日々のまにまに

 終わりの日のことを、いつも考えている。人生最後の日。肉体と精神が朽ち、命が尽きる日。それは明日かもしれないし、三十年後か、三十分後かもしれない。この二十年、四六時中、目の前を漂う死の空気を振り払って、時には飲み込まれそうになりながらも、がむしゃらに生にしがみついた。この頃はようやく、三十分よりは三十年のほうがいいと思える穏やかな日もあるが、やっぱり死の気配に誘われてスニーカーひとつでふらふら山に行って、五合目あたりで我にかえることもある。心残りといえば、施設に残した母のことだが、彼女を看取ればいつぱたりと死んでもまあ未練はないかなと思わなくもない。
 長きにわたる忌まわしい事件が解決した後、俺は善良な市民を守る警察官から、なにも持たないただの無職のおじさんになった。唯一、持ち物と言えるものは、生活のできるふたつの家と、この先何年かは暮らしていけるだけの貯蓄、それから、有り余るほどの時間。なにも持たないおじさんに突然突きつけられた余生とかいう代物を、つまりはまんまと持て余していたそんな時。ひさしぶりにあの男に会ったのだ。


「僕と暮らしませんか」
 春の木漏れ日がやわらかく降りそそぐ、公園のベンチで。
 眉間にこれでもかと皺を寄せた年下の男が、今にも泣き出しそうな声でそう言った。
 その日はとにかく天気が良かった。だから昼間からわざわざソウルの森林公園まで行って、缶ビールを飲んだ。何本か空けるうちに帰るのがめんどくさくなって、ハン・ジュウォンに電話をした。よりにもよってというか、彼が江原道勤務になったことは知っていたけど、こんな平日の真っ昼間に、堕落した元パートナーを迎えに来る暇もなければ理由もないだろうと踏んで、ただただ酔っ払いのいたずら電話で済ませるはずだった。
 だからなおのこと、仕事をほっぽってまでここに来て、隣に姿勢よく腰掛けている彼の言葉の真意がわからなかった。果たして、俺たちの関係はなんであったか。自分よりも十三も年下で、仕事の元パートナーでもあったこの男と。元より、恋人だったことは一度もない。友人と呼べるほど気軽ではなく、かといって家族と言えるほど単純ではなかった。
「イ・ドンシクさん。僕が今から話すことは、あまりにも愚かで図々しい、懇願とも、提案とも呼べない身勝手極まりないわがままです。あなたの気分を損ねるかもしれませんし、もちろん聞く必要もない」
「はぁ。酒も煙草もやめるつもりはないけど……」
「真面目に聞いてください」
「聞かなくていいって言ったよ?」
「じゃあやっぱり聞いて。あなたにはあなたの人生を、もう一度やり直してほしい」
「……はぁ」
 我ながら気の抜けた返事だった。だってさっぱりわからない。なにをやり直すって?
「僕なんかがあなたの人生に口出しをしていいわけがないのはわかっています。本来ならあなただって、大学に行って普通に働いて、結婚して、そんな未来があったはずです。それを全部奪った、僕の父が」
「その話はもう、決着がついたはずでしょう」
「じゃあ許してくれますか」
「許すもなにも、あなたと父親は関係ないと何度言えば……」
「僕が、あなたのこれからの人生に介入すること」
 なんて?
 冗談みたいな台詞を吐いた目の前の男は、えらいど真面目な顔をしていた。そもそもハン・ジュウォンは冗談が言えるタイプじゃない。だから世間一般的にはプロポーズとも言えるであろうこの言葉が、まさか本当にそうなんじゃないかなんてソワソワしてしまう。一応冷やかしで「まさかプロポーズじゃないですよね?」なんて茶化したら、ジュウォンは顔を真っ赤にして下を向いた。なにその反応。
「……僕はそれでも構わないと思っています」
「おぉ、それはそれは……」
 う〜ん、驚いた。四十年も生きていると、まだまだいろんなことがあるものだ。彼の横顔が、日差しを受けて一段ときらきら輝く。本来ならば「気持ちは嬉しいけどごめんね」とか「好きだけど重いのはちょっと」とか、うまくかわせる言葉はいくらでもあるのだけど。ハン・ジュウォンという人間と、なにか名前のつく関係になりうることは一生ないだろうと思っていた。彼の健やかなる人生を願い、たまに会えば酒でも奢ってやれればまぁいいかなぐらいの、彼とはそれぐらいの距離感がちょうどいいのだと。でも、悪くないなとも思った。彼の不器用極まりない言葉に、確かに今、心がわくわくと躍ったのだ。
「どうせ持て余すしなぁ」
「え?」
「差し上げてもいいですよ、余生」
 近所にスイカをおすそ分けするぐらいのテンションで言ったら、ジュウォンがベンチから跳び上がって後退りをした。なかなかレアな反応だったので、俺は少し気分がよかった。
 
