【原利土1819IF】頸と心16
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十六 名
野良は次第に回復していった。
熱は三日目の朝に下がり、顔色も戻った。凍傷は残ったが、それも日を追うごとに軽くなっていった。二日後には身体を起こせるようになり、五日後には囲炉裏の傍で粥を食べられるようになった。
それでも相変わらず、二人は同じ上掛けにくるまっていた。野良が離れたがらないのだ。夜になると当然のように黒の傍に来て、上掛けの中に潜り込んでくる。腕を回し、身体を寄せ、そのまま眠りにつく。黒が身じろぎすればすぐに腕に力がこもる。どこにも行くなとでも言うように。
最初の夜は、熱のせいだと思った。二日目の夜も、まだ本調子ではないからだと思った。けれども三日目も、四日目も、熱が下がってからも、野良は同じだった。
野良は黒に甘えていた。あんなに完璧でいたがっていたのに、もうどうだっていいとでも言うようだった。まるで子供のように黒に縋りついて眠る。朝になっても離れたがらない。黒が火の番をしようと立ち上がれば、不満そうな目で見る。水を汲みに行けば、戻ってきた瞬間に傍に寄ってくる。
黒は困っていた。どうしたらいいのか分からなかった。
甘えられることに慣れていない。甘えられた経験がないからだ。家を焼かれる前の幼い頃、父や母に甘えた記憶はある。けれども甘えられる側になったことなど一度もない。だから野良が傍に来るたびに、黒は胸がざわついた。嬉しいのか戸惑っているのか、自分でも分からなかった。恐らくは両方だ。嬉しくて、戸惑っている。この男が自分を求めている。この男が自分に甘えている。そう実感する度に心が落ち着かなくなった。
上掛けの中で身を寄せ合っていると、自然と顔が近づくことがあった。野良の息が頬にかかる。野良の目が至近距離で黒を見つめる。そのたびに、黒はどうしようもない衝動に襲われた。
唇が近い。あと少し首を伸ばせば届く距離だ。そう意識すると、心臓が騒いだ。喉が渇き、身体が熱くなった。この衝動が何なのか知っている。けれども黒は動けなかった。
動いていいのか分からなかった。野良が求めているのは、こういうことなのか。それともただ温もりが欲しいだけなのか。あとほんの数尺、近付けばきっと分かる。けれどもその距離を詰められなかった。
野良もまた動かなかった。至近距離で黒を見つめたまま、それ以上のことはしない。何かを待っているような目。何かを確かめているような目。その目がじっと黒を見て沈黙が落ちる。この日もそうだった。囲炉裏の火が爆ぜる音だけが聞こえて、二人は見つめ合ったまま動かずにいた。
やがて野良が目を逸らした。目を逸らすのはいつも野良の方だ。
「……眠い」
掠れた声でそれだけ言って、黒の首筋に額を押し当てた。いつものように。熱があった頃のように。
黒は息を吐いた。
安堵なのか落胆なのか、自分でも分からない。たぶん両方だ。ほっとしている。同時に──物足りなさを感じている。
馬鹿だ、と黒は思った。
何を期待している。何を望んでいる。この男は病み上がりだ。まだ本調子ではない。そんな時に。
黒は野良の背中に腕を回し、いつものように抱き締めた。いつものように温もりを分け合った。しばらく落ちつかなげにしていたものの、次第に野良の呼吸は深くなっていった。
黒は目を閉じた。野良の匂いがする。病の匂いはもうしない。いつもの、山と囲炉裏の匂いがする。その匂いを吸い込みながら、黒は眠りに落ちていった。
***
三日ぶりに空が晴れた。窓から差し込む光が、囲炉裏の煙に筋を作っている。黒はその光を見つめながら、背中に感じる温もりのことを考えていた。
野良が寄りかかっている。
起き上がれるようになってからも、野良は何かにつけて黒の傍に来た。火の番をしていれば隣に座る。粥を食べていれば肩を寄せてくる。今もこうして黒の背中に寄りかかって、何をするでもなくぼんやりとしている。
「……野良」
「何だ」
「重いんだが」
「そうか」
そう言うだけで、野良は離れなかった。むしろ僅かに体重をかけてきた。黒は溜息をついた。呆れた溜息のつもりだったが、喉の奥から出てきたそれはどこか甘い響きを帯びていた。
