ハッピーアンバースデイトゥユー
時折、自分が何処に立っているか、わからなくなる。
――夢を見た。『Crazy:B』の専用衣装に身を包んだ『HiMERU』がドームの広い広いステージのど真ん中に立ち、色とりどりのライトに照らされている。すんと伸びた背筋、手先足先まで張り巡らされた神経、息遣い、彼の一挙手一投足を固唾を飲んで見守る大勢のファン。彼はとても幸せそうに微笑んでいた。一方自分は微動だにせず突っ立って、客席からその様子をじっと見ている。ライトブルーのペンライトが花畑のように揺れて彼を包む。おかえり、HiMERU。会いたかった。愛してるよ。
『ありがとう! HiMERUも、ファンの皆さんを愛しています!』
はたと、息が止まる。
――待て、その台詞は、『俺』の。
「……! っ、はあ、は……」
不意に覚醒し、見慣れた天井が目に入る。百メートルを全力疾走した後ばりに早鐘を打つ心臓に、乱れた呼吸に、シーツをぐっしょり濡らす汗に、現実に還ってきたことを知る。断片的にしか思い出せない夢の内容を繋げようと思索に沈みかけたところで、ひた、要の額に大きな掌が触れた。
「あ、まぎ」
「……はよ」
随分魘されてたなァ、と隣に横たわった裸の男が子供にするように目を細めた。汗まみれの頬に貼り付いた髪をその指がひょいと剥がしていく。
「起こした方が良かった?」
「――、いえ」
眉尻を下げて何か言いたげな表情をつくった男を制しベッドから抜け出した。ぺたぺたとフローリングを鳴らしてキッチンへ向かうが、足の裏の触覚が死んでしまったかのようにふわふわと、まるで何も踏んでいないみたいな心地がした。
(しちがつ、なのか)
スマートフォンの待受画面に表示された無機質な数字の並び。世間的には七夕。例年雨か良くても曇りであることが多い。しかし今年はレアケース、お天気キャスターは降水確率0パーセントを声高に謳っていた。七夕の夜に晴れ間が予想されるのは実に○○年振りです、今夜は天の川も綺麗に見えることでしょう。織姫と彦星の逢瀬の夜、皆様願い事はお決まりですか?
――要の胸にはとある記憶が去来していた。夏の日、カーテンがそよ風に揺れる鏡張りのスタジオ、自分と生き写しの彼がフロアに行儀悪く寝そべって、白い紙に何やら書き付けている様を思い返していた。
「『HiMERU』のプロフィールはこう……ちょっとミステリアスなかんじにしたい! 神秘的で完璧なアイドル、かっこいいでしょう? ねっ要」
「注文が多い……。今は何を考えてる?」
「誕生日。アイドルなら愛されて祝福されなきゃ。そうだなあ……七月七日なんてどう?」
「七夕? なんでまた。おまえの誕生日じゃ駄目なの?」
「だって、『HiMERU』は俺だけのものじゃないでしょ。それに星達の逸話つきの記念日だなんて素敵だと思わない? ……ねえ要。俺達きっとたくさんの人に愛される。一年に一度だなんて寂しい、毎日だって会いたいって言って貰えるようなアイドルに、俺達ならきっとなれる。星に願わなくたって叶えられる、叶えようね、俺達で」
そう、まるで十五光年も先を見るような目をして彼は言ったのだ。
(……誕生日、なんて。俺ひとりじゃ、何の意味もない)
要は冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをグラスに注ぎぐいと飲み干した。
七月七日は要にとって、――『HiMERU』にとって特別な意義を持つ日だ。事務所の公式プロフィールにも掲載されている誕生日。深夜、日付が変わった瞬間からSNSのトレンドは『HiMERU』一色に染まり、ファン達が投稿した愛のこもったメッセージや写真が溢れ返った。どういうわけか昨晩から今までを同じ部屋で過ごしているユニットリーダーが、彼の興味を引く投稿に目を止めてはけらけら笑って要に見せつけてきた。自分が祝われているわけでもあるまいに、何をそんなにはしゃぐことがあるのだろう。
ユニットの結成から約一年になる今夜、『Crazy:B』はそこそこ大きな箱でのライブを予定している。全国津々浦々のライブハウスを行脚するツアーの記念すべき最初の公演だ、何はなくとも気合いが入る。加えてHiMERUの誕生日当日である今日のプログラムにはお祝いの演出だってある。そんな大切な朝に妙な夢を見てしまったものだから、要は言い知れぬ不安に襲われていた。