 
「ハン・ジュウォンにプロポーズされたんだけど」
 マッコリ片手に言うと、店の奥で規則正しく響いていた包丁の音がぴたりと止まった。カップをくるくるとゆすり、顔を上げる。テーブルを囲んでいた奴らが、兄弟らしく揃いも揃ってぽかんと口を開けていた。一番デカく開いていたジフンの口にポッサムを詰め込んでやる。もぐもぐと噛んで律儀に飲み込んだあと、彼は心底不思議そうな顔で「なんでですか?」と尋ねた。
「なんでだろうね?」
「聞くな、私に」
 ジファがそう吐いて、手酌でどぼどぼとマッコリを注ぎ足した。俺はボトルに手を添えるでもなく、頬杖をついて、勢いよくカップから液体が跳ねるところをぼうっと見ていた。
「あんたたち、そもそも付き合ってたの?」
「いんや」
「付き合ってもないのにプロポーズってするもんなんですか?」
「なんて言われたの?」
「あなたのこれからの人生に介入させてくれって」
「プロポーズね。それは」「ですね」
「だよねぇ」
 あのハン・ジュウォンがねぇ。おやまぁ立派に人間になって。みんな口々に、まるで親戚の集まりだ。三人でジュウォンの斜め四十五度への成長ぶりに感心してる中、ジェイがカウンターの奥から顔を出した。
「で、おじさんは返事したの?」
「う〜ん、一応オーケーはした」
「一応ってなに? 誠実さが足りないんじゃない?」
「う〜ん、そうねぇ」
「あんたの気持ちは? 気持ちがないのに弄ぶのはかわいそうよ」
「う〜ん、そうねぇ」
 女性陣ふたりの圧がすごい。気持ち。つまりは俺がハン・ジュウォンをそういう意味で好きなのかどうか。あるといえばあるし、ないといえばない。ヤれるかヤれないかで言えば、まぁたぶんヤれないこともないけど、かといって、彼への気持ちは一筋縄ではいかないというか、一言では形容し難いというか、あえて言うならば。
「飼い犬……?」
「ジュウォンさんが聞いてたら絶望顔しそうね」
 ジェイがやれやれと首を傾げる。まぁそうか。確かに、気持ちがないまま彼と一緒に過ごすのは誠実とは言えないかも。振るなら早いほうが傷は浅いが。減らないマッコリカップをくるくるとゆすり、いざ振ったときのハン・ジュウォンの顔を思い浮かべる。怒るだろうか泣くだろうか、それとも苦笑い?
 う〜ん、う〜んと壊れた冷蔵庫みたいに唸る俺の背中を、ジファが平手で引っ叩く。あまりの痛さに悶絶していると、今度は耳元で「しっかりしろイ・ドンシク!」とスピーカーを通したのかってぐらい大声で叫ばれて、俺はまた悶絶した。この状況はどう考えても俺が悪者だ。まったく、知らない間にこんなに愛されていたんだね、あなたは。
 
 
 ハン・ジュウォンを見ていると、小さい頃飼っていたポメラニアンを思い出す。学校の帰りにユヨンと拾ったその子を、「小さいから飼ってもいいでしょ?」と両親を泣きながら説得したのはいいけど、その子はなんと自分をサモエドだと勘違いしてしまったタイプの、つまりはすくすくと二十キロを超え、小型犬とはとても呼べない大きさに育った。俺は長男だったから、双子とはいえ妹の面倒を見ることが当たり前だったけれど、彼女が優秀だったこともあって、世間一般マニャンでの評価はおおむね『ダメな兄』だったわけで。表向きは威勢を張ったって、そりゃあ誰かに泣きつきたい時だってあるわけで。そんな時、あのふわふわで、大きい守り神がいつも慰めてくれた。言葉を発するわけじゃないけど、ただ抱きついて匂いを嗅いでいるだけでなぜか安心した。
 だからあの子が死んでしまった時は本当に悲しくて、悲しくて、大声をあげて泣いた。長男の意地のせいで、そんなふうに泣いたことはそのときまでなかったから、両親はさぞかし驚いたことだろう。今思えば、それが初めての喪失だった。名前はサウォル。あの子は四月にやってきたから。