黒は自分が焦れていることに気づいていた。野良が甘えてくるたびに胸がざわつく。肩が触れるたびに熱が走り、顔が近づくたびに息が詰まる。そしてその先に何かがあるはずだと期待している。それでいてあるはずのそこには辿り着けない。
野良は何もしなかった。甘えるだけで、それ以上のことはしなかった。黒もまた何もしなかった。──できなかったのだ。
その夜、黒は眠れずにいた。
野良は既に眠っている。いつものように黒の腕の中で、穏やかな寝息を立てている。その寝顔を黒は見つめていた。
火明かりに照らされた寝顔。長い睫毛。形の良い鼻梁。薄く開いた唇。
黒は、その唇から目が離せなかった。
あの夜のことを思い出す。野良が凍えていた夜。必死で温めた夜。野良が熱に浮かされながら「離れるな」と言った朝。あの時から、黒は何かを越えてしまった気がしていた。越えて、戻れなくなってしまった気がしていた。
でも本当は、越える手前で立ち止まっている。立ち止まったまま、今も焦れている。いつ元の時代に戻るのかも分からないからだ。その思考が黒の足を竦ませていた。
自分は時を跳んだ。数年先の世界に落ちてきた。あの崖から落ちた瞬間に何かが起きて、ここに来た。ならば同じことがまた起きるかもしれない。ふいに何の前触れもなく、元の時代に引き戻されるかもしれない。
もしかしたら、ずっと一緒にいられるのかもしれない。このまま春を迎えて、野良の家に行って、ご両親に会って本を読んで、そうやって月日を重ねていけるのかもしれない。
けれど──。
ある日突然、消えるのかもしれない。野良が目を覚ましたら、隣に誰もいないのかもしれない。黒がいた痕跡だけを残して、黒だけが消えているのかもしれない。そう思うと、それ以上を考えるのに躊躇した。
この関係を、名前のあるものにしたくなかった。名前をつけてしまえば、失った時の痛みが増す。名前をつけなければまだ誤魔化せる。まだ「依存」だと言い張れる。「執着」だと逃げられる。
だが名前をつけてしまったら──。
黒は野良の寝顔を見つめた。穏やかな顔。安心しきった顔だった。黒が傍にいることを疑っていない顔。その信頼が、黒の胸を締め付けた。
***
翌日、黒は一人で散策に出た。
野良はまだ本調子ではない。遠出はできない。ここのところ黒だけが食料を探しに出ている。雪は膝下まで積もっていたが、歩けないほどではなかった。
木々の枝も雪に白く覆われ、時折、風もないのに雪が落ちて、ぽふりと音を立てる。静かだった。自分の足音と、自分の息だけが聞こえる。
黒は歩きながら考えていた。
野良のこと。自分のこと。互いの間にある、名前のない何かのことを。
黒は足を止めた。
目の前に、一本の木があった。雪を被った枝が重そうに垂れ下がっている。その枝の先に小さな蕾があった。まだ固い蕾だ。春にならなければ開かない。黒はその蕾を見つめた。
(明日には死ぬかもしれない)
そう思った。
時を跳んだから不安だ、というのは言い訳だ。たとえ同じ時の中にいたとしても忍の命に保証などない。昨日まで隣にいた者が、今日にはいなくなる。それが忍の世界だ。黒はそういう世界で生きてきた。そういう世界しか知らない。
野良もそれは同じだ。いつ死ぬか分からない。いつ殺されるか分からない。雇い主に裏切られるかもしれない。忍務で命を落とすかもしれない。あの雪の夜のように、無茶をして凍えるかもしれない。
どのみち、明日のことなど分からないのだ。黒は息を吐いた。白い息が冷たい空気に溶けて消える。
失うことそのものよりももっと怖いのは、悔いを遺す失いかたをすることだ。
進まないまま、名前をつけないまま、曖昧なままで終わる。野良の気持ちに応えないまま、自分の気持ちを誤魔化したまま、いつか離れ離れになる。それを選ぶのは容易い。その時、自分は何を思うだろう。ああすればよかった。こうすればよかったと思わないだろうか。あとほんの少し近付けば触れられる距離を詰めなかったことを、悔いながら生きるのではないだろうか。
黒は蕾を見つめた。まだ固い。まだ開かない蕾だ。けれども春になれば咲くだろう。春にならないまま枯れてしまうのは、惜しい。そう思った。
