ささやき

 サトは古い団地の案内図の前に立つ。横長の大きな看板で、団地を上から見た図だ。団地は歪んだ五角形で、二つの角がある西側が狭く、三つの角がある東側が広い。周囲を植え込みに囲まれていて、いくつも並ぶ団地の内側には小さな公園と、中央には花壇、その周りを遊歩道が走る。とっても古い看板だった。塗料がところどころ剥げて図柄が消えている。団地の輪郭を描いた紺色の線は粉をふいていた。端の方にカタツムリが這っている。サトは殻を見て、しるしがないのを確かめる。殻をつまんで看板から引き剥がし、近くの植え込みの中にそっと置く。
「ここの方がいいよ」
 カタツムリは身をよじり、葉っぱの上を這っていく。
 サトは看板を見つめる。裏も表も、隅々まで確認しても、いない。さっきのしるしのないのじゃない、私のカタツムリたち。本当は自分のではないけれど、私の、と心の中だけで呼んでいる。サトは植え込みの根元も見て回る。まだ朝の早い時間帯だから、セミが鳴いている。
 家に帰って玄関を開けると湿った土の匂いがする。カタツムリたちは皆逃がしたのに、家の中にはその匂いが染み付いている。父も母もその匂いには気づいておらず、サトだけが知っている。プラスチックの蓋付き水槽はもともとメダカが入っていて、メダカがいなくなってからカタツムリを入れた。団地の下のところで見つけてきたカタツムリで、殻に紺色の縞がある。全部で三匹いたうちの一匹が死んでしまい、残りのカタツムリを逃した。猛暑とか酷暑とか言っている真夏の植え込みにカタツムリたちを戻した。父は、こんな狭い場所に閉じ込めているのは気の毒だし、いいことをしたんだよと言っていたが、本当はサトも父親も気味が悪かったのだ。死体を見た時はギョッとしたから。
 カタツムリは家の中には一匹もいない。水槽は洗ってしっかり干した。水槽の蓋を開けて中を嗅いでみても何の匂いもしない。それなのに、家のどこかからカタツムリの匂いがする。外から帰ってくるとそれに気づく。
「どこ行ってたの?」
と母親が寝巻きのまま尋ねる。出ていく前は寝てたのに。玄関の音で気づかれたのだろう。サトは「散歩」とだけ言う。
「こんな朝早く……」
「だって、昼間は歩いちゃいけないんだよ」
 数年前からサトの住む市では、小学生以下の児童と七十歳以上の老人は、特段の理由がない限り昼間の外出は控えるようにという取り決めができた。猛暑災害を避けるためだという。それよりも少し前、サトが小学校に上がった頃に、熱中症で死亡事故が起きた。下校中の子供だったという。だから、八月中は、正午から午後三時まで、子供とお年寄りは外に出ちゃいけない。出歩いていたところで罰されるわけではないが、夏休み中、この時間帯はむやみに出歩かないようにと、校長先生も担任の先生も何度も注意をした。
「そうだけど、あんたは早起きだねえ、ほんと」
 母親がのんびりとあくびをして、寝癖だらけの髪をクリップでまとめた。「朝ごはんどうする?」と尋ねる。
「今日はサトの好きなのにしよう」
 母親はサトをサトと呼ぶ。智実でもさっちゃんでもなく、サト。サトは母親の言葉に飛び上がる。
「えー、やった! どうしよ!」
「パン屋さんのパンは?」
「お店開いてる?」
「商店街のなら開いてるんじゃない? 開いてなかったらコンビニだ」
 母親と二人でパン屋へ行く。父親の分も選んであげる。父親は昨日から当番で一日いない。帰ってくるのは昼頃だ。帰るとすぐに昼寝して、起きたら軽食を取る。その後はまた寝ることもあるし、サトと遊んでくれることもある。
「お父さんは、玉ねぎとベーコンのパン」
 店内は空調が効いていて涼しい。人のいない時間帯だからか、冷えすぎているくらいだ。風が肩に直に当たって、サトは冷房のせいではないひんやりとした思いを抱く。
 パンを選んでお店を出ると、もうカンカン照りの夏の日で、商店街から家まで歩くだけで汗だくだ。つけたままのクーラーが体を冷やすそばから汗が流れ出す。
「スープ作っちゃうから、先にシャワー浴びときなさい」
 帽子と日焼け防止の手袋を脱ぎ捨てた母親が言う。