 四月のとある日曜日。朝っぱらから軽快にインターフォンが鳴った。湖畔の家の玄関は相変わらず建て付けが悪い。いいかげんリフォームでもするかと思いながらがたがたとドアを開けると、立派な薔薇の花束と目があった。四月の風はほんのり生ぬるくて、いい香りがする。真っ赤な薔薇の集合体からおそるおそる目線を上に。春色のコートを羽織って真っ赤な顔をした、ハン・ジュウォンがいた。
 俺はやっぱりサウォルのことを思い出した。嬉しそうにボールを咥えて、褒めて褒めてと言いたそうなあの顔。ご主人様愛してますとでも言いたそうなあの顔。
 ジュウォンの第一声を待たずして、あまりのくすぐったさに思わず吹き出してしまった。
「ふふっ! あなた、それ」
「わっ、笑わないでください! こっちは真剣なんですよ⁉︎」
「いやだって、急になんなのそれ……ハハッ!」
「余生をいただくからにはきちんとしないと……」
 本当に、馬鹿がつくほど真面目な男だ。ロマンチックなことをするわりに、スマートさのかけらもない。ひとまず彼の腕に大事そうに抱えられていた花束を受け取った。
「ありがとう。まぁ、とりあえずあがんなさいよ」と顎で合図すれば、彼は「はぁ」としおらしく返事をした。
 客間のソファに座るなり、ジュウォンが何か言いたげに前屈みで俺の顔を見た。
「イ・ドンシクさん、あの」
「はいはい。お茶でも飲みながらね」
 しゅん、と肩をすくめたジュウォンを横目に、構わず冷蔵庫の中を物色する。元より、中年男ひとり暮らしの冷蔵庫の中身なんてたかが知れている。ビールとタッパーをかき分けて、奥のほうで忘れ去られていたシッケの缶を引っ張り出した。庭の草むしりしてたら通りがかりのおばさんにもらったんだっけ。
「これしかなかった」
「お構いなく」
「まぁ見ての通りですよ。せっかく花をいただいても、花瓶もなければ気のきいたお菓子もない」
 ジュウォンがまた「はぁ」と気のない返事をして、部屋をきょろきょろと見渡した。なんの面白みもない、必要最低限の家具、家電で揃えた部屋。ナム・サンべ所長のものは別の部屋にまとめてある。釣りの道具やら実用書やら、当人がもういないにもかかわらず、そっちの部屋のほうがよっぽど生き生きとしている。
「仕事を辞めてしばらく経つけど、相変わらず趣味もないし、ああやって暇なときはせいぜい散歩がてら公園でビールでも飲んだり。あとは湖のベンチでぼうっとしたり、たまに釣りはやるかな。庭も草が生えれば引っこ抜くぐらいで、ガーデニングなんてとてもだし。あなた、本当にこんなつまらない男と連れ添う気ですか?」
「僕が一緒にいれば、あなたの質素な生活に花を添えるぐらいはできます」
「おぉ……」
 突然目をきらきらさせて、ジュウォンが背筋を正した。あ、もしかしてプレゼンの時間と勘違いしてる? さては、俺が思ってる以上にこの男は重症なのか。
「あ〜ハン・ジュウォン警部補? こないだはつい勢いでオーケーしちゃったんだけど、その、あなたは俺とどうなりたいわけ?」
「どう、とは?」
「んん〜、世の中にはさ、いわゆる名前のつく関係ってのがあるわけじゃない? 友達とか家族とか恋人とか」
「はい」
「まぁ俗にいうセフレってやつとかも」
「……ええ」
「あなたとはどれもなり得ないと思うんですよ。というか想像がつかない」
「はい。それで構いません」
「え、いいの?」
「肩書きが欲しいわけじゃないです。あなたが日々どのように暮らし、何を見て、何を感じるのか。僕はただ、それを近くで見ていたい」
 それってつまり。
「…………ストーカー?」
「断っっっじて違います‼︎」
 違うのか。それならやっぱりなんなんだ。この男は俺のことが好きなんだろうか。まぁそうだからプロポーズじみた真似をしたり、花束を持って押しかけたりするんだろうけど。
「やっぱり、ダメですか?」
 おねだりするみたいに、ジュウォンは目をうるうるさせてそう言った。俺はまた、う〜んと壊れた冷蔵庫みたいな声をあげて、頭を抱え込んだ。いや、ダメじゃないんだ。むしろ一度は了承してるわけだし。元はといえば、俺がつい若者の勢いに乗せられて、つい不器用でかわいいななんて少しばかしわくわくしてしまったせいで、もっと言えば、酔っ払ってついつい電話なんかしてしまったせいで。本当に、なんで電話なんて。彼とはもう、二度と会わなかったのかもしれないのに。
 はぁ、とため息をついて、ダイニングテーブルにそのまま置き去りにされた薔薇の花束を見た。花びらはどれもみずみずしく、ピンと上を向いて咲いていた。俺が酔っ払って電話しなければここにはなかったもの。彼だったらこの花を、どんな花瓶にどう飾るのか。案外器用なのかもしれないし、変なところで芸術が爆発してしまうタイプかもしれない。
「ドンシクさん」
「うん」
「花瓶を買いに行きませんか」
 良い提案だ、と思った。あなたが日々どのように暮らし、何を見て、何を感じるのか。俺も多少は興味があるもの。
 
