きおにぎりから値段百円引きにしとくわ、とおかみさんは訳知り顔に言ってるけど、消費税が厳しい、言うてこないだ百円上げたばかりやからほんまはプラマイゼロやで。
「ほんまに腹減ってんのなら、手ぇ付けてない方食べてもええで。」
「ええんですか?」と喜代美ちゃん、ほんまに食いつきがいい。
「ええやろ。」とこっちが口にする間にいただきます、と合掌して、ひょいパク。
ああ~、腹減ってるときの四草でもそこまで早くないで。
気持ちは分かるけど、もうちょっと噛んで食べてな……。
内弟子修行中より手早く胃の中に納めてる様子を見てると、おかあちゃん業の大変さが垣間見える。
「なあ、このおにぎり、もうひと皿、オレの分も頼めるか?あと、おちびがもし起きたらジュースかウーロン茶出したって。」
「はい、ただいま!」
オレもさっさとメシ済ませて帰ろ。
おちびの背中は、今にも船を漕いでるようにも見える。
大通り出たらタクシー拾えるけど、ある程度はおぶってやらんとあかんな、今夜は。
そう思った時に、またガラガラと引き戸が開く音がした。
「こんばんは。」
「お、四草来たんか。」
「四草兄さん、こんばんは。」
「いやあ、四草くん、今日はどっか滋賀の方で独演会やったんやろ、ひこにゃんのお饅頭食べて来た?」とおばはんが笑っている。何で知ってんのや、と思ったけど、そういえば日暮亭のロビーにチラシ置いてあったな。
「饅頭ではないですけど、焼き鯖の載ったうどんは食べて来ました。」
「へえ、滋賀にもあるんか、焼き鯖。」と磯七さんが感心した顔をしている。
「僕は知らんかったけど、そうみたいですね。……子どもはどうしてますか?」と言うと磯七さんとおばはんはふたりの間の椅子に座った子どもを眺めて、黙ってしーと言った。
……ああ、寝てしもたか。
「アレっ、そういえば、お前、飲み会あるて言うてなかったか?」
「終電の前に戻りたかったんで、途中で抜け出してきました。」
……いや、オレ寝床来るて置手紙してへんぞ?
「四草さんはここで飲んでったら、て言いたいけど、今夜はあの子も寝てしまったし、難しそうやね。」
「そんなら、オチコ寝かせてあげたいし、私も一旦帰ります。草若兄さん、ご馳走様でした。お咲さんここにお代おいていきますね。」
「若狭ちゃん、またね!」
「またな、若狭。……ってほんま台風みたいにして行ってしもたなあ。」
「僕らも帰りますか?」と四草が言った。
「この煮つけ食ってからな。」
「それなら待ってます。」と言って四草はオレの前に座った。
「お前なあ……そんな見られてると食べづらいで。半分食うか?」
「四草くんもここで食べていけばええやない。おにぎり、まだ作れるで。」というお咲さんの言葉に「僕は後で食べますから。」と四草は言って、またこっちを向いた。じい、と見られると妙に居心地が悪い。
なあ、お前、それ何か含み持たせてへんか?
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