女神


明るい日が差し込む窓辺には、譲介がTETSUの家に持ち込んだ背の高い観葉植物の鉢植えがある。
持ち込んだその日に、家の中に羽虫が出たらベランダの外に出してやるとは忠告したとはいえ、時折、譲介が家を留守にしている合間を狙って霧吹きで水を吹きかけて世話をしてたら、このところ妙に愛着が湧いて来てしまった。
目覚めて直ぐにあの鉢植えが目に入るということは、譲介のヤツは既に仕事に行ってしまったのだろう。次の連続ドラマの新しい役柄のためにカットされた髪は、TETSUの手で多少乱れたところで格好がつくように切り揃えられていた。
それにしても、相当深く寝入っていたらしい。
着替えをしている気配や、朝食を作って来ます、という声は夢うつつに聞いたような気はするが、その後の二度寝の間に部屋を出て行く様子に気付くことは出来なかった。
これまでの、何かと理由を付けて強引に転がり込んで来るという形ではなく、改まって互いに一緒に暮らすと決めてからは、まだ寝たいというこちらの布団を引っ張って、朝食を一緒に食べましょうとねだることも、自分の存在を刻み付けようとばかりに、パタパタと足音蹴立てて家を出て行くようなこともなくなってしまったようだった。
――あいつも大人になったってことか。
喜ばしいような寂しいような複雑な気分だった。
さてこれからどうするか、と思いながら枕元の時計を見ると、疾うに九時を回っている。
二度寝の前の言葉が夢でないとすれば、台所にメシの支度があるはずだ。
そろそろ起きるか、と思って身動ぎすると、うっかり忘れていた尻の違和感に悲鳴を上げそうになる。あいつが出た後で良かった、と思いながら、もう少しこのままでいるか、と浜辺に打ち上がった死体のような体勢のまま、ベッドに横たわることにした。
譲介との同居に、セックスとその後の共寝が追加されるようになって暫く経つ。
ヤッた後で喜色を讃えた顔でこちらを見て来るのには閉口するが、セックスの自体の相性は――男とのセックスを経験したことはこれまでの人生で皆無だったから、比較対象はないが――悪くはないのだろう。
譲介は毎晩、セックスを覚えたばかりのサルみたいに盛って来るが、それを拒もうとも、拒みたいとも思っちゃいない。
KEIに言わせりゃ、オレは面食いらしい。
四半世紀より長い時間、オレを見ていたあいつが言うなら、まあそうなんだろう。
こっちに出て来るまでの人生で惚れた相手は、同年代の顔のいいシャンばかりだった。美人というのは、年上の男に頼り甲斐を求めるもんか、大概、年の離れた兄貴の方が好きだった。
とっとと田舎から出ようと思ったのは、演劇で食っていきたいと思ったのもあるが、半分はガキの頃からのコンプレックスが原因みたいなもんだ。
受験祈願をしにいった神社で、そのうち人も羨むような美人で性格も可愛い子が兄貴よりオレの方を好きになってくれますようにと願ったこともあったが、まさかこれほど時間のかかる話とは思わなかった。
そういやあ、まだデカい懸念事項がもうひとつあるな。
TETSUは頭を掻きながら、枕元にあるスマートフォンに手を伸ばした。
面倒な話は、対面でするに越したことはない。こじれるときはこじれるが、これまでの経験上、電話やメール程には後を引かないからだ。


久しぶりに飲むか、と話を持ち掛けた後で床に落ちていたシャツを拾って身に付けていると、「譲介君と何かあった?」とKEIから返事が来た。
当て推量にしても、やけに返事が早い。
別件だ、と答えられたらどんなにいいかと思うが、KEIでなくとも、ちょっと考えりゃまあ分かるだろう。
ここ数年、オレが爆発する理由として最も多く口の端に昇るのは譲介の名前で、矢継ぎ早の引っ越しの理由とあいつに関わる諸々の愚痴を、KEIに隠したこともなかった。
そもそも、オレからKEIへの飲みの誘い自体が例外中の例外だ。
気があるとかないとかいった周囲からの妙な勘繰りを避けるためとはいえ、あいつと出会ってからこっち、オレからの誘い掛けは殆どなかったと言っていい。例外は、KAZUYAのヤツが七瀬の脚を治すために渡欧した日の夜くらいか。
あの夜は流石に、酒に付き合え、と言ってもごねることはなかった。
次の日の記憶がないほどに酔い潰れる酒量があることを知ったのがあの夜で、オレから酒瓶を取り上げなかったKEIは、別の兄貴に乗せてもらって帰っていった。初めて顔を見たKAZUYA以外のKEIの身内は、兄と言うより娘を甘やかす父親のように振舞っていて、KEIがああいう女に仕上がった理由の一端が分かった気がした。