ミネラルウォーターを体内に取り入れてもなお乾く喉、相変わらず地に足が着いていないような感覚に目眩を覚えそうになった頃、ずしりと肩に乗せられた頭と腹に回された腕にはっと我に返った。
「メルメルゥ〜、要さん、俺っちも水」
「……なんでいるんですかあんた、鬱陶しい」
「きゃははひっでェ! ゆうべはトロットロに甘やかしてやったろォ〜?」
「HiMERUはそんなこと頼んでいないのです」
「ンなこと言うなってェ、い~っぱい気持ちよくなったお陰で今朝のメルメルは肌ツヤ抜群だから♡ 色気マシマシってとこっしょ、喜べ喜べ!」
「――死ね!」
ぎゃはは、と耳障りな高笑いが追いかけてくるのを振り切って、逃げるように浴室へと駆け込んだ。どうして自分はこの男との関係を続けているのか、自問し始めたらきりがないので頭から冷水を浴びてその問ごと排水溝に流した。
「イイじゃんイイじゃん、仲良く一緒に現場入りしようぜェ〜☆」と絡み付いてきた天城を撒こうと早足で移動したせいで、また余計な汗をかいてしまった。連れ立って現場入りなどしようものなら椎名や桜河に何を言われるかわからない(結局奴の足が速すぎて撒けなかったのだが)。そのせいですっかり不機嫌だったが、天城とどたばたしているうち起き抜けに感じた不安などは綺麗に忘れてしまったことに、要は気付いていなかった。
廊下ですれ違うスタッフから口々に祝いの言葉を掛けられる。HiMERUさんお誕生日おめでとうございます、今日も楽しみにしてます、きっと良いライブになります、自分達も頑張ります。そのどれもに要は完全無欠な『HiMERU』の仮面を被って応えていった。要に命じられきっちり二メートルの間隔を開けて後ろをくっついて歩く天城は、スタッフに会釈をしながらもその様子を観察していたのだった。
「HiMERUはん、おはようさん。お誕生日おめでとう……と、燐音はんもおはよう」
「おはようございます。ありがとうございます、桜河」
「うい〜っすこはくちゃん、今日もシクヨロ〜」
楽屋には先客がいた。ぬしはんら仲ええなあ、よくないのです、皮肉じゃぼけ、などと言い合っていると、また扉が開いて椎名が元気一杯に飛び込んできた。
「おはようございまあす! 今日のお昼はなんと豪華に牛タン弁当らしいっすよ、お誕生日様々っすね〜♪ あっHiMERUくんおめでとうございま〜す!」
「……。椎名、HiMERUより牛タンなのですね。ええわかっていましたとも」
「ニキきゅん歪みねェ〜」
「流石に今のは僕が悪かったっすごめんなさい」
「コッコッコ、ニキはんらしいわ」
ツアー初日。心臓に毛の生えた仲間達で助かった、と要は人知れず安堵した。普通はもっとこう、緊張したりナーバスになったりするものではなかろうか。少なくともデビューから一年かそこらの自分はそうだったように思う。『Crazy:B』が普通でないのはそこだ。四人で乗り越えてきたものの重みが違う。
このメンバーとステージをつくるのが好きだ。ファンを喜ばせたくてあれこれ思い悩む時間が幸せだ。アイドルでいることが楽しい。そう思えば思うほど、要は罪の意識に囚われた。付き合いが長くなってきたこともあり、天城も椎名も桜河も、『HiMERU』の抱えた事情についてはとうに知っている。知った上で、『HiMERU』の夢を守りたいという要のエゴを通す手助けをしてくれている。世界を相手取った詐欺に加担させているようなものだ。許されない、許し難い。誰よりも要が、アイドルを尊く美しいものと定義していたい要自身が、愛するアイドルを汚しているという事実に押し潰されそうになる時があった。
(ああ……また、だ)
がらがらと足元が崩れていくような感覚に呑まれてしまう。『Crazy:B』の『HiMERU』としてここにいる自分は、あの夢のように客席にいるべき人間なのだ、本来は。立ち位置を見誤ってはいけない。いつまでもここで歌っていたいだなんて、願ってはいけない。
「――ル。メルメル。HiMERUさ〜ん? オ〜イ、チューすんぞ」
耳元で自分を呼ぶ声を聞いた要は目を瞬かせた。すぐ傍に立った天城が顔の前でひらひらと手を振っていた。こんなに近くに来られるまで気がつかないなんて、随分深いところまで潜ってしまっていたようだ。弛んでいる。すかさずいつものHiMERUの表情を貼り付けて、「何ですか」と返事をする。また喉がカラカラに乾いていた。
