得棲

  帳簿をつけ終え顔を上げると、ちょうどオレンジ色のジャージが右から左に走っていくところが見えた。
  信一は一度首を鳴らしてから、ボールペンを置き頬杖をつく。今日あの坊主頭を見るのは何度目だろう。

  龍捲風預かりになった男は、毎日早朝から夜までよく働いていた。信一が紹介した店だけでは稼ぎ足りないと、肩の包帯が外れるや否や叉焼になる豚を運び、城寨のあちこちにガスやら灯油やらを届けてまわっている。
  最初のうちは届け先がどこにあるかわからず困り果てている姿をよく見かけた。その度に住人たちに聞き、住人たちもまた男をよく助けていた。
  今はもうその足取りに迷いはない。城寨を知るには自分の足で歩き回るのが一番だ。

  大老闆の所有物を奪い王九の追跡を振り切り、城寨でクスリを売ろうとした。信一が最初に相対したとき、男はとびきりの厄介ごとそのものだった。
  けれど、その印象はもう霧散している。
  誰も頼れず何も知らない、ただ生き延びるのに必死なだけの男だった。
  そういう人間を城寨は受け入れる。ただの場所としてではない。日が経つにつれ、男の実直な性格が知れ渡るようになると、城寨に住まう人々はそこにいるのが当たり前の存在として男を受け入れるようなった。
  激しくやり合った信一だってそうだ。龍捲風の顔を潰されては困るので、最初の数日は目を光らせていたが、燕芬姐からは真面目な仕事ぶりを聞かされ、魚蛋小妹からは「筋はいいよ。つみれは大きくなりがちだけど」と報告を受け、四仔からはなけなしの給金を治療費として持って来たと聞いて警戒を解いた(治療費は半分受け取ってあとは後日でいいと説得したらしい)。
  そうなると着たきりの服で身を粉にして働く姿や、庇の上で身を抱えるようにして寝ているのが目に入るようになる。疑うことを知らないのに、人を頼るのがどうにも苦手そうな男だなというのが信一の見立てだ。そのうち古着の一、二枚渡してやろう。
 真っ直ぐな気質は美徳で、信一はそういう男の性質を好ましいと思うただ、生きるのに難儀するだろう。龍捲風が肩代わりした金を返し終わってここを出ても、行くあてはあるのだろうか。

「信一、終わったか」
   ちょうど龍捲風が店にやってきた。帳簿を全面的に信一に任しているのを気にして、こうやって様子を見にきてくれる。
「ええちょうど。何か飲みます?」
「ああ頼む」
    勝手知ったる保冷庫から緑寶を二本頂いてストローをさし、龍捲風の座る卓に置く。ちょうど思いを巡らしていたあの坊主頭の話でもしようかと口を開いたところで、委員のひとりが「ああいいところにいた。ちょっと相談が」と椅子を引っ張ってきて龍捲風の隣に陣取った。揉め事や陳情なら副主官たる信一にも大いに関係ある。いったん坊主頭のことは横に置いて信一も相談事に耳を傾けた。

  話が最近空いた部屋のことになると龍捲風の肩がぴくりと動いた。前の住人のことや風水やらを話しているうちに今度は視線が動いた。信一がこっそり頭を動かし視線を追うと、オレンジ色のジャージが左から右へ駆けていった。信一が視線を戻しても龍捲風の意識はまだ店の外に向いている。
 「大哥」
 「……ああ」
   寄せた灰皿に長い灰が落ちる。考え事をしている時の龍捲風は煙草の存在を忘れがちになる。
  信一は口の端を上げた。
  男が部屋を得るのも、服を着替えるのも多分そう遠い先のことではないだろう。


了

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