ある一夜
月の明るい夜だった。月光は眼下の湊から春日山城のある山上まで余すところなく降りそそぎ青白く照らし出している。日が暮れるまでは戦帰りの喧騒で慌ただしい雰囲気に満ちていたが、今はひと段落つきあたりは静まりかえっていた。虫も鳴くのをはばかるような静寂の中を、山鳥毛は音もなく歩きまわっていた。歩みに合わせて揺れる髪は月の光を浴びて燐光を放ち、丸みの残る横顔は今にも透けそうなほどに白い。山鳥毛の本性は大振りの太刀だったが、長船兼光の作のせいか未だ十四、五の見目をしていた。少年と呼ぶにはとうが立ち、青年とするには瑞々しすぎる。黒い直垂がその曖昧さをより一層際立たせていた。全てが銀と漆黒に染められているなかで、瞳の赤だけが唯一の色彩だった。
山鳥毛とて本来ならば本性にかえって眠りについているところだったが、今晩どうしても小豆に用があったので家中をうろついていた。長尾の御佩刀殿は激しい戦から帰った晩は、必ずと言って良いほど身をくらましてしまう。家中の物は慮って放っておいてやっているが、今の山鳥毛はその機会を逃すつもりはなかった。
残ったのはこの辺りだと薬草園の入り口で立ち止まり、小豆の気配を探る。するとぴりりとした殺気を感じた。帰城直後に目が合ったときと同じものだ。なるほどここなら人もいなければ物もいない。山鳥毛は気配を隠しもせずに殺気の出どころへ向かって歩き出した。
案の定、小豆は山の斜面ぎりぎりに生えている松の大木に、背を預けて座り込んでいた。
「どうしてきたのだ」
顔を上げずに小豆は言った。
「相手をしに」
「どういういみかわかっている?」
「君の考えている通りだ」
すぐ隣に山鳥毛も座った。春日山城の裏手は延々と山が連なっている。夜の闇の中では、山々は黒々と波打つ大海のようだった。
「おこしょうさんなんてがらじゃないよね」
「無理強いが嫌いなだけだ」
経験くらいはしているし、少なくとも山鳥毛に限って言えばそう悪いものでもなければ、無理に迫られたということもなかった。まあ自身が相当運の良い部類であることは自覚している。
ちらりと横を見れば、身支度もせずにここ逃げ込んでいたようで、小豆の髪は乱れていた。頬にかかった髪を直してやると、びくりと体が震え腕を跳ね除けられた。
「長旅、ご苦労だった」
「わたしはつきしたがっただけだよ」
「今までにないくらい斬っただろう。|付喪の身《そっち》からも血の匂いがしている」
小豆の横顔が渋面になる。
「もう限界だろう。一晩ここで我慢して治まるのか」
「おさめるのだ」
つい口元がほころんでしまったのを引き締める。小豆の潔癖なところを山鳥毛はこれで気に入っているのだ。主の寵愛を盾に傍若無人に振る舞う輩は少なくない。誰を誘うでも迫るでもなく、ひとりでじっと耐えているのはいっそ健気ですらある。
「今日のようなことはこれから何度も訪れるぞ」
小豆の手を両手で包み込むように握る。ざらついた肉厚の手は温かかった。
「遠征はますます長引くだろう。御佩刀殿の調子が悪いと景虎さまが困る。切れ味が鈍ることとて君の本意ではないはずだ」
「きみ、上杉のかたなだよね。いつからうちにかたいれするようになったのだ」
襟首ひっつかんで顔を近づけた。常になく乱暴な言い草に動揺しているのも分かるのだが、それはそれとしてその言い方にはぶん殴ってやりたいくらい腹が立つ。
「景虎さまは上杉の家督を継がれるぞ。関東管領もだ。これからはさらに上杉の宝物が増える。あいつらの気位は富士の山より高いんだ。長尾の付喪なんぞ馬鹿にしくさっている。だから|上杉の重宝《私》がきみの若衆になってやろうと言っているんだ。ここまで言わないと分からないか!」
小豆はぐっと目を見開いて山鳥毛を見た。
「……どうして、いまいうのだ」
