夜道



「おい、電気も付けねぇで何してんだ。」という聞き慣れた声で目覚めた。
ぱっとうつぶせになった顔を上げて目に入って来たのは、とっぷりと日暮れた外の景色を背景にした白いコートのシルエット。「おかえりなさい。」と反射的に譲介が言うと、怪訝な顔をした医者からは、タダイマ、という座りの悪い返事が返って来る。
即座に舌打ちが聴こえて来て、ああ帰って来たのだな、と譲介は思う。
やっと帰って来た、という気持ちが半分、早すぎる、という気持ちが半分。
暗がりでも、じろじろと観察される視線を感じて居心地が悪く、カーテン閉めます、と立ち上がると「飯は、……その調子じゃ食ってねえな。」とTETSUは言った。
「あ、はい。」とカーテンに手を伸ばしながら返事をして、しまった、と思う。
譲介のことを引き取った時点で養育者となった彼が子どもに課した守るべき条件は、そう多くはない。
成績を上げろ、睡眠は最低七時間、飯は三食。
酒と煙草を買うのにオレの名を出すな、とついでのように言われたのは、つまり厳禁と同意だろう。
食事は、彼が出張の間は、一人で食べる気がしない日もあって、そうした日はドラッグストアで買ったプロテインバーなどを食べていたのだけれど、寝起きに追及されてしまえば嘘も吐けない。
「帰り、早くとも明日になるって言ってませんでしたっけ。」
話の矛先を逸らせるために口を突いて出て来た譲介の問いに「切迫早産で早まった。」と彼は端的に答える。
「ったく、妊婦にストレス与えんじゃねえってんだ。」と零してガリガリ頭を掻いているところを見ると、患者の周りの人間に問題があったらしい。彼の患者――恃みにするべき医者のことを下に見ている節がある人間の方が圧倒的に多いので、顧客と言う言い回しの方が相応しいかもしれないが――は、家の内外で何らかの問題を抱えて頼って来るのだから当たり前のことだけれど、この人がこんな風に愚痴を零すのは珍しい。
よっぽど難しい相手だったのだろう、と思うけれど、ドクターTETSUは、こういう時に慰めの言葉を欲するような人ではない。食べて忘れましょう、とは口にしないが、「今から食事の準備をします。」と言って、譲介は彼に微笑む。
準備と言っても、譲介がするのはレトルトのカレーとパウチの白飯をレンジと鍋とで暖めるだけの食事だ。
「有りもんか、譲介……おめぇは今、腹減ってんのか?」
そう聞かれて、譲介は自分の腹の具合を確かめる。いつもなら、帰宅後に着替えて人の行き来がある明るいうちに川縁を走り、その後で宿題を片付けるというルーティンだが、今日はずっと、英語の予習に追われていた。
読み書きだけでなく口頭で話をする必要がある英語の学習をしなければならないのは分かっているが、一時アメリカにいたという彼に下手な日本英語を聞かれるのは恥ずかしすぎる。彼のいない時間にまとめてやってしまおうという気持ちでラジオを聴きながら、教科書の問題文や例文を読んだ。ひとりの部屋で、自分の声で繰り返し英語を口にしていると、母親に絵本を読んで貰った頃のことを思い出して、そのたびにセンチメンタルな気分になるのが嫌だった。
その挙句のふて寝の結果、当面の保護者には居眠りがバレ、今は腹具合を気にされている。
いつまでも子どもではいられないと分かっているのに。
「……腹は、減ってないです。」
「出かける準備をしろ。コンビニかスーパーか、チェーンの定食屋か。」
選ばせてやる、と言われて、譲介は目を丸くした。
「え?」
「外をブラつきゃ、ちったあ腹も減るだろ。」
行くぞ、と言われて、譲介は、はい、と立ち上がる。
まだ春先だ、何か羽織って来い、と言われ、ソファに掛けっぱなしにしていた薄手のジャンパーを羽織る。
玄関で追いついたとき、TETSUは、靴箱の上に置いたハマーの鍵も持たずに部屋を出て行こうとしていた。
「車は、」と彼の背中に問い掛けると「遠くまで出る必要もねぇのに出すかよ。そもそももうガソリンもねぇ。」と答えが返って来る。
この人は、不在だった一週間、どこまで遠出をしていたのだろうか、と譲介は思う。
背中を見つめても、答えはない。


「で、どこにするつもりだ?」
マンション前のエントランス付近は、住人の安全に気を遣ってか、星の見えないほどに明るい。
玄関を出たところでそうTETSUに聞かれ、この先の進路のことを聞かれたのかと思って焦ったが、さっきの質問の話だと気づいた譲介は、慌てて「コンビニとスーパー、チェーンの定食屋、でしたっけ。」と口頭で確認した。
他に食いたいもんがあるなら好きにしろ、と言われたものの、譲介は、スーパーの惣菜コーナーとコンビニの肉まんの保温機を思い浮かべていた。定食屋に行ってもカレーはない。
「迷ってんのか? 遠慮すンな、おめぇの行きたいとこでいいぞ。」と言われたけれど、マンションの近隣に点在するいつもカレーまんを買っている店で良いだろう。
譲介が彼とふたりでこんな風に出かけることは、確かに滅多にないことではあった。けれど、子ども一人でも入れる敷居の低いような店は限られている。引っ越してきたばかりの譲介には、他の選択肢がほとんど思い浮かばない。
「こっちの道沿いにあるバス停横のヤマザキで。」と譲介が言うと、「コンビニかァ。」と彼が口角を上げた。
「近いし、すぐ戻って来れます。」
他のところは少し距離があるので、と続けると「保護者公認で夜歩きしてんのに、いつもの店か。」とからかうように彼は言った。
この人にとっては、これも夜遊びの範疇に入るのだろうか。
まあ、行き先が分かっても、機嫌は、特に悪くはなさそうだ。
コンビニエンスストアへと続く夜道を歩いていると、少し先を行く彼の白いコートが、街灯の下で光って見える。
この人には、白いコートが似合っている。
「あの、」
不意に、そのことを、伝えたいような気持になって、こんな時になんと呼びかければいいのかと譲介は考える。言葉を探しあぐねて口を閉じた譲介に、「……おい、とっとと着いて来い。ぼやぼやしてたら置いてくぞ、譲介。」と彼は言った。まごついている譲介のことを、振り返らずに。譲介は、頭を振って、さっきの他愛のない言葉を頭から振り落とす。
目の前にあるのは、広い背中だった。
あちこちを旅して、この日本に戻って来た人。譲介のような若輩の手を借りてまで、癌と戦っているようには見えない。強い人だ。
彼のレベルにまで追いつき、いつか彼の病を治すことが自分に出来るだろうか。
早足で彼に追いつくと、彼は隣に来た譲介を見下ろして「いつもの店で、買いたいもんでもあんのか?」と言った。
その言葉を聞いた譲介の胸の中に、妙に暖かな春の風が吹く。
「あの、カレーまんと、それからアイスクリームが食べたいです。」と譲介が言うと、「おめぇはそればっかだな。」とTETSUは笑った。
「何でも買ってやる。」とTETSUは言って、少し立ち止まった。
譲介はTETSUの隣に並び、ちょっとお腹が空いて来ました、と言いながら夜道を歩いていく。
もう少し遠いコンビニを選べば良かった、と思いながら。

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