飲み会の頭数が足りない。
運転要員が欲しい。
年の近い兄貴とふたりで出掛けるのがこの年になると気まずい。

そういったバカみたいな理由で、KEIがオレを家の外へと引っ張り出すパターンはこれまでに幾度となくあった。そうした求めに応じて駆り出されて来たのは、友人が少ないのはあいつもご同類だろうとオレが思っていたからだ。
呼ばれりゃ行く、と言うと女に馬鹿にされるなと知った風な口を利くヤツもいるにはいたが、KEIがただ勝気なお嬢さんと言う訳ではないことは、あいつの生き方や、ライトを浴びた時のその演技が証明していた。演劇への情熱があればあるほど周囲から浮いてしまうというのは、どういう仕組みなのか、はみだし者の研修生から売れない役者になったあの頃のオレには時間がありあまるほどにあったし、根っから都会育ちの性根のボンボンが多い中、男勝りの負けん気で口が悪いあいつの横は、息がしやすかった。そういう相手とは、男と女になるより、肩を並べて同じ方を見ている方がいい。
まあ、オレがあいつのことをどう思おうと、あいつはオレのことを数多いる舎弟のひとりだと思っている節があるが、訂正するには月日が経ち過ぎた。
この時間に起きてるってことは、前日の仕事が朝まで掛かったか、あるいは、ピアノかボイストレーニングのレッスンの日だろう。あの年で習い事を飽きずに続けているのは、育ちの良さってやつか。村井さんも、十の年から始めたという太極拳を、場所を変えながら未だに続けている。
「流石にもう引っ越しはしねぇ。今夜。八時頃にこないだのバーでいいだろ。」と返事をしてから、譲介にも、戻りは遅くなる、と連絡してスマホを切った。
ベッドを出て、犬のマーキングよろしくキスマークを付けられた身体に悲鳴を上げたいような気分でシャワーを浴び、ジーンズとカットソーに着替えてまた寝室に戻って来た。
ウォークインクローゼットの扉を開き、ビニールの覆いが掛かっているシャツのいくつかを中を確認する。
今や広いワードローブの半分以上が、少しずつ持ち込まれた譲介の服で占領されつつあった。譲介の分だけ分けて端に選り分けながら、長い間使わないでいた姿見が、時折譲介が使うようになったせいか隅から手前に移動していたのでまた奥へと戻す。
こういう日に待ち合わせの時間になって慌てて支度をしてもロクなことにはならない。暫く磨いてない革靴のことを思い出して頭を掻きながら、手前のジャケットを取り出してみた。
隣にある、KEIと前に逢った時にも着ていた同じネイビーのスーツは、TETSU自身気に入っている一着だった。ただし、ジャケットの方なら、戻って来たばかりのシャツと合わせてノータイで行くことが出来る。
KEIが御用達にしているバーは、高層階のオフィスビルが立ち並ぶ街の、ハイクラスホテルの最上階にあった。
そこらを歩かせればサラブレッドのように目立つ女は、今では現世の女神と言われている。
オレが手持ちの服のどちらを選ぶにせよ、あいつと並べば従者一の役目がせいぜいだろう。
長い姿見は、二着の服を見比べながら渋い顔をしている男の顔を映し出していた。


ガラス張りのエレベーターは、通常のエレベーターの二倍の速度で地上から離れて行く。
結局、ままよ、という気分でいつものスーツを着込んでホテルに乗り込むことにした。好きな服を着る方が調子が良いという状況を表す言葉がどこかの世界にあるものか、ブラックタイを身に付けているわけでもないのに、映画の世界のスパイにでもなった気分だった。
スマートフォンにカード二枚と万札とを入れて家を出て来たせいで、手ぶらに多少の覚束なさを感じるが、それでも、家にいるよりは上がり調子だった。
都心らしい、摩天楼のような夜景が眼前に広がる。
美しい眺望はあっても、こうした場所が人間にとっての桃源郷や理想郷とはなり得ないだろう。普段の芝居の脚本では決して出てこない、別世界だ。
頭の隅に、ちゃぶ台とサンマが出て来る小津安二郎の映画のワンカットが閃く。
ああいう暮らしからはすっかり遠くなっちまったな、と思いながら、ポケットに入れた手の指先を、新しい家の鍵のキーホルダーに通してみた。