黒は踵を返した。
家へ向かって歩き始めた。雪を踏みしめ、白い息を吐いた。胸の奥で何かが決まりかけていた。まだあの蕾のように花開いてはいない。まだ言葉にも形にもなっていない。けれども確かにそこにある。枯らすには惜しい想いだった。
家に戻ると、野良は囲炉裏の傍で火の番をしていた。黒が戸を開けると顔を上げて黒を見る。そうしていつものように黒の全身を確かめるような視線が走る。怪我はないか。寒くはないか。ちゃんと無事に戻ってきたか。
黒はその視線を受け止めた。
受け止めて、真っ直ぐに見つめ返した。
「……何だ」
野良が僅かに眉を寄せた。黒の視線に何かを感じ取ったのだろう。
「いいや、何でもない」
黒はそう答えて、囲炉裏の傍に座った。いつも自分で座るよりも少しだけ近くに。肩が触れる半歩の距離だ。野良は何も言わなかったが、その肩が黒の肩に寄りかかってきた。いつもと同じ仕草だ。黒はそれを受け入れた。
受け入れながら、思う。あの蕾が、咲いたところが見たい。たったそれだけのことだった。花は咲いても咲かなくても見つけたからには愛でるものだ。もし途中で枯れてしまうのであっても、それはそれでいいではないか。どうせまた冬が来るからと春を楽しまないのは愚か者のすることだ。
黒は野良の肩に、自分の頭を預けた。
野良が僅かに身じろぎした。驚いたのかもしれない。黒が自分から寄りかかることは今までなかったから。
野良は何も言わずに、ただ、黒の手を取った。黒の手は外を歩いてきたために冷えている。野良はその手を温めるように自分の手で包んだ。
囲炉裏の火が爆ぜ、小さな火の粉が舞い上がり、闇に溶けて消える。黒は野良の肩に頭を預けたまま、その火の粉を目で追っていた。
「……野良」
「何だ」
「お前はどうして、こうやって甘えてくるんだ」
野良の肩が僅かに強張る。けれども返ってきた声は平坦だった。
「甘えている訳ではないんだが」
「嘘をつけ」
黒は目を細めた。野良の肩の温もりを感じながら、言葉を続ける。
「熱が下がってから、ずっとだ。隣に座る。寄りかかってくる。夜は腕を回して離さない。それを甘えていないと言うなら、何と言うんだ」
野良は答えなかった。沈黙が落ちた。囲炉裏の火が燃える音だけが聞こえる。
「何か企んでやってるだろう?」
黒は顔を上げ、野良の横顔を少し下から見上げた。火明かりに照らされた輪郭。強張った頬。何かを堪えているような──何かを隠しているような顔。
「そう見えるか」
「ああ。私もそうだからな」
野良が低く問い返すのに、黒はきっぱりと言った。
「私を焦らしているだろう。わざと近づいて、わざと顔を寄せて何もしない。私がどうするか、試しているな」
野良の喉が、小さく鳴った。息を呑んだのだ。黒はそれを聞き逃さなかった。
「図星か」
「……」
「黙っているということは、図星だな」
黒は身体を起こした。野良の肩から頭を離し、真っ直ぐに野良の顔を見た。野良は火を見つめたままだった。黒の目を見ようとしない。
「何を待ってる」
黒は問うた。
「私が何かをするのを待っているのか。私が折れるのを待っているのか。それとも、私が逃げるのを待っているのか」
野良の横顔が、僅かに歪んだ。自嘲するような表情だった。
「……最後のは違う」
「では何だ」
野良はようやく黒を見た。火明かりに照らされた瞳が黒を映す。それはいつもの冷たい目ではなかった。何かを恐れているような、何かを求める子供のような、そんな目だった。
「……お前が、本当に残るのかを確かめている」
静かに言う、野良の声は低かった。
「お前は春になったら私の家に行くと言った。家族に会いたいと言った。本を読みたいと言った。一緒に、と」
野良の手が、膝の上で握りしめられた。
「でもあれは……私が凍えていた夜のことだ。私を安心させるために言っただけかもしれない。熱に浮かされた私を、宥めるために」
「野良」
「確かめたかったんだ」
野良の目が、真っ直ぐに黒を見た。
「お前が本当に残るつもりなのか。お前が本当に傍にいるつもりなのか……確かめたかった」