 
『終いじたく』というものがある。いわゆる生前整理、生きているうちに財産や持ち物を整理しておきましょうというあれだ。自分がいつ死んでもいいように、残された人が苦労しないように。ついこないだまで、家の鍵さえ閉められなかった俺には、一生縁のないものだと思っていたが、いずれ来るその日のために、ほんの少しずつ身の回りの整理を始めた。ついこないだまで、帰らない家族を諦めながら、信じながら、誤魔化しながら、日々、身も心もずたずたに引き裂かれるような思いをしてソファで体を丸めていたのに。いざ、そんな『ついこないだ』が過去のものになると、俺はやっぱりのらりくらりと身をかわし、たまに生家の庭に除草剤を撒いて、一ヶ月もすればまたぼうぼうになった雑草に悪態をついた。つまり、いまだにあの家のことをどうするか踏ん切りがつかないままでいた。
 仕事を辞めてから、施設にいる母には頻繁に会いに行けるようになった。母を連れてあの家でまた一緒に暮らすことも考えたが、地下室の冷たい壁にユヨンが眠っていた事実を覆すことはできないし、別の場所で暮らすにも彼女がそれを望んでいるとも思えなかった。
 やっぱり俺はここでも二の足を踏んだ。生前整理だなんて口では言いながら、ただ前にも後ろにも進めない、消費するだけの毎日。そんな灰色の日々に、ほんの少しずつ淡い光が降り注ぎ始めた。突然花束を持って押しかけてきた、不器用な男のせいで。
 玄関の下駄箱、洗面所の化粧台、キッチン、ダイニングテーブル、リビングの出窓、寝室のベッドサイド。見える範囲ではこれくらいだが、俺の知らないところではもっと侵食されているのかも。毎週毎週サブスクかってぐらい、ジュウォンが彼の私物と一緒に花束を持って来るおかげで、家の中は花でいっぱいになった。花が増えるたびに、間に合わせのコップに飾ろうとする俺を静止して、彼は「花瓶を買いに行きましょう」と俺を外に連れ出した。花瓶とともにキッチン用品が増え、寝具が増え、いつの間にかすっかり二人分の生活用品が揃ったころ、とうとう花を飾る場所がなくなった。なくなったので、もうこれで買いに行かなくてもいいかと高をくくっていたら、今度は「ガーデニングをしましょう」と彼が目を輝かせてホームセンターの園芸用品コーナーに入り浸るようになってしまった。ここまでくると、そろそろこりゃあいったい誰のセカンドライフだったかなと、疑問に思えてきた。
 作業着のおじさんや仲の良さそうな老父婦に混じって、園芸用品コーナーを物色する若い男はひときわ目立つ。ガタイのいい体を丸めて、棚の下のほうに並んだ苗をなにやらぶつぶつ言いながらあれこれ手に取っている。
「うちの庭をバラ園にでもするつもりですか?」
「そうしたいのはやまやまですが。僕は初心者なので、まずは簡単なやつにしようかと」
 なるほど、いずれはバラ園にするつもりなのか。そういえばこの坊ちゃんはイギリス育ちだったな、と、イングリッシュガーデンの前でご満悦の彼の顔を思い浮かべた。
 
