七草粥



空気がしんと冷えた早朝の部屋の中、龍太郎はいつもの包丁の音で目を覚ました。
(イシさん、もう来てるのか……。)
えいっ、とベッドから手を伸ばし、寝る前に引き寄せておいた電気ストーブのスイッチを押した。
目覚ましが鳴らなかった気がするけど、枕元の時計を見なくても分かる。
もうそんな時間なら、さっと身支度しないとうちの先生が角を出す。
半分眠りかけていたベッドから起き上がり、やっと温風が出て来たストーブの前に手足をちょっと翳して指先を暖める。
「餅だな…いや、天蕎麦かも……?」
龍太郎はパジャマ代わりのスウェットパンツの下に重ねたモンベルのタイツの上に飛び出ている腹肉を摘まんだ。
むにゅ、っという感触が実に物悲しい。
クリスマス、そして年末年始。
松が取れた日から既に三日。イシさんが作ってくれるいつものボリューム感ある食事とは疎遠になる期間があれだけあったというのになぜか、どれだけ歩いても腹回りについた肉が落ちる気配がない。
往診し、あれだけあちこち出歩いてもいるというのに、秋口の薄着の季節にイシさん本人から腹が出ているところを見とがめられて以来、身体に付いた贅肉が分厚くなるばかりだ。
(オヤジもオフクロも別に太っちゃいないから遺伝じゃない……オレの身体、冬眠モードの熊になっちゃったのか?)
「龍太郎先生、食事ですよ!」
麻上さんの声が聴こえる。
「ハイ! ちょっと待ってください!」と返事をする。
うーー、さむさむ。
それから慌てて、ベッドの上に出していたスラックスを手に取って片足を入れたところで、「……あれ、今のって急患の声じゃなかったよな?」と首を傾げる。
今、あの人、食事、って言ったか?
そんな気がする。
時計を見れば、いつもの時間よりかなり早い。
「なんでだ?」
龍太郎は慌ててセーターの上に白衣を羽織り、廊下をどたどたと走る。
診察室と一続きの共有スペースは、既にストーブが焚かれてひどく暖かい。
湯気と食事の匂いに包まれている。
「おはようございます!」と挨拶をすると、「龍太郎、来たか。」という澄まし顔の先生に、村井さんと麻上さんからはおはようございます、と挨拶が返って来る。丁度いいところに、イシさんはまだ味噌汁をよそっている。
寝坊した訳じゃないとは分かっているけれど、咄嗟に頭に浮かんだのは(挽回のチャンスだ!)という考えだ。
「手伝いますよ。」と言って味噌汁の椀を四つ、盆に入れて食卓へ運び、どうぞ、と順番に置いた。普段通りのタートルネックの先生の横顔は、いつものようにつるっとしているので、オレはとっさに自分の頬を触りたくなった。
ここに来て暫く経つけど、村井さんはともかく、朝に先生が無精髭を生やしてるところを見たことがない。
(オレ、オヤジのどこを見て完璧超人だと思ってたんだろうなあ。)
そんなことを考えながら席に着くと、今朝の食卓には、正月の雑煮を食べるときに見たのと同じ椀とれんげが人数分並んでいる。
中に入っているのは薄っすらと湯気が立つ、緑色の粥。
上には三つ葉。
「あ、七草っすか?」
「そうだ。」と先生が頷く。
テーブルの上には、ゆで卵のひとつ、焼き魚の一尾、サラダすらない。ただ粥の椀と付け合わせの漬物の皿があるだけ。
「せめてもうちょっとなんかないんスか?」
出来ればたんぱく質が欲しい。
「伊達巻の残りとにしんの昆布巻きなら冷蔵庫にある。必要なら自分で切り分けるといい。」
おせちの残り、か……。
「先生~、それ、オレの苦手だって知って言ってます?」
「それが今朝のたんぱく質だ。背に腹は代えられないと言うだろう。」
「高品先生、食べつければ案外美味しいですぞ。」
「自分が食べられる分だけ盛り付けてくださいね。」と麻上さんも村井さんも先生の味方だ。
うう。
「だし巻きでも作るか?」
「イシさ~ん!」
助け船が来た。いや、オレにとっては宝船だ。
七つの国の美味しいものを両手にひっさげる恵比須様。
「嫌いなもんを無理に食べても栄養にはならん。その代わり、粥もしっかり食べりゃいい。」
先生は「私は先に食べています。」と言ってから、静かに粥をかき込んでいる。麻上さんと村井さんは、昨日のニュースの話をしていた。
卵を割る音、菜箸で回す音、油を敷いたフライパンに卵液が流れるジュウ、という小気味いい音。
台所と一続きの食卓に、だし巻き卵のいい匂いが漂って来る。
幸せだなあ、と思いながら啜る七草がゆは、暖かかった。
「……オレ、ここにずっといたいなあ。天国みたいっスよ。」
「!?」
粥を啜っていた先生と村井さんがいきなりむせた。村井さんは湯呑の中のほうじ茶を飲み、先生の方は、隣の麻上さんが、慌てて背中を叩いている。
「先生たち、なんスか、今の。」
「いや……、何でもない。」という先生の横で、麻上さんも何かを堪えるような顔をしている。
村井さんは空咳だ。
オレ、何か変なこと言ったか?
「龍太郎。」
「あ、はい!」
「伊達巻と昆布巻きはオレが昼に食べるから、お前は好きなものを食べるといい。」
「?……分かりました。」
話をしている間に、一口サイズに切られただし巻き卵が、人数分の皿に入ってやって来た。
オレは端っこ、先生が真ん中、麻上さんも真ん中で、切れ端はイシさんの味見の分だろうか。
れんげを置いて、箸立てからいつもの箸を取ってから出来立てのだし巻き卵をぱくついた。
いつもよりちょっと味が濃いような気がするけど、十分美味い。あっという間に腹の中に消えて行った。
物足りない、と思って、直ぐにさっきの腹肉のことを思い出した。
今年は、何事もちょっと足りないくらいが丁度いいのかもしれない。
器から顔を上げると、イシさんと目が合った。
「粥のおかわりなら、まだ十分あるぞ。」と言う、いつもの決め台詞。
オレは、自分の分担を少し減らすような気持で「イシさんも、今日はこっちで一緒に食べないっすか?」と言った。
「たまにはいいじゃないスか。」と食い下がると、「ここで見てるので十分だ。」という返事が返って来た。
微かに立ち上る粥の湯気の先で「よ~っく見てるぞ。」と言って、イシさんはいつものようにニヤッと笑っている。




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