「何ですかじゃねェよ、何度も声掛けたっしょ。リハ。PAさんが呼んでる。MC増やしたからタイミング確認しといて、ニキとこはくちゃん先行ってっから」
「わ、かりました」
「……。しっかりしろよ、HiMERU」
「っ、」
天城の抑揚を抑えた低い声にびくりと身を竦ませる。感情の読み取れない冷淡な瞳が要を射すくめた。けれど彼がリーダーの顔をしたのはほんの短い間で、すぐに見知った気安い笑みに戻ってしまう。そのまま何事も無かったかのように横をすり抜けて舞台に向かおうとするものだから、要は焦って男の手首に縋っていた。失望されたような気がして。見限られたような気がして、怖くなった。
「――どうしたのかって、聞かないんですか」
「あァ? 聞いてもしょうがねっしょ」
天城はこちらを見ない。要は必死に言い募った。
「心配させたことは謝ります、こんな大事な時に、ぼうっとして……すみません。でもHiMERUは、しっかり、します。ちゃんと大丈夫です、天城に言われなくても」
「なァ〜に言ってンだおめェは、コノヤロウ」
「わ、ッ⁉」
振り返りざま、天城が両手をぐわっと持ち上げてがっちりと要の頭を捕まえた。わしゃわしゃ、細く絡まりやすい髪が無遠慮に乱される。「ちょっと」だの「やめろ」だの抗議の声を上げようがお構いなしだ。ペットにするみたいに荒っぽくかき混ぜる癖に、見上げた表情はひどく穏やかだった。
「心配なんざしてねェよ、ばァか。俺っちを誰だと思ってンだ」
「え、あ、あまぎ」
「ン〜?」
「り、んね……?」
「ん。おめェの相方、『Crazy:B』のダブルセンター、天城燐音くんだぜ? おめェのことはよォ〜く知ってンの」
「……? それは、」
「『HiMERU』はちゃんとこなす。ンなこたわかってるよ。けどなァ、大丈夫じゃねェ時くらいあんだろ、アイドル屋さんにも」
「……」
「おに〜さん達を頼りなさいって言ってんの」
「――どうして」
「燐音くんは推理が得意なので〜って言いてェとこだけど、ニキもこはくちゃんも気づいてンよ。おまえ、自分で思ってるほど嘘上手くないぜ」
大きな掌がまた頭を撫ぜる。ゆうべ、ひとり薄暗い灰色の蟠りを抱え、向き合いたくもない誕生日を迎えようとしていた頃合に、図ったように天城は現れた。憂鬱に取り込まれ足場を見失いそうになる度、彼は要の襟首を掴んでこちら側へと引き戻した。ベッドで、キッチンで、今だってそうだ。まるで「おまえの立つべき場所は俺の隣だ」とでも言うように。
踵がパイプ椅子を蹴ったことで気がついた、いつの間にやらじりじりと距離を詰められた要は、天城と鏡台の間に挟まれそれ以上後退できないところまで追いやられていた。両腕で檻を作られてしまえば身動きが取れない。熱に浮かされたような碧色がじっとこちらを見つめている。次にその唇が動く時、この男が何を言うのか、要は唐突に理解してしまった。
「要」
「りん、ね」
「俺にはおまえが必要だよ」
「……っ」
「おまえにも、俺を必要としてほしいって言ったら、どうする?」
節くれ立った指が後頭部からすすと移動して耳殻を辿り、顎を掬う。唇に体温が重なる。キスをしている間、行儀の悪い指先が眦を擽っていく感覚に震えた。ちゅ、と音を立てて離れていく時、目を伏せた男の壮絶な色っぽさにくらくらした。セックスの時ですら、こんな風に触れられたことはないと、要は思った。
「続きはまたあとでな」
先程その手で乱したばかりの髪を何度か梳いて軽く整えたあと、仕上げにぽんと頭の上に掌が載せられた。ふ、と口元だけで微笑う彼。それからごく自然に天城は要の手を取って「いくぞ」と歩き出した。それが嫌ではないことに要は驚いて、時々こうして歳上の顔をする天城燐音という男を憎からず思っていたことを知った。
舞台まで引っ張ってこられてようやく、何かがおかしいと感じた。先に行っていると聞いていた椎名と桜河の姿がない。ステージ中央に差し掛かった時、不意に照明がカットアウト、暗転した。そう言えば手を引いていた天城の気配もいつの間にか離れている。
「♪〜♪〜」
舞台袖の暗がりから聞き知った歌声が聞こえる。要は訝るようにそちらの方へ目を凝らした。小さな灯りがちらちらと揺らめいていた。キャスターが床を転がるがらがらという音と共に、それは段々近づいてくる。
“A very merry unbirthday
To me?
