惹かれ、光に焦がされて|《下》




 二人が魔幻宮殿を訪れた翌朝。
 モカより早く目覚めたシンクは旅具を整理し、宮殿で何かしらの仕事を得る為の情報収集に向かう事にした。

「それじゃあ、俺は暫く留守にするから」

 目覚めて間もないモカに一声掛け、部屋を後にするシンク。程なくして鈍い音を立てながら扉が閉まる様を、モカは布団の中から黙って見送った。
 鉛のように重い身体を起こす。未だ慣れない客室を見渡すと、中央に設置された机の上にいつの間にか用意されている小さなバスケットが目に入った。中身を確認すると様々な種類のパンが入っており、どれも真ん中から綺麗に切り分けられている。此方よりも身体を動かすのだから、律儀に二等分する必要などないのに……と思いつつ、モカは身支度を始めた。

 飾り気のないトップスとスカート。質素な組み合わせだが、彼女が着用すれば不思議と『絵』になる。柔らかな青緑に染められた絹は彼女の暗緑色の髪と茜色の瞳を引き立たせ、舞いを踊る為の服でなくとも見る者の目を惹き付けた。
 作品の鑑賞を楽しむ為に集まった富裕層の魔族達はアストルティアの民の扱いに慣れていない者が多く、宮殿内ですれ違う者達は皆自然と彼女を避けて歩いた。彼女の芸術品よりも芸術品らしい容姿と、凛とした立ち振る舞い……この二つが相まって悪目立ちし過ぎている状態だが、モカとしては見ず知らずの他者とコミュニケーションを取りたい訳ではないのでむしろ好都合だった。

 モカが向かう先は既に決まっている。長い回廊を迷う事なく進んでいると、不意に子供が啜り泣く声が聴こえた。
 ヒレを小さく震わせながら足を止める。音の方へ視線を向けると、大きな柱の陰で膝を抱えた魔族の子供が、ぽろぽろと涙を流していた。迷子だろうか……しかしあれに構っている暇はないと自分自身に言い聞かせ、再び目的地へと足を向けようとする。すると、ふと脳裏を過ぎる表情《かお》がその歩みを妨げた。

「私は……」

 自分に向かって手を差し伸べる柔らかな笑み……彼女であれば、相手が魔族の子供であっても迷う事なく駆け付けただろう。けれども今は、彼女のような立ち振る舞いを演じる必要など一切ない。その上で『自分がどうしたいのか』を改めて考えてみる。
 正直、他人と関わりを持つのは怖い。たとえそれが小さくか弱い子供だとしてもだ。唯一、共に行動する事になったシンクは『彼女の望みを叶える為』の関係でしかない。だからこそ、こういった面倒事は全て彼に押し付けていた。そう思っていた筈なのに……。

 ​──気付いたんだ! 今のモカさんの視線の先にあるのは、モカさん自身が避け続けてきた幸福な景色……誰かの『笑顔』だって事に!

 深い海の底で揺蕩っていた時、遠くの水面から聴こえた言葉を思い出す。そんな訳がない、そのような感情はとうの昔に涙と共に枯れてしまった筈だ。その証明にと、モカは子供の方へゆっくりと近付いてゆく。
 子供は涙で歪む視界に未知の異種族を映すなり、顔をしわくちゃにさせ、より一層大きな声で泣き叫んだ。そんな子供の反応にモカは表情を変える事なく、その目前で屈み込み、自身が害をもたらす者ではないという証明として何もない両手を開いて見せる。子供が恐る恐る顔を上げるのを確認すると、モカは無言のまま掌を返し細い指先に魔力を集中させた。
 冷気を帯びた空気の中で、半透明の結晶がパキパキと音を立てながら規則正しい模様を生み出してゆく。六方に広がった枝はやがて立体的な形を生み出し、一輪の花を模した氷の塊と成った。

