老眼鏡


お前そろそろ老眼鏡とかかけた方がええんとちゃうか、そうですね、と会話をした次の日に、ほんまに買うて来よった。
「……って百均のやんかコレ。」
ちゃぶ台に置いてあった眼鏡を取り上げるとこれがまあ軽い。
こんなんで何か良く見えたりするんかいな。テレビの画面もよく見えへんし、四草の顔は……妙にゆらゆらしてる気がする。
「なんや底抜けにくらくらするわ……。オレには合わんな、これ。」
「今は必要ないからそこの眼鏡ケースに仕舞っといてください。」
「おー。」と返事をしてこれも百均かいな、と思う眼鏡立てに入れた。
「これも定位置決めとかんとあかんな。どこにしたらええ?」
「テレビの横とかでええんと違いますか?」
分かった、と返事をしてリモコンの横に置いてみる。この辺もそろそろ拭いとかなあかんな。埃が落ちてるがな。
「それにしても、ほんま、適当に買うてきおったな~。」
蔓のとこが黒くて面白みのない、こういうの郵便局とか病院とか役所とか行くと置いてある、持ち出し禁止てシールが貼ってあるヤツ。
服はそれなりに洒落たのを着てる男やと思えば珍しいし、細々したもんで金を使いたない男の買い物と思えば逆に納得できる。
「コレまさかどっかから持って来たんとちゃうやろな。」
殊更にからかおうと思って言うた訳とちゃうけど、四草は真面目腐った顔で「今日のレシート出しましょうか?」と言った。
「まあ、そんなんでも普段の日常生活には支障ないですから。」
「お前なあ~、支障あるから買いに行ったんと違うんか? オレと違て、昔っから稽古場の本棚から持ってって良く本読んだりしてたやん。お前は覚えてるかも分からんけど、昔の稽古場にあった本棚、一列ごっそり本がなくなってたから、新しい内弟子――ていうかお前のことやけど――取って、とうとううちに米買う金がのうなってしもたんか、ここの一列だけ古本屋に売ってしもたんやろなぁ、て思ってたら、後でおかみさんから、お前が勉強のために内弟子部屋に全部持ってった、て聞いてほんまにびっくりしたで。」と言うと、そのくらい覚えてますけど、と四草は言った。
「まあ、掃除と洗濯と家事掃除が終わったら後の自由時間は適当にしててええ、とは師匠とおかみさんからは言われてましたけど、そんなん言葉通りにとってもしゃあないでしょう。そうでなくとも、僕だけ入門も遅いし、ずっと周回遅れみたいなもんでしたから。」
オレが稽古の前か後に本棚のことを尋ねたら『シノブがなあ、月末までに本棚に戻す、て言ってたから堪忍な。』と笑てたおかあちゃんの顔は、ほんまに明るかった。
新しい弟子と相性良かったんやな、てホッとせんならんとこやったけど、あの頃は、なんやおかんの機嫌のいいのが妙に腹立たしいような気がして、二枚舌で女にはええ顔するて思ってたけど、うちのおかんまで篭絡せんかてええやろ、とかそんなしょうもないこと考えてたな。
今考えたら、考えてたことがホンマに子どもっぽいていうか……。
「何ため息吐いてるんですか?」
「いや、別になんも。……あ、老眼鏡の話とちゃうで。」
「そのくらい、分かってます。」と四草は言って、はい、と酒の代わりにコーヒーの入ったコップを持って来た。
おチビは今日は日暮亭で尊建の新しい創作が掛かる、て言うて夜席を見に行ってるところやった。
学割があるとはいえ、草々に引率してもろて袖から見学て話になれば金も掛からへん。
まあ四草は創作には全く興味ないし、オレはまあ喜代美ちゃんの作った噺と違うていうならまあええかてことで、いつもの通りの話なんやけど。
「こんなもん買うてたら、安物買いの銭失いになるて話とちゃうんか?」
なんでもかんでも安いなと買えばええもんとちゃう、と説教かましたところで百円や、財布に堪えへんて言うてたら物が増えるばかりや、てこいつもオレに言われとうないやろうけどな。
「まあ、眼科で処方箋貰て、ちゃんとしたヤツ買うた方がええのは分かってますけど、今はそれなりに見えてますから。老眼鏡とか補聴器みたいなもん、一度買ってしもたら買い替えが難しいとか聞くでしょう。」
「……お前なあ、自分で一人決めしてたらあかんで。ちゃんと医者行かな。」
緑内障とかやったらどないすんねん、と今の病状とは全く関わりのない病名を言ったら、飛躍しすぎです、と笑われた。
「そらまあ、まだええやろ、て言いながら虫歯こじらせてた人もここにいますしね。」と笑いながらコーヒーを啜ってる面憎い弟の耳を引っ張った。
「それはもうちゃんと謝ったやろが。」
「僕に謝ってもしゃあないでしょう。」
オレがあかんて言うのにチューしようとするし……虫歯移るからチュー禁止やて言うたら代わりにこれさせえあれさせえてひつこいし。いや、オレかてお前とすんのが嫌やて言うのとはちゃうけど、この年になって紐パンでせんかてええやろていうか。
虫歯になってしもたらめちゃめちゃ金掛かるから気を付けてたのに、て落ち込んでる暇もないていうか……まあ今になって思い出してしもたけどな。
「まあ、医者はほんま金掛かるよなあ。」
「兄さんがはよ行けて言うなら行きますけど。」と四草は言った。なんや妙に素直やなあ。
「付き添いが必要なら一緒に行ったるで。手を繋いでって、帰りに苺牛乳でも買ったるわ。」
「したら、そないにしてください。」
ハア?
「お前なあ、……歯医者やのうて眼医者の話やぞ?」
「苺牛乳の代わりにきつねうどんでもええですよ。」
……奢って貰えるならなんでもええんかいな。
「ほんまに、いくつになってもしわいやっちゃなあ。そもそもこの辺に立ち食いの店とかほとんどないやんけ、梅田の辺りまで車出してもええけど、駐車が面倒過ぎるで。まあどうしても、て言うなら運転手したってもええけどな。」
「眼医者の帰りに眼鏡屋寄って、適当にフレーム選んで、適当にメシ食ってから帰りましょう。」
それやと眼医者抜きにしたら、ただのデートやんけ……。
「おチビ抜きで?」と聞いてみると、四草は眉を上げて「まあ子どもには後でフォローしたらええんと違いますか?」と言った。
何食べるか決めといてください、と言われて、そうやな~と言ってスマホ開けてみようかしたら、そういうの後にしてください、て言って男が顔を近づけてきた。
キスされるんちゃうか、と思って目をぎゅう、と瞑ると、「眼鏡にしたらこういう時、外すのが面倒になると思いますよ。」からかうような声が耳元で聞こえて来た。
このドアホ、と噛みつくようにキスをすると、四草の口元が笑った形になっている。
……ほんまに腹立つやっちゃで。

powered by 小説執筆ツール「notes」

31 回読まれています