 
 ジュウォンとの暮らしは、正直、思っていた以上に順調だった。そもそも彼は事件が立て込めば帰ってこない日もザラだったし、呼び出しがかかればすぐに家を飛び出していくから、一日中一緒に過ごす日は滅多になかった。お互いに干渉せず、たまに時間が合えば飯を食い、なにも求めずなにも起きず、日々はあっという間に過ぎていった。
 いつの間にか俺は、そんななにも起きない日々のことが愛おしくなっていた。朝起きて、飯を食って、クソをして、少しだけ生家の片付けをして、また飯を食って、昼寝をして、買い物をしに出掛けてまた飯を食って。毎日毎日、今までとなにも変わらない、退屈な生活のはずだった。だがその生活が、季節の花で彩られ、食卓に見たこともないような西洋料理が並び、庭の草むしりをする横で、虫に怯えて飛び上がる年下の男がいるだけで、まるで百八十度世界が変わったみたいに輝いて見えた。
 あの春の日、ジュウォンが子犬みたいな目をして「僕と暮らしませんか」なんて言ったあの日。確かにわくわくと躍った心は本物だったのかもしれない。この気持ちをなんと名づけたらいいのだろう。俺がもし万が一、ミュージシャンを目指していたら、この気持ちを歌詞に起こしたのだろうか。
 生家の片付けをしながら、かつて相棒だったアコースティックギターを引っ張り出した。二十年分の埃をかぶったギターは、弦が何本も切れていて、サウンドホールの中にカビが生えていた。こりゃあヴィンテージもんだ。指でばらばらと弾くと、湿った不協和音がわんわん鳴った。もう弾くことはないと思っていたギターを、埃だらけのハードケースにしまいながら、またひとつ、心が躍るのを感じた。
 思い出の品を家に持って帰り、リビングの床に広げた。ギターのパーツを分解して、新聞紙の上にひとつひとつ並べていく。スマホでギターのお手入れ方法なんて動画を見ながら、弦を外して、傷だらけのボディを磨く。指板用のオイルはレモンの香りがした。手入れもおろか、チューニングすらまともにしてなかった若き日を思い出す。自然と手が遠のいてしまったけれど、確かに俺は歌が好きだった。下手くそでも、弦を掻き鳴らして、声を張り上げるあの瞬間が大好きだった。
 ジュウォンは仕事から帰ってくるなり、あらゆる部品で散らかったリビングを見て唖然とした。
「な、何事ですか……?」
「いやあ、懐かしくなっちゃって」
 新しい弦を箱から取り出しながら、手招きをする。彼は不思議そうな顔をして、通勤鞄をソファに置いてから俺の横にちょこんとしゃがんだ。
「一曲お願いしても?」
「かわいい坊ちゃんだから特別にタダでいいですよ。開店前だからちょっと待ってね」
「じゃあ夕食の準備してます」
 ジュウォンが腕まくりをして、キッチンに立つ。毎回外科医かってぐらい腕まで入念に手を洗う姿も最初こそ笑っていたが、今じゃすっかり慣れてしまった。野菜を切る音、肉を叩く音、鍋のぐつぐつ鳴る音。だんだんと音楽が響いて、それからワインの香りがあっという間にシチューのにおいになってリビングまで漂ってきた。
 それを嗅ぎながら音叉を咥えて、ピンと張り直した弦を一本ずつ調整していく。新しい弦の香りも手触りも、全部忘れていた。無理矢理忘れようとしていた。だってこんな俺に、俺だけに、また何かを楽しむ資格なんてあるはずがない。
 気がついたらぽろぽろと涙が溢れていた。ジュウォンに見つからないようにすぐに拭ったけど、鼻を啜る音で彼が俺のほうを振り返った。ほんと、めざとい奴。
「はは……。お腹空きすぎて泣けてきちゃった」
「……歌の前に食事にしましょうか」
「……うん」
 ジュウォンは何も聞かなかった。ただ黙って、いつもより多くご飯をよそってくれた。おじさんなんだから、そんなに食べられないって言っても。ハン・ジュウォンは不器用だ。でもその不器用な優しさに、すっかり絆されてしまったのも本当のことだった。
 