「わあ……!」
「あげる」
「おねえちゃん、ありがとう!」

 氷の結晶が咲いてゆく様に魅入った子供は泣く事を忘れ、氷の花を受け取りながらモカに対して笑顔を見せる。その表情に、彼女達に初めて見せた『芸』の事を思い出す。

 ​──あの時のフェイ達も、こんな表情をしていた。

 しかし、それ以上の事を考えようとすると急に胸が苦しくなった。やはり自分にこの光景は眩し過ぎるものだと感じ、足早にその場を立ち去ろうとした……その時、一人の男が宮殿内に大きな声を響かせながら駆け寄って来た。

「サラ、ここに居たのか!」
「ぱぱ!」

 サラと呼ばれた子供は、小さな足でぽてぽてと男の方へ向かってゆく。冷たいのにも関わらず、その手には先程渡した花がしっかりと握られている。

「あのね、おねえちゃんがね、おはなくれたの!」
「おや、これは……」

 子供を優しく抱き上げた男は直ぐに状況を察したようで、モカに対し深々と頭を下げる。アストルティアにおける人間族の容姿と体格に近い魔族の男は、穏やかな口調と共に愛想の良い笑顔を浮かべた。

「すみません、娘がご迷惑をおかけしたようで……」
「問題ない。たまたま魔法の練習をしていただけ」
「練習にしては非常に精密な魔力の扱い方ですね……おっと申し訳ない。昔の仕事の癖で、つい分析を……」
「昔の仕事?」
「ええ。元々僕はゼクレスで魔術の研究に携わっていたのですが、訳あってゴーラに移住する事を決めた身なんです」

 相手は見慣れぬ種族の者であるにも関わらず、ペラペラと自らの素性を明かしていく男。そんな言動に違和感を感じつつ、モカは彼の話にヒレを傾ける。

「そうだ! お礼をしたいので、もし良ければ我が家に寄って行ってはくれませんか? 丁度、妻がパイを焼いている所なんです」

 少しばかり強引なお礼だが、モカは小さく頷きその言葉に従う。向かう先は魔幻宮殿の北東部……偶然にも、元々彼女が目指していた目的地と一致している。その事実に気付かぬまま、男は異邦からの旅人を自身の住処へと迎え入れようとする。

 手を繋ぎ歩く親子の背中を眺めながら、モカは昨晩の出来事を思い返した。



****



 外界と隔たれた空間で、燭台の灯火が二人の影を不規則に揺らす。クラウンはモカの対面に位置する椅子に腰を掛け、真っ白なティーカップを手に取り、紅茶の芳醇な香りを楽しみながら在りし日の思い出をゆっくりと語り始めた。

「魔界の芸術家の中にはね、究極の『美』を魔術に見出す者も少なくない。かつて僕の親友だった彼もそのうちの一人でね……」

 ゼクレス出身の彼は、かつて魔界に名を馳せた偉大なる魔術王の盲信者だった。 彼が追求したのは操心の広さではなく深さ。何よりもまばゆい光で心を灼き、生命尽きるその日まで消える事のない痕を残す……そんな芸術を体現させようとしていたんだ。
 彼の願望を叶える為には、術の対象者により強い魔力を瞬間的に流し込む必要がある。そこで着目したのが宝石魔術だった。調べに調べ上げた君なら既に知っているだろうけど、魔界のあらゆる鉱物は魔力を内包している。純度が高い宝石であれば、ほんの小さな欠片でも膨大な量の魔力を蓄積させる事が可能だ。この性質を利用し、彼は魔界中の宝石を買い占め何百年も研究を重ね続けた。しかしその過程で問題が起きた。
 彼の飽くなき探究心を満たす為の実験対象が、身近に存在していなかったんだ。魔術の研究の為と言えど、同胞である魔族の心を狂わせる事を周囲の人々は許さなかった。彼は先ず、そんな邪魔者達を操心しようとした……その時。

『君の芸術をより活かすことができる、程よい研究対象がいる。これなら同胞から文句を言われる事なく、君は真なる芸術を追い求め続ける事が叶うだろう』

 そう提言した者がいた。
 ゼクレスで秘密裏に進められていたその計画は、彼が作り上げた宝石の質量の軽さを利用し、光の河を渡らずともアストルティアの侵略を可能にするという試みだった。