 サトが生まれたときはこんなに夏は暑くなかったらしい。真夏の昼間はほとんど何もかもが死に絶えたようになる今と違い、昼間はセミが鳴いていて、夜にはカタツムリが植え込みを探検した。昔の子供たちは、公園で遊んだりプールに行ったりしていて、夏休みの課題の表紙のビーチボールや麦わら帽子や虫取り網の絵はその名残だ。現在では、外は暑すぎて徒歩では数分も行かないうちに汗が噴き出す。プールは屋内でないとあっという間に水が温くなるし、日にさらされるから日焼けや熱中症の危険がむしろ上がる。
 温暖化というけれど、これじゃ熱帯化だ。死亡事故が起きてからは特に、冷房は我慢しないでつけましょうと言われている。でも冷房をつけて電気を消費するとますます温暖化が進むという。サトの通う小学校では、毎年夏に省エネ運動があって、電気代の節約法とか、環境フレンドリーな製品とか、そういうのを紹介するポスターが張り出される。毎年五年生が総合学習の時間に作る。サトも去年作った。
 サトの班は、もし北極と南極の氷が溶けたら? というのがテーマだった。調べ学習に入る少し前に、溶けた氷の上に乗って呆然としているシロクマの写真が見出しになった記事を、班長の子が見たのだ。シロクマがいるのは北極だけど、調べているうちに、南極のことも気になって、二手に分かれて調べることにした。サトの班のポスターは他の班の二倍の密度になった。この班は学習意欲が高い、と先生から褒められた。でも、よくわかんないよね、と一緒に南極のことを調べた新美さんが言った。よくわからない。自分たちがちゃんと調べた手応えがない。というより、調べて、まとめて、それでどうすればいいのかわからない。検索をすると怖い記事はたくさん出て来た。氷が溶けて海面が上昇する。サトの住む町は、そうなれば沈む。でもそれだけではなくて、凍っていた未知のウイルスが活動するかもとか、生態系が大きく変わるかもとか、だけど最終的にはどうなるかわからない、というのが結論だった。サトはなんだか、掘り起こしてはいけないものを掘り起こしてしまった気がした。
 ポスターは、六月くらいに張り出されて、七月と八月はそのまま飾られている。九月になると剥がされて、別の学年の別のポスターに代わる。
 夏の間、子供たちは街路樹や建物の影を伝って、まだ涼しいうちに遊びに行ってはどこかで最も危険な午後の時間帯をやり過ごし、夕方に帰る。夕方も全然暑いけど、日が高い間よりはましだ。時々強い風が吹いて、サトたちの日傘が飛ばされそうになる。
 誰かの家に集合することもあれば、それ以外の場所に行くこともあった。ショッピングモールのフードコートとか、図書館とか公民館のホール。ショッピングモールでは、一番安い飲み物やポテトを買うこともあったが、何も買わないこともある。大抵は黙認された。暑い中を出て行けとは、店員は言わない。うるさいのは中高生で、トレーに乗せたプラカップや食べ物をひけらかしながら、タダでいるのは不法占拠だ、子供は出てけ、と言う。
 図書館のホールでは宿題をすることが多かった。閲覧室の中は私語厳禁だけど、ホールは大丈夫だ。リンカは今年中学受験で、学校の宿題のほかに塾の課題をやっている。テキストには、学校でやっていない難しい言葉が踊っている。化石燃料の枯渇、気候変動と日本、砂漠化、エネルギー革命。図書館ホールはあまり空調が効いていなくて、ちょっと暑いくらいだったのに、サトの剥き出しの肩がまたすっと冷えていく。
「サトミは自由研究終わった?」
「あー、まあ」
「カタツムリの観察だっけ? どんな感じ? 私まだ終わってない、てかまだどうするか決めてなくて」
「カタツムリは、死んじゃって」
「えっ」
「一匹だけなんだけど他のも逃がそうってなって」
「えー、じゃどうするの」
「観察はできたから……あとは調べ学習にする」
 サトは夏休みに入る少し前からカタツムリを飼い始めた。梅雨の時期、団地の下の小さな公園にある植え込みや、花壇のコンクリートをカタツムリがよく這っている。この公園に多いというよりは、道路で分断されて、他の場所に行けないのだと、以前参加した自然教室で聞いたことがあった。カタツムリたちは、夏になるとぱったり見なくなったが、夜、涼しくなった頃に時々土の上にいるのを見る。サトは三匹捕まえて家に持ち帰った。ちょうど古い案内板にくっついていたのだ。どれも殻の縁に紺色の縞が入っていて、それが可愛い。水槽には土を入れた。ホームセンターで買った園芸用の腐葉土だ。枯葉や雑草も拾って入れた。古い豆皿に水を入れておくと、カタツムリが飲みにくる。
