紅涙を絞る
「牛の血、とか申す代物だそうで」
深い紅色の液体を透き通った杯になみなみと注ぎながら、まじめくさった声で三宅友信は言った。外では燃えるような陽が暮れようとしている。三河田原のこぢんまりとした屋敷にも、蒸し暑い闇が忍びよりつつあった。
「一体いつの時代の話をしておられる」
友信の饗応を受けている向かいで、三宅康直は苦笑した。煌々と点る応接間の明かりの下で、友信はいたずらっぽく片目をつむってみせる。使用人が蚊遣りを焚いたらしく、白いクロスを敷いたテーブルの上まで微かに夏の匂いが漂ってきた。
「さして昔話でもありますまい。たかだか数十年前までは、そういう風聞が巷に出回っていたんでしょう」
「と聞きますね。実際に言われている場面に接したことはありませんが」
「そう思うと、やはり我々は箱入りだったのですなあ。屋敷の外の情報は、書籍を除けば何でも家臣越しに入ってきたんですから」
康直の分を注ぎ終え、友信は自分の杯にワインボトルを傾ける。舶来品の葡萄酒が踊り、眩しいほど明るい室内に優美なグラスの曲線を浮かび上がらせた。仕事を主人に取られて手持ち無沙汰の使用人たちに、友信はまとめて下がるよう命じた。
使用人たちの去った廊下を、康直は見るともなしに目で追った。夏の蒸す夜であるから、庭に面した襖は開け放してある。襖のみならず、実はそこかしこに書院造の名残が散らばっている。第一康直たちの格好からして着流しだ。家具や調度品を並べるため、畳だけはかろうじて剥がして板敷きに設えているという、半端な洋間の客室であった。
「ま、ひとまず乾杯といきましょう――遅まきながら、貴殿の藩主退任をねぎらって」
ボトルに栓をして、友信はワイングラスを持ち上げる。康直も応えて酒杯を掲げ、意味ありげに薄い唇を曲げた。
「――同じく遅ればせながら、御子息の藩主、及び藩知事就任を祝って」
笑いがテーブルの中央で交差した。海の向こうにはグラスを鳴らす風習もあるらしいが、貴重なギヤマンにもしものことがあってはいけないので高く掲げるだけに留めておく。
一口含んで、康直は少し目を見張った。葡萄の馥郁たる香りが鼻に抜けていく。そのまま滑らかに喉を降り、酒特有のえぐみが全く残らない。これまでに呑んだ試しがないくらい、上等な酒だ。
「友信どの……私などのために、随分と奮発されましたな」
「康直どのを等閑に扱うわけないでしょうが。それにこの酒は、我々だけで味わうつもりではありませんから」
友信の言葉が意味するのは、この卓を共に囲むべき人が他にいるということだろう。康直の脳裏には先刻話に出した友信の子、三宅|康保《やすよし》が浮かんでいた。
康保は友信の長子であり、先代田原藩主康直の娘婿でもある。彼が義父にあたる康直の跡を継いで十五代藩主の座に就いたのは、端的に言えば康直よりも正統な家柄だったからだ。康直は姫路藩を治める酒井氏から迎えられた養子なのに対して、友信は父も兄も田原藩主という正真正銘の三宅氏の血族である。
しかも友信の兄が世継ぎを儲けずに没したのだから、順当に考えれば次代藩主となるべき人物は友信以外の誰でもなかった。客観的に評価すれば、田原の領主はこれで本来の血統に戻ったと言うべきだろう。そして見ようによっては、というより友信からすれば紛れもなく、康直は田原統治権の簒奪者だった。例えその養子縁組が大藩の財力とそれを恃んだ持参金目当ての、康直個人の資質には何の期待も持たれていないものだったとしても。
「婿どの……もとい、康保どのはこれからいらっしゃるのですか。私以外に何方かが招かれるとは伺っておりませんが」
「いやいや、息子は同席しません。あれの祝いも兼ねているのは認めますがね。……おや、納得のゆかないお顔だ」
おかしげに肩を揺らされて、当然でしょうと康直は細い眉を顰めた。
「本人不在で祝いの席というのは落ち着きません」
「あくまで兼ねているだけですよ。正式な祝賀の宴は別に設けました」
「存じております。私もその場におりましたから」
グラスを干してしまってから、友信は薔薇色の頬でため息をついた。じれったそうな声が康直をなじる。