「君はこの宝石に、見覚えがある筈だ」

 道化はモカの目の前に、藍色の宝石を差し出す。その輝きにモカは思わず目を見開いた。

「ああ、安心してくれ。これは彼のアトリエに取り残されていた『失敗作』だ。この中に魔力は一切残っていない。ただ、君が求める真実を証明する為に、わざわざ保管庫の奥から引っ張り出してきたんだ」
「本当に……悪趣味……」

 遠い昔の記憶が、何度も悪夢として繰り返された光景が、鮮明に蘇る。広がっていく血の匂い、徐々に失われてゆく手の温もり、全てが枯れ果てるまで泣き叫んだ一夜。幸福な旅路が、大切な仲間達の物語がこんな形で終わって良い筈がないと、認められなかったもの。ずっと抑え続けてきた様々な感情が胸の奥底からこみ上げ、動悸が激しくなる。平静を保とうとするが身体の震えを抑えられず、テーブルの上に置かれたカップの中身が微かに揺れた。
 モカはこの『呪い』を知っている。それに込められた憎悪と、狂わされた者と、失われた者を知っている。

「こうして彼等は転送魔法を利用し、アストルティアに数々の作品を放った。上位の魔族であれば魔界とアストルティアを自由に行き来する事が可能な者もいるが、そんな芸当をこなせる者はごく僅か。だからこそ、彼が生み出した作品は非常に便利なものだった。でもね、彼は程なくして気付いたんだ。如何に自身の作品が有効的に活用されていたとしても、その成果を自身の目で見定める事ができなければ意味が無い……とね」

 淡々と語られる物語を聴きながら、呼吸を落ち着かせてゆく。そして、その結末を察したモカはそっと睫毛を伏せた。

「僕はこの結末に至る芸術家を何人も見送ってきた。方向性は違えど、君もそのうちの一人だったね。けれども心の奥底から求める者ほど、それは失敗に終わってしまう……全く、世界というのは残酷なものだ」
「じゃあ、この宝石を作った男は……」
「恐らく事故だろうね。彼はその身の全てを魔力に変換し作品に成ろうとしたが、どうやらその過程で失敗してしまったようだ。彼の魔力が不足していたのか、彼の魔力に宝石が耐えられなかったのか、その真相は闇に包まれたまま……そして彼の感情を真に理解しようとしなかった者達は、都合の良い結末で物語を締めくくったようだ」
「…………」
「残念だったね。君の復讐の対象は、既にこの世に存在していない。彼の作品がアストルティアに遺っていないか観光がてら確認してみたけど、どうやら君達が手にしたモノで最後だったみたいだ」

 事の顛末を語り終えた所で、道化はいつも通りの笑顔を見せる。そして手元の宝石をじっくりと眺めながら、最後に一つ付け足した。

「……ああでも、彼がこの世界に遺したものがもう一つだけあったかな。その在処なら、今ここで教える事ができるよ」

 それはまさしく、悪魔の囁きだった。



****


 そして現在。モカの目の前に、できたてのパイと紅茶が並べられてゆく。
 魔族の男の住居はクラウンが用意した客室の半分にも満たない広さだが、しっかりと整理整頓されている為かあまり窮屈に感じない。むしろ落ち着くくらいだ。パイ生地に包まれた果実の甘酸っぱい香りが部屋に満ちる中、モカは改めて魔族の男を見据えた。常に表情を変えない彼女の眼差しがいつも以上に鋭く冷たいものである事に、男が気付く筈もない。

「申し遅れました、僕の名前はウィルバーです」
「私はモカ」
「モカさんですね。改めて、サラを保護してくださり本当にありがとうございました」

 彼こそが、全ての元凶である芸術家がこの世界に遺した……たった一人の息子だ。
 意図せずその関係者と道中で遭遇する事になるとは思っていなかったが、住居の位置だけでなく名前までもがクラウンから聞いた情報と一致している。恐らく本人で間違いないだろう。