 カタツムリは草食だったが、殻の成長のためにカルシウムも必要だ。昼寝から起きた父親が焼いた目玉焼きの卵の殻をさっそく水槽に入れた。しなびた野菜の方が好きらしく、ちぎったばかりのレタスは人気がない。キノコも好物だ。
 持ち帰ったその日にさっそく、サトは三匹とも水槽の外に出した。いらないダイレクトメールの封筒の上に置く。
 飼うのはいいけど逃げられないように気をつけてね、と父に言われていたのを思い出して、サトは、カタツムリとダイレクトメールを即席の柵で囲った。奥に水槽、横は詰んだ教科書とペン立て、正面はサト。こんな柵、カタツムリなら逃げようと思えば逃げられるけど、すぐどこかに行ってしまうことはないはずだ。
 絶対に見逃さないようにしよう、と思っていたのに、カタツムリが机の上をてんでばらばらに這っているのでちょっと飽きてうとうとしていたら、いつの間にかカタツムリは三匹とも封筒の上に集まっていた。耳を澄ませているとひそひそと誰かの話すような声が聞こえる——気がするだけ? 空調のせいでわからない。サトは冷房を切ってカタツムリたちを眺める。やっぱり聞こえる。カタツムリが紙を食べる音だ。じっと聞いていると、一匹が紙に飽きたみたいに封筒を離れ、「柵」の中を歩き回る。じっとしていると、サトの爪を踏んでゆっくりと通り過ぎた。その頃には他の二匹も封筒から離れてバラバラに歩き出している。水槽にカタツムリたちを戻して蓋をきちんと閉め、封筒を光に透かす。表面に小さな穴が空いている。綺麗にくり抜かれたのではなく、穴の周囲はぼろぼろになっている。カタツムリは歯舌で食べ物の表面を削り取る。だから、食痕はこんなふうになる。でも本には四角い跡と書いてあったのに。室温はじわじわ上がり、鼻の頭に汗が浮く。サトは空調を入れ直し、手を洗い、机の上を拭く。
 サトの部屋には土の匂いが充満した。朝は霧吹きでたっぷりと水を吹きかけ、豆皿の水と餌を取り替えて登校する。昼間は冷房を切ってしまうので、保冷剤を使って水槽を冷やした。帰ったらすぐに冷房をつけた。いつもスイッチを入れる時、怖いような悪いような気持ちがふっと掠めるけれど、カタツムリのためなら大丈夫だった。
 カタツムリを飼っていることは、特に仲のいい数人にしか言わなかった。誰が話したのか、担任の先生から「カタツムリを飼ってるの?」と尋ねられてサトは動揺した。自由研究で観察しようと思って、となぜか言い訳をしてしまって、サトはカタツムリたちに罪悪感を抱いた。ただ飼いたくて飼っているだけなのに。そもそも勝手に連れてきてしまったのに。落ち込みながら眺めたノートの表紙に、小さな穴がある。ハサミで切ったようなのじゃなくて、表面を削り取ったような跡。
 帰ってまっすぐ部屋に向かい、カタツムリの水槽を確かめた。蓋はしっかりとツメが引っかかって持ち上げても外れないし、真ん中の窓みたいな部分もきちんと閉まっている。緩んでいたのに気づかなかったのかな? でも、寝る前と出かける前には必ず確認している。開きっぱなしにしていた記憶はない。サトは本棚のノートや教科書を引っ張り出して確かめる。そのうち二冊にカタツムリの噛み跡があった。たぶん机の上に出しっぱなしにしていたやつだ。一冊はつい先日忘れてしまった算数のノートで、不便な思いをしたから覚えている。やっぱり、外に出てる。しかもたぶん、一度だけではない。
 サトはその日、眠れなかった。夜中に無理に目をつぶっていると、ひそひそと、誰かの話すような声が聞こえる。カタツムリが何かを食べている。サトは部屋の暗がりに目をこらす。日が当たらないように、カタツムリのいる水槽は机の下に置いてある。部屋は真っ暗にしておらず、小さなオレンジの電球が点いているからものの輪郭くらいはわかるけれど、影のところは見えない。ひそひそ声はまだ聞こえている。カタツムリは夜行性で、サトがかれらを探して連れて帰ったのも夜だった。帰りたいのかもしれない。夏休みが終わったら、戻しに行こう。