To you
A very merry unbirthday
For me?
For you
Now blow the candle out, my dear
And make your wish come true”
「ハーイ明転〜」
天城の合図で落ちてきたピンスポットの眩しさに咄嗟に目を閉じて、恐る恐る瞼を持ち上げた。要の目の前には、ユニットのメンバーと、蝋燭の灯ったバースデーケーキ。
「“A very merry unbirthday to you”」
最後のフレーズを歌い上げた三人の視線に何かを感じた要は慌てて蝋燭を吹き消した。ぽつんと一本だけ消えずに残ってしまったから、もう一度、ふうと息を吹きかける。八本の蝋燭(蜂にかけているのだろうか)はたちまちその役目を終えた。短い命だったな、お世話になりました。
さて、何か言わなければと思うのに、何も言葉が出てこない。いけない、今もカメラが回っているかもしれないのに。「ねーよカメラなんか」天城、人の心を読むな。
「要はん」
「!」
「要くーん」
ふたりがその呼び方をするということは、本当に人払いを済ませてあるのだろう。要は肩の力を抜いて、メンバーに向き直った。
「……あの」
「スタッフさんに言って時間貰ったんすよ。メンバーだけでお祝いさせてくれないかって」
「ふふん、ええ顔じゃ。サプライズ大成功、やな」
「だな。……んじゃ〜改めまして要っち、お誕生日じゃない日おめでとう」
「……もー、あんたら……」
顔を隠してしゃがみ込んでしまった要を見下ろす三人は悪戯が成功した子供のようににかりと歯を見せた。この問題児達には全てお見通しというわけだ。ひとり颯爽と舞台の真ん中へ躍り出た我らがリーダーが、道化師然とした大仰な仕草でひとつお辞儀をして。示し合わせたようにもう一本伸びたスポットライトが彼の後を追う。
「さァはしゃごうぜトゥイードルダム&ディー、おめェはどっちだ? 俺っち達にはどっちでも良い! それともハンプティダンプティ? 落っこちても綺麗に直してやるから安心しな。さァさァ前哨戦だ、俺っち達の出会いに感謝しよう、サンキューなんでもない日! 今宵は宴だ!」
天城が狂言回しさながら口上を述べれば持ち曲のパーティーチューンが大音量で流れ出す。ミラーボールが金色のライトを撒き散らして、客入れ前の真っ暗なライブハウスは銀河になった。なんとも憎らしい演出だ。要は鼻の奥がつんと痛むのを目頭を押さえて必死にやり過ごした。両の手を引く者、背中を支える者。少々乱暴なくらいの力で引っ張り上げられ立ち上がる。
「楽しみっすねえ要くん。僕も、みんなとステージに立つのが大好きっすよ」
屈託なく笑った椎名が歌うように言った。
「今日も満員御礼やで、要はん。本番はこれよりもっと綺麗な天の川になるんや」
桜河がしたり顔で微笑んだ。
「誰の誕生日だっていい、おめェが誰だっていいじゃァねェか。今夜の星空が全部おめェひとりのモンになるンだぜ、最高に気持ちいいと思わねえ? なァ、HiMERU?」
銀河一幸せだって言わせてやるよ。傲岸不遜な天城の口振りに堪えきれず要は気の抜けた笑い声を上げた。
「はは、それは……最高だな」
四人だけの狂宴は、音照オペレーションに協力してくれていたプロデューサーの彼女が業を煮やして声を掛けるまで続いた。
そうして迎えたライブ本番、アンコールにて。
「おまえはもうこんなにも愛されちまってンだ、諦めな」
天国が現界したかのような世にも美しい景色を前にしてマイクに拾われないよう密やかに落とされた天城の囁きは、要の脳味噌を揺さぶり、永劫に消えない残響となった。
その後感極まった『HiMERU』が隣の天城に男前すぎる口付けをかます場面は伝説となり、その一部始終を収めたBlu-rayディスクはESの歴史を塗り替える売上記録を樹立することとなるのだった。
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