黒は二の句が告げなかった。この男は、怖がっていたのだ。黒が消えることを。黒がいなくなることを。だから甘えて、黒の様子を確かめていた。きっと凭れかかるたびに黒の反応を見ていたのだろう。黒が逃げないか、黒の言う情とやらがいまどうなっているのか、それを確かめるために。まるで親の愛情を試す幼子だ。黒は溜め息を吐いた。野良はそれにすら、少し不安そうな顔をする。
「……馬鹿だな」
言った声は、少し滲んでいた。呆れなのか愛しさなのか、自分でもよく分からなかった。
「馬鹿だな、お前は。いや……馬鹿なのは私もか」
黒は手を伸ばして、野良の頬に触れた。温かかった。あの夜の冷たさが嘘のような温かさだ。それを愛しいと思う自分がいる。そう自覚すると、愛しいという言葉がすとんと胸に落ちた。
「私は残る」
愛しさのままに、そう言った。野良の頬を撫でて、指先で髪を遊ぶ。
「お前の傍に残る。春になったら、お前の家に行く。お前のご両親に会う。本を読む。一緒にだ。これでいいか?」
野良の目が、揺れた。
「本当か」
「嘘をついてどうする」
「……分からない。お前は嘘が上手いから」
「それはお互い様だろう」
黒は笑った。乾いた笑いだった。けれどもその奥に、温かいものが滲んでいる。
「信じろとは言わない。信用するなと言ったのは私だからな。確かめればいい。これからも、ずっと」
野良の目が、僅かに見開かれる。
「私が逃げないかどうか。私が消えないかどうか。毎日確かめればいい。毎晩確かめればいい。それで気が済むなら、いくらでも」
黒の指が、野良の頬を再び撫でた。飼い犬に言い聞かせるような手付きだ。黒の目が細められる。
「だが、ひとつだけ約束しろ」
「何だ」
「企むな」
黒は野良の目を覗き込んだ。
「焦らすな。試すな。私を待たせるな」
野良の呼吸が、僅かに乱れた。
「お前が何かを望むなら、自分で取りに来い。私に何かをさせたいなら自分で言え。私はお前の腹の中を読むのにもう疲れた」
沈黙が落ちた。
囲炉裏の火が燃えている。二人の影が、壁に大きく揺れている。
野良の手が、黒の手首を掴んだ。頬に触れていた手を、そのまま掴む。強い力だ。逃がさないというような。
「……分かった」
野良の声は低かった。
「企まない。試さない」
野良が身を乗り出した。黒との距離が縮まる。顔が近づく。息がかかる距離になる。あと数尺の距離を、埋めていく。
「だから、逃げるな」
野良の目が、黒を捕らえていた。黒は笑った。野良の頸の後ろに手を添える。
「ああ。……お前も、逃げるな」
口付けは噛みつくようだった。
野良の唇が、黒の唇を塞いだ。塞いで、噛んで、こじ開けて歯が当たる。舌が入ってきて口の中を貪られる。息ができないのに離れたくなくて、黒はそれに応えるように舌を使った。
野良の舌が自分の舌に絡みつく。熱い。熱く濡れて生々しく蠢く感覚に、黒は野良の着物を掴んだ。そうしなければ溺れてしまいそうで、気が遠くなるような感覚に襲われた。
「は……」
頭の芯が痺れて、視界の端が白く霞む。身体の奥から、知らない熱が這い上がってくる。息を継ぐと、鼻にかかった声が漏れる。甘い声だ。甘くて、先を期待する声。
「んん……」
身体などただの器だと、黒はずっとそう思っていた。
硬くて、冷たく、動かない器。魂を入れておくためのただの入れ物。必要があれば使い、不要になれば捨てる。痛みも快楽も生きるための反応に過ぎないと、そう思い込んできた。そう思わなければ、生き延びられなかった。
忍は道具だ。忍務のために身体を使い、忍務のために心を捨てる。情など持てば弱点になる。身体に執着すれば足を取られる。だから感じず、だから求めず、執着しない。そうやってずっと生きてきた。けれども今は違った。
野良の手が、黒の背中を撫でる。着物の上から背骨をなぞるように。その手が触れるたびに黒の身体は震えた。怖いからではない。冷たいからでもない。──熱いのだ。
野良に触れられた場所から、熱が広がっていく。背中から腰へ。腰から腹へ。腹から胸へ。全身が熱を帯びていく。唇がほんの一瞬だけ離れる。息を継ぐためだ。黒は荒い息を吐いた。吐いた息が野良の唇にかかる。野良もまた荒い息をしていた。
「……っ」
黒は何か言おうとした。何を言おうとしたのか自分でも分からなかった。言葉になる前にまた唇を塞がれた。今度は、さっきよりも深かった。