 ぱちん。
 部屋の隅で、机の下の方で、そんな音がした。サトは起き上がり、そっと机に近づいた。椅子を退けて、水槽を引っ張り出す。蓋に触って、外れていないことを確かめる。開いたんじゃなくて、今閉まったんだ。床にかがみ込み水槽の中を覗いた。カタツムリは三匹とも水槽の壁にはりついている。サトは蓋に耳を近づけた。蓋の網目の隙間から、ひそひそ声が聞こえてきた。誰も何も食べていない。カタツムリの食事の音じゃない。
「それ、マジ?」
 リンカが尋ねる。完全にテキストを解く手が止まっている。
「マジ」
「うそ」
「じゃない」
「じゃないのかよー」
「っていう怖い話。ネットで見た」
「どこで見たの? 続きは?」
 忘れた、とサトは答える。


 カタツムリたちがヒソヒソ話をするのは決まって夜中だった。いや、カタツムリが話しているのかどうか分からない、とサトは思う。カタツムリの動きとひそひそ声は、どうにも一致していない。リズムがちぐはぐだ。声はカタツムリの殻の中から聞こえているような気がする。サトはカタツムリをつまみあげて殻に耳を当ててみる。カタツムリが体を殻の中にひっこめる。
 幾晩も息を殺して様子をうかがっていたが、カタツムリも、ひそひそ声も、サトのことは気にしていないみたいだった。サトが近づいても声はやまないし、カタツムリは普段通りに、好きなように動いている。今のところ、水槽の外へ出てはいないようだった。サトが寝ている間に部屋を歩き回っているのかもしれないが、確かめようがない。机を確かめたが粘液跡はなかった。ペットカメラの通販ページを見てみたが、買えるわけでもないし、あまり意味のない行動のように思われた。
 ヒソヒソ声は、殻に耳をつけてみると、もっと複雑な音になる。甲高い音や何かを叩くような断続的な音、こするような音。カタツムリの体内にどんな器官があったとしても、生物が出すような音ではない。話し声でもない。どちらかというと、機械の音に似ている。
 サトは机の上の電灯をつけて、カタツムリをかざしてみる。体の中は影になってしまって見えない。解剖したり? できるわけがない。ごめんねと言ってサトはカタツムリを水槽に戻す。
 夜の観察を始めて八日目、サトは目を覚ます。夢うつつの中で、蓋の開く音が聞こえた気がした。サトはそっと体を起こして、机の上を見る。そこにはカタツムリを入れた水槽が置いてあった。最近、サトは夜の間、水槽を机の上に置き、朝には机の下の暗がりに仕舞うようになった。そこからあのひそひそ声が聞こえる。いつもよりも大きい。
 目が慣れるまでは、そこに何があるのか分からなかった。水槽を置いていたのも一瞬忘れていたくらいだった。半分寝ぼけ眼で机の上を見つめていると、そのうち水槽の輪郭が見えてきた。あ、と言いかけてサトは口をぎゅっと閉じる。
 そっとベッドから降りて机に向かう。三歩の距離が長い。床に片足をつくと小さく音がして、サトはひやりとした。けれど、水槽も、その水槽の上にいるものも、サトには関心がないようだった。
 水槽の蓋はやっぱり開いていた。真ん中の、窓みたいなところ。カタツムリたちはそこから外へ出て体を広げていた。文字通り、めいっぱいに。殻から出ていたのは、触覚でも、カタツムリの体でもなかった。でこぼこした、水たまりのようなものが殻の入り口から中空へ広がっている。二匹は水槽の蓋の上、もう一匹は机の上にいた。サトはカーテンに手をかけ、小さく開ける。外の廊下の常夜灯が細く差し込み、机をうっすら明るくする。サトは小さく息を呑んだ。
 カタツムリの殻から出ていたのは、どうやらおそらく、一つの街のようだった。カタツムリの、あの柔らかい肉の上に都市がある。爪楊枝みたいなビル、その間を走る糸のような道路。中央を外れたところには小さな家めいたでこぼこや、川や、湖や、森まであった。道路を眺めていると、小さい点のような何かがうごめいている。たぶんここに暮らしている人だ。あのひそひそ声は、都市の生活音だった。車や電車の走る音、工場やビルの稼働音、食事を作り、掃除をし、娯楽を楽しむ音、そこに暮らす人々や生き物の足音と話し声。それらは風が狭い隙間を通るような、何かを叩くような、こするような音になって幾重にも重なる。こんなにも賑やかなのに、その音はささやきのようだ。