「意地悪だなあ、とっくにお分かりなんでしょう。貴殿と二人で呑みたかったんですよ」
返答代わりに康直は目を伏せた。お互い多忙で、それ以上に縛られるものの多い日々だった。子供同士が夫婦の契りを結んで、それを祝い合うという口実ができてさえ、康直たちの会合はこんなに遅くなってしまった。
応接間の些か明るすぎる照明に、友信の豊かな髪が白く照らされている。撫で付けた康直の髪も同じように枯れていることだろう。老いは立場を問わず降りかかり、日本中を巻き込む変革の果てに藩主という地位すら消えた。事ここに至り、奪った者と奪われた者はようやく許し合えたのだ――と、世間の目には映るのだろうか。
表面上の境遇で相手を恨み己を呪い、いがみ合っていたのは本当に最初の頃だけだ。相哀れむべき数奇な運命に気がついたのはどちらが先だったか。きっと自分たちは、腹の底ではずっと前から歩み寄っていた。
康直は酒瓶を取り上げ、友信のワイングラスに手ずから酒を注いだ。僅かに紅色を残した己のグラスにも、やや覚束ない手つきで注ぎ足す。
「こうして友信どのと杯を交わせたこと、心より光栄に思います」
ひたと視線を合わせた康直の言葉に、友信はゆっくりと頷いた。しばらく二人は無言で葡萄酒を呷った。
沈黙に時折虫の声が重なり、ぬるい夜風が客間を巡る。夏の宵にしては過ごしやすい空気だった。
ぽつぽつと近況や世間話を語る合間に、友信は時折康直の背後に目をくれるような仕草をする。ちらりと振り返ってみると、天井ほども高さのある重厚な置き時計が鎮座していた。
金色の丸い月が中天に昇る頃、グラスの脚をもてあそびながら康直は切り出した。
「ところで、康保どのは本当にいらっしゃらないのですよね」
「うむ。そもそも呼んでいませんから」
ギヤマンに映る酒気帯びの顔から、康直は半分ほど酒の残った瓶へと|頭《こうべ》を巡らす。
「ではこの上物を共に味わう方というのは、いったい何方のことですか」
もうだいぶ酔いが回ってきた。肴も無しに二人で一本は空けられる気がしない。友信は誰のためにとびきりの酒の封を切ったというのか。
「うん……」
友信は曖昧な返事をして、襖の外の宵闇に目をやる。そろそろ頃合いかな、というやけに乾いた一人言を、康直は怪訝な顔で聞き取った。
「康直どの。今日が何の日か、覚えておいでですか」
「……八月十日では? 特別な日ではなかったように思いますが」
強いて言えば、空には良い月が出ている。
「そうですな、『今となっては』」
はっと康直は息を呑んだ。庭を眺めたまま、友信は静かな声で続ける。
「御政変の後、暦が大きく変わったでしょう。あれはどうも季節感が狂っていけない」
ふと康直に向き直ったかと思うと、友信は酒瓶に手を伸ばした。無造作に瓶の細い首を掴み、ふらつく素振りも見せずに席を立つ。
「周りの者にも聞いてみましたが、やはり未だ慣れぬようです。農作に従事する民など前の暦を基準に生活しているのだとか。尋ねたついでに、今の日付を古い暦に換算する方法も教えてもらいました」
客間を横切り廊下に出て、友信は素足で庭に降りる。糸で引かれるように、康直もその後を追った。
「毎日暮らしている我々でさえ戸惑うのですよ。まして新しい暦を知らぬ者ならば、現行の『正しい』祭日なぞ思い至りもせぬに相違ありません」
整えられた草木の緑色が月光に照らされて青ざめている。隣に並んだ康直を知ってか知らずか、友信は蒼い闇をじっと見つめていた。
「貴殿が何をおっしゃりたいのか分かりました。前の暦では、今日は七月十四日なのですね」
康直が呟くと同時に、背後で西洋時計が鋭く鳴った。子の九つ、今の表し方に直せば午前零時である。
「ええ。だから、ずっと昔に死んだ者が帰ってくるなら、きっとこの日だと思うのです」
日付が変われば、旧暦では七月十五日――盂蘭盆だ。
黄金に輝く月を仰ぎ、友信はボトルの栓を抜いた。酒瓶を握った手首を返す。深紅の奔流が、どぼどぼと音を立てて土に降り注ぐ。濃密な葡萄の匂いが辺り一面にあふれ出した。