 
 ある夏の晩のこと。悪夢にうなされて最悪の気分で目を覚ました俺は、寝巻きのまま涼みに外へ出た。湖沿いの遊歩道を歩いていると、すうっと風が吹いて、じっとり汗ばんだ肌が冷たくなっていくのを感じた。道沿いのわずかな街灯を頼りに、ひとり分のサンダルの音を響かせる。木の柵の向こうには、真っ黒い湖が広がっていた。ゆるやかな波紋が輪となり、水面を伝っていく。俺はそれに吸い込まれるように、柵へと手をかけた。
 足を乗り上げ、湖のほうへ越えようとした時、一瞬、ぴり、と右手の人差し指に痛みが走った。ほぼ同時に「イ・ドンシクさん!」と聞き覚えのある声が俺を呼んだ。その声ですぐさま俺は我にかえって、頭をぶんぶんと横に振った。
 ぱたぱたと忙しいサンダルの音を立てて、息を切らした同居人が暗闇から現れた。こんな夜中にいったいどうしたの、そう口から吐き出す前に、目の前が壁で塞がれた。すぐにあたたかい肌に包まれ、俺は彼の腕の中に収まってしまった。抱きしめられた腕は、みし、とかぽき、とか音がしそうだったけど、先に聞こえてきたのは鼻にかかった涙声だった。
「今日は一緒に眠ってもいいですか」
 ジュウォンは掠れた声で、まるで子供みたいなことを言った。お願いともわがままともいえるその言葉に、俺は「うん」と頷いた。汗で冷えた体が、ぽかぽかと内側から温まっていく。友達でも恋人でも家族でもない男の抱擁は、ただただ心地が良かった。
 家に戻って、ジュウォンが自分の部屋から枕と救急箱を持って俺の部屋に来た。そういえば、と血が滲む指先を見る。
「洗ってきてください。手当てするので」
 手当てとはまたおおげさな。言われたとおり傷口を水道で流してから、ベッドに腰をおろした。隣に座った男は、なんだか神妙な面持ちでガーゼを俺の人差し指の上に当てた。ぎゅっと圧迫され、ガーゼにじわじわ赤色が滲む。
「大したことないのに」
「あとから破傷風になったら僕は一生後悔します」
「おおげさだなぁ」
 冗談かと思えば、やっぱりジュウォンはど真面目な顔をしていた。人差し指の先がじんわり熱い。
「なんでここまでしてくれるの? 好きだから?」
「いけませんか?」
「ううん。ありがとう」
「……いえ」
 ジュウォンは目を伏せたまま、俺の指に絆創膏を巻いて「もう寝ましょうか」と言った。
 セミダブルのベッドは男二人が寝るにはいささか窮屈だ。俺は寝転んだまま壁ぎわに体を寄せて、もうひとり分のスペースを空けた。彼がベッドに膝を乗せると、ぎぃと音を立ててマットが沈んだ。ヤれるかヤれないかで言ったらヤれると思っていたけれど。いざそういう雰囲気になると、ついつい物おじしてしまって、俺は黙ってくるりと壁のほうへ体を向けた。
「……ドンシクさん」
 ジュウォンが甘えた声で俺を呼ぶ。背中からするりと抱き込まれて、思わず息を呑んだ。いつシャツの中に手を突っ込まれるんだと妙に緊張して、ぽっこり育ちつつあるビール腹をへこませてみる。肺活量が続くうちに早いとこ触ってくれ。けれどいっこうにシャツの裾が捲れることはなかったし、ハーフパンツの中を弄られることもなかった。いったいどうなって……?とおそるおそる後ろを振り向けば、つやつやした卵みたいな肌の坊ちゃんのかわいい寝顔があった。
「マジかぁ」
 落胆なのか安堵なのかわからないため息をつく。しばらく目をぱちぱちさせて壁のシミと睨めっこをしていたら、だんだん規則正しい呼吸が聞こえてきて、俺はゆっくり目を閉じた。
 それから、ジュウォンはたまに俺の部屋にやってきては、俺を抱き枕にして眠った。ただ眠るだけで、それ以上のことはなにもなかった。でも、不思議と心が満たされていくような気がした。彼と眠ると妙に体が熱くて、毎回冷房の温度を下げなきゃならなかったけど。
 
 
 おはよう、おやすみ。いってらっしゃい、ただいま。いただきます、ごちそうさま。
 決まった挨拶を当たり前に交わすことにもいつのまにか慣れ、すっかりハン・ジュウォンが生活の一部になりつつある頃、彼がひとつ歳を取った。
 日中の最高気温がこの夏一番になりそうだったその日も、ジュウォンは朝早くからいそいそと仕事に出かけて行った。夏休み真っ盛りのこの時期、女性青少年課は何かと忙しい。だから出がけに見送る時も、まるで自分の誕生日のことなんて忘れているようだった。いい機会だ。そろそろ仕返しをしてやろうではないか。
 ジュウォンと過ごす数ヶ月のうちに、いつの間にか少しずつ、終わりよりも明日のことを考えるようになった。明日はあの子となにを食べようか。休みはどこに行こうか。花瓶に活ける花を買いに。あたらしい映画を観に。庭に水を撒いて、縁台で月を見よう。スーパーで食材を買っている時も、施設の母にジュウォンの話をしている時も、俺はいつも彼の体温みたいに心がぽかぽかになった。心の隙間に図々しく入り込んできた、友達でも恋人でも家族でもないあの子。ふっと『あっち』に行ってしまいそうな俺を、うしろから痛いくらいに抱き込んでくれるあの子。部屋中を花でいっぱいにしてくれたみたいに、俺の蓮のように穴ぼこだらけだった心を、たくさんのぽかぽかであっためてくれたあの子。余生をあげるなんて言ったくせに、いざ蓋をあけてみたら貰ってるのは俺のほうだった。
 俺はあの子に、なにをあげられるんだろうか。こんななにも持たない無職のおじさんに、あげられるものなんて。けれど、あげたいものはたくさんあった。それは物だけじゃなくて、いがみ合った分だけたくさん優しい言葉をかけてあげたいとか、毎日毎日新天地で必死に働いているあの子を労ってあげたいとか。傷ついたのはジュウォンだって同じだ。傷は一日では治らない。二十年分の傷なんてもっとそうだ。舐め合いたいとかそういうことじゃなくて、でも俺はやっぱり俺が傷ついたように、あの子の傷も撫でてあげたいんだ。ハン・ジュウォンという人間が生活の一部になってしまったせいで、俺の心はハン・ジュウォンという人間で溢れてもうどうしようもなくなってしまった。本当は、寝てる時だってうしろから抱き枕にされるだけじゃなくて正面から抱き合いたいし、あわよくば、出掛けにほっぺにキスだってしたい。この感情がなんなのかなんて、いくら名前のつかない関係だからって気がつかないわけがない。本当に陳腐で嘘くさくて、不確定で、でもちゃんとここにあるもの。俺はハン・ジュウォンに、愛をあげたい。
 