 カタツムリの体がさらに伸びる。蛍光灯の明かりに向かって体を広げていた。ひんやりとした柔らかな都市だった。サトは手を伸ばす。壊そうと思ったのではなく、ほんの端のほうだけでも触りたかった。
 けれども、サトの指先が触れた途端、都市は殻の中にひっこんだ。触覚が一瞬で引っ込むみたいに。他の二匹も広げていた町を引っ込めると、次の瞬間にはカタツムリの頭が見えている。カタツムリたちは、カタツムリなりに急いで水槽の中に戻った。最後の一匹が中に入った時、にゅっと中から何かが突き出した。そして蓋の端をつまむと、内側に向かって引いた。
 ぱちん。
 蓋が閉まる。サトは、その様子をぽかんと眺めていた。側面から水槽を覗くと、三匹のカタツムリが壁を這っている。なんてことない、普通のカタツムリだ。
 夢だったのかもしれない。翌朝、目が覚めたサトは思った。昨日は興奮してよく眠れなかったけど、明け方にうとうとしたと思ったら、いつの間にか起きる時間になっていた。昨日確かに見たと思ったものは、眠りの向こう側に落ちてしまい、思い出そうとしてもはっきりしない。
 サトは机の上を見た。カタツムリのいる水槽が乗っていて、カーテンがわずかに開いている。昨日、たしかにカーテンを少し開けた。でも、こっちは時々ちょっと閉まりきっていないこともあるから、やっぱり夢かもしれない。サトは水槽を机の下に戻し、床にぺたりと座って、蓋の窓みたいなところを開けて耳を近づける。消え入りそうに小さく、あのささやき声が聞こえた。


 ささやきは真夜中に一番大きくなり、朝にはほとんど聞こえない。カタツムリの中の都市は、カタツムリと同じく夜行性なのだ。夜中に起きると、町のほとんどがしんと静まり返っているのと同じように、昼間はほとんどが眠っている。
 カタツムリたちは、夜な夜な水槽の外に這い出しては、そっと自身の中の秘密の都市を広げた。都市になのかカタツムリになのか、光に向かう習性があるらしく、いつも窓の方——カーテンから漏れてくる常夜灯の方を向いている。驚かさなければ、都市はしばらく広がったまま、ささやかな光を浴びていた。ひょっとしたら、外では月明かりを浴びていたのかも。きっとそう。こんなところに連れてきてしまって、サトは申し訳ない気持ちになる。夏休みが終わったら絶対元の場所に戻すから、と心の中で約束する。
 いつも会えるわけではなかった。サトがぐっすり眠ってしまったり、タイミングが悪くて、水槽の外にいても、もうふつうのカタツムリの頭に戻っていたりする。会えたらサトは息を殺して小さな都市を観察する。けれどもサトの吐息よりも、都市のささやきの方がずっとずっと大きい。
 カタツムリの都市はどれも一様に小さく、しかしどれも違っている。ビルの立ち並ぶ中心地と郊外、緑の多い地帯で成り立っているのは同じだが、工業地があったり、中心部が盛り上がって小山のようになっていたり、緑地が飛地のようになっていたり、思い思いの発展を遂げていて、精巧なミニチュアというよりは、立体の地図のようだった。ささやきの音も少しずつ違う気がする。金属音の多いもの、低い地鳴りのような音が混じるもの……けれどもそれは時間帯によるのかもしれない。サトは今や、殻だけでカタツムリの区別がつくようになっていたが、都市のことはまだわからないことが多かった。
 ちょうど夏休みに入ったところだったから、少々起きるのが遅くなっても大丈夫だったけれど、寝坊が続くので親には不審がられた。あんまり夜遅くまで起きてちゃだめだよ、と母親からは注意された。夜中に起きているのがばれているのかもしれない。
 サトは観察用のノートに都市の地図を描き始めた。だけどすぐにそれは難しいとわかった。手元が暗いので描きにくいし、とにかく都市が小さいので、何があるのか、明るい昼間でも見分けるのは難しいだろう。一生懸命に目を凝らしているうちに、あっと声が出そうになった。サトはノートをぎゅっとつかんでおそるおそる都市を覗き込んだ。カタツムリは逃げなかった。どうやらサトの影が邪魔みたいで、影から逃げるようにゆっくりと都市が縮む。サトは慌てて頭を動かした。再び都市が伸びて、サトの見たかったものが広がる。