野良の舌が、黒の口の中を探っている。歯の裏。舌の根元。口蓋。まるで黒という人間を丸ごと知ろうとして、全部を味わおうとしているようだった。
黒は目を閉じた。閉じた瞼の裏に光が散った。何の光か分からない。囲炉裏の火ではない。もっと白くて──もっと眩しい光だ。野良の手が髪に差し入れられる。後頭部を支え、逃がさないように引き寄せる。黒はその手に身を委ねた。執着に身を委ねることが、こんなにも心地よいとは知らなかった。
野良に触れられている。野良に貪られている。硬い殻ごと、冷たい芯ごと、動かないと思い込んでいた心ごと。自分の全部を、野良が受け止めている。
黒の目尻から、何かが零れた。涙だった。泣いているのだと、気づくのに時間がかかった。なぜ泣いているのか分からなかった。悲しいわけではない。苦しいわけでもない。ただ、何かが溢れた。閉じ込めていたものが、溢れて溢れて、止まらなかった。野良の唇が黒の頬を伝う涙を舐め取る。そうしてもっと深く口付けた。黒を丸ごと、飲み込むように。
「……野良」
黒の声は掠れていた。
「野良」
名を呼んだ。呼ばずにいられなかった。掠れた声が上掛けの中で溶ける。野良は唇を離さないまま、ほんの一瞬だけ動きを止めた。黒の吐息が野良の頬にかかる。熱い息。囲炉裏の火の匂いと、雪の気配が混ざった空気。熱いのに静かな時間だった。ここで何かが変わる。そういう予感があった。そこにあるのは微かな怖れと、それ以上にどうしようもない衝動だった。
野良が唇を離す。黒の唇から離れて、至近距離で黒を見る。火明かりに照らされた瞳が揺れている。荒い息の合間に、喉が小さく鳴った。言葉を飲み込む音だった。黒は野良の揺れる瞳を、どこかぼんやりと眺めていた。
「……野良じゃない」
低い声だった。いとおしむような声だった。黒の心臓が小さく騒ぐ。野良は黒の手を取って、自分の首筋に指を当てさせた。脈の打つ場所。命の音がする場所。そこを確かめさせるように、軽く押さえる。
黒は息を呑んだ。野良の命を、確かめさせられている。その感覚が、身体の奥を熱くする。
「利吉だ」
黒は瞬きをした。
言葉が耳に入って、胸の奥に沈むまでに時間がかかった。名を教える。忍が。馬鹿げている。今更どうしてと、黒の中の冷たい理屈が叫ぶ。必要なかった筈だ。野良のままでもよかった筈だ。けれども目の前の男は平然としていた。平然としているのに、どこか壊れそうな顔をしていた。
「……利吉……?」
聞いた名を黒が小さく舌に乗せると、利吉はわずかに口の端を上げた。笑みというより、痛みを和らげるような表情だった。自分の中の何かを押し潰すために、或いは自分の中の何かを押し通すために、かろうじて装っているような表情だった。
「……山田利吉。それが私の名だ」
名乗り切った瞬間、利吉の肩がほんの僅かに落ちた。息を吐いたのだ。決めてしまった。そういうふうな息だった。黒はその変化を見ながら、もう一度馬鹿げている、と思った。忍が名を教えるなど気狂いのような振る舞いだ。この男にとって、黒が本当に敵ではないなどという保証はどこにもない。黒は抜け忍で、追われる身で、ある意味敵よりも厄介な立場だった。はっきりとどこに所属するかが分からない。一言で言えば得体が知れない。そんな相手に名を渡すことは、自分の頸の場所を教えることと同じだ。素性が知られれば、累は最悪家にまで及ぶ。それを利吉も分かっているはずだ。分かっていない男ではない。合理を知り、損得を知り、危険を嗅ぎ分ける優秀な忍だ。少なくともこの男はそうあろうとし続けていた男だった。
それなのに──利吉は笑った。自分の頸に黒の指を押し付けながら、火の光の中でほんの一瞬だけ。それは少年のような笑い方だった。弱さを見せたくはないのに、見てほしがるような笑い方。利吉は少しだけ、困ったような声で言った。
「お前になら、頸を取られても構わない。そう思ったから、教えた」
黒の背筋が、ぞくりと震える。それは決して甘い言葉ではなかった。冗談の形をしているのに、冗談では済まされない。頸を取られても構わないなどと、忍が軽く言っていい言葉ではない。利吉はそれを分かっていて言っている。馬鹿げている、と黒はもう一度思った。