最上階のバーはいつにも増して人が少ない。
バーの隅のグランドピアノは蓋が閉じられ、インストゥルメンタルのピアノ曲が流れている。
平日の、しかも月曜の夜だ。
別の日ならば人が鈴なりになる、窓辺の夜景が見える席はひとつかふたつ埋まっているという程度で、TETSUは誰もいないカウンターに腰を落ち着けた。
待ち人が先に来ていないことに胸を撫でおろしながらスツールに腰かけると、目で合図をする前に、カウンターに立つ初老のバーテンがやってきた。
白髪交じりのチョッキ姿。似合っちゃいるが、普段はフロア全体を見ているマネージャーだとしてもおかしくはない落ち着きがあった。TETSUが幼い頃であれば、五十男にはこのくらいの風格が備わっていたはずだ。
間違っても、年下の男に組み敷かれて可愛いだのなんだのと余計な口を、と考えたところで、そのまま頭を抱えたくなる。おつに澄ました顔をしたバーテンは、そんなこちらの内心を知らぬげに「こちらはいかがでしょうか。」とボトルを差し出して来た。
緑のラベル。
ブッシュミルズ、シングルモルト。十年。
「適当にやってくれ。」と言うとバーテンは頷き、「当店では最後の旧瓶になります。」となどと言う。
そうした言い方が、銘柄にこだわりがある人間を惹きつけるのだろうか。何度か足を運んだことがあるこのバーで、街中にひとりでいるときのような人間観察をしたことはない。そもそも、観察が出来るほど、このバーに人がいたことはないが。
雰囲気にあやかって、台本を読むような気持でKEIに説明すりゃあ何とかなるだろうという気持ちで来たものの、結局はこうして考え過ぎる羽目になる。
初めて寝た日に、酒は後でと言っていた譲介も、あるいはこんな気持ちだったのだろうか。
「何か食い物あるか。」と聞くと、バーテンは「ナッツをお出しします。」と言って頷く。
そうして出された皿から塩の利いたアーモンドを軽くつまんでいるうちに、KEIがやって来た。片手を上げる。
スツールの隣に座る気配を感じながら「お早い御着きだな。」と言うと、「この人と同じもので。」と言ってKEIは、こちらに向き直った。
黒のシフォンの上下。身内に何かあったのか、とぎょっとしたが、KEIの胸元には、真珠のネックレスではなく、青いカメオのブローチが見える。
そういえばこいつは昔から、唐突に上下共に黒を着込んで来ることがあった。
昔から白のワンピースばかりを着せられていた反動だと言うが、生まれてくるのが十五年も遅ければ、今で言うところのゴスロリという時流に乗っていたのではないだろうか、などと埒のない考えが頭をよぎった。
先に口を開くと思っていたこちらがだんまりを決め込んだせいか、「引っ越しじゃなきゃ、今度は何なの。」とKEIは唇の端に笑みをひらめかせた。
好奇心にあふれた目付きだ。
KEIが、このチェシャ猫のような目付きで、鋭いサウスポーのボクサーのように他人をコーナーに追い詰めるところを何度も見て来た。
端的に問われたTETSUは、腹を括ることに決めた。
「あいつと寝てる。」
ごちゃごちゃ言うより、分かりはいいだろう。暮らしてる、と言うべきだったか、とも思ったが、それは、譲介が二十歳の年からずっと続けていたことだった。
「……そういうこと。」と言ってKEIはデカいため息を吐いた。
空気が震え、くすんだ紅葉のような色のルージュの口元には似合わない、鈴蘭の花のような清々しい香りが伝わって来る。
「そういうこと、って何だよ。」
そもそもまだ名前も出してない。
「いつから?」という問いに顔を上げると、バーテンは、水のグラスを変えるような顔で席から離れ、いくらか距離を置いた場所で、KEIの分のウイスキーをグラスに注いでいた。
「クランクアップの後の飲みの席で告られた。」と答え、バーテンが持って来たナッツを齧る。
KEIは声を潜めて「この間仕事でちらっと見た譲介君、すっごい勢いで現場にキラキラを振り撒いてたから。誰かさんと何かあったんだろうなと思ってた。」と言った。
クランクインの日に向けた新しいサングラスを買って来て、絶対バレないようにしますから、と言って仕事に出かけた日があったな、と思い出す。
「普段はクールな子だし、手放しで喜ぶようなことって、他にないじゃない?」
「あいつがそんなに分かりやすいかァ?」
「まあ、私以外にも気付く子がいるほどには分かりやすかったわね、あの日は。」と言ったところで、KEIのグラスが来た。
グラスを合わせて一口飲む前に、KEIがおめでとう、と言った。
「譲介に逢ったら、あいつにも言ってやってくれ。」
十年は、茫洋とした麦の色が、深い金色に染まるほどの時間だ。
ずっと首ったけでした、と言われて悪い気はしないが、手放しで喜べるほどに若くはない。
グラスに残った酒を、また一口飲んだ。
舌を刺すような味は、一気に干すには難物だ。
何度飲んでも洋酒は分からねぇな、と思う。
グラスの中に沈む金色。
役のために初めて髪を染めた譲介の明るい髪色はまさにこんな具合で、似合ってるぜ、とからかうように笑うと、譲介は、そうですか、と澄まし顔を取り繕った後、満更でもないような顔つきをしていた。
「TETSUくんが折れるとは思わなかった。」
今夜のKEIの、どことなく甘えを含んでいるような声に耳を傾けていると、過ぎ去った日々のことがいやに思い出される。
「まあ、大体分かってるからな。あいつがオレに腹を立てる原因も、苦手な食いもんも、寝起きの悪さも知ってる。まあ、大概はオレに譲って、合わせてるとこも多いんだろうとは思うが。」
わからねえのは、オレのどこに惚れたのかというところだけだ。
デカい喧嘩もした。
出て行けというのは口先ばかりで、早々に仲直りのタイミングを計ってやろうと思うほどには、オレもあいつが大事だった。そうやって付き合って来た相手に、ずっと一緒にいて欲しいと言われて絆されない方がおかしいだろう。
「そもそも、オレが面食いだと言ったのはおめぇの方だぞ。」と言うと「そんなことも言ったかしらね。」とKEIは笑った。
「まあいいわ。お祝いに何か弾いてあげましょう。」
KEIは、手を挙げてバーテンに合図して、ピアノを借りるための交渉を済ませると、TETSUくん、靴貸して、と言った。ペダルを踏むのに必要なら他にいくらでもやりようがあるだろうに。
スマートフォンと財布しか入らないような小さな鞄をスツールに置き、無骨な革靴を、砂浜を歩くように手に持って歩く女は、美しい人魚のようだ。
いつの間にか、店に流れていた音楽が消えている。
ひっそりとした話し声で歓談していた客が、おや、という顔で辺りを見回し始めたとき、KEIはピアノの前に立ち、ピンヒールを脱いだ。
手前の椅子を引き、鍵盤の蓋を開け、指を鍵盤の上に置く。
鍵盤の上を指先が滑り、スターダストが流れる。
キングの歌声がなくとも、その音は完璧だった。
静かな夜のメロディを奏でる、美しい女。
周囲からはそう見えるだろう。
KEIがどんな風に生きていたのかを知っている人間は、多くはない。
曲が終わると、窓辺の席でKEIの演奏に聞き惚れていたらしい客が、パラパラと拍手をした。
かつて、ピアニストを目指していた少女だった女は、そのささやかな喝采に、はにかんだ笑みを返している。
ゆっくりと席に戻り、いたずらな瞳をひらめかせた笑顔でこちらを見たKEIは「TETSUくんの新しい恋に乾杯しなきゃね。」と笑い、何が飲みたいかと尋ねた。
TETSUは、一杯くらいなら付き合ってやるか、という気持ちで、バーテンに二人分のドライ・マティーニを頼んだ。もし記憶が確かなら、知り合った頃には既に古びていると言われていたショーン・コネリー版のダブルオーセブンを見るようにと勧めて来たのは、KAZUYAではなくてKEIの方だった。
二度目の乾杯の後、KEIは微笑みながらこちらを見つめ「TETSUくん、お楽しみの前にちゃんと避妊具付けなさいよ。予防に越したことはないからね。」と言った。
この女の、口から出る言葉は、全く女神どころではない。
TETSUは、マティーニを吹き出しそうになった。
大きな誤解をそれと訂正することも出来ず、忸怩たる気分で「……それも、今度あったらあいつに言ってやれよ。」とだけ言うと、こちらの冗談だと思ったのか、KEIは覚えておくわね、と言って、ふたりが若かった頃のようにケタケタと笑った。

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