 都市の端、光に向かう側に近いところには、背の低いビルや屋根が並んでいる。その中の一角、暗闇に慣れた目でじっと見つめないと見えないけれど、歪んだ五角形の敷地があった。一方の端が短く、その反対側が広い。二つの角の側が狭くて、三つの角の側が広い。サトの住む団地と同じ形だ。小さな背の低いビルも見える。植え込みや花壇までは見えなかったけれど、公園はある。ぼんやり白っぽい色をした地面が四角く浮かび上がる。
 あの都市は、このカタツムリたちだけなんだろうか、とサトは思う。他のカタツムリはどうなんだろう。サトは日が落ちてから公園に行く。暗くなったら外に出ないようにと言われるけれど、すぐそこの公園だから、と無理やり出て来た。カタツムリはすぐには見つからなかった。あちこち探して、公園のすぐ横の、団地のベランダの下の暗がりに一匹見つけて持って帰った。さすがに四匹も入れると水槽は手狭に見え、サトはごめんね、ちょっとだけだから、とカタツムリたちに話しかける。その日の夜に起きてみると、最初に捕まえた三匹は外に出ていたが、四匹目は水槽の中にいた。やっぱり違うのかな、とサトは思う。もう少し、様子を見てみようかな。
 だけど次の日、目を覚ましていつものように水槽を覗いたサトは思わず悲鳴をあげた。
 カタツムリは死んでいた。最初に捕まえた三匹のうちの一匹。他の三匹は、死の匂いから逃れるように、水槽の上の方に張り付いている。サトは思わず蓋が閉まっているのを確かめた。
 死体は異様だった。カタツムリは死ぬと水分が抜けて身が縮む。しかし、そのカタツムリは、殻から中身が飛び出していた。カタツムリでもその肉でもなかった。あの都市でもない。いくつもの柔らかい肉の塊だった。張りのない、黒ずんだ緑や紫や橙の管のようなものが、殻の入り口から飛び出して周囲に広がっている。肉か殻か、粘液が流れ出て土を濡らしていた。水槽からは澱んだ小川のような匂いがした。サトは図鑑で見たカタツムリの解剖図を思い出した。あれがひっくり返って全部飛び出して来たように見えたけれど、それにしては量が多すぎた。こんなたくさんの肉はこの殻に入らない。
 サトの悲鳴を聞きつけて、両親が部屋にやって来た。サトは、カタツムリが死んじゃった、と言った。じゃあお墓を作ってあげないと、と言った父親は死体を見てうめき声を上げた。母親も、えっ? と大きな声を上げた。死んだらこんなふうになるの、と母親がつぶやく。保健所とか、連絡したほうがいいのかな、と父親が言ったのが聞こえて、サトは反射的に水槽をつかみ、お墓を作ってくる、と言って家を飛び出した。
 植え込みの湿った土の上で蓋を開けると、待ちかねていたように三匹のカタツムリが這い出してきた。土に置くと、植え込みのどこかに消えていった。サトは腐敗臭の漂い始めた水槽を抱えて周囲を見まわし、お墓になる場所を探す。暗く湿った、カタツムリにちょうどいい場所。けれども真夏の公園はどこもまばゆい日の光にさらされていて、結局元の植え込みに戻る。水槽を傾けて、土ごと植え込みの中に死んだカタツムリを捨てた。土の間に小さな、粒みたいなうごめくものが見えた気がした。サトは二、三歩後退る。それから水槽を抱えて走り出した。まだ朝なのに、それだけで髪の間から汗がしたたるくらい暑かった。
 水槽は綺麗に洗って干した。カタツムリの観察日記には、一匹死んだとだけ書いた。だから逃してあげることにした、と。部屋の中はずっと静かで、夜中に起きてもあのささやきは聞こえない。染みついた土の匂いは、同時にカタツムリの死体も思い出させて、その度にサトは震えるけれど、やっぱりあのカタツムリたちに会いたかった。会って、あの都市に行く方法を尋ねたかった。硬い殻の中の、柔らかな都市は居心地が良さそうに見えた。あの中の五角形の団地に住んで、暑い昼間はカタツムリと一緒に寝て過ごし、夜に月の光を浴びて、学校に行ったり遊びに行ったりする。それはカタツムリの歩みと同じくらいゆったりとして、安全な暮らしのように思えた。父親も母親も連れて、リンカも連れて、みんなとあの都市に行けたら。