 
 夕方過ぎ、ホールケーキとフライドチキンを受け取って、俺はソウルをあとにした。朝のうちにジュウォンを見送ってから部屋中を掃除して花瓶をひまわりでいっぱいにした。
 ダイニングテーブルには青紫のリンドウを。凛としていて、彼によく似合う。庭に出て、ジュウォンのバラ園(に将来的になるらしいもの)の横にある、小さい俺の家庭菜園スペースから小さいレタスとプチトマトを収穫する。キッチンでボウルに水をはりながら、ケーキにチキンにサラダって、これってまるでクリスマスだなと気がついた。まぁいいか。八月のクリスマスなんて映画もあるくらいだし。プレゼントも兼ねて、奮発してなかなかお高いワインも買った。彼の生まれ年のやつ。味なんて正直あまりわからないけれど。
 ひととおり準備を終えると、スマホの通知に、ジュウォンがいつも律儀によこす『これから帰ります』が届いていた。時計と睨みあいながら、今あのへんかな、もうすごあそこかな、とそわそわしながら彼の帰りを待った。そろそろかなというあたりで部屋の電気を消して、ダイニングテーブルにキャンドルを灯す。なかなかどうして、なにかの儀式めいている。すごいなハン・ジュウォン。いい歳したおじさんにこんなことさせるなんて。だんだんおもしろくなってきて、ついけらけらと笑い出した。腹を抱えて笑っていたら、うしろにドン引きしたジュウォンがいた。
「うわぁっ⁉︎」
「わぁ、はこっちですよ。え、なんの儀式ですか……?」
 あぁそうか。ケーキはまだ冷蔵庫の中だった。ケーキがあればまだ誕生日っぽかったけど、今現在テーブルの上にあるのはチキンとリンドウの花と、なぜかそれらを囲む(何個か買ったけどどう並べていいかわからなかった)キャンドルの灯だ。これだけ入念に準備をしておいて、まさか出だしを盛大にミスるとは思わなかった。おまけにクラッカーもどっか行った。
「もう一回入ってくるところからやってくれる?」
「え、なんでですか?」
「いろいろあんのよ、こっちも」
「だからなんでですか?」
「あ〜! もうめんどくさい! ジュウォナ、誕生日おめでとう!」
 半ば投げやりに言うと、薄暗い部屋の中で、ジュウォンの顔のパーツが上がったり下がったりした。半開きになった口に、つい何かを詰めてやりたい衝動に駆られる。しばしフリーズしたジュウォンは、部屋中をきょろきょろと見回して、「もしかして僕の?」とものすごく今更なことを言った。
「そうですよ。この家には俺とあなたしかいないんですから」
「え、あ? はい。うん。そうですよね」
 呆然とした男の目にみるみるうちに水分が溜まっていく。うそ、泣くんだ。かわいいね。
「ほらほら泣かないで。手洗っておいで」
 両手で彼の頬ごと持ち上げて、ぐりぐりと涙を拭った。彼はうさぎみたいに目を真っ赤にして、よろよろしながら洗面所へと歩いていった。
 