「いつ頃だったかな。葡萄酒は多めの湯で割るのが良い、などと言っていたが……」
懐古する声が掠れていた。友信が誰の魂を饗しているのか、もはや聞かずとも明白だった。康直の心にも、濃い影を刻みつけて逝った人だ。
友信の息子と康直の娘を娶せる形で、三宅氏の由緒ある血統を復活させた立役者。事実上廃嫡された友信に誰よりも寄り添いながら、康直の忠実な右腕となった家臣。友信と康直を今ある姿に繋いだ男は、もうこの世に亡い。
「まあ、たまにはこんなのも良いでしょう。滅多にありつけない上物ですし、ね」
噎せ返るほどに立ちこめた葡萄の匂いのただ中で、康直は友信の肩に触れた。
「もしよろしければ、私にも貸して頂けませんか」
振り向いた友信は、これは失礼致した、と口元に笑みを繕った。
「構いませんとも。あやつも康直どのに一献頂ければ喜ぶでしょう」
「いいえ、渡辺登は貴殿が十分に弔いました」
受け取った瓶を康直は両手で地面に傾けた。葡萄酒の流れ下る音が、次第に小さく軽くなる。
「私には他に、謝らねばならぬ者がおります」
友信の表情が痛々しげに歪む。康直の唇が訥々と空気を震わせた。
「真木よ、お前は……彼岸へ旅立てたか。私のせいで、未練を遺してとどまってはいまいか。それだけが……それだけが、何年経っても気がかりでな」
あの時の康直はどうかしていたのだ。本当に己の子が藩主継嗣になれなくて良いのかと、一番迷ってはならない場面で迷ってしまった。生前渡辺登と親しかった実直な家臣、真木重郎兵衛は愚かな主君を辛抱強く諫めた。亡き登の努力を徒にする気かと諭し続け、なお動けなかった康直のために、彼はとうとう諫め腹を切った。死に急がせた要因は違えど、奇しくも登と同じ最期だった。
ぴちゃりと小さな音を響かせ、瓶の口から葡萄酒が滴る。闇夜に溶けたその一滴で、康直の弔い酒は尽きた。
肌に張り付く布の感触で、裾がおびただしく濡れているのが分かった。足元を見下ろすと、案の定裾もつま先も赤紫に染まっている。死者に手向けた葡萄酒を浴びて、まるで血まみれだ。
「ああ……馬鹿な真似をした。儂が血を流したとて何になろうか」
袖を絞りながら友信は自嘲した。瓶を縁側に置いて、急にやつれたような彼の腕にそっと手を添える。
「あの忠義者が友信どのを蔑ろにするはずございません。懇ろな弔いの念を受け取りに、きっと今夜帰ってくるでしょうよ」
俯いた友信が、泣き出しそうな切ないため息をついた。
「重郎兵衛は、日頃から登に大層なついていましたな。霊魂の行方も心配いりますまい。必ずや登が導いてくれますから」
添えた手に力をこめて、冷たい金の月を振り仰ぐ。康直の喉から、身を絞るような声がこぼれた。
「弔いとは、此岸の者のためにある行いなのですね」
夜更けの中、しばらく虫の音だけが庭先に聞こえていた。どれほど経った頃か、顔を上げた友信が決然として言った。
「康直どの。儂は登の伝記を書く。上に立つ者の責任として、登の生きた証を遺したい」
葡萄酒混じりの泥を裸足のつま先が噛んでいる。爪の間に入り込んだ砂粒の違和感も生のしるしだ。微かな胸の痛みを堪えて、康直は微笑んだ。
「それなら思い出話をしましょう。短い夏の夜とはいえ、まだ十分に時間はあります」
「ああ、それは良い。貴殿の知っている登の姿もぜひ聞かせてください」
二人はゆっくりと縁側に腰を下ろした。懐かしげな目をした友信の口から、在りし日の情景が物語られ始めた。自身も記憶している光景には康直は頷いて口を挟み、知らない姿には黙して思いを馳せた。錆びない宝を暗がりから一つ一つ取り出すように、互いに呼び起こす幸せな回想が尽きることはない。
背後で部屋の明かりが一瞬揺らぎ、瓶の口がきらりと光った。庭を覆う葡萄酒の香りが徐々に薄れ、空へ立ち上っていく。滔々と語り合う老境の男たちを、曇りなき満月が照らしている。
*参考:「こよみのページ」様 http://koyomi8.com/
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