星影さやかに

Aro/Aceのファウストとパンセクのネロという設定の話。2020.12.31
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 魔法舎の中庭は、ネロの気に入りの場所のひとつだ。
 噴水のそばのベンチに座って見上げる空は四方を壁に囲まれて、まるで額縁に切り取られた絵画のようだった。
 ≪大いなる厄災≫が煌々と輝く夜であれば、そこはムルが楽しげに空を眺める特等席だ。しかし今夜は新月だから、きっと彼は来ないだろう。
 北の魔法使いたちは、意外と夜には出歩かない。
 盗賊稼業こそ宵の内が『仕事』の時間ではあるが、そうでもなければ冬の夜に外に出ようなどとは思わないものだ。しんと冷えた夜風も北の国に比べればたいしたことはないし、そもそも魔法使いなのだから寒さに凍えるわけでもないのだけれど、北の国に住む者たちにはそういう習慣が身についている。もちろん、退屈を持て余した彼らが騒ぎを起こさないとも限らないのだが。
 ともあれ、この中庭の質素なベンチは、賢者の言葉を借りるならば「ちょっとした穴場スポット」とでも言えばいいのだろうか。
 ファウストと二人で晩酌をする時には誰にも邪魔されたくない気がして「たまには外で飲まない?」とネロのほうから提案した。
 これまでは何百年かぶりに出来た友人をネロの部屋に招くことが多かった。つまみを作るにも酒を出すにもそのほうが便利だからだ。けれど、ネロの部屋には腹を空かせたシノやブラッドリーがやってくることもある。昔馴染みの男はともかく、空腹を訴える子供に簡単な夜食を作ってやるのはネロの楽しみのひとつでもあったのに、どうしてかファウストとのささやかな時間に割り込まれるのは嫌だった。
 子供に酒を飲ませるわけにもいかないし、と心の中で言い訳をする自分に苦笑が浮かぶ。シノくらいの年頃にはキツい酒を散々飲んでいたくせに。
「それは、外の店でということ?」
 ネロの予想通り、ファウストはきゅっと眉根を寄せて難色を示した。きみと二人で静かに過ごしたかったのに。少し拗ねたような声音に、柄にもなく浮き足立つ心をあらためて自覚する。魔法舎に来たばかりの頃の自分ならきっと信じられなかっただろう。晩酌はひとりで楽しむものだと賢者相手に嘯いたのは、ネロの感覚からすれば、つい昨日のことのようだった。
「そうじゃなくて」
 誤解を解くべく、ネロは親指で中庭の方角をさした。
「今日は晴れてるし、中庭で飲もうぜ。ちょっとばかし寒いかもしれないけど、きっと誰もいないから静かだろ」
 酒とつまみはもちろん俺が用意するからさ。そう駄目押しすれば、ファウストはしばし考え込むように目を伏せた。亜麻色の睫毛がふわりと揺れて、彼の目元に翳を落とす。瞬きを繰り返したあと、ファウストは顔を上げた。先程までの拗ねたような表情はすっかり消えていて、ネロはほっと胸を撫で下ろす。
「それなら、構わないよ」
「じゃあ決まりだな。先生には無用な心配かもしれないけど、くれぐれも暖かくしてきてくれよ」
 もちろん、と笑って頷いたファウストは、落ち着いた色合いの暖かそうな上着を羽織って中庭を訪れた。
 他ならぬネロが≪雪のマーケット≫で買い求めて、ファウストに贈ったものだった。真面目で律儀な彼は、贈り物をきちんと気に入っているのだとネロに知らしめたかったのだろう。
 まったく、嬉しいやら照れくさいやら。
 渡す時にクロエの助言を貰ったのだときちんと説明したのだが「最後に選んだのはきみだろ」と一笑に付されたのも記憶に新しい。
 備え付けのベンチに並んで腰掛けながら、もごもごと口の中で「似合ってるよ」と呟いた言葉は、それでもファウストにちゃんと伝わったようだった。
「選んだやつの趣味がいいからな」
 そう言ってファウストが得意げな顔をしてみせるものだから、ますます照れくさくなる。ネロはごまかすように咳払いをして、取り出したバスケットを二人の間に置いた。
「冷めないうちに食べようぜ」
 保温の魔法を掛けているから、実際にはそう簡単に冷めることもない。それはファウストもわかっているだろうけれど、話題を変えたいネロの思惑を汲んでくれたようだった。
 促されるままバスケットの蓋を開けて、ファウストは感嘆のため息をこぼした。白い吐息が夜空に溶ける。
 バスケットの中身は、ラップサンド風にしたガレットに、ジンジャークッキー、それからエルダーフラワーのリキュールで割ったグリューワイン。ガレットの具はファウストが気に入ってくれるように火に炙ったラクレットチーズとじゃがもにしておいた。
「まるでピクニックだな」
 取り出したマグカップのひとつをネロに渡しながら、ファウストが微笑んだ。
 ネロは片目を瞑って、二人分のマグカップにワインを注ぐ。