 
「美味しかったです。ごちそうさまでした」
 テーブルの上の皿という皿をきれいに平らげて、ジュウォンは満足そうに言った。俺はあんまり料理もしないし、彼のようにこだわりもないから、たまに作ったなんて事のない料理をこうやって美味しいと言ってもらえるのは素直に嬉しい。何より、偏食気味で、共用の食器も使えなかった彼が、と感慨深くなった。
 せっかくプレゼントしたワインを「もったいないので墓まで持っていきます」と両脇にがっちり抱えた彼からようやっと奪い取って、惜しげもなくグラスにたっぷり注いでやった。彼は最初こそ、この世の終わりみたい顔をしていたけど、いざ酒が進むとあっという間に陽気になって、屈託のない笑顔を見せてくれるまでになった。酒の勢いもあいまって、ついそんなひまわりのような眩しい彼のことが愛しくてたまらなくなった。
「ねえ、ジュウォナ」
「はい」
「愛してるよ」
「はい。……はい?」
「だから聞いてほしい」
「まっ、待ってくださいっ! 録音するんで今のもう一回お願いします」
「やだよ恥ずかしい。じゃあ聞かなくていいや」
「聞きます!」
 鼻の下と、背筋を垂直に器用に伸ばしたジュウォンがごくりと喉をならす。別にプロポーズするわけでもないんだけど、なんだか俺のほうまで緊張してしまって、手持ち無沙汰の両手をテーブルの上で組んだ。
「俺にはまだ、全部精算して自分だけ前を見て生きるなんてこと、とてもじゃないけどできそうにない」
「はい。わかっています」
「うん、それでいいんだ。あなたがわかっていてくれれば。俺が日々、なにを見て、なにを感じるのか。あなたが隣で見ていてくれればいい」
「……イ・ドンシクさん」
「うん」
「僕もあなたを愛しています」
「うん」
「あなたにも見ていてほしい。僕が日々、なにを見て、なにを感じるのか」
 ジュウォンの透き通った目が、真っ直ぐに俺を射る。今この瞬間、彼の目に俺はどう映っているんだろう。あなたとはどうともなり得ないと思ったんだけど。この関係に、名前をつけてもいいんだろうか。お互い腰が曲がって、白髪だらけになっても、毎晩抱き合って眠って、毎朝キスをして。そんなことを考えていたら、なんだかめちゃくちゃヤりたくなってしまって、耳元で囁いてやりたい気持ちを誤魔化して、食器を持ち上げようと立ち上がった。途端、ぐっと大きな手が伸びてきて、俺の右手の上に合わさった。赤ん坊みたいにあたたかい手は、少しだけ震えていた。
「……すみません。その、触りたいなと思って」
 完敗だった。あの家の地下室のように、暗くて寒い俺の喪失ばかりの人生。でもそんな俺の人生に、ほんの少し淡い色をつけてくれた、不器用で、優しい年下の男。この時の彼のぐしゃぐしゃの猫みたいな不細工な顔を、俺は一生忘れないと思う。
 
 
 
 いってらっしゃい、早く帰ってきてね。そんな戯言を抜かしながらいつものように玄関先でキスをして、まるで新婚夫婦のようにジュウォンを送り出した。洗濯機を回して、リビングの窓から朝の空気をたっぷりと部屋に招き入れた。秋のはじまりは、金木犀の香りがする。どこからかやってくる甘い香りを鼻いっぱいに吸い込んで、部屋中のドアと窓を開けた。
 ナム・サンべ所長の部屋は、彼の趣味のもので溢れていた。釣り竿、テント、登山靴、天体望遠鏡なんてのもあったけれど、そのどれもが中途半端に揃っていた。ハマりきれなかったのかな、と思ったけど、彼は俺と暮らすつもりだったから、もしかしてもうひとり分用意するつもりだったのかな、とも思った。掃除機をかけながら、涙と一緒に出てくる鼻を啜る。とてもジュウォンのことなんて言えないくらい、俺はやっぱり泣き虫で、うしろばかり向いている。でも俺の感情はぜんぶ本物で、ぜんぶ俺のものだから、ちょっとずつそれと向き合っていこう。そんなふうに決めたのはジュウォンが「日記をつけたらどうですか」なんて言ったからだった。
 あらかた部屋を片付けて、自室の机でノートを広げた。日記なんて書くのはいつぶりだろうか。むしろ初めてぐらいなのでは。布張りのあたらしいノートはジェイがくれた。彼女は妙に相続のことを気にしていて、そのあたりも書き込める抜かりのないやつだ。
「エンディングノートねぇ」
 不思議な文化だと思う。自分がいつ死んでもいいように。残された人が苦労しないように。終わりのことを、こんなふうに考える日が来るとは夢にも思わなかった。俺が死んだら、ジュウォンは泣くだろうか。ジェイも、ジファも、ジフンも、それからジョンジェも。俺の人生に関わったすべての人たちに、俺の人生はあの地下室みたいに暗くて寒くて最悪だったけど、でもそれだけじゃないんだって伝えたい。向こう側に行ってしまったユヨンにも、父さんにも、サンヨプにも、ミンジョンにも、サンべおじさんにも。だから、俺は、明日も飯を食って、クソをして、しっかり眠るんだ。赤ん坊みたいにあたたかい、かわいいあの子と一緒に。
 白紙のページに、ペンを走らせる。おそらくあなたが最初に見ることになるだろうから。置き場所も決めておかないとね。鍵付きの引き出しにしようか。それとも二重底にして隠しておく? いつかのあなたの誕生日にプレゼントしたら、あなたはどんな反応をするんだろうか。いたずらに、心がわくわくと跳ねる。


 親愛なる、ハン・ジュウォン。あなたとの日々のことを、つらつらと。

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