「……馬鹿なことを言うな」
声が、少し震える。本当を言えば叱りつけたかった。こんな言葉で縛られたくない。心の重さを示すために頸を差し出すなど間違った道理だ。けれども同時に、その言葉が嬉しくて仕方がない自分がいる。そうして嬉しいと思った瞬間、黒は自分の醜さに気づいてしまう。こんなふうに命の重さで繋がろうとするのは卑怯だ。この男も卑怯だし、自分も卑怯だ。
利吉は黒の頬をそっと親指で撫でた。涙の跡が残っているところをなぞるように。黒は息を止めた。触れられるだけで身体が勝手に反応する。利吉に全部見られているのだと思うと、恥ずかしさと安心が同時に押し寄せる。
「心配するな。父も母も強い」
利吉の声は静かだった。黒の髪を指に絡めながら、淡々と語った。
「父が傷を負ってから、あの家は行き方を知る者でないと辿り着けなくなっている。仕掛けがある。罠がある。迂闘な者が踏み込めば、命はない」
声が、少しだけ硬くなる。そこには古い痛みが混じっている。利吉の父が傷を負ったという日の話を黒は思い出した。利吉はそれを今でも背負っている。あれから家は隠されたのだろう。誰かがまた踏み込まないように、簡単には辿り着けないように計算され直されたのだろう。
「だから、お前が心配することはない。お前が私の名を知ったところで、家族を害することはできない」
そう言い切る口調は、黒が拒む余地を残さない色を持っていた。押し通すと決めた男の声だ。黒は唇を噛んだ。反論はいくらでもできる。危険だ、馬鹿だ、それでも忍か。けれどもそれらを口に出せば、結局自分が怖いだけだということが露呈する。自分が欲しいくせに逃げたいだけだと。黒はそれを利吉に見抜かれるのが嫌だった。利吉もきっと、それを見越して話している。
利吉は黒の額に、自分の額をそっと押し当てた。呼吸が混ざる距離。黒の鼻先に利吉の匂いが満ちる。病の匂いはもうない。薪と煙と、人のぬくもりの匂い。利吉の匂いは、山の匂いだ。あの白い曼珠沙華が咲いていた、野原の匂い。
「……クロ」
利吉が黒の名を呼ぶ。黒はそれだけで胸の奥が痛むほど満たされるのを感じた。利吉がつけてくれた名だ。名を呼ばれるとはこんなに胸に刺さるものだったかと、喉が詰まって、言葉が出ない。言葉を出したら何かが決定してしまうのが怖い。けれどもその怖さの向こうに、もうひとつ別の感情があった。それは期待だ。春が来ることへの。
「お前が消えるなら……私はまた、同じことをする」
利吉の声は低かった。あの雪の日の話しをしているのだろう。脅しではない。それは淡々とした宣言だった。自分がどういう人間なのかの。幼さも青さも、もう隠さずに言っている。
「探して、追う。絶対に見つけ出して、またこうする」
黒は目を閉じた。
何かが溢れそうになるのを、必死に堪えた。涙ではない。言葉でもない。利吉は分かっている。黒が逃げたがることも、逃げたくないと思っていることも全部。
──私も大概だな。
あの自嘲が、また胸の底で鳴った。利吉から名をもらって、利吉の名をもらって、利吉の世界を差し出されて、それを欲しいと思ってしまう。欲しいと思ってしまえばもう引き返せない。それは希求だ。闇の中で朝を待つような、冬の中で春を待つような。
黒は目を開けた。利吉の瞳がすぐそこにある。火の色を映した瞳だ。怖さと欲と覚悟が混じった瞳だ。
「……利吉」
今度は迷わずに名を呼んだ。呼んだだけで胸の奥が少し落ち着くのが不思議だった。名というものは不思議な力を持っている。形を作って、繋ぎ止める。黒ももう動けなくなってしまった。利吉が黒と名付けたから、黒にしかなれなくなってしまった。
「お前は……ずるいな」
黒は小さく笑った。笑いと言うには弱かったが、利吉もそれに笑った。短い笑いだ。けれどその笑いに、ようやく二人とも肩の力が抜けた。
黒は利吉の手を握り返した。絡めた指に力を込める。逃げたくなる自分を、ここに留めるために意思を込める。
白い曼殊沙華の景色が、まだ脳裏に残っていた。雪の白ではない白。業を払うという花の白。
そこへ行く道が、利吉の名の中にある気がした。
後
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