「たまにはこういうのも悪くないだろ。さしずめ大人のピクニックってとこだな」
「たしかに、悪くない」
 湯気の立つマグカップに唇を寄せて、ファウストは目元を緩ませた。
 いつもは陰鬱そうな硬い表情が、自分の前ではわずかに緩む。それを間近で見るたびに、言いようのない優越感がネロを満たした。こんなふうに肩の力を抜いて冗談めかした軽口を囁いてくれるのは、きっと自分の前だけだろう。少なくとも、今のところは。――なぜなら、ファウストとネロは『友達』だから。
 互いにそれなりの年月を生きてきて、この魔法舎にはそれぞれ古い知人もいるが、『友人』と呼べる相手ではないだろう。
 ネロにとっては、例えばかつての相棒との間にあったものが友愛であるかと問われれば、首を傾げてしまう。盗賊団というのは、どちらかといえば家族に近い集団だ。血よりも濃い絆で結ばれて、寝食を共にする。友達というには近すぎた。
 ファウストにしても、レノックスとは友人である前に主従としての結びつきが強いように見えた。少なくともレノックスのほうは、常に一歩引いている。もちろん、シノとヒースクリフのように、あるいはカインとアーサーのように、身分の違いを超えて互いに友情を抱くことはできるが、対等な友人かと問われればシノやカインは否定するだろう。
 生まれも育ちもまるで違うけれど、ネロとファウストの間には当然身分の差などというものはない。それなりに長く生きてきた、無愛想な魔法使い――共通点はそれだけで、だからこそ余計な遠慮や柵がなかった。
 人付き合いが苦手だという自覚はあったから、ネロもこの歳になって新しい友人ができるとは思ってもみなかった。しかしファウストといる時は気を張ったりせず自然体でいられるのだ。
 互いに踏み込みすぎず、触れられたくない過去には触れず。とりとめもない話をしたり、くだらない軽口で笑い合える時間は、久しぶりの集団生活で疲弊した心を癒してくれる。
 盗賊団にいた頃も、人間のふりをして料理屋を営んでいた時も、気の置けない相手がまったくいなかったわけではないが、こんなふうにとなりにいて息がしやすい相手には、なかなか出会えるものではない。幸運にもそれは一方的な感情ではなく、ファウストも同じようにネロとの時間を得難いものだと感じてくれているようだった。
 もはやネロにとってファウストは、易々とは失いたくない存在になっていた。良くない傾向だと頭の片隅で警鐘を鳴らした時には、多分とっくに手遅れだったのだ。
 ネロはずっと大切なものをつくるのが恐ろしかった。大切なものが掌中にあるということは、やがてそれを喪う時が来るということだからだ。永遠などないことを、長く生きてきたからこそネロは知っていた。いつか喪うなら、いっそこの手で壊してしまおうかとすら考えてしまう。
 喪失に怯えて、先回りして大事なものを手放すのはネロの悪癖のひとつだったが、自覚があるからと言って癖が改まるわけではなかった。
(たとえば俺が、)
 夜明け前の一瞬を切り取ったような色の瞳を、ネロはそっと盗み見た。
 美しく高潔なアメシストが夜を映して瞬く。
 綺麗なものを奪いたいと思うのは、己に染み付いた性なのだろうか。欲しいものは欲するままに、くすねて奪ってきた。そうしなければとうの昔に石になっていたし、盗賊稼業から足を洗ったのは罪の意識からではなく、単に身の危険を冒してまで盗みたいものがなくなっただけだ。
(その唇を奪ってやったら――)
 はたしてこの男はどんな顔を見せるだろうか。ふとした瞬間に、そんな衝動がわいてくる。
 星明かりが頬を蒼く照らすうつくしさに息を呑んで、それから新雪を踏み躙って汚したくなるような、子供じみた欲望を自覚するのだ。
 恋と呼ぶにはあまりに利己的で腥い衝動を、ネロは持て余している。
 薄い身体を組み敷いて欲のままに暴いて貪れば、ようやく築いた柔らかな親愛は一瞬で砕け散るだろう。人嫌いだと言いながらほんとうは情け深い男は、それでもネロを赦すかもしれない。だが、この穏やかな時間も、自分に向けられる温かい眼差しも永遠に失われる。
 その瞬間を、想像した。
 傷つけたことに傷ついて、己の身勝手さに吐き気を覚えながらも、きっと自分は安堵するのだろう。もうこれ以上、喪うことに怯えずにすむ。いつ終わりが来るだろうかと恐怖する日々を思えば、それは目の眩むような誘惑だった。
(何百年経っても、変われねえもんだよな)
 ネロの口端に苦い笑みが浮かんだ。
 何度も同じ過ちを繰り返して、その度に自省しているつもりだけれど、性根というものはそう簡単には直らないのだろう。
「……花の香りがする」
 ネロの思惑など知る由もないファウストが、ふと、ため息のようにそう囁いた。