「その鮮やかな肌の色、モカさんはアストルティアの民とお見受けします。確かウェディでしたっけ。実は僕、アストルティアに大変興味がありまして……」

 ウィルバーの表情はクラウンのものよりもずっと自然に感じられる柔らかな笑顔だ。見かけによらず純粋無垢な子供のように目を輝かせながら語り始める彼……すると、それを遮るようにサラが駆け寄って来た。

「パパ! えほん、よんで!」
「ごめんよ、パパは今お客さんとお話中なんだ。後で読んであげるから、ちょっとだけ待っていてね」
「ええーっ!」

 絵本を受け取ったウィルバーは、駄々をこねるサラを妻の元に寄越し、失礼しましたと言いながら改めてモカと向き合う。この瞬間を切り取って見れば、ごく普通の家庭としか思えない光景だ。

「僕はゴーラに来てから、このような絵本を書いているんです。昔は父の跡を継ぐために魔術の研究をしていたのですが、どうしても性に合わなくて……」
「魔術の研究?」
「はい。あまり大きな声では言えないのですが……魔界がアストルティアを侵略する為の道具を作っていたのです」

 ウィルバーは絵本を広げ、ぱらぱらと捲ってみせる。中身は子供向けの簡単なもので、異なる二つの世界を交互に描いたものだった。これの他にも、部屋の本棚には様々な絵本が置かれているようだ。

「研究の目的について何も知らなかったと言えど、僕が作ったものが見知らぬ場所で見知らぬ人を傷付け、時には生命をも奪った……それに気付いた僕は逃げ出してしまったのです。父が亡くなった際に研究所は取り壊されましたが、それで僕が犯した罪が消える訳ではありません。だからこそ、せめてもの償いに僕に何かできないかなと」
「……それで絵本を?」
「ええ、そうです。モカさんは既にご存知かもしれませんが、魔族とアストルティアの民の寿命の長さは大きく異なります。僕の罪はアストルティアの民にとってはいずれ『過去』の出来事となってしまうでしょう。だからこそ、僕自身の体験を形に残す事によって、二度とこのような悲劇が起こらぬよう魔界とアストルティアの双方で語り継いでいきたいのです」

 かの盟友……此方の世界における『大魔王』の活躍により、この先二つの世界はより密接な関係となるだろう。だからこそ、目の前の彼は己の罪と向き合い続ける道を選んだのだ。モカはそんな彼の在り方に対し、言葉を返す事ができなかった。
 ウィルバーは部屋の隅で遊ぶサラと、その面倒を見る妻に視線を向ける。

「まだまだ僕は力不足なので、それを叶える為には数百年以上かかるかもしれません……でも、そんな僕を支えてくれている彼女達の為にも精一杯頑張ろうと心に決めました。ですので、お礼と言って呼び付けておきながら僕の我儘に付き合わせてしまう形になりますが、もし良ければアストルティアの事を教えて頂けませんか? サラに美しい花を贈ってくれた貴女の話であれば、きっと良いアイディアを得られる……そんな気がするのです」

 穏やかなウィルバーの表情。しかしその眼差しは真っ直ぐで、強い意志を宿しているように見えた。



****



 数時間後。
 ウィルバーの質問にできる限りの回答をし、何度も礼を言われながら彼等の住居を後にしたモカは、宮殿内の庭園をバルコニーから呆然と眺めていた。
 手入れの行き届いた低木が色鮮やかな花を咲かせる庭園には多くの魔族達が集まり、様々な芸術品の傍らで生活を営んでいる。大魔瘴期の影響で避難生活を強いられているのにも関わらず、幸せそうに日々を過ごすゴーラの民から目を逸らすように空を仰いでみるが、宮殿を覆う結界の影響で外の景色はよく見えなかった。