 だから、サトは案内板の前に立つ。団地の略図の、紺色の輪郭線に目を凝らす。紺色の線はところどころ消えかけていたが、よくみるとジグザグに色が残っている。カタツムリの食痕だった。幅の広い部分を見れば、特徴的なジグザグ模様がはっきり確かめられる。あのカタツムリは、殻に紺色の縞があった。案内板に使われているのと同じ色だ。都市を体内に持つカタツムリたちは、この塗料も食べられる。ここにいれば、また会えるかもしれない。
 夏休みいっぱい、サトは看板に通い詰めた。でも会えなかった。夏休みが終わって、八月も終わって、九月ももうすぐ終わるけれどまだ会えない。九月には大きな台風が来て、サトの学校も休みになった。雨がたくさん降って、花壇から土が溢れ、翌朝は遊歩道の上でたくさんのミミズが死んでいた。
 十月になるとカタツムリは冬眠してしまう。あるいは、ひょっとしたら、あのカタツムリたちはどこかへ行ってしまったのかもしれない。人の手の届かない遠いところに、サトの知らない、カタツムリだけの楽園がある。そこにはあのささやきが満ちている。でも、そんな場所はないのをサトは知っていた。道路に分断されて、カタツムリたちは遠くに行けない。
 九月の最後の日、サトはついに、案内板にあのカタツムリを見つけた。殻に紺色の縞が見えた時はどきっとした。サトは震える手を握りしめ、深呼吸をしてカタツムリの殻をつまむ。それから軽く引っ張る。カタツムリが抵抗する。もっと力を入れようとして、やめた。代わりに案内板に耳をくっつけた。カタツムリの食べる音が聞こえるかと思ったけれど、自分の耳の中の鼓動がうるさいだけだった。
 サトが生まれる前は、夏はこんなに暑くなかった。猛暑災害なんて言葉もなかったし、子供は外で遊んでいてもよかった。でも、今は? 今年の五年生の作ったポスターをサトは見られなかった。去年よりももっと恐ろしいことが書かれていると思うと怖かった。毎年世界のどこかで恐ろしいことが起こっている。水害や干魃、大規模な台風、海面上昇、生き物の大量死や異常発生、食糧危機、水の危機。そのどこかは、来年はここかもしれない。来年は大丈夫でも、その先はわからない。サトの大事なものは、ある日失われる。そのことを知っているのに、どうすればいいのかわからない。
「サトミ?」
と声が聞こえた。サトは浮かんできた涙を拭いて案内板から耳を離す。派手な色のリュックを背負ったリンカが立っている。塾帰りか、今から行くところなのかもしれない。リュックは膨らんで重たそうだった。
「何してんの?」
「えっと……カタツムリの食べる音聞いてた」
「え、聞こえんの。てかカタツムリって何食べんの?」
「苔とか葉っぱ。全然聞こえない」
「聞こえないのかよ」
と言いながら、リンカはサトの真似をして案内板に耳を当てる。サトも同じように耳を当てる。カタツムリを挟んでリンカと目が合った。
「前にさカタツムリの話してたじゃん。しゃべるやつ」
「うん」
「あれってほんとなんでしょ」
「……うん」
「やっぱり」
 リンカは小さな声で言って、テキストで正解を当てた時みたいに笑った。
「あの後どうなったの?」
「えっとね、すごかったんだけど」
「うん」
「割と長い話でさ」
「そうなんだ」
「時間平気?」
「平気じゃない。けど聞きたいかも」
 あのね、とサトは語り始める。案内板に耳を当てたまま。


参考文献・サイト
エリザベス・トーヴァ・ベイリー著、高見浩訳『カタツムリが食べる音』飛鳥新社、2014
「カタツムリの食痕?」のぼみ〜日記2020 https://nikko.us/20/062.html
「カタツムリは100均の色画用紙が大好物ってほんと?」 https://cocreco.kodansha.co.jp/move/news/repo/uj02b
「カタツムリ 最近見ないの なんでなん?」 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230616/k10014099311000.html

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