 ワインから香る花の匂いが気になるらしい。
 厭世家を気取っているくせに、ファウストは基本的に好奇心旺盛だった。興味を持てば意外と簡単に食いついてくる。そんなところもネロの目には好ましく映った。
 仄暗い空想を断ち切って、ネロは軽く笑ってみせた。
「ああ、ニワトコの花を星屑糖とガロン瓜で漬け込んでんだよ。それを熱したワインで割る。けっこう飲みやすいだろ」
「へえ。シロップは作っていたけどリキュールにするのは知らなかったな」
「あんたの隠れ家の庭にも植ってたもんな。だから気に入るんじゃないかと思ったけど、読みが外れてなくてよかったよ」
「本当によく見ているんだな」
 エルダーフラワーの花は春先のほんの僅かな時期にしか咲かない。ネロ達が嵐の谷を訪れた時には花の季節は終わっていた筈だ。それなのによく覚えていたものだと、感心とも呆れともつかない仕草で、ファウストは軽やかに笑った。
 あんたのことだからだよとは言えずに、ネロは曖昧に頷いた。実際のところ、ファウストの指摘通り、ネロの他者への関心は食の好みに偏るきらいはあった。どんな食材が好きで、どんな味付けが苦手なのか。何気ない仕草や表情、皿に残されたものからつぶさに読み取ろうとしてしまう。それは人間と暮らす中で生き延びるために身につけた術だった。
「きみのそういうところ、僕は好きだよ」
 静謐を湛えた声が宵闇に響く。
 てらいのない言葉に驚いて、となりに視線を向けると、うつくしく瞬く星のような瞳がじっとネロを見つめていた。
「ずっと昔の話だけれど、僕は一番信頼してた友人に手酷く裏切られたんだ」
「……うん」
 なんと返せばいいのかわからずに、ネロは曖昧に頷いて、続きを促した。
 宝剣を手に入れるために聖堂に忍び込んだ時おおよその事情は察したが、ファウストが己の過去について自ら話すのは初めてのことだった。
 踏み込みすぎないことを暗黙の了承としていたから、互いに過去の話はなんとなく避けていた。気兼ねなく晩酌をする『友達』同士の話題には相応しくないからだ。つまりは、そのルールを破ってでも伝えたいことがあるのだろう。ネロは、じっとファウストの言葉を待った。
「殺される寸前まで信じてた。そうやって僕があいつを信じたせいで、仲間が大勢、石になった。だから、もう二度と『友達』なんて作るものかと思っていたよ。僕は独りで生きて、独りで石になるんだと、そう決めていた」
 ファウストは言葉を切って肩をすくめた。
「実際、僕は独りが苦じゃなかったし」
「ああ、まあ、そうだろうな」
 冷めてしまったワインを飲みながら、ネロは苦笑した。
 嵐の谷にある彼の家を見ればわかる。ファウストは本当に、孤独がつらくはないのだ。人と関わることを苦手としながら、寂しさに耐えかねて人の世から離れられずにいたネロとは違う。
「だけど、きみと友達になれてよかった。今は、そう思う」
 花開くような微笑みが眩しくて、ネロは目を眇めた。
 ファウストは強い。強いからこそ、どれだけ裏切られても、誰かを信じることを諦められないのだろう。裏切られる前に全部壊して捨てたくなってしまうネロとは真逆だった。
「――おれも、」
 絞り出した声は、みっともなく震えてはいないだろうか。
 そんな不安に苛まれながら、ネロは言葉を探す。
 信頼を向けられることは、どうしたって嬉しい。けれど同時に、その信頼を裏切ることが怖かった。
 いつのまに距離感を見誤ってしまったのだろう。こんなにも心を許すつもりなどなかったのに。そのことを後悔しているわけではないけれど。
 いっそのこと恋と名付けて情で縛ってしまった方が、気が楽になるのだろうか。形のない曖昧な関係は、あたたかで息がしやすくて、それでいて柔らかな真綿の上に立っているように寄る辺ない心地がした。
 けれど名前は呪いだ。
 二人の間を繋ぐものに名前を付けて、わかりやすく形にすることを、たぶんファウストは望んでいない。この一年の間、それがわかる程度にはファウストのことを見てきた。
「俺も、あんたが好きだよ。友達になれてよかった」
「……そうか」
 はにかむように俯いたファウストの耳は朱に染まっている。自分は平然と好意を口にする癖に、好きだと言われたら照れるらしい。
 かわいくて、面白い。このひとを大切にしたい。心からそう思える自分に、ネロは密かに安堵する。
(まだ、大丈夫だ)
 喪う前にこの手で壊してしまいたいという誘惑に、まだ耐えられるはずだった。ファウストが信じてくれているあいだは、曖昧で不確かな情をよすがに、共に歩いて行ける気がした。
 星の瞬く音を聴きながら、祈りのように、ネロは空を見上げた。

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