「ここに居たのか」

 すると背後の方から、今のモカが最も会いたくなかった人物の声が聴こえた。
 じきに陽が落ちる頃合だ。宮殿での情報収集を終えクラウンが用意した客室に戻るも、モカが長らく不在と知り心配して捜しに来た……といった所だろうか。リハビリを始めてから既に数ヶ月が経ち、最近は魔力が安定していると伝えた筈だが、相変わらず過保護な対応だ。
 モカは振り返らないまま、近付いてくる足音に対し仕方なく言葉を返す。

「どうして此処にいるって分かったの?」
「なんとなく、かな。ここ数年で人捜しをするのが得意になったみたいだ」

 聴きなれた声の主はそう言いながら、許可した訳でも無いのに当たり前のように自分の隣に立つ。あまりにも馴れ馴れしくて苛立ちを覚えるが、そんなモカに構わず彼は勝手に語り出す。

「こうして見ていると、魔族って案外俺達と変わらない存在なんだなあって思うよな」
「…………」
「モカさんが居ない間に、かの盟友サマが魔界を救った。その影響で俺達は自由に魔界を旅できる訳だから、本当に有難い限りだ」
「…………」
「でも急に、アストルティアの民も魔界の民も仲良くしろだなんて言われても困るよな。互いに何も知らないし訳だし、生きる時間の長さも全然違う訳だし……」

 叡智の冠がアストルティアの民に向けて発表した話によると、魔族によるアストルティアの侵攻には大魔瘴期の進行を抑える意図があったという。しかし、争いは争いだ。二つの世界を隔てる深い溝は長い時間をかけ解消されていくと言えど、今生きているアストルティアの民の殆どは魔族に対する怨みを抱えたまま一生を終える事になるだろう。彼はそんな結末を肯定する事も、否定する事もしなかった。
 沈黙を貫いていると、彼は暫く黙った後はっきりとした声で問いかける。

「モカさんは、どうしたい?」

 思わず彼を見ると、真っ直ぐに向けられた瞳が数年前と変わらぬままのモカを映した。

 ​──嗚呼、きっと……。

 この人は本気だ。私が目を覚ました時からずっとそうだった。私にとって空白となった数年間が、彼を明確に変えた……それを認めてしまった瞬間、自分自身が魔界で為そうとしていた事柄の本質に気付く。
 過去の悲劇と向き合う為ではなく、過去の悲劇に決着をつける為に踏み出した旅路。形は違えど、美しいものを求め彷徨っていた旅路と何が違うのか。どちらも、辛く苦しい過去から逃げようとしていただけだ。

「……アストルティアに帰りたい」

 震える喉が絞り出した、今にも消えてしまいそうな言葉。もしここで、昨晩のクラウンとの会話の中でほんの少しだけ抱いてしまった感情を彼に打ち明けたとしたら……彼はどうするのだろうか。そんな事を考えた途端、この状況がとても恐ろしいものだと感じてしまった。
 それじゃあ一先ずクラウンが用意してくれた部屋に戻ろうか、と呟きながら彼は歩き出す。モカは俯いたまま、その影を追う事しかできなかった。



****



 客室に戻る際、クラウンが『作業』しているという部屋の扉が少しだけ開いているのが見えた。
 モカは『用事を思い出した』と言いながらシンクを先に部屋に帰し、部屋の中を覗いてみる。すると昨晩と同じテーブルの隣に立つクラウンが、無表情で此方を見ていた。その手に握られていたのは一本のナイフ……それは、モカが宮殿を出歩く前に服の内側に忍ばせていたものだった。

「趣味だけじゃなくて、手癖も悪いのね。何か不満でも?」
「いいや、僕はその選択を否定しないよ。むしろ喜ばしい事だと感じているみたいだ」
「今日は珍しく肯定的なのね」
「勘違いしないでくれ、決して僕は君と敵対したい訳ではないんだ。ただ恥ずかしい事に、君を鑑賞しているとどうしても昔の事を思い出してしまってね。君も身に覚えがあるだろう、自己嫌悪からの同族嫌悪ってやつさ」

 彼に共感したくはないが、その感情は間違いなく今のモカを作り上げているものの一つだ。沈黙で返すと、クラウンはナイフをテーブルの上にそっと置いた。

「先程君が出会ったウィルバー君はね、魔界とアストルティアが繋がってからずっと恐れていたんだ。いつか自分の元に『死神』が訪れるのではないか、とね」
「何故それを……?」
「難民だった彼をこの地に迎え入れたのは他でもない、この僕だからね。僕が求めている『光』がシンク君だけとは限らないだろう? ゼクレスから逃亡したばかりの彼の生活は、それはもう惨めなものだった。たった一つの想いの為に、金も地位も人間関係も手放したんだ。それでも諦めきれず荒野で転がっていた彼に、僕はちょっとした機会を与えただけさ」

 ゼクレス魔導国は他国と比較し地位や貧富の差による排他的な思想が強い事は、数々の書物と現地の住民の反応からよく理解している。全てを失った彼は、果たしてどのような気持ちで魔界を彷徨っていたのだろうか。

「僕が君にウィルバー君の居場所を教えなかったとしても、君は長い時間をかけて調べ上げ、いずれ彼の元に辿り着いただろう。それを待つのも良かったけど、君達の寿命は僕達のものよりもずっと短い。だから今回は特別に、一時的な『停滞』を取り除いてあげたんだ」

 モカはまたしても彼の掌の上で踊らされていたような気がしてしまったが、それを否定するように言葉が付け足されてゆく。

「君が『死神』に成りうる人物だった事を彼は知らない。君以外に『死神』に成りうる人物がもうこの世界に存在していない事を彼は知らない。だからこそ、これらの出来事は全て君達自身が選択し掴み取った物語という事になる」

 モカはウィルバーと対峙した時に感じた違和感を思い出す。見ず知らずの者に己の過去……それも、間接的であれど人殺しに加担してきたという人生を、彼はアストルティアの民に対しどのような想いで語って聞かせたのだろうか。
 その罪の所在は、その罪の重さは、他者によって定められるものではない。芸術品のように己の感性で価値を付けられるようなものでもない。明確な答えを見出す事は叶わず、逃げる事もせず、赦しを乞う事もせず、見えない脅威に怯えながらも自身にできる事を全力でやろうとしてみせる……そんな彼に、つい誰かの姿を重ねてしまった。

「こうして君はまた、誰かの『光』によって救われたという訳だ。ただね、その輝きが永久に保たれる確証はない。君が焦がれた『光』が、当たり前のものとは思わない事だ。君には美醜を見極める才がある……その価値観は、もっと大切にした方が良い。僕のようになりたくなければね」
「貴方は……」
「これ以上、君に語る事は何も無いよ」

 そう言いながらクラウンは、モカに向かって小さな塊を放り投げた。



****



 その晩。
 相変わらず気分が落ち着かないモカは、ソファの上で本を読んでいた。昼間にウィルバーから『協力のお礼に』と貰った絵本のうちの一冊だ。魔界文字とアストルティア文字の二つが交互に並べられており、言語学習に適した教材にもなりそうだ。この絵本が二つの世界に普及する日はそう遠くないのかもしれない。

「今日は絵本か、珍しいな。いつの間に買ったんだ?」
「…………」

 通りかかったついでにソファの背もたれ側から絵本を覗き込むように見てくるシンク。モカはその行為を拒絶するように絵本を閉じ、身体の向きを変え、シンクと向き合った。

「シンク」
「えっと、急にどうしたんだ?」
「私は……」

 モカは戸惑うシンクに対し何かしらの言葉を紡ごうとする。しかしそれは、すぐ途切れてしまった。
 コルット地方で再会した時から、伝えたい事や訊きたい事が沢山あった。けれどもそれを言ってしまったら最後『あの時』と同じように、いつか失ってしまうような気がしてしまい、ずっと言えないままでいた。
 思わず目を逸らし俯いてしまったモカを見て、シンクが口を開こうとした……その時。

「ふがっ……!?」

 シンクの顔面に、ソファに置いてあったクッションが勢いよく押し付けられる。予想外の出来事に、シンクは思わずその場でへたり込んでしまった。

「え、ちょっ、何!? なんで!?」
「もう良い、寝る」
「ええ……」

 すっと立ち上がったモカは絵本を抱え、そそくさとベッドへ向かう。柔らかなカーペットの上に取り残されたシンクは動揺しながら、その背中に対して言葉を放った。

「その、あまり上手く言えないけどさ。無理に言葉にしようとしなくても大丈夫。まだ戻って間もない状況で、変わってしまった世界に混乱する事の方が多いだろうから……焦る必要なんて、どこにもないんだ」

 モカは足を止め、振り返ろうとする……けれどもやっぱりできなくて、絵本を強く抱きしめる。

「その為に、ちゃんと隣にいるから」

 その言葉を聞いた時、ほんの少しだけ居心地の良さを感じてしまった。安心してしまった。それが、たまらなく悔しかった。
 今までは何も考えないように、何も感じないようにする事に必死だった。そうでもしないと自分自身を守る事ができなかった。そんな自分が嫌だったからこそ、魔界へ行く事を望んだのだ。
 空に身を投げると決意した時の『痛み』とは別の感情が、心の奥底から込み上げてくる。何故この人はそうまでして自分の為に動くのだろうか。それを恐ろしいと感じてしまう自分は、これからどうするべきなのだろうか。

 モカはあの日の出来事を思い出す。深い海の底で響いた声……自分に向けて必死に語りかけてきたその言葉は、決して夢ではない。それが魔界での旅路で証明された。

 ──やりたい事があるなら、俺が何だってやってやる!

 罪の在処と復讐の矛先は、完全に見失った。

 ​──行きたい場所があれば、俺が何処へだって連れて行く!

 かつて生きる理由として探し求めていた『芸術』は、逃避の為の手段でしかなかった事を認めてしまった。

 ​──だからモカさんも、モカさんの望む事を好きにやって良い!

 再びヒトとして生きていく事を決意したとしても、結果的には自分自身に対する嫌悪しか残らないという事は分かりきっていた。なのに何故、彼の言葉をほんの少しでも信じてみようと思えてしまったのだろうか。
 抱えている絵本に視線を落とす。脳裏に浮かぶのは変わりゆく世界の中で、それでも希望を抱いていたウィルバー達の表情……モカはシンクに背を向けたまま、凛とした声で問いかける。

「ここでの仕事、見つかったの?」
「えっ、ああ。明日は廃墟を荒らす魔物の討伐依頼を受ける予定だったけど……」
「私も行く。アストルティアに帰るなら必要でしょ、お金」
「身体の方は大丈夫なのか?」
「たぶん平気。それに……」

 振り返り、再び彼の姿を視界に入れる。
 そこに在るのは、何年経っても情けなくて、頼りなくて、すぐ慌にてて……それでも何かが変わってしまった彼の顔。

「危険な事が起こりそうだったとしても、貴方が守ってくれるでしょ?」
「​……っ!」

 その言葉にシンクは目を見開き、少し言い淀みながらも、嬉しそうな表情で言葉を返す。

「ああ、勿論!」

 昔から期待される事を苦手とし、押し潰されてばかりいた筈の彼が、微笑みながら自分が向けた感情を受け入れてゆく。そんな彼の変化を認める度に、恐れや不安がより一層強くなる。けれども不思議な事に、心の中の『霧』の向こうに微かな光が見えたような気がした。

 ​──私が望む事が、一体どんなものかは分からない。でも、この苦しみを抱えながら生きていく道が見つかれば、いつかきっと……。

​「その時が来たら、私はきちんと向き合う事ができるのかしら……?」

 小さく呟かれた言葉は隣人に届く事なく、魔界の深い夜へと消えてゆく。その答えに辿り着くまで、果たしてどれ程の時間がかかるだろうか。辿り着いた先であれば、この感情を伝える事ができるのだろうか。

 様々な想いを巡らせながらベッドに寝転んだモカの傍らには、藍色の宝石が小さく煌めいた。



《 fin 》

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