「君が素面で私のことを抱けるか分からなかった」
長い嘆息が聞こえると思ったら、両手を取られ、木の幹に押し付けられた。吐息が耳をかすめる。探られているのが分かる。少しでも山鳥毛は怯んだらこの話はなしにするつもりなのだろう。笑って体の力を抜き、目をつぶった。今さら尻尾を巻いて逃げ出すものか。
「そこまでするひつようある?」
「君の若衆なら良いことはあっても悪いことはない。むしろ家中でさらに一目置かれるくらいだ」
「きみがそういうことにきょうみがあるとはおもわなかった」
「私はこの家に骨を埋めると決めている」
首筋に唇を感じた。重ねられた手の動きが愛撫に変わる。
「もののぶんざいで、ごうまんなことをいうねえ……」
物の分際、全くその通りで笑ってしまう。それでも足掻けるだけ足掻くのが命持つものではないだろうか。
「出て行っても折れても、私は景虎さまの刀だ」
その返事はお気に召したらしかった。食われるような口吸いで呼吸ごと貪られた。
長い器物の生の中でも、一瞬で在り様が変わる瞬間がある。山鳥毛にとってそれは長尾の家に献上されたときだった。
長尾景虎の前に引き出されたとき、己は管領上杉家伝来の「やまとりげ」と呼ばれていた。山鳥の羽のような絢爛な刃紋が号の由来だった。
景虎はするりと鞘から抜き放ち検分を始めるや、むむと眉根を寄せた。
「山が燃えているようだな」
献上した長尾憲景は平伏するばかりだ。景虎は返事がないことに頓着する様子も見せず、口の中で「やまとりげ」と幾度か呟いてはしばらくのあいだ勘案していたが、不意にはっと息を吐いた。
「当家ではさんちょうもうと呼び申そう。|山焼亡《さんしょうもう》とでもしたいところだが、号をまるきり変えては管領殿に申し訳が立たぬ」
目を細める景虎の視線の先には、西日に燃える海と平野を挟んで朱に染まった山々が連なっていた。まだ春先の、雪をかぶった山に雲が霞みたなびいて、朱色の帯をかたちづくっている。
「……燃えているようだ」
また景虎は繰り返す。そのしみじみとした感嘆が山鳥毛を焼いた。名指すことで形を持つとは言うが、そのときは逆に、ついに真の名を見出されたように感じた。山が燃えている。己のうちには炎がある。途端、双眸が痛みその場にうずくまった。目の奥の焼けつくような痛みに、ぐうとうめき声が漏れる。
苦しんだのは須臾のことで、すぐに苦痛はやわらいだ。ようよう痛みが引いてから涙を拭う。背後の景虎と憲景の会話を聞くともなしに聞きながら地面に降り、水たまりに己を映して驚いた。山鳥のように黒かった瞳は、今や赤々とした炎を宿していた。
地面に身を投げ出して、山鳥毛は西に沈みゆく月を見守っていた。小豆には後ろから抱え込まれ、寝息が時折うなじに触れている。全身くたくたなのに、どうにも気が昂って寝つけなかった。覚悟はしていたが、それにしたって容赦なく抱かれたのだ。とはいえ、えげつないほど精気を注ぎ込まれたので、ふたりの仲がどういうものかは一目瞭然だろう。それだけで目的は果たされた。
「さんちょうもう……」
「なんだ」
寝息混じりの声だったのに、つい返答してしまった。伸ばされた手で振り向かされる。一応目が覚めたらしい。
求められるまま軽いくちづけを交わした。行為自体は激しかったが、小豆は乱暴でも独りよがりでもなかった。山鳥毛の快楽もおざなりにはしなかったし、何より合間あいまに落とされる接吻は切ないほどに優しかった。
小豆の指が髪に絡んではゆっくりとすいていく。
「わたしはめぐまれている。あるじにもどうほうにも」
「御佩刀殿にそう言われるのならば、恐悦至極だ」
かしこまって答えれば密やかな笑い声が